アイアンナックル ~鉄狼の陰謀~
コロンビア。南米でもぶっちぎりで治安の悪いこの国でも、『最高に最悪』と呼ばれる都市こそ、サンタ・マキアである。この都市は歓楽都市として名を馳せていたが、麻薬カルテルの海外拠点、それに伴うFARCの秘密拠点として使われているいわゆる『犯罪都市』となっていた。殺人発生率は最悪、朝食に焼かれるトーストよりも死体のほうが多い。そんな都市の高速道路に、一台のバイクが走っていた。赤いファイアエンブレムに、黒いボディ。鉄馬とも呼ばれるハーレーダビッドソンには、茶色のコートをばたつかせながら女が跨っていた。その横には、サイドカーがくっついており、子供ほどあろうかという大きさのトランクが載っかっている。尤も、この下には本当に子供が一人乗っているのだが。
疾走するバイクが街中に入る。観光をウリにしている、などとパンフレットには書いてあるが、まともな旅人なら三秒で身包み剥がされてしまうだろう。そんなぴりぴりした空気が街には流れていた。もの珍しいのか、全体的に柄の悪い雰囲気の人々がこちらのバイクをじろじろ見てくる。女はヘルメットの中でため息をついた。
「やれやれ、面倒なことになっちまったな。なぁクリス」
サイドカーから返事は無い。走行中なので聞こえないのだ。もしかしたら、寝てしまっているのかもしれない。バイクに乗る女、アンナは再びため息をついた。普段なら、アンナという人間がため息をつくことは無い。ため息というものは、目標や目的に向かっても上手くいかない人間がつくものだ。アンナにとってみれば、目標などというものは金にもならないものだし、目的などいつもあってないようなものだった。そんな彼女がため息をつくというのは、天変地異が起こることより奇妙で珍しいものであるのだ。
1
話は数週間前に遡る。アンナとクリスの二人は、メキシコのとある街のホテルの一室でグダグダとただ時を過ごしていた。飯を食い、酒を飲み、セックスに励む。BGMは壊れたエアコンの駆動音。猛獣すれすれの生活。レベルはバカンスになど届いていない。その日も、ホテルの一室でむしむしした気候にアンナはイラついていた。何しろアンナは普段男物の長袖Yシャツにコートを羽織るという女っ気の無い格好で過ごしていた。いつもはポニーテールの長い栗色の髪も振り乱している。ボタンも二つ外れていて、一ドル三枚という安物の白いブラがちらちら見えている。ズボンなど穿いていない。この暑さでは穿く気にもならない。袖も捲り上げ、狭い部屋にひとつだけある硬い椅子に座り、天井を見上げていた。
「……クリス」
ぽつり、と相棒兼恋人の名前を呼ぶ。クリスはベッドの上に足を投げ出し、なんだか知らないが小説のようなものを読んでいた。ちらりとクリスもこちらを見たが、すぐに読んでいる本に目を戻した。アンナはベッドに腰掛けると、クリスの右腕を引っつかみ、仰向けにひっくり返した。涼しい顔をしてはいるが、暑いのだろう。首筋に汗がにじんでいた。クリスの黒いおかっぱの髪も、じとじとした室内のせいでおでこにくっついてぐしゃぐしゃになっていた。
「するの?」
クリスはただそれだけ言った。
「悪いか?」
「別に。すれば」
小説のページがぴったり張り付いた。そのことが気に食わなかったのか、クリスの表情は若干不機嫌になった。キスをする。舌を絡める。水の跳ねる音がする。クリスの二番目のボタンを外そうとしたその時、アンナの携帯がけたたましく鳴り響いた。舌を打つ。水が跳ねる音がする。
「もしもし!」
せっかくのパーティタイムを邪魔されたお返しに、隣の部屋にも聞こえそうな声で携帯に叫んだ。
「アタシよ! ゴードンよ!」
アンナの二倍の声で電話口の男──いわゆるドラッグ・クイーンだから女かもしれないが──は答えた。アンナは電話口から耳を救出すると、暑さでぼやけた脳を回転させた。
「うるせぇってんだ、このクソボケ! 今良い所なんだ。切るぞ」
「待ちなさいよ。緊急のタレコミよ。情報料はツケでいいわ」
ゴードンはアメリカのとある都市、オールドハイトを網羅する凄腕の情報屋だが、時々こうしてツテを辿って鉄腕に思いもよらぬ情報をくれる。これで、スキンヘッドにチャイナ服という珍妙極まりないセンスだけ直せばいいヤツなのだが。
「また金を取るのか。アンタも商売上手なこった」
「ツケでいいって言ってるじゃないの。つれないわね。ともかく、緊急よ。ランス警部、覚えてるでしょ?」
ランス警部というのは、アンナを目の敵にしているアメリカのオールドハイト市警の悪徳警部だ。彼の娘のマリアは、かつてアンナの恋人であったが、とある理由で自殺した。ランス警部は、その原因を鉄腕だと思い込んでいるのだ。しかも、アンナを追い詰めるためならマフィアを動かすことも辞さない危険なオヤジである。尤も、一度ボコボコにしてやったのだが。
「ああ、あの警部がどうかしたのか? 顎を叩き割ってやったからな。もしかしたら飯が食えなくておっ死んじまったのか?」
「そうだとしたら都合がいいんでしょうけどね。どんなマジックを使ったのか知らないけど、あの人出世したのよ」
「冗談だろ? マフィアと繋がってた悪徳オヤジを出世させるなんて聞いたこと無いぜ。で、どこに出張るんだ」
一拍おいて、ゴードンは口を開いた。
「……ICPOよ。本日付でICPOの特別捜査官に就任ですって。しかも、ICPO初の捜査権を持った捜査官なのよ。加盟国じゃなくても捜査が出来る強権まで持ってるわ」
蒸し暑い部屋にいるはずなのに、アンナの汗は一気に引いていた。あのランス警部がどこでも自由に捜査可能なのであれば、その情熱のベクトルがどこへ向かうかなど、誰にでも分かる。アンナに一度半殺しにされても、彼はまだ復讐を願っているのだ。
「……間違いないか?」
「ソースは確かな筋からよ。アンナちゃん、急いでメキシコを離れたほうがいいわ」
「言われなくてもそうする。礼を言うぜ」
アンナは白いシルクの手袋をはめた右手で携帯を切った。クリスは仰向けで寝転がったまま、閉じたままの本を手にしつつ、黒い瞳でこちらを見ている。
「しないの?」
「ああ。それどころじゃなくなっちまった。メキシコを出るぞ」
そういって黒いズボンを手に取ろうとしたが、アンナはふとその手を止めた。クリスはやはりベッドでゴロゴロしている。
「……やっぱりやる」
追い詰められたときなら、普段より興奮するのではないか。アンナはいつもより乱暴にクリスをベッドに押さえつけた。
2
そんな経緯でコロンビアまでやってきたアンナとクリスだったが、とりあえず目についた寂れた飯屋で安っぽいミートスパゲティをフォークに突き刺していた。本当ならデカいチキンを頬張りたかったが、今後の事を考えるとあまり金は使えない。店の中は全体的に油っぽく、シャツからでも自分の腕に油っ気が移りそうだった。
「まずい」
クリスは小さくつぶやいたが、言葉とは裏腹にアンナの手首ぐらい太くスパゲティを巻き取っていた。よっぽど腹が減っていたのだろう。尤も、クリスが腹を空かしているのはいつものことなのだが。
「クリス、ちょっとは遠慮しろよ。なんてったって金がねえんだ」
