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下章

「で、結局このガキは何の霊なんだ?水子だ何かって言ってたが、それが成長した姿ってことか?とんだ浅田次郎だな」


 おれはなめろうに箸をつけながら言った。


「んー?よく見ると水子とはちょっと違うみたいだね。確か同じような雰囲気をした霊見たことがあるんだが、何だったかな?ドッペルゲンガー?……いや」


 ババアは、目玉焼きを頬張りながら答えた。


「あ、でも目元とか藤岡さんに似ている気がするし、娘さんの霊には違いないんじゃないの?」


 杏子は茶を啜っている。

 おれ達3人+1霊はちゃぶ台を囲んで、食事を腹に入れていた。

 あの後買いだしをすまし、夕食を作ったのだが、ババアは「どれもこれもツマミっぽいねえ」と文句を言いながらも、それ以上は何も言わなかった。ただ少し量が多かったようだ。

 そのまま帰っていいと言われたので、言葉に従おうとしたが、杏子一緒に食事をすることを誘ってきたのだった。ババアはこんな奴にただで食わせる飯はないといったが、杏子それならばおれの分の食事代を差し引くのはどうだと提案してきた。

 杏子が提示した額はいつもの夕食代より高かったので、おれなら断ろうと一瞬思ったが、そもそも財布の中身がほとんどない。おれは仕方なしに、彼女らの夕食に加わることとなったのだった。


「だから俺は素人童貞だって。ソープでもゴムはしっかりつけてる」おれは茶を啜った。

「食事の席で童貞童貞いうんじゃないよ気持ち悪い」ババアは顔をしかめた。

「精子バンクの提供とかしてないの?」


 杏子の言葉におれは箸を止めた。


「……何?」

「いやだから精子バンク。わかる?おちんちんから出た白い物体を」

「だから食事中にそんな話をするんじゃないよ売女が!」

「ひどーい。それ職業差別」


 ババアの罵りに、等の売女は口を尖らせた。

 だが杏子の言葉が、おれの頭の中を回っていた。 


「精子バンク……提供したことがあるかもしれない」

「まじで?」と杏子は目を見開いた。


 昔この街に来て間もないころ、おれは仕事中にケンカして職安に一か月ほど出禁になったことがあった。あのころは若かったんだ。


「今も変わらないじゃないか……」


 語り始めたおれに、ババアはあきれながら言った。

 無視しておれは続きを語る。

 そして、途方に暮れている所に、日雇い仲間の男がヤクザの手配師を頼ってはどうかと尋ねてきた。

 手配師とは主に不安定な雇用にある人などを対象に、山谷や釜ヶ崎など、日雇い労働者が集まる職安の近くにいる。職安とは別に日雇いの仕事を紹介して払われる報酬の大半をピンハネしたり、職安が扱えない仕事を紹介することで稼ぎを上げている業者のことだ。

 多少危険だったりきな臭い仕事も紹介してくるが、おれ達にはそこまで関係がなかった。

 おれは助言の通り、職安の近くに立っていたサングラスをつけていて、革ジャンを着ている男に話をつけた。そして次の日マイクロバスに連れられて、薄汚れた事務所についた。

 その後の流れは簡単だ。説明を受け、書類に記入した後、尿検査をした。その後エロ本とコップを渡され、トイレで個室で抜いた後、すぐに帰ったよ。給料は5万ぐらいだったな。


「馬鹿かいあんた。もし強姦された女性の股間から、あんたの精液が出てくる、とかいう事態になったらどうするつもりだったんだい?」


 ババアはもう精液の話を止めることに諦めつつ、顔を顰めながら言った。


「その時はその時だよ」

「でもさ、検査とかがそんなに簡単なのっておかしくない?」


 杏子が、飯に箸をつけながら、もっともなことを聞いてきた。


「たぶん中国のマフィアと関係のあるヤクザだと思う。中国のは日本と違い、精子バンクに関係する団体が十数個あり、その中には国に認可を受けて居ないのも多い。そしてあの国ではドナーの合格率が著しく下がっていることを受け、非合法団体は試験を省略することが多々あるんだ」

