旅立ちの日・前
目を開けたら久々の我が家の天井............は見えなかった。
「......またか月夜」
視界を覆う薄暗闇は体を起こせば晴れる。そしていつも通り、自分の体とドッキングしている月夜。今日もスヤスヤと寝息をたてて眠っていた。
病院での一週間もずっとこうだった。何故紅葉と全く同じ位置で寝るのだろうか。せめて横で寝ていてほしいものだ。
「さ............て。今のうちに準備しとくか。待ち合わせは十時だったな」
今日、秋風紅葉は魔法使い【永遠の月】としてこの街を出る。
まさか一週間前はこんなことになるなんて思ってもみなかった。
(なんか急に色々起こり過ぎてんだよなぁ。黒獣に殺されかけて月夜に出会って。そんでもって不思議なチカラを授かって、軍隊に勧誘されて)
まるで夢物語のような出来事が自分を中心に起こった。それを現実だと認識させるのに充分過ぎるほどの効果が霊体の月夜と紅葉の体に刻まれた薔薇の刻印にはあった。むしろ、ここまで要素が揃っていて現実から目を反らすことなんてできないだろう。
ちなみに、あの薬を飲んでからは黒い痣が出ることは無くなった。己の眠れる黒龍がー、なんて言っている場合ではないほどバカにならないものだったので、治まってくれて助かった。もっとも紅葉の中で眠っているのは黒龍でも黒獣でもない、黒い薔薇なのだが。
「服は......これでいいか」
黒パーカーに紺の長ズボン、中学時代に着ていたものだ。
私生活のほとんどを学生服で過ごしていたために、私服を着るのは久々だった。予備の服も何着か適当に鞄へ入れておいた。
リビングにはいつも通りの母。私服姿の紅葉を見るなりフフッ、と小さく笑う。
「なんだよ?」
紅葉は自分の席に腰掛ける。
「べつにぃ?てか早いじゃないの。後で起こしに行こうと思ってたんだけど」
「そりゃあこんな日に寝坊なんてしてらんないだろ。朝飯は?」
「はいはい。もう用意してあるから」
目の前に出されたのは、湯気の立つ米に少し焦げた魚、そして味噌汁。なんでもない、ただの和食だ。
テレビは朝の占い番組を映している。黒獣警報が無いということは、今日は安全に街を出られるだろう。
「ごちそうさん」
「はーい」
気のせいか、母の口数が少なかった。皿を流しに置いて、自室へ戻る。
月夜はもう起きたようだ。棒立ちで窓の外を眺めている。翡翠の水晶に留められた艶のある黒髪は、同色のワンピースと共に風に揺れる。半透明の幻想的な風貌を見ていると、そのまま消えてしまうのかと心配になる。
こちらに気付いた月夜は振り向き、微々たる笑顔を浮かべた。
初めて会った時こそ無表情だと言ったが、よく見てみればそんなことはない。他人より少しわかりづらいだけで、表情を表現できている。ほんの少し、ただほんの少しわかりにくいだけなのだ。
(コウヨウ、お腹すいた。クロワッサンほしい)
「ええ?ちょっと待ってくれよ」
(早く食べたい)
「わかったって」
まったく食欲の旺盛な透明人間だ。そのスッカスカの体の何処に食べ物が入ると言うのか。
半分呆れながら荷物の整理をしていたら、一冊の本が目に入った。
「これは...........天境橋の本だ」
一週間前に彼女から借りた、黒獣と魔法について書かれた本。読む時間が無かったため、ほとんど手付かずだった。
「................一応持ってくか」
これから踏み入る世界のことを書いてある本だ。持っていて損はないだろう。持ち主の天境橋はまだ病院で昏睡状態のため、返すこともできない。
(コウヨウ、まだ?お腹すいた)
声を聞き、本に落としていた顔を上げるとすぐそこに月夜が迫っていた。近い。本当に目と鼻の先だ。
「うわっとびっくりした。なんだ、そんなに腹減ってんのか?」
