エピローグ
ナポレオンは大層な読書家だったそうだ。どれくらいだというと、戦場に本棚を持ってくるほどだという。
しかしやはり戦いの場に置いて本は邪魔になる。そこでナポレオンは本を読んでは破き、読んでは破きを繰り返していたそうだ。彼は読書家ではあっても、愛書家ではなかったようだ。
あ、違う。
この話じゃあない。
ナポレオンはいい、おれの話だ。
おれの話をしよう。
おれがこの数週間で体験したことは、もしかしたらただのアルコールが見せた妄想かもしれない。
ババアと一緒に体験した集団幻覚の類なのかもしれない。
自殺未遂の時に、自分の記憶をねつ造したのかもしれない。
だが結局のところ生きていくのに重要なのは、何が起こったのか、ではなく何をするかにかかっている。
妄想であろうと、嘘であろと、世界は勝手に回る。だから自分は何かをするしかないんだ。
だからと言って、あの出来事からおれはクズじゃあなくなったわけではない。
自殺未遂を繰り返した数だけ強くなれるのなら、今頃精神病院はアメコミのようになってるだろう。
だが一歩はずつは進んでいこうと思う。
まずはいつもは週4日働いていたのを6日に変えた。
そしてまずは目標として、安いアパートを借りれるぐらいまでは、金をためようと思う。住所が曖昧でも泊まれるような、無法者の集まりのアパートだが。
出来るだけ着実に、クズじゃあない方に進んでいこうと思う。
扉をノックする音により、おれは顔を上げた。
今のおれの考えをまとめるために利用した、自己啓発本から顔を上げたのだ。
ノックが再度響く。
そういえば今おれはトイレの個室にいたのだった。さしずめノックの主は、便意を催しているのだろう。
おれは首の傷をさすった。数針縫う結果となり、後は残ったが、すっかりもう塞がっていた。
おれは手元の自己啓発本のページを破り、その紙でクソを拭きとり、その後水を流した。
ズボンを上げ、立ち上がり扉を開く。
「いつまでクソしてんだ!ぶっ殺されてえのか!」
強面の太った男が叫んでいた。
おれは今持っていた本を男に渡す。
「すまねえな。お詫びとしてこの本を上げよう。素晴らしい内容だったよ」
また何か怒鳴ってくる男をしり目にに、おれはその場を後にした。
電車を乗り継ぎ、空港に向かう。
働く日を増やしたので、貯めているぶんを抜きにしてもほんの少しだけ金銭面に余裕が出来ていた。
「あ、藤岡さんおひさー」
ロビーにつくと、待ち合わせていた場所に杏子がいて、手を振っていた。
おれも手を振りながら近づく。
「久しぶりだな」
「お店来てくれないから心配してたよ」
杏子が社交辞令を言ってきたので、苦笑いで返した。
「まあ金をためてるとこだったんでな。ババアが返ってくるのは2時だったか?」
「ええ」
ババアはあれから、中国人の妻の方のドッペルゲンガーも除霊すると言って、例の男を説得し、中国へ旅立っていった。そして返ってくるのが今日だった。
「しかしあっちで殺されてるんじゃないか?連絡があったのは、マフィアが出した偽の情報だったってことで」
「おばあさんは強いので、そんなことはならないって」
まあ確かにババアは簡単に死ぬ玉ではない。
そして、時間が来ると杏子の予想通り、ババアは元気そうに飛行機を降りてきた。
土産物を大層多く買っており、重そうによたよたと歩いている。
「ひっひっひ。あたしかかればあの程度の霊など、ちょちょいのチョイじゃい。ついでにマフィアのボスの除霊も行い、金をふんだくってやったわ」
そうやって笑うババアはの笑顔はガキのようでもあった。
おれはババアに近づき、封筒を投げてよこした。
「ほらよ、除霊費の足りない分だ」
ババアが目を丸くし、封筒と、おれの顔を数回見比べた。
そしてしばらく黙っていたかと思うと、突然大きな声で笑い始めた。
おれもまたつられて笑い声を上げた。
周りの人には迷惑だっただろう。だがこんなに笑ったのはいつぶりだろうか。
杏子は少し顔を顰めていた。
どこからかもう一人、笑い声が加わった気がした。
空港の硝子から外を見ると、すっかり晴れ渡った空が、どこまでも続いていた。