「それどこの情報だい?」とババア。

「ネット」

「ハハハ」


 ババアが嘲笑う。

 確かに胡散臭いが、霊媒師の類よりはましではないだろうか。


「でも」と杏子はガキを見て言った「この娘こ確かに中国の人の顔立ちっぽい」


 確かにおれもそのことには気が付いていた。

 仕事柄中国人労働者と顔を合わせることも多いのもあって、すぐにわかった。


「つまり」とババア「この娘は、あんたと中国人の女の子供の霊ってことかい?はっ、適当な生き方してるから、そんな会ったこともない大陸の女との間に子供が出来るとかいう珍妙なことが起きるんだよ」

「そうは言うが向こうだってそんな怪しげな精子バンクを利用するってことは、危険度には承知済みだろうさ。ならおれの存在なんかは無視しているだろうし、今更父親だなんて言われても向こうの方が困るだろう。だから分かったなら帰ってくれねえか?仮に血はつながっていても、おれは父親でも何でもない」


 おれは部屋の隅で立っているガキに向かって言ってみたが、何の反応はなかった。


「それって人間の価値観だけど、幽霊の価値観はまた違うのかな?」


 杏子はそんなおれらを見て言った。


 ◇ ◇ ◇


 霊媒師の助手としての仕事が始まったのはその次の日からだった。

 杏子は本業があるので、来るのは偶にということらしい。

 その日身支度をすませ、ババアに連れられ、おれは白髪の爺さんが住んでいる屋敷につく。

 その爺さんが言うには何でも昔事故で死んだ娘に会いたいのだという。

 その後ババアに命令され、おれは部屋に怪し気な札や植物を飾る作業に取り掛かる。

 準備が終わると俺と爺さんは正座で待たされる。そしてババアは珍妙な踊りを踊ったかと思えば、急に奇声を吐きだし、気絶したかのように動かなくなった。

 爺さんが訝しく思い、話しかけようとすると、ババアはまた突然立ち上がり、甲高い声で、小さい子供の様に話し始めた。

 おれは小娘のモノ真似をするババアの姿に吐きそうになる。当然爺さんも呆れるどころか怒りに震えていると思って横を見たが、なんとあろうことか涙を流していた。

 爺さんと、子娘を下ろしたババアは昔の思い出話を、涙ながらに語り合った。

 爺さんが孫が好きだったというお菓子を持ちだした時は罪悪感で潰れそうになったが、ババアは本物の霊媒師だったなと思い直す。あまりのうさん臭さに、詐欺の片棒を担いでいるような錯覚に陥ったのだ。