クリスと比べてまるでフォークにスパゲティがくっついていない鉄腕は、不機嫌そうに舌を鳴らした。髪の薄い割にひげを蓄えた店のオヤジが過剰に反応したのか、こっちにひげ面の顔を向けてきた。もちろんアンナは無視した。さっさとコップでも磨いていればいいのだ、クソッタレめ。
「これからどうするの」
口に入れたはずなのに、クリスの口からスパゲティは消え去っていた。口の周りに血反吐でも吐いたのかと勘違いするほどミートソースをくっつけている。アンナはコートのポケットから紙ナプキンを取り出すと、丁寧にそれをふきとってやった。
「さあな。幸いここは治安が悪いし、警察もマフィアと仲良くおててをつないでる。アタシみたいなやつには絶好の隠れ場所だろうが、隠れる金がねえ」
アンナはコートをまさぐり、新しく買いなおしたお気に入りの葉巻、ロミオYジュリエッタ&チャーチルズをシガーケースから取り出した。一本二十七ドルもする一品で、ワインのようなかぐわしい香りが特徴だ。金欠だったので我慢していたのだが、クリスを多少強引に説き伏せて購入した。赤い愛用のシガーカッターで吸い口を切り落とし、長いマッチで火をつける。
「うめえ」
安い葉巻で我慢していた分、反動からか体全体が甘ったるい煙に満たされたような感覚に陥る。アンナはドラッグだけはやらないが、葉巻はこの感覚が好きでやめられない。舌で煙を絡めるように甘ったるい感覚を楽しむ。
「そんな葉巻を買うから路銀がなくなるんば。いい加減学習しふぁら」
まるでリスのように頬を膨らませ、シメにぬるいミネラルウォーターをがぶがぶ飲みながら、クリスの怒涛の食事は終わろうとしていた。クリスの背丈はアンナよりふた周り以上も小さいのに、食う量ときたらアンナの三倍なのだ。どちらが金がかかっているかなど分からない。どっこいどっこいだよ、とでも言い放ってやりたかったが、炸裂音がそれを遮った。銃声だ。
「うるせえなあ」
ひげ面の店主がスペイン語でがなる。サンタ・マキアでは銃声など車のクラクションみたいなものだ。チンピラ同士がどうせ、自分の女がどうとか争っているのだろう。店主が屈むと、見計らうかのように棚に銃弾がめり込んだ。
「オヤジ、この辺はいつもこんな感じなのか?」
念のためクリスを机の下に押しこみ、残りのスパゲティの皿をつっこんだ。アンナ自身は防弾の効果もあるコートを頭まで被った。さすがにかっこつけて頭は出していられない。流れ弾で頭を吹っ飛ばされでもしたら最悪だ。
「そうだよ。この辺のチンピラは喧嘩っ早くてな。おめえさんも鉛をぶち込まれたくなきゃ、さっさと出てくことだ」
アンナはゴーグルみたいなサングラスの奥で目を輝かせると、再びコートをまさぐり、カウンターににじり寄り、くしゃくしゃの五千ペソ札を店主に差し出した。
「そのチンピラの親玉はどこにいるんだ? 教えてくれよ」
「さあな」
店主は鼻を鳴らし、ひげをちくちく揺らした。大方チップを入れても足りないぜ、ということなのだろう。そのくせしっかり懐に五千ペソをねじ込むところが、アンナは気に入らなかった。
「なあ、教えてくれてもいいじゃないか。え?」
アンナは白い手袋を嵌めた右手で店主の頬に触れ、耳から顎へと娼婦のように指を走らせた。親父の顔は若干緩んだが、それでも教える気は無さそうだった。
「ダメなのか?」
蓄えたひげに指をかける。店主はそれでも首を振らなかった。アンナは残念そうな顔をし、店主のひげを一気に引き抜いた。勢いよくぶちぶちと気持ちよく抜ける。残念ながら店主は全く気持ちよくなさそうだったが。
「な、何しやがる!」
「教える気になったか? 次に引き抜くのはアンタの少ない髪の毛だ。スキンヘッドが好きだといいんだがね」
ぐい、と今度はてっぺんの髪を掴み、少しずつ引っ張る。アンナの右手の握力はゆうに五百は超えている。店主の髪の毛など、その辺の草を引き抜くよりたやすいのだ。
「わ、わかった。わかったからやめてくれ。この先の『ノーベンバー』ってカジノが奴らのねぐらだ」
店主は若干目に涙を浮かべながら、懇願するかのようにこちらを見てくるので、アンナは手を放してやった。細い髪の毛が絡みつき、はかなく何本か千切れていた。
「邪魔したな」
クリスは無念そうに空になったスパゲティの皿を見つめていたが、アンナが扉を開けるのを見て、自分の背丈ほどもあるトランクを引っ張り始めた。
銃声はもう止んでいた。
3
カジノにも種類が様々あり、ラスベガスにあるような個人経営タイプのものから、政府が胴元となる公営タイプなどがある。ここサンタ・マキアでは表向きは公営でも、裏レートによって浮いた利益をマフィアが仕切っているというスタイルを取っている。要は政府とマフィア両方が旨みを得ることが出来るのである。カジノを本拠に置くのも、表向きは公営であるため滅多に手を出せないという防衛上の事情も存在する。ここ、ノーベンバーはサンタ・マキアの中でも最高級のカジノであり、企業が売り買いできる程のレートも存在する。
「クリス、トランクは預けたか?」
珍しくネクタイを締めているアンナは、蝶ネクタイにサスペンダー付のズボンといういつも通りにフォーマルな格好のクリスに尋ねた。カジノで手荷物を持って移動するのはマナー違反なのである。
「……金、ないんじゃなかったの」
「その辺のマダムがこころよく貸してくれたのさ」
アンナの言う『こころよく』が、本当に『こころよかった』ことなど一度も無い。今回も多分に漏れなかったようである。カジノは人種のるつぼになっていた。白人黒人、イエローモンキーもいる。ここはチップでスリルと金をやり取りする所で、人種は関係ない。まさにアンナにうってつけの『戦場』だ。
「まあ、ちょっと遊ぶくらいなら問題ないだろ」
一万ペソを赤いチップ一枚に交換して、アンナは白い手袋をはめた右手の中で弄んでいた。ちゃちな賭けをするつもりはない。アンナはスリルを求め危機を楽しむ人生を選んだ女なのである。
「クリス、どれがいいと思う? ポーカーにスロット、ブラックジャックにルーレットもある。ここは一発、大きな賭けをしたいもんだな」
にやにやしながらアンナは煙を燻らせた。近くにいた細身のバニーガールにマティーニを注文する。アンナが目を向けたのは尻だった。なかなかいい尻をしている。ぜひ撫で回したい。
「失礼ですが、ミセス」
まだ尻の割に顔つきの幼いバニーが、マティーニを手渡しながら尋ねる。
「ミスだ、お嬢さん。この子の事なら心配するな。こう見えて十八だし、お嬢さんより物は良く知ってる」
年齢については嘘だ。尤もバニーより物はよく知っているのは間違いないが。アンナはバニーの胸元をじろじろ見ながらマティーニを楽しむ。喉を抉るほどドライな喉越しだ。
「いえ、違います。貴女をお呼びするように、とボスが」
ルーレットをちらりと見るが、どうやらベットも出来無さそうだった。球がカラカラ回る音と、固唾を飲んで見守る観客。どうせなら一度くらいベットしてから行きたかった。まぁ、話が早いようで何よりだ。
「ところでお嬢さん。この後は暇かい」
「はあ」
「君とウサギの繁殖力についての話がしたいんでね。よかったらエアコンのきいた部屋に招待するよ」