(うん。早く食べたい)
「わかったわかったって。わかったから俺の体に入るな」
自分の体と重なろうとする月夜と距離を置き、先程の本をショルダーバッグに入れる。
「あ~、でも家にクロワッサン無かった気がするな。ちょっと早いけど、家出てついでに買いにいくか」
約束の時間は十時、場所は病院の前。まだ余裕はある。
道の途中のコンビニに寄っていこうか。
ショルダーバッグを肩にかける。
「よーし、じゃあ行くぞ月夜」
無言で付いてくる月夜と共に、自室を後にする。次にこの部屋に訪れる時は、月夜が元の姿に戻ったか、親父を連れて帰ってきた時だ。
リビングの前を通る直前、母に声をかけられた。
「もう行くの?」
「ああ、途中でコンビニ寄ってきたいからな」
「そう、じゃあ頑張ってきなさいよ」
それ以上は母は何も言わなかった。もっと何か激励されるかと思っていたが、意外だった。
靴を履き、家を出る。天気は快晴、日射しが暖かい。
いつもの住宅街の景色も見納めとなると、なんだか名残惜しいものがある。
ぼんやり景色を眺めながら歩く紅葉とその横を歩くように浮遊する月夜。思い出したように紅葉が口を開いた。
「そういやなんで月夜はそんな低空飛行してんだ?寝る時もそうだよな。もっと高く浮けるんだろ?」
急に質問された月夜は硬直してしまった。数秒、悩む仕草を見せた後答えを示した。
(う........ん。だって、そのほうが、コウヨウといっしょみたいだから。浮いてないほうが、コウヨウとおんなじなのかなって)
「へぇ..........よくわからんけど、理由はあったのか」
返事の歯切れが悪かったため、これ以上の答えは望めないだろう。紅葉は軽く流した。
この後も何度か月夜と話をしながら歩を進めた。
行き着いたコンビニの出入口で、紅葉は顔を知っている人物と鉢合わせした。その人物はこちらと目が合うなり話しかけてくる。
「あら、秋風くんじゃない。大丈夫だった?無事でよかったわね」
「はは.......ありがとうございます」
天境橋の母親だ。小太りの体型に嫌味なご近所さん属性をまぶした何処にでもいそうなおばさんだ。
「ハルはダメだったけど、秋風くんは助かって本当によかったわ!」
(...............っ!)
ギリリ..........と歯軋りをする。
何故。笑顔でそんなことが言えるのか。
「天境橋も助からなかった訳じゃないですよ。じゃあ、急いでるんで」
天境橋の母親に背を向け、パンのコーナーへ早足で向かう。さいわいあちらは会計を済ませた後だったため、すぐ外へ出ていったようだ。
(コウヨウ?何してるの?)
先にパンのコーナーへ向かっていた月夜は、紅葉を置いてきてしまっていることに気がついた。
「ん?あぁ悪い悪い。さ、クロワッサン見つけたぞ。好きなの選べよ」
(うん、じゃあこれがいい)
陳列されたパンの中を物色し目を輝かせて指差した。
「チョコ入りか、いいね。俺の分も買うか」
天境橋が家族内でうまくいっていないことは知っていた。天境橋は機嫌の悪い時、決まって家に帰る時表情が曇る。口の固い彼女から聞けた手がかりはこれだけだ。
『私......天境橋に生まれてよかったのかな』
後に、あの嫌味なおばさんに会ってから察した訳だ。元々おとなしい天境橋が、おばさんの前ではさらに縮みこまってしまっていたのだから。
会計を済ませ、二人でクロワッサンを食べ歩く。もちろん行き先は集合場所の病院だ。
(月夜が天境橋を助けていたなら、今入院中なのは俺のほうだった。天境橋の代わりにこうして起きていられるんだもんな。アイツのためにもしっかりやることやんないとな)
ゆっくり味わう月夜と対極、クロワッサンを口に突っ込んだ紅葉は、今一度|永遠の月としての使命を胸に刻んだ。