 そんなこんなで数時間後、おれたちは仕事を終え、屋敷を後にしたのだった。

 アパートに戻ると、今日と昨日の分の給料を貰えた。無論立て替えて置いた夕食代もだ。


 霊媒師助手としての仕事は数日おきにだが、毎日ババアのアパートに通うこととなった。

 アパートでの仕事は、食事、洗濯、掃除、云々。

 初日と同じように夕食は一緒に食うこともある。

 何だかんだ言ってどんなクズだろうと、人とは孤独に耐えられない生物だ。

 客観的に見てどれだけみっとなかろうと、群れると安心するものだ。

 何が言いたいのかというと、おれは食事を他人ととることで、安心を覚えていた。

 これは反応の類ではなく、反射の類だ。酒と疲労で擦れた労働者の感情と言うものは、驚くほど脆い。

 ババアの汚い言葉も次第に慣れ、心地よささえ感じる。

 つくづく人間とは難儀な生き物だなと思う。

 そして仕事を始めてから一週間の時が経った。



「これがあんたのお勧めの鶏天うどんかい?普通の味だねえ」

「珍しくオススメを聞いてきたから、答えたらその感想かよ」

「普通なもんは普通だからしょうがないじゃないか。大体なんだい、何年寄りに立ち食い蕎麦や誘ってんだよ」

「美味いもん食べたきゃ、立つだの座るだのは関係ないってことさ」

「味が普通だから言ってんだよ!」


 おれ達は本日の霊媒師としての仕事を終えた後、食事を取ろうということになり、立ち食い蕎麦屋に入ったのであった。

 依頼人は中年の主婦で、ポルターガイストが出るので祓ってほしいと言うものだった。

 おれはそばに備え付けてあった天かすを加えた。天ぷらと天かすで被ってるが構うまい。


「で、午後からまた別の場所で仕事だったか?1日に2回とは珍しいな」

「その前に拠るところもあるから、ついてきな」

「何だ、自分の葬式の予約か?」

「あんたを豚箱に放り込む予約だよ」


 そんな軽口を言いながら、おれ達は蕎麦屋を後にした。

 そして電車に乗り、別の街へ向かう。

 移動中ババアはずっと神妙に黙っていた。途中で仏花と菓子を買ったことでおれは行き先を察する。

 到着したのはさびれた墓地だった。工場の裏に建っており、目立たない。手入れもしていない墓も多く、全体的に辛気臭い場所であった。

 そんな中でも、ババアの目的の墓は綺麗にしてあって、目立っていた。

 おれはババアの命令で墓の掃除を行った。

 そしてババアは形通りの墓参りをする。


「旦那さんかい?」


 おれは事が終わるのを見計らい、話しかけた。


「ああ、そうだよ」

「ってことは息子や、孫がいたりするのか?」

「いない。というか妊娠できない体でね。そのことで長い間親戚からいろいろ言われたよ。ウチの旦那はそのことを気にしてるかと思ったが、きれいさっぱり成仏して逝っちまったよ」


 工場からの音が割り込んでくる。

 住宅地でこれだと、住民と揉めてそうだ。


「そうかい」おれは自分の頬を掻いた「まあ、なんというか。悪かったな、孫でも犯してろなんていって」

「まったくだよ。で、それだけかい?」

「それだけとは?」

「あんたがあたしに行った暴言はそれだけじゃないだろうよ。順番に謝る気はないのかい?」

「なるほど、そういうことか。ならこうしよう。ババア、お前も謝れ」

「はあぁ?」


 ババアはまたも耳に手をやった。


「実はおれソープでおみやげ・・・・を貰って帰ったことがあってな。だから梅毒チンポって暴言も傷ついていたんだ。別に一週間も前のことを気にしちゃいねえよ。だがこれは互いの歩み寄りの儀式だ。おれは一つ謝った。だからババア、謝れ」

「普段ぶっきらぼうのくせにここぞとばかり、ぴーちくぱーちく喋り腐りおって!何が傷ついただ!あんたそんなたまじゃないだろ!このクズが!」

「クズクズ言うがな、お前も大概だろ!知ってんだぞ、仕事の前にアンパン吸ってんの!そんな奴が不妊で悩んでたなんて言われても同情できねえよ!このクズが!」

「アンパン吸いだしたのは、爺さんが死んでからだよ!」

「いやまて、待った待った」


 おれは両手を前に出した。


「流石に死人の前だ。喧嘩はこれぐらいにしておこうぜ。な?」


 ババアは不満そうだったが、一旦墓の方向を向くと、仕方なさそうに目を瞑った。


「……まあ仕方ないね。まああたしからしたら、この墓の下に爺さんはいないんだけど。成仏したからね」

「そういうもんかい?」

「そういうもんさ」

「ところで」とおれは前々から気になっていたことに話を変える「何でおれを雇ったんだ?人手不足とは言ったが、別に他の誰でもよかっただろう?」

「はっ」ババアは鼻で笑った「そんなことかい。あたしはね、あんたみたいなちゃらんぽらんな奴と違って仕事に誇りを持って取り組んでんだよ。金は貰うが、よっぽどの悪人でもない限り、霊につかれた奴は助けるよう決めてんだ。たとえそいつがクズでもね。だから金がないなら仕事を紹介するさ。あんたもあたしを見習いな!」

「そうかい」おれは首の後ろを掻いた「まあ礼は言っておくよ」


 俺の言葉に、ババアは目を丸くしていた。

 クソったれ。


 ◇ ◇ ◇


 おれ達はそれから電車に乗りまた別の場所に向かう。

 今度はビデオ視聴室で首を吊ったという男の除霊の依頼であった。

 死んだ目でひたすら部屋の利用方法を解説している受付のおっさんに声をかけたが、鍵を渡され、勝手にやってくれと言われた。良く分からないが、この店が一枚岩じゃないだけなのだろう。