アンナは携帯電話のメールアドレスを書いた紙を手渡すと、不機嫌な顔のクリスを引きずり、関係者用の出入り口の奥へ消えていった。
「自分の女の前で違う女をナンパするなんてどうかしてる」
SPが案内してくれている時も、ぶつぶつクリスは文句を言っていた。いつも涼しい顔をしているくせに、こういう浮気は絶対に許さないのがクリスだった。
「いいじゃねえか。アタシは別にナンパをした覚えなんかないぜ。あくまでウサギの話をしようってだけさ」
アンナはクスクス笑う。赤いチップはアンナの右手から宙へとひたすらジャンプを続けていた。SPは職務に忠実で、一言も物を言わず先導を続けている。廊下はなかなか広く、レッドカーペットを洒落たランプが照らしている。関係者用の出入り口まで客が出入りしていることを見越しているようなデザインだった。
「ボスはここにいるのかい」
SPが扉の前で立ち止まり、アンナの言葉に首を縦に振った。悪趣味とまでは言わないが、開けるのはめんどくさそうな扉だった。木彫りの彫刻で、翼を広げた鳥が餌でも欲しいのかというほど口を開けていた。ムカついたので、ビンタでもくれてやるように、アンナは強く扉を押した。
「ずいぶんなお迎えだな」
黒い銃口がこちらに全て向いていた。やれやれ、と肩をすくめる暇もなく、トリガーが引かれた。咄嗟に巻き付けた防弾性のコートがチーズに指を突っ込んだような音を立て、銃弾を転がしていった。薬きょうの落ちる音がしなくなってから、アンナは不機嫌そうに口を開いた。
「何の真似だ? 歓迎ならもう少し気を利かして欲しいもんだな」
「君が『鉄腕』アンナ・マイヤーかね」
爪をやすりで削りながら、細いメガネをかけた白いスーツの男が口を開いた。男が爪に息を吹きかけると、銃口は図っていたかのように下に向いた。器用なものだ。
「知ってるなら話が早いな。こういうプレゼントを貰ったら、アタシも同じようにプレゼントを返す事にしてるんだ。右と左、どっちがいい?」
指を弾く。赤いチップが宙を舞う。男が使っているのだろう、へたくそな飴細工のようなひん曲がった机にチップは転がり、くるくる回転したかと思うと、次第に回転数は弱まっていった。アンナ──鉄腕と呼ぶことにするが──は、肩を軽く回してから、白い右手袋を外し、Yシャツの右袖をコートごとまくった。現れたのは、鈍く輝く鉄の義腕。右腕を失った代わりに得た、『鉄腕』と呼ばれる由縁だった。
「気持ちだけ受け取っておこう。手荒くて申し訳ない。自己紹介させてもらうと、私はディエゴ・アロンソというものだ。一応、ここの責任者をしている」
爪の手入れが終わったのか、ディエゴはやすりをスーツにしまうと、今度は櫛を取り出し、自身のオールバックの黒髪を撫で付けた。どうやら身だしなみに時間を使うタイプの人間らしい。
「随分とつれないな。アタシは右をプレゼントしたかったんだがね。で、何の用なんだ、ディエゴさん。まさか、プレゼントはこれでおしまいか?」
「君は金次第なら何でも引き受けると聞いた。君ならば、このサンタ・マキアに蔓延する膿を出すことができると考えたのだ。我々ではどうしようもない問題なものでね」
鉄腕の仕事は何でも屋だ。文字通り、何でもやる。汚い仕事を頼むクソッタレなクライアントでも、金をくれればローマ法王のごとく崇める。それが鉄腕の流儀だった。
「なるほどね。なら聞くが、その原因ってのはなんなんだ?」
葉巻を携帯灰皿に押し付け、新しい葉巻を準備する。目の前で二十七ドルが飛んでいくのを見て、クリスはさっきより嫌そうな顔をしていた。
「われわれの組織の半分は『ノーベンバー』のようなカジノ経営で成り立っている。もう半分は薬の売買だ。……君は薬はやるかね? 鉄腕」
「生憎セックスはナチュラルなほうが好きでね。アタシは個人的にモテないやつが薬をやるもんだと思ってる。そうじゃなきゃ、インポかセックスが下手なのさ」
クスクスと鉄腕は笑ったが、あまりクリスは話しに興味が無いのか、不機嫌な顔のままだった。銃を下ろしたSPの一人が、やたらと装飾が派手な椅子を勧めてきたので、鉄腕はそれに腰掛けることにした。話は長くなりそうだった。
「結構。客としてはいいが、ビジネスの相手には薬はやってほしくないものだ」
ディエゴはシガーケースから細長いシガリロを取り出す。ほぼ同時にSPの一人がライターを懐から取り出し、ディエゴが口にくわえるのと同時に火をつけた。たいしたものだ。
「問題は、だ。われわれのルートと市場を脅かすものがいるということだ。組織に喧嘩を売っている。とんでもないことだ」
広い部屋だったが、葉巻とシガリロの煙は絡み、独特の臭いが漂っていった。あまり褒められたような臭いではなく、食事の前後には嗅ぎたくないような臭いだった。
「おいおい、何寝ぼけたこと言ってやがるんだ。そんなもんあんたらの組織の上が黙っちゃいないだろう? それともあんたらは、自分じゃ尻も拭けないのか?」
どこの国のどこの組織でも、アウトロー達が気にするのはメンツだ。自分たちがナメられたら、地の果てまで追いかけていってブチ殺す。大きな組織になればなるほどその傾向は強くなり、行動できる『地の果て』も広くなっていく。鉄腕はそのメンツを立てる目的で、何度も殺されそうになったものだ。
「もちろん、報復なら簡単だ。だが、相手が軍隊だとしたら?」
「軍隊だあ? あんたらの組織は軍隊とやりあってるのか」
シガリロを水晶細工のご立派な灰皿に押し付けると、ディエゴはキザったらしく指を鳴らした。SPが鉄腕が座っている椅子と同じものを用意し、ディエゴの後ろに設置した。どうやら、一人一人こんな風な教育を受けているようだ。几帳面なことである。
「知っているかもしれないが、私たちの国では、ゲリラと組織のつながりは強い。当然、我々は金を彼らに流すし、彼らも我々に協力してくれる。だが、彼らは今回の件に協力してくれないのだ」
「つまり、ゲリラもその軍隊とやらとはやりあいたくない、ってことかい」
「そうだ。そして彼らは商売をやる。我々を無視した商売だ。軍隊が商売をやるのだ。これが面倒でなくてなんだ? そして、我々は軍隊ではない。抗争はできても戦争は難しい」
ここのSPは気が利く。不機嫌に突っ立っていたはずのクリスは、いつのまにやら板チョコをぽりぽりかじりながらジュースを煽っていた。仕事の速いSPの仕業だろう。普通の子供なら満足かもしれないが、クリスにはまだ足りないようである。氷だけになった汁を不満足そうにズルズルと音を立てながらすすっていた。
「かいつまんで言うなら、アタシに戦争でもしろってことなのか?」
「いいや、君にしてもらいたいのは調査だよ」
木製の大きな扉が音もなく開き、そこからワインボトルとグラスを持ったバニーが現れた。先ほどの顔の幼いバニーとは違って、出るとこが出ているいい女だった。一流のカジノともなると、女もレベルが段違いだ。ボトルは、やはりほとんど音を鳴らすことなく、ディエゴの趣味の悪いデスクに置かれた。
「彼らが何をしているのか、また、彼らのボスは誰なのか? それを調べてもらいたいのだ。敵を知らなければ今後戦いようがないからな」