「こいつAV見ながら死んだようだね。んで首つりながら出した」


 個室に入り、ある程度調べ終わったババアが言いだした。


「へー」おれは壁にもたれかかった。

「そこ、出したものの残留思念が付いてる」

 おれは急いでそこから離れる「おふ……勘弁してくれよ」


 その後もババアは良く分からない作業を続ける。

 いつもは人がいる時にババアを持ち上げたりする仕事があるのだが、今は意味がない。

 ちなみに「さすがですね」「知りませんでした」「すごいです」「センスがあると思います」「そうだったんですか」と言って弟子の振りをするというのが主な仕事だ。


「慣れてるようだが」とババアは作業を止めずに話しかけてきた「こういうとこにはよく来るのかい?」

「まあな。漫画喫茶より防音がしっかりしてるから、ビデオ視聴室にはよく泊まるよ。正確にはDVD視聴室だが。だがこういう少し高い店には来ない。なにせ置いてあるパソコンのOSが最新版だ。これだけで格が違うのが分かる。おれがいつも言ってるところは大抵XPだからな。『映画公式配信中!』みたいな文句歌ってたりするがXPじゃそのサイトの動画再生されねえよ!それに比べここのは、モニターもでかい、スピーカーの音質もいい。AVの品ぞろえもいい。そしてシャワーが通常のに加え、お湯が鏡の横から出たりする。まあ若干値が張るからほんの偶にしか使わないが。あ、勿論18歳以下は使えないからな。そもそも女も無理だ」


 おれは話の途中で、ガキに振り治って言った。


「あんたビデオ視聴室のことになると早口になるの気持ち悪いな」とババア。

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「んなわけあるか」


 またババアは、除霊する作業に取り掛かったので、おれは暇になった。ババアの横で、AV見るわけにもいくまい。


「便所に行っていいか?」

「あんたは仕事中に便所に行くのかい?」

「仕事によるな」

 ババアは舌打ちをした「勝手にしな」


 その店の廊下は少し迷いやすい作りになっていた。とはいっても建築法違反、というほどではないが。

 この店には女性客は入れないので、男性便所しかなかった。

 おれは二つつ並んだ立ち小便用の右側の奴の前に立ち、事を始める。


「丁度いいな。個室で事をすまそうと思ったが」


 そんな男の声がおれの後ろから聞こえた。個室から誰かが出てくるのが分かる。

 そして足音が丁度おれの後ろで止まった。


「藤岡大輔だな?」


 おれは後ろからかけられたその声から殺気を感じた。低く重い声だ。 

 だが残念なことに、おれは小便を途中で止めるのが苦手なのだ。


「残念だが」おれは声を震わさないように努力した「人違いじゃないのか?」


 沈黙の中、小便の音だけがトイレに響いた。くそが、速く止まれ。


「まあいい。すでに顔は写真で確認済みだ」


 金属が擦れる音がした。何かを鞘から出す音。

 恐らくはナイフだ。

 だが小便がまだ止まらない。


「畜生が!」


 おれはそのまま振り返り、しょんべんを男にかける。

 それにひるんだ男の手に向かって足を蹴り上げた。

 運よく足は男の手に当たり空中にナイフが飛ぶ。おれはそれを手で叩いて、遠くに飛ばした。

 男の視線が、ナイフを追う。おれはその隙を狙い、奴の横っ面を拳で弾く。

 自分のズボンが生暖かく濡れるのが分かった。

 相手をよく見ると、おれより一回りほど大きい男であった。今の拳も決定打にはならなかった。

 だが男は警戒して、一歩だけおれから距離をとった。今と同じ失敗を恐れてか、今度はおれの顔をじっと睨んでいる。

 男は黒いスーツを着ているが、おれの小便により腰のあたりから濡れていた。

 頭部の髪の毛は沿っており、坊主だ。

 顔立ちにどこか、中国系の雰囲気を漂わせていた。それと同時に、堅気でもないという雰囲気も。

 だが喧嘩はともかく、殺しにはそこまで慣れていないのが、今の動作で分かった。


「中国マフィア……もしかして、あのガキに関係することか?」


 おれはガキを指さしていった、だが男は視線を動かさなかった。


「私には見えないよ。だが、私の妻も、同じく子供の霊が見えると言っている。だからお前を殺しに来た」

「何故―――」


 俺の言葉も待たずに、男は動きだした。

 おれは腕で、顔を覆おうとしたが、男の拳はその隙間をぬった。重厚な拳が、おれの顔面にめり込む。

 鈍い音と共に、自身の頭蓋がへこむのを感じた。

 次の瞬間おれは、立小便用便器に叩き付けられ、そして倒れ、床をなめることとなった。

 タイルにまき散った小便が、顔を含めた体全体を汚した。

 おれは急いで、滑りながらも体制を立て直す。

 男はナイフに向かっているのが分かった。おれは慌てて立ち上がり、タックルで男の体勢を崩した。

 おれ達両方は、尿だらけの床の倒れこむこととなった。だが、おれの方が、ナイフの位置は近い。

 ナイフを拾い、窓から投げ捨てた。

 その瞬間また顔面に強い衝撃を受けた。今度は堅さの度合いからして、肘だろう。おれはまた床に倒れた。

 意識が飛びそうになるのを、唇を噛んで耐える。そこへ追い打ちの拳が来たので、唇を噛みきる形となった。

 そこから、頭を掴まれ、床に叩き付けられる。何度も。何度もだ。

 文字通り気の遠くなるほど、それを繰り返された時、男はおれの髪を掴み、顔を上げさせていった。

 そして、もう片方の手をおれ首に持ってゆく。


「すまないね。殺しは慣れていないんだ。中国マフィアがすべて殺し屋だとは思わないでくれ。だがなぜ死ななければならないかは教えてあげよう。まず、子供のことについて教えてあげよう。あれはドッペルゲンガーだ」


 おれは口を開けようとした。だが口内の傷の痛みにより、うめき声が漏れるだけの結果となった。

 男は構わず続ける。


「私の妻は不妊に悩んでいた。そして原因は私にあった。長い時間の話し合いの末、わたし達は体外受精に頼ることになったよ。しかしながら、ある事情により、私達は公的な精子バンクを頼れない立場にいた。だから違法な精子バンクを頼らざるを得なかった。もうわかるね?君の精子が巡り巡って、私の妻の卵子に受精したのだ」


 男は両手で、おれの首を包んだ。


「受精は成功した。私達は喜んだよ。私自身に本の地が半分混ざっているので、相手が何人なにじんかは、あまり気にしていなかったよ。だがその喜びは長くは続かなかった。やはり妻は、結果的に知らない男の子供を産むということは不安だったようだ。その不安がストレスとなり……子供は流れた。

 そして話はその8年後に飛ぶ。妻は少女の霊が見えると言いだした。そして顔立ちが、自分に少し似ていると。最初は流れた子供の、成長した姿の霊だと思った。だが有名な霊媒師に見てもらったところ、違う見立てが出てきた。彼女はドッペルゲンガーであると」


 男は手に力を入れ始めた。

 首の骨が軋むのが分かる。


「ドッペルゲンガーは、一般的に自分自身の生き霊を見ているといわれる。しかし私が話した霊媒師は、実際はそうではないと言った。

 シェイプシフターを知って要るかね?いろんな姿に化ける、妖怪のようなもののことだ。その中に、相手の姿に化け、そしてその前に姿を現し、死を迫るという種類のものがいる。それがドッペルゲンガーだ。そして、お前が今見えているドッペルゲンガーは、お前の姿と、私の妻の姿の両方を真似た姿だ。私の妻と、お前は流産したとはいえ、子を成した。きっと人にはわからない、霊だけが分かる繋がりというものがあるのだろう。それを感じ取り、ドッペルゲンガーはお前と、妻両方の前に立った。恐らく子供の姿なのは、二つに分かれたからだろう。日本人のお前にわかりやすく説明すると……そうだな、神社のようなものだ。神社は同じ神をまつっているのにもかかわらず、全国いろんな場所にある場合がある。霊も同じで、一度に全く違う場所に存在することが出来るということだ。