栓抜きでコルクを抜き、グラスに注ぐ。踏み潰した苺みたいな赤い色のワインが、グラスの半分を満たした。
「ワインでも飲むかね?」
「そんなもんは匂いを楽しんだら、そのまま捨てちまえ。アタシはスコッチのほうが好きだ。何を好き好んで何百年もほったらかしにするのか理解できないんでね」
ぐい、とディエゴがワインを一口あおり、再び指を鳴らした。
「で、あんたらの言う『彼ら』ってのはなんなんだ? まさかそれすら分からないってえんじゃないだろうな」
「我々もそこまで間抜けじゃないよ。……ネオナチ過激派『第四帝国』の連中だ」
ネオナチとは、第二次世界大戦で猛威を振るったナチスドイツを崇拝する反政府団体のことだ。ただ、やつらの仕事は就職問題にかこつけて、外国人の排斥をするのが仕事のはずだ。それに、ネオナチには元来指導者が生まれない傾向にある。マフィアやゲリラに対抗できるほどの組織力を発揮するとは思えない。
「だが、それ以外はわからない。彼らも徹底してねぐらを隠しているようだ。おそらくそう簡単には見つからないだろう」
「オーケイ、分かった。引き受けよう。早速だが、報酬の話に入るぜ。アメリカドルをキャッシュで五万。経費はアンタ持ち、アタシは一セントだって払わねえ。何か文句はあるか?」
再びディエゴはグラスを持ち上げ、残った赤をくるくるグラスの中で回した。相変わらず、眉ひとつ動かさない。鉄面皮のお手本みたいな顔だった。
「随分とふっかけたな。それだけの金を出すのはたやすいが、われわれが君を裏切ったらどうなる? 金を払わなかったら?」
「別にどうもしないさ。ただ、アタシにきちんと金を払ったやつはいいメを見てるし、満足もしてる。アンタがそんなのはごめんだっていう変わり者なら別だがね」
ディエゴは眉を少しばかり潜めたが、鉄腕が瞬きした瞬間元に戻っていた。
「分かった。良い報告を期待しているよ」
ディエゴはデスクに転がった赤いチップを鉄腕に放った。くるくると縦に回転しながら放物線を描き、鉄腕が出した右手にちょうど収まった。
「呼びつけて悪かった。後はノーベンバーで楽しく遊んでくれ」
4
「クソッタレ!」
夜八時。鉄腕はノーベンバーから少し離れた路上の端で、年季の入った石壁に蹴りを入れていた。ディエゴと話をつけた後、一発大きく賭けてみようとルーレットをやったのだ。鉄腕は黒に全財産の一万ペソ賭けたのだが、なんとルーレットが示したのは赤の二十四。大外れだったのである。
「『アタシには野生の勘と女の勘がある』なんて言ったのは嘘だったの?」
いつもは仏頂面のクリスも、さぞ面白いものを見たかのように顔をニヤつかせながら、鉄腕を小ばかにしたような目で見つめていた。
「うるせえ! ギャンブルだから勝ちもするし負けもするんだよ!」
正直なところ、ディエゴが少しばかり情をかけてくれるものだと勝手に思い込んでいただけに、鉄腕はそんなありえないことを計算に入れていた自分が情けなく思えて仕方なかった。それ以前に、鉄腕は自分がギャンブルが死ぬほど弱いという事実をどうにも受け入れられないという根本的な問題を解決する必要があるのだが、鉄腕自身は絶対にそれを認めないし、クリスもそれを指摘しようと思ったことはない。
「とにかく、もう帰るぞ。胸糞が悪い」
こうなったら、ホテルはとびきり上等な所に泊まって、これまたとびきり上等なスコッチを一杯やって、一発ヤッてから寝てしまおう。鉄腕はイライラしながらも、経費落とし放題で贅沢することをひたすら考えていた。何しろ、鉄腕は金次第で何でもやるが、経費を落とし放題でさらに報酬をはずんでもらえるような太っ腹のクライアントはなかなかいない。ならば、クライアントのことなど考えず、とにかく贅沢をしてやろうというのが鉄腕の考えだった。
「クソッタレめ」
ぶつぶつ文句を垂れ流しながら、鉄腕はクリスとトランクがサイドカーに載ったことを確認し、キーを差し込む。後は回せばよかったのだが、その前に鉄腕の携帯が鳴っていることに気づいた。ディスプレイが青く輝いていたせいで面食らうが、『非通知』とある。面倒事がまた増えそうな予感。鉄腕は舌を打った。また水が跳ねた。
「もしもし」
『もしもぉーし。くそったれのアバズレ女、鉄腕さんの電話で良かったかな?』
若干間延びした男の声が、鉄腕の耳穴を貫いた。
「おいおい、アバズレなんてのは股を『開く側』に使うもんだ。アタシはむしろ『開かせる側』なんだが」
『そりゃーあ失敬。久しぶりだな鉄腕。俺が誰だが分かるかい?』
「申し訳ないが、男の顔ってのはどうにも覚えづらくてね。声だけになると全く分からないんだ」
『そうかい。オールドハイト市警のランスだ。頭に『元』がつくがね』
「その市警の警部が何だってんだい?」
『なあに、酒でもやりながらビジネスの話がしたいんだ。お前、今サンタ・マキアにいるんだろう? 『エル・シカゴ』ってホテルで部屋を取ってる。一応三ツ星だ』
「レディを誘うときはもっとスマートに誘導するもんだぜ、ランス警部」
『こいつはデートのお誘いじゃない、『ビジネス』なんだ。ぐだぐだ言ってないでさっさと来い。お前をムショ送りにする理由付けなんていくらでも出来るんだぜ』
一方的に言いたいことを言った挙句、ランス警部は電話を切った。昔、ランス警部の娘のマリアと鉄腕は付き合っていたが、マリアは心優しい女性だったのに親子でこうも違うものか。鉄腕は若干頭が痛くなってきた。どうやら、鉄腕の上等のスコッチは大嫌いな警部と開けなければならないようだった。
ハーレーとトランクをボーイに任せて、チェックインを済ます。ムカつくので鬱憤を晴らす為にロイヤルスイートに泊まることにした。もちろん経費で落とすに決まっている。大体、何が悲しくて南米くんだりで四十過ぎのオヤジと酒なんか飲まなくてはいけないのか。鉄腕のイライラのボルテージは、乗ったエレベーターと共に上がっていった。天井まで吹き抜けになっている十五階建てのホテルの頂上に、鉄腕のロイヤルスイートは存在する。クソッタレの警部殿は、十二階の1206室に泊まっているらしい。税金泥棒の上に、マフィアとも癒着していたくせにたいしたご身分だことだ。クリスはトランクをボーイに任せてしまって手持ち無沙汰なのか、鉄腕のコートのすそを引っ張っていた。
「クリス、アタシは今からまた仕事だ。先に部屋に行ってろ」
「ルームサービス頼んで良い?」
「好きなだけ食ってろ。ああ、酒もついでに頼んでおいてくれ。とびきり高いのを」
わかった、とクリスは呟き、閉じる扉の後ろで手を振っていた。ホテルの廊下は狭いが、吹き抜けだけあって全体の空間は広く感じる。円状の廊下の外側が客室で、内側が吹き抜け部分といった具合だ。見上げると、豪奢なシャンデリアがぎらぎらと光りながらぶら下がっていた。鉄腕は、1206号室とプレートが下がっているドアをノックする。内側から、入れと乱暴な声が聞こえた。もしかしたら、ランス警部の代わりに、水着のセクシーギャルがベッドの上で手招きしている、という淡い期待は完全に打ち砕かれた。
「よう。悪徳オヤジ。てっきりおっ死んじまってたと思ってたぜ。アタシのアッパーじゃ死ななかったみたいだな」