 さて先ほど『死を迫る』と言ったな。そうだ、『死を告げる』ではなく『死を迫る』のだ。

 そして霊媒師が言うには、どちらかが先に死ねば、霊はいなくなる。

 これが私が、お前を殺す理由だ。お前が死ねば、妻は助かる。お前に私は恨みはない。

 しかしながら、いろいろ調べさせてもらったが、お前はかなりの人間のクズじゃあないか。正直ほっとしたよ。心が全く痛まない」


 男の手の力がさらに強くなった。

 気道が押しつぶされ、首部分の血管が圧迫される。意識が押しつぶされるような感覚だ。脳に酸素がいきわたらない。首の骨がこすれ合う音を聞いた。

 そんな意識が遠くなりそうな時、不遠慮にトイレの扉をたたく音がした。


「いつまでクソしてんだい!全く言ったそばからちゃらんぽんかい!」


 ◇ ◇ ◇


 男の指が、おれの首から離れた。

 そして俺の体からも離れる。

 扉の開く音と、「ひええ!」というババアの叫び声もした。

 肺が大きく酸素を求めた。深呼吸をしたことにより、口内に残っていた折れた歯が、喉に入り咳き込む。おれは、それを吐きだすために、血の混じった嘔吐をした。

 おれは、立ち上がろうとしたが、尿と吐瀉物で滑って転ぶ。再度両手をつき、しっかりと立ち上がった。

 目に血が入って、周りが良く見えない。洗面台に見当をつけて、蛇口を捻り、顔をと手を洗った。

 表情を上手く動かすことはできないが、これで少しは見えるようになった。

 ゲロと尿の混じった異臭が鼻をつく。顔面全体が、脈打つように痛みを訴えていた。

 再度深い呼吸をした後おれはようやく、トイレの扉に向かって歩き始めた。


「うぅぅ……」


 廊下に出るとババアが倒れていた。

 仰向けになり、手だけを動かしていた。


「……どうした。あいつに何かやられたのか?」

「ぶつかった。しかし腰が抜けてしまった。ぎっくり腰だ」

「救急車呼ぶか?」

「病院はは嫌いでねえ。お抱えの医者はいるんだが」


 仰向けのままババアはそんなことを言う。

 おれは溜息をついた。


「給料はずめよな……」


 おれはババアの肩を持った。そしておんぶの体勢に入る。

 その時に、ババアと目が会う


「あんた酷い顔してるねえ、あいたたた」

「黙ってろよ」


 ババアを背負いながら、おれは階下に向かい、受付のおっさんに話しかけた。


「警察を呼んでくれよ。中国人の男に殺されかけた。あとシャワー貸してくれよ」

「できません」

「ああ?」


 そこまで行って、ビデオ視聴室はヤクザが関係している場合が多いのを思い出した。殺人ではなく、未遂程度では、警察ではなく、ヤクザが処理をしに来るのだろう。そうなると、このままでは面倒なことになりそうだ。


「そうか」とおれは痛みにに喘ぐババアに顔を顰めながら言った「じゃあ帰るよ。除霊は多分済んだから、今度金を取りに来るからな」

「しばらくここでお待ちください」

「悪いな、用事があるんだ」


 おっさんの言葉を適当に流しながら、おれは店から出た。おっさんは強くは止めようとはしなかった。

 ババアの家にはここから歩いていける距離にあった。周りの視線が気になりながらも、おれは淡々と歩く。服に染み込んでいた尿と、顔から滴り落ちる血が、地面をたまに濡らした。


「あの男は何だったんだい?」


 痛みが少しい引いたのか、ババアがうめくのを止めて話しかけてきた。


「ガキはドッペルゲンガーで、おれの相手にあたるのが、あいつの妻なんだって。んでおれが死ねばあいつの妻は助かると」

「やっぱりシェイプスターだったのか」

「わかってたのなら、早く言えよ」

「あたしは霊に関しては確信が持てないことは、言わない主義でね」

「さいか」


 しばらく歩くと、山谷に近づく。

 この地区はは暴力沙汰がしょっちゅうだったり、臭かったりするのが通常なことなので、職務質問される可能性はぐんと少なくなった。


「しかしねえ」とババア「てっきり置いていかれるものだと思ったよ。あんたの性格ならね」

「おれは確かに仕事に関してもちゃらんぽらんだよ」


 おれは空を見上げた。夏の始まりを知らせるように積乱雲が、すぐそこまで来ていた。


「だがな、流石に上司に言われたことを一日も守れないほどだと、日雇労働すら務まらねえよ。『あたしだって仕事に誇りを持ってるんだから、あんたも見習いな』ってね」

「そうかい、そうかい」


 背負っている状態なので、ババアの表情は見えなかった。


 ◇ ◇ ◇


 ようやくアパートに到着した。

 おれは、ババアを布団に寝かすと、そのお抱えの医者というのと、杏子に連絡をまずした。

 そして、シャワーで尿と血を洗い流す。鏡でおれの顔を見たが、どうなっているかはあまり表現したくない。

 シャワーを浴びている間に玄関が開く音がした、初めは医者、そして次は杏子だった。

 杏子には着替えを持ってきてもらっていた。彼女は風呂場から出てきたおれの顔を見ると悲鳴を上げた。

 着替えたのち、医者が説明をする。よくわからないが軽いものなので、しばらく安静にしておくと治るらしい。痛み止めを取り出して置いた。

 そして俺の顔を治療し始める。

 てっきり顔中が包帯まみれになると思ったが、白く覆われることとなったのは顔の一部だけであった。血に汚れて、かなりの傷に見えたのだろう。だが顔面の骨の一部にひびが入っているようだ。そして二針縫うこととなった。

 おれの治療費は、さりげなくババア持ちにさせようとしたが、上手くいかなかった。一応仕事中にした怪我なので、今度ババアと交渉するということで、取りあえずはツケということになった。

 おれはちゃんとした病院へ行くと言って、その場を後にした。

 途中手持ちの金で、ありったけの安酒とナイフを買う。

 頭部に涙滴のようなものを感じた。空を見上げると分厚い雲が覆っており、嵐の訪れを予感させていた。

 その予感の通り、初めは少しづつ、次第に大量の雨を、分厚い雲がが降らせていった。傘なんて気の利いたものは持っていない。せっかく着替えたジャケットが、水分を吸収し、おれの気持ちと共に重くなっていく。

 向かうはこの地区内の人気のない広場だ。その中でも俺だけが知っている、木々で死角になっている、誰も通らない場所があった。

 その場所に到着すると、濡れた泥の地面に、汚れるのも構わず座りこんだ。

 買った酒の中でも一番高いのを開ける。そして次第に値段が安い者に手をつけていく。

 吐く一歩手前まで酔ったころ、おれは紙パックをガキに向けた。


「よお」


 数日前からいつまでもついてきているガキだ。

 改めて顔を見るが、相変わらず空洞のような瞳をしている。


「おれこれから死のうと思う。お前の望み通り、になるのか?」


 おれは、酒を異に流し込んだ。ガキは反応しない。


「おれはクズだ。ウンコだ。どれぐらいクズか教えてやろうか?

 どれぐらいクズかというと、会社に入社するためのマークシートの適性検査に答える時、『下品な冗談で笑ったことがあるか?』という質問を見るたびに、その質問を考えた奴の前まで行って、たっぷり入った貯精用の瓶をそいつの頭に向かってたたきつけたいと考える。そして倒れたそいつの頭に小便を書け、マークシートに『fack you!』と書いて地面に落とす妄想を毎回する。だがおれはチキンなので、そんなことは勿論できないし、マークシートには『当てはまらない』という答えの部分を黒で塗りつぶす。適性検査の結果が入社の条件にはかかわらない、と言われたとしてもだ。そして下品な冗談も、女の前で言ったことはない。それぐらい、おれはチキンで蛆虫でクズだ。ババア?人間60歳超えると、性別あってないようなもんだ。だがな」