ランス警部は、前に会ったときと同じようにふてぶてしい態度で、ソファーに腰掛けていた。ガラス製のテーブルには、飲みかけのスコッチ・ウィスキーとグラスが二つ置かれていた。
「おかげ様で、アゴの骨が砕けちまったがね。今もボルトを三本も入れてるんだ」
左手の親指で、こつこつとあごを叩く。相変わらず、白髪交じりの髪はぐしゃぐしゃで、顔のしわは四十代にしては深かった。トレードマークのよれよれコートは、扉の傍のコートかけにかかっていた。
「おっと、動くなよ」
テーブルの下から現れた右手に握られていた銃は、スミス&ウェッソンだ。鉄腕は素直に両手をゆっくりと挙げた。
「コートを脱げ」
「おいおい、まさか娘の仇にストリップショーをやらせようってんじゃないだろうな」
「マリアの名前を出すな」
ぴしゃりとランスは一喝した。
「マリアを殺したお前が、マリアの名前を出すんじゃねえ。お前のコートは防弾だ。フェアじゃねえ。だから脱ぐんだよ、マヌケ」
鉄腕はその言葉に特に反論せず、コートをゆっくり脱ぎ、コート掛けにかけた。頭の片隅のやしの木の無人島で、マリアが手をこまねいているのが見えた。
──アンナ、あなたは私を捨てるのね──
鉄腕はそんな幻影を振り払うように栗色の髪をがしがし掻いた。
「アンタがアタシの事をどう思おうが勝手だし、いつ殺しに来るのも自由だが、『ビジネス』とはどういうことなんだ? 大体、なんでアタシが『ノーベンバー』にいた事を知ってる?」
鉄腕は手を挙げたまま、ランスの前にあるソファーに座った。ランスは銃を下ろす気は無いらしく、しっかりと鉄腕の頭を捉えていることが分かった。
「ICPOの情報ネットワークでお前がこの国に居るのは分かった。後はまぁ、足で稼いで居所を突き止めたんだ。何せお前は有名人だからな」
ランスはタバコの箱を左手で引っつかみ、飛び出した一本をくわえた。左手で胸のポケットをまさぐるが、どうやらライターが見つからないようだった。
「火、あるか」
鉄腕は愛用の長いマッチを取り出し、ランスの紙巻タバコに火をつけてやる。ランスはうまそうに煙を吐いた。デリカシーのない香りだ、と鉄腕は思った。
「アンタがICPOの捜査官なんざ、世も末だな。一体いくら積んでマフィアとの癒着を見逃してもらったんだ?」
そもそもこのランス警部というのは曲者で、マフィアと癒着して小金を引き出したり、犯罪を揉み潰したりするような悪徳刑事だ。とてもじゃないが、ICPOで強権を持てるような清廉潔白さもないし、取り立てて優秀というわけでもない。鉄腕を目の前にして取り逃がしてしまったこともあるのだから、なおさらだろう。
「癒着だあ? 人聞きが悪い奴だな。そもそも、俺が捜査官になったのはお前がマフィアの連中を皆殺しにしちまったのが原因なんだぜ。お陰で出世させてもらったけどな」
「アタシはイタ公のクソッタレマフィア共を殺した覚えはないがね」
「黙ってろくそ売女が。お前が殺ったんだよ、鉄腕。俺は大量殺人犯のお前を正当に追っかけるためにここにいるんだ。お前にはバックに金持ちのパトロンがいるらしいが、俺がちょっと言えばお前もそのパトロンもただじゃすまねえ。四十人も殺っちまったら、俺が今ここでてめえの頭をぶち抜いても誰も文句なんて言わねえんだ」
なるほど、どうやら鉄腕が揉めてランスが癒着していたマフィアは、鉄腕に皆殺しにされたらしい。そうして凶悪犯としてICPOのリスト入りした鉄腕を、事情に明るいランスに任せた、というところだろう。
「なるほど、アンタの言い分は最もだ。じゃあ、ビジネスってのはなんだ? 小遣いでもくれるって言うんなら、その金で女でも買ったほうが得だぜ。ラテンの女は情熱的なセックスをしてくれるからな」
銃を突きつけられているこの状況で、フェアなビジネスができるとは思わない。いい加減、手も痺れてきた。そうでなくとも、鉄腕の右手は鉄製で重いのだ。
「いいだろう。いい加減こっちも銃が重いんでな。手短に言う。組織からもらう金をよこせ」
「大きく出たな。それで、アンタは何をしてくれるんだ?」
「情報をやる。何を頼まれたかは知らないが、依頼はあったんだろ? なにせこっちには地元警察も黙らせられる捜査権があるからな。悪い話じゃないはずだ」
鉄腕は動いた。右手を下ろし、ランスのタバコの火をねじり消した。左手では、ランスのスミス&ウェッソンのリボルバーを掴んでいる。トリガーをいくら引こうがびくともしない。
「お断りだ、。アタシと仕事がしたいなら、もっと謙虚になるんだな」
「お前、俺を敵に回してまともに仕事が出来ると思ってるのか?」
「ああ、思ってるぜ。その代わり、アンタにはアタシが殺したっていう人間の四十一人目になってもらわなきゃならないがな」
そういうと、鉄腕は右腕をテーブルにひっかけてひっくり返した。灰とスコッチ・ウィスキーが宙を舞う。ランスの銃は押さえつけられていた左手から解き放たれ、トリガーが二回引かれた。ガラスのテーブルに一発。二発目でガラスのテーブルは真っ二つに砕け散った。割れ目から伸びたのは鉄腕の右手。ランスが気づくよりも先に、鉄腕の右手はランスの左手首を掴むと、そのまま握りつぶした。みちみち、という音がしたかと思うと、ランス自身にも聞こえるくらいの音でぼきりと鳴り、ランスの手首はあらぬ方向に曲がっていた。
「がっ」
激痛に耐えられず、思わず前かがみになったランスの顔に、再び右手をふるってビンタをくらわせた。折れた歯が何本か飛んで、ころころと転がった。ランスは今度は後ろにのけぞり、ソファーに倒れこんだ。鉄腕も、何事も無かったかのようにソファーに座り、葉巻で一拍置いた後、激痛に顔をゆがめるランスの胸倉を掴んだ。
「リボルバーなんて、アタシから言わせればおもちゃだぜ。アタシを殺したいんなら、遠くからライフルで頭をぶち抜くことをお勧めするね」
鉄腕はうめき声をあげるランスを尻目に、コートを羽織ると部屋を出て行った。外には、先ほどの銃声を気にしたのか数人の従業員が立っていて、不安そうな顔をして鉄腕を見つめていた。
「面白い映画だったぜ。ちょっとスピーカーの音がデカかったがな」
ロイヤルスイートのドアは、なんと両開きだった。先ほどとは違って、扉の先にはクリスがいる。セクシー美女ではないにしろ、クソポリ公よりはるかにマシだ。カードキーを通し、扉を開ける。夜の十一時も過ぎているので、まずクリスは寝てしまっているだろう。ノーベンバーにいたバニーでも呼べば、まあ鬱憤は晴れる。幸い経費も落とし放題なのだから、十四階のスイートでも取ればいい。一晩のお遊びには勿体無いくらいだろう。
「クリス、寝てるのか」
まるで、中世の城に迷い込んだような装飾の部屋だった。落ちたら間違いなく潰れて死んでしまうような大きさのシャンデリアがぶら下がり、いかにもデザイナーの自己満足の塊です、とひたすらアピールするような奇天烈な机やイスが置かれ、机の上にはフルーツ盛りだったものがいくつかの皿とグラスと共に転がっていた。じゅうたんはやけに縞々だと思ったら虎の剥製だった。鉄腕は、ちょっと部屋選びを失敗したのではないかと思った。ロイヤルスイートがここまで悪趣味で居心地が悪いとは思わなかったのだ。まさか、内臓を無くした虎の目の前でセックスする気になどなれない。鉄腕はこの虎がオスかメスかはわからなかったが、せめてメスであることを願った。
「寝てるのか」
まさかと思いつつ寝室への扉を開くと、案の定天蓋式のダブルベッドがでん、と姿を現した。既に天蓋は降りていた。が、おかしい。エアコンは効いていて寒いくらいなのに、天蓋のカーテンレースは揺れている。それも、そよ風に揺れているなどというようなレベルではない。大きく波を打っている。ベッドの奥の展望強化ガラスが、割れている。人一人通れるくらいぽっかりとあいたガラスから、風切り音と共に、夜の黒い風が強く吹き込んでいるのだ。
「おいおい、マジかよ」
カーテンレースをめくると、そこにクリスの姿は無かった。冷たいベッドの上には、クリスの代わりに大きな鉤十字が赤い液体で描かれていた。
5
ランスはホテルの紹介で歯医者に行き、折れた三本の歯をなんとか修復した。左手首は包帯でぐるぐる巻きのうえ、ギプスまでつけるハメになった。ひりひりした痛みが歯の奥で麻酔に殺されていると思うと、情けなさと同時に鉄腕に対する怒りがふつふつと沸いてきた。せっかくいい儲け話を振ってやったのに、恩をあだで返すとはこのことだ。ランスはイライラしながらマルボロの箱を取り出し、こつこつ指で箱をたたく。出てこない。くしゃくしゃに握りつぶし、毒づきながら投げ捨てた。
「ゴミを捨てるのはよくありませんよ」
暗い夜道に転がるマルボロの箱に、すらりとした女の右手が伸びた。切れかけた電灯が照らす先には、深緑の動きやすそうな服に金髪の女が立っていた。しかし奇妙なことに、左肩には黒いマントがかかっており、左腕を覆い隠している。
「なんだあ? その格好は何の冗談だ?」
「冗談ではありません。この服は制服なものですから。それより、あなたランス警部ですよね? あの鉄腕と因縁があるとかお聞きしましたが」
カツカツ、と黒いブーツを鳴らしながら女が近づいてくる。良く見ればランスよりも小柄だ。深緑の服の襟には『SS』の紋章が刺繍されている。ランスは学生時代からあまり勉強は出来なかったが、この紋章は知っている。悪名高いナチスドイツのエリート、武装親衛隊の紋章だ。
「なぜそれを知ってる?」
何が面白いのやら、女は暗がりで口を歪めた。
「実は、先ほどの騒ぎを聞いておりまして。私の組織なら、ランス警部をお助けできると馳せ参じた次第です」
「ナチ公が俺の手助けをしようってのか? ごめんだね。主義主張じゃ腹はふくれねえ。お前らみたいな怪しい奴に関わってメリットがあるのか?」
女は、まるで断られることを考えていなかったかのように、まぁと声をあげた。
「おかしなことをおっしゃるのですね。まるで私どもが主義主張の押し付けをするために現れたみたいなことを」
そう言うと、女は左胸のポケットに手を突っ込み、まだ開けていないマルボロの封を切ると、たばこを一本ランスに差し出した。ランスは怪訝そうな顔をしながらも、それを無事な右手で受け取り火を付けた。治療した歯に煙が染みた気がした。
「私どもが提案するのはビジネスです。それ以上でも以下でもありません」
「いくらくれるんだ」
女は再び口を歪め、ニヤニヤと笑みを浮かべる。ランスはその笑顔が鉄腕とダブり、何とも不愉快な気分になった。
「汚職に手を染めることに気分を悪くなさらないのですね」
「まあな。清廉潔白を装うには小汚なすぎるし、悪ぶるにも限度ってもんがある。俺は小ずるく小金を悪人共を脅して稼がせてもらってるのさ。汚職なんぞ俺にとっちゃあ、小遣い稼ぎと同じさ」
マルボロの煙は黒く夜にとけていった。女は路地の電気スタンドに照らされていた。三白眼気味の眼と、やたらと白い肌が、ランスにはなんとなく不気味だった。まるで、戦争の時から蘇ったゾンビを見ている気分だった。
「で、いくらくれるんだ」
「五万ドル。もちろん現金です」
「勝算はあるのか。相手はどんな組織だろうが売られた喧嘩を全て買う女だぜ」
「あります。それも二つもね」
「それじゃあ聞こうか」
ランスではない。ナチ女でもない。薄暗い路地にもう一人の女。夜風に流れる茶色のコートに咥えた葉巻は、見間違えるはずもない鉄腕その人だった。
「クリスがさらわれたんだが、アンタ何か知らないか?」
「俺は違うぜ、鉄腕。お前のせいでとんだ大怪我さ。今の今まで治療してた。つまりお前んとこのクソガキのことなんざ知らんね」
「そちらのナチかぶれのレディは?」
女は目を伏せていた。お前に見せる顔などないとでも言いたそうな雰囲気だった。
「なぁレディ、ひとつ聞くが、あんたはアタシが泊まってるロイヤルスイートの窓をぶち破って、がきんちょを一人さらっていかなかったか?」
鉄腕は背が高い。ちょうど、女を見下ろせるくらいだ。女は目を伏せたままだった。近くまで来ると、ちょうど女のつむじが見える。依然として、女が顔を上げる様子は見られなかった。
「イエスと答えたらどうするんです?」
「選択肢が二つ残る。アタシとベッドの中で洗いざらい話してもらうか、今ここで洗いざらい話してもらうかだ」
「どちらもお断りですね。死んでもらいますよ」
女はマントを翻す。鉄腕は一瞬視界を奪われたじろいだ。右腕で振り払う。突然ナイフが鉄腕を狙ってまっすぐ飛んでくる。鉄製の義腕で防ぐが、なんとナイフが突き刺さっている。高い防弾性を誇る、鉄腕のコートも難なく貫いているのだ。
「驚くのはまだ早いですよ」
左肩のマントを取ると、女の左腕が現れた。その左腕は明らかに人間の物ではなかった。鉄腕のものよりゴツく、不恰好な、機械の左腕。上腕には、ご丁寧にナチスの鉤十字がデザインされていた。女が右手で鉤十字のマークを回すと、今度は『+』マークに変化した。
「戻れ」
女の左手が赤く光る。すると、鉄腕に突き刺さっていたナイフが抜け、吸い寄せられて女の手に納まったのだ。
「ショボいマジックだな」
鉄腕は白い右手袋をはずし、コートとYシャツの裾をまくる。義腕が姿をあらわした。だが、様子がおかしい。振り上げた義腕が動かないのだ。まるで、空中に固定されているかのように動かない。
「驚きましたか? 私は磁力を操ることができるのです」
女は再び左上腕の『+』マークを回す。今度は『-』マークに変化した。女の手のひらが赤く光り、地面に触れると、鉄腕の右腕は今度は巨人に押さえつけられたかのように地面に吸い寄せられ、体ごと這いつくばってしまった。
「まぁ、あまり長くは持ちませんが……殺すには十分なものでしょう?」
女は冷たい表情と三白眼を動かしもせず、腰のナイフを抜き、鉄腕の顎に突きつけた。久々のナイフの感触は、想像以上に冷たかった。
「私というカード一つで殺れるのなら、もう一枚のカードはいりませんでしたね」
「やっぱりお前がさらったのか」
頬に伝わるアスファルトのじゃりじゃりとした感触が、鉄腕にはひたすら不快だった。
「ええ。子供をダシにして基地まで誘い込めば確実に始末できますからね。……ランス警部、先ほどの五万ドルの話は無しにしましょう。もう鉄腕の命は無いのですから」
鉄腕の顎にナイフがすべり、ナイフと逆にどろどろとした暖かい血が一滴たれたそのとき、鉄腕は普段は信じもしない神に祈り、自分を呪った。もはや助かるには方法は一つしかないのだ。
「警部! アタシを救え! 組織からもらう金は五万ドルだ。アンタにそっくりくれてやる!」
鉄腕のみじめな様に、侮蔑を込めた表情で女は見下ろしていた。
「無様無様。これだから国なしは困りますよ。自分の都合の良い時だけそんなことを言う。恥を知りなさい、このゴミ虫が」
「いいや、恥を知るのはお前だぜ、ナチ公」
女の後頭部に、ずしりとした感触があった。ランス警部が、おそらく拳銃を突きつけている。女はそれをすぐに理解した。
「そんな馬鹿な……。私の組織を敵に回すというのですか」
「おーいおい、そもそもお前は大きな間違いをしてるぜ。俺みたいなゴミ刑事をロハで味方につけられると思ってるのか? 消えな」
女は両手を上げ、そろそろと鉄腕からはなれる。
「後悔しますよ」
女はマントを拾うと、苦々しい表情を浮かべながら闇夜に消えていった。
「話はホントだろうな」
寝室が使い物にならなくなったロイヤルスイートで、鉄腕とランスは上等のスコッチ・ウィスキーの栓を開けた。鉄腕は顎の切り傷がちりちりと気になったが、ランスとのビジネスを優先することにした。正直なところ、酒の勢いもあったかもしれない。何しろ、二人の間柄は『マリア』という一人の女で否定的に繋がっていたものだったから、せめて今だけは確定的な契約にしておきたかった。
「ああ。アタシはノーベンバーの『組織』から、やつらのねぐらを見つけて、ボスの顔を拝んだら五万ドルくれるって約束をしてる」
「信用はできるのか?」
お前もな、クソ警部。鉄腕はそう思いながら手の中のオンザロックを揺らした。琥珀色の液体が揺れ、ロックアイスがカチカチ、と上品とは言えない音を立てた。
「させるさ。アタシの名前に賭けてな。……で、アンタはどうだい警部?」
「何?」
ランスも一杯スコッチを煽る。意外と酒は強いらしく、悪趣味なテーブルに叩きつけたグラスには、ロックアイスしか残っていなかった。
「アンタは信用できるのかい? アンタはくわせもんだ、警部。さっきは助けてもらったが、二度も三度もそんな気になるかい? アタシはアンタにとっちゃ娘の仇だぜ」
「お前は俺に五万ドルくれる。俺はお前に協力して、今回は見逃してやる。簡単なことだ。お前が俺に不利になることをしゃべらなきゃいい。それさえ守れば協力してやるさ。金のためにな」
ランスはマリアのことに対して文句ひとつ言わなかった。どうやらこの警部は、悪徳なことに関しては一流のようだった。金さえ絡ませれば、裏切らない。逆に、金が手に入らないと分かれば、鬼畜同然の方法で鉄腕を裏切るだろう。このランス警部は、そういう男だった。
6
「それで、どこから調べをつけるんだ?」
ホテル『エル・シカゴ』のロビーには、落ち着いたクラシックが流れていた。鉄腕とランス警部は題名も分からないクラシックをBGMにコーヒーを煽っていた。ICPOのリストと情報網を頻繁に使うわけにはいかない。かといって、地元警察は当てにならない。『組織』とグルなのだから、日ごろワンマンでやっている鉄腕の信用問題にも関わるのだ。
「当てはねえ。だが、アタシのプライドにかけて今日中に何とかする。ただ、今度のヤマは面倒なことになりそうだからな。手段は選んじゃいられねえ。で、地元警察を黙らせるのはアンタに任せるぜ」
ランスはコーヒーを飲み干すと、タバコを灰皿に押し付け肩を揺らしながらでていった。鉄腕も携帯を取り出すと、ボタンを操作する。コール音が九回目で相手が電話を取った。
『ハロー』
「よう、元気かゴードン。電話でのサービスはまだやってるのか」
『何よ、電話でのサービスって。あたしも海外の事まで調べるほど暇じゃないんだけど』
ゴードンは若干不機嫌なようだった。今日もまた、あのアメリカのボロい中華料理屋で儲からない商売をやっているに違いない。尤も、ゴードンにとってみれば鉄腕はいい金づるだ。こうして電話をする事に感謝してもらいたかった。
「実はな、ネオナチ集団『第四帝国』のアジトを知りたいんだ。だが生憎、アタシは南米じゃ知り合いがいなくてな。アンタの知り合いで誰かいないか?」
うーん、とうなる声が電話口から聞こえた。情報屋というのは危険が多い仕事のため、地域ごとに毛色の異なる人物が担っている。ホームレスから子悪党、公務員なんかもいる。当然、同業者で集まったり交流したりは難しいし、恨みを買わないためにも接触自体を避けるほうがほとんどだ。
『しょうがないわね。あんまり紹介したくないんだけど、アタシの魂の兄弟がサンタ・マキアのスラムにいるわ。名前はエドワードっていうの。年は食ってるけど、腕は良いのよ』
「助かるぜ」
『それより、あんたツケをちゃんと払いなさいよ。たまってるんだか……』
ゴードンが全てを言い終わるには、後二時間は必要だろう。鉄腕は親切なことに、そうなる前に電話を切った。
どこの国にも治安が悪ければスラムというのは存在するもので、サンタ・マキアもその例外ではなかった。一応観光都市として売っているこの街でも、きらびやかな世界がある限りゴミためはあるのだ。レストランにゴミ箱が無かったら、客は安心してメシが食えないのである。鉄腕は吸い終わった葉巻を右手でつぶし、携帯灰皿に入れた。今この通りにいるのは、どこかの家の扉の前でうずくまっている爺だけだった。
「エドワードってのはこの辺にいるのか?」
鉄腕は昼間から酒を煽っている小汚い爺に聞いた。どうやら、昼間この辺はあまり人がいないらしい。ひたすらゴミが転がっているだけだ。
「さァな。おれっちは知らんぜ」
爺は空になりかけのウォッカの飲み口を振り、ちゃぷちゃぷと残りを確認した。息はアルコールでほとんど出来ているのではないかと錯覚してしまうほど臭かった。
「そう言うなよ、爺さん。別にロハとは言ってないぜ」
鉄腕は懐からおもむろに千ペソ札を差し出した。爺はそれを奪い取ると、ポケットに入れた。どうやらこの街にはごうつくばりしかいないらしい。
「分かったよォ。……で、何が聞きたい?」
「エドワードってやつの居場所だよ。ボケてんのか?」
鉄腕が胸倉を掴む。爺はまるでフルーツの入っていないバスケットのように軽かった。爺が赤ら顔をさらに赤くしているのを見て、鉄腕は彼を下ろしてやった。
「ひでえねェちゃんだなァ。まだわかんねぇのか? おれっちがエドワードだよ。付いてきな。ゴードンの野郎から話はきいてらァ」
エドワードはふらふらしながら立ち上がり、自分が座り込んでいた扉を開け、鉄腕を招き入れた。中は小汚いベッドと薄汚れたデスクが置いてあり、そこら中に酒瓶が転がっていた。デスクの上には消毒液や聴診器、メスや鉗子が無造作ながらきちんと手入れして置いてある。
「おれっちはモグリの医者でな」
鉄腕の視線を感じとったのか、エドワードが呟いた。
「当然、脛に傷持つやつらがゴロゴロやってくる。金もない奴もいる。そういうやつに限って、結構いい情報を持ってるわけだ。だからおれっちが治療費代わりにそれを買い取るってわけだなァ」
エドワードは歯がほとんど抜けてしまった口を歪めて笑った。アル中で歯もないような医者に治療を受けるとはお笑い草だ。だが、そうでもしなければ生きていけないアウトローがいるのも確かである。実際、鉄腕のこの腕もモグリの医者につけてもらったものなのだから。
「早速だが二・三聞こうか。第四帝国のアジトの場所って知ってるか?」
「ナチ公のアジトか。以前、FARC崩れを治してやった時聞いたことがあるぜ。やつらとナチ公は犬猿の仲だからな」
「そりゃあ助かる。一体どこだ?」
エドワードは手を差し出して、またニヤニヤ笑った。
「タダじゃ無理だぜ、ねェちゃん。こいつはおれっちの情報の中でも最高級品だ。いくらゴードンのダチ公でも、ハシタ金じゃあやれねェ」
鉄腕はコートの内ポケットから請求書を出し、エドワードに突きつけた。
「ここに好きな金額を書きな。言い値でその情報、買わせてもらうぜ」
ついでにボールペンを渡してやると、エドワードはそれをひったくり、がりがりと値段を書き始めた。ゼロを四つに五を一つ書き、鉄腕に渡す。
「なるほど。よっぽど自信があるようだな。アンタを信用するぜ。所で、アンタはそいつをきちんと回収できるのかい?」
「この世界は長ェからな。大統領からだってケツの毛むしってやるぜ」
エドワードはデスクの鍵付きの引き出しを開けると、コピーした地図を鉄腕に渡した。ゴードンの魂の兄弟は中々優秀なようだ。守銭奴なのも共通してはいるが。
「きちんとむしってやってくれよ。なかなか厄介なやつなんだ」
エドワードはそれ以外は何も言わず、どこから出したのやら新しいウォッカの瓶を開け、また直接ぐびぐびと飲りだした。
エドワードの家を出ると、鉄腕の携帯が光っており、メールの着信があったことを伝えていた。鉄腕の携帯には、多くの女性のアドレスが入っているが、そのどれにも該当しない新しいものだった。
『ノーベンバーのバニーのエリスです。 今日お会いできますか?』
鉄腕は葉巻を取り出し火を付けると、笑みを浮かべて携帯を閉じた。
クリスが目を覚ますと、天蓋付きのやたら豪華極まりないベッドは消えうせていた。病院のような味気のない狭いベッド。天井はコンクリート製なのか、冷たく固そうだった。部屋を見回しても、とてもロイヤルスイートには見えない。どうやら、またさらわれてしまったようだ。
「おなかすいた」
誘拐もなれてしまうと怖いことに、命とか体とかよりも先に、何日間か過ごすことになるであろう軟禁部屋の出来が気になってしまう。今回は、TVこそないものの、きちんとしたベッドがあり、粗末ながら椅子と机、天井に埋め込むタイプの冷房も完備してあった。なかなか待遇がいい。これで冷蔵庫とその中身まで完備されていれば言うことはないが、さすがにそこまではなかった。今何時なのか分からないが、とにかく腹が減っている。何か運んできてもらいたいところだ。がちがちと扉のノブを回してみるが、反応はない。
「早く迎えに来ないかな」
クリスにとって、誘拐は面倒なイベントみたいなものだった。生まれたとき、赤ん坊の時に誘拐され、その組織にいたとき誘拐され、またその後の組織でも誘拐された。恐らく、誘拐した組織には色々と理由があったのだろうが、大抵の場合その『理由』を達成することなく別の組織に誘拐されてしまっている。親も知らず、友人もいない。皮肉なことに、処世術と知識量は同年代の人間の三倍は優れているが、鉄腕に庇護されるようになってからも、たまに行かなくてはならない健康診断のように誘拐されている。クリスにとって非常に面倒極まりないことだった。そんな過去の事を考えつつ、クリスがベッドに体を投げ出し、頭を切り替えて今日の食事のことを考えていると、鉄製のドアがどんどんたたかれ、鍵を開ける音と共に、ぎいいと重く扉が開いた。
「良く眠れたようですね、お嬢さん」
緑色の軍服に、左肩にマントをかけた金髪の女性が、優しく語り掛けてきた。
「僕が良く女って分かりましたね」
「君の保護者の事はよく調べてあります。……それに、私も女ですから」
金髪の女性は、特に何も持っていなかった。クリスはてっきり彼女が食事を用意してくれるものと思っていたので、心底がっかりした。クリスが唯一幸福を感じるのは、胃を食物で満たすことなのだ。それを回避できるかと思いきや、期待をはずしてしまった。
「ところで何か用ですか。僕はおなかがすいているので、特に用がなければご飯をいただきたいのですが」
女性は、皮のグローブを嵌めた右手で髪を撫で付けると、特に表情を変えることなく口を開いた。
「我々『組織』の総統閣下が一緒に食事をしたいそうです。こちらへ」
マントを翻し、女性はこつこつブーツを鳴らしながら歩き始めた。どうやらついて来いということらしい。手錠や縄もかけないなんて、素人以下だ、とクリスは思った。最も、クリスが逃げる気などさらさらないということが分かっているのかもしれないというのなら別だが。
「窓がない」
小奇麗な赤い絨毯こそ敷かれてはいるが、奇妙なことにこの建物には窓がないようだった。時々、抜けるような青空の描かれた絵や、鉤十字のマークが染め抜かれた旗が掲げられていたものの、窓は一枚たりとも無かった。それに、もうひとつ奇妙な事があった。建物は広いようだが、人がどうも少ない。二・三人、昔本で見たドイツ軍の歩兵みたいな格好の男たちとすれ違ったが(しかもご丁寧に女性に向かって敬礼をしていた)、それにしたって人が少なすぎる。クリスは、年齢にそぐわない集中力と分析力でこの奇妙な建物の疑問を増やしていったが、それを解決しようとは考えていなかった。何にしたって腹が減っているのだ。
「ここです」
女性が両開きの木製の扉を開くと、その部屋は妙に明るかった。今までのような人工的な光ではなく、太陽が直接照らす暖かな光だった。天井を見上げると、はめ込みガラスから光が漏れていた。何十メートル上なのだろうか。もしかしたら、それよりも高いかもしれなかった。
「総統閣下、お連れいたしました」
大きな鷲が羽を広げ、鉤十字のマークを掲げた下に、火の入っていない暖炉があった。側には、高そうな立派なデスクと、見るからにふかふかの赤いソファーが暖炉に向かって二つ設置されていた。その間から、豪華な食事の載った背の低いテーブルが見えた。
「ご苦労。下がってよいぞ、少佐」
高い少年の声だった。クリスが贔屓目に見ても、『総統閣下』などというご大層な身分には似つかわしくない声だった。ソファーに座っているようだが、ちょうど扉から背を向けているので、見えない。
「座りたまえ、お嬢さん。一緒に食事をしよう。腸詰めはお好きかな?」
いつの間にか女性はいなくなっており、扉も閉まっていた。クリスはきょろきょろしながらソファーと料理に近づき、ソファーに座った。目の前には、金髪で目つきの悪い少年が座っていた。女性と似たようなデザインではあるが、クリーム色のカラーリングの軍服を着ている。
「あなたが総統?」
「いかにも。余がこの『組織』の総統だ。起きたらここで驚いたことだろう。すまなかったね」
身長もクリスとほとんど変わらないし、声もまだ声