 おれはまた酒を口に含む。だがこれ以上は体が受け付けなかった、その場で吐きだす。泥と吐瀉物が混ざり、雨によって分散していった。


「おれだってクズ以外の物になれるのだとしたらなりたいよ。甘ったれたことを言ってるのはわかる。そのチャンスは何度もあったのに、大した理由もなく見逃してきた。それでもな、その知らない女のために命を捨ててしまうのも悪くないんじゃねえか?」


 自己犠牲でもない。自己満足でもない。

 それは自己酔狂だった。


「……まあ実を言うと、このままだとあいつが殺しにくるし、お前も死を誘うんだってんなら、早めに楽に死んだ方がいいのかな、ておもったんだがな。くそったれ。ああ、くそったれ」


 自分でははっきり話しているつもりだったが、もう呂律もほとんど回っていないんじゃないんだろうか。

 おれはナイフを取り出した。そして耳の下のあたりの頸動脈の皮膚の上に乗せた。

 確か手を切って自殺に成功した奴はいないんだったか?自殺マニアルの知識だが。

 しかし思い返して見ると、くだらない人生だった。こんなくだらない人生の最後が酔狂とはいえ、他人のためなのは奇跡なんじゃあないだろうか。そんな自画自賛的な自虐も、反吐が出るが。

 まあ


「おれは正直、外国の女は何考えてるかわからないんで、あまり好きじゃないんだが、お前を見ると、あいつの妻ってのは美人なようだ。まあ美人のために死ねるってのも、悪くないんじゃないかな」


 おれはナイフを首に深く突き刺した。そして、それを下部に向かって移動させた。

 拭きだした血からは、酒の臭いがした気がした。


 ◇ ◇ ◇


「おはようおじさん」


 奇妙な浮遊感を感じた。酒に酔ったっと気とはまた違う。

 自分の中の内臓や、血液、そして脳自体が浮いている感触があった。それでいて不快感が全くない。

 おれは目を開ける。いつもあれについてきていた、幽霊のガキの姿をしたものが前にいた。

 しかしいつも見ていたガキの姿とは決定的に違う処があった。表情だ。

 今目の前にいるガキは、以前の虚ろな表情とは別に、おれに微笑みかけていた。

 周りを見てみたが、何もなかった。本当に何もないとしか表現がしようがない。そんな世界が広がっており、おれはその上で浮遊していた。


「……おはよう」


 状況が把握できないが、おれはとりあえず、ガキに答えた。


「おじさんわたしが誰だかわかる?」

「ドッペルゲンガーのガキだろ」

「違う」

「じゃあ何」

「おじさんの流れた子供」

「ああ……」


 そういえばババアが最初に水子が付いてるって言っていたな。

 ということはおれは幽霊が二つとりついていたことになる。

 何で日本語なんだと思ったが、生まれていないのだし本来中国語も話せないはずか。


「じゃあドッペルゲンガーはどこへ行ったんだ。いや、ここは天国なのか?」

「ドッペルゲンガーは近似的存在である私と接触したこのにより対成仏したよ。もっともおばあさんが家にいながら、私の存在を活性化した結果なんだけど。ただ、ドッペルゲンガーは半分の状態なので、わたしも半分残った結果ここにいるんだけど。そしてここは天国ではなく、おじさんの頭の中」

「……意味が分からん」


 対成仏ってなんだ。対消滅的なものか?


「まあそんなことはどうでもいいの。最後に私が言いたいことがあったから、おじさんの前に現れたの」

「うん?」

「私おじさんのことはお父さんだとは思っていないから」

「そうかい、おれもだ」

「そう、だけどね。一応わたしはおじさんの子とずっと見ておくことになったの。何故かってそういう決まりだから。面倒だよね幽霊って科学技術に対応できないから。反吐が出る。でもね、ずっと見てる以上、見られていることを意識して、生きていきなよ。だからがんばりなよ。ざまあみろ!」

「説教か」

「今更説教だよ」

「まあ」おれは頭をかいた「努力するよ。多分」

「そう、じゃあお父さんによろしく」


 再度意識が途切れる瞬間、水子はもう一度微笑んだ。

 無茶を言う。

 あいつらのことは恨んでいないのだろうか。まあ霊にもおれの知らない事情があるのだろう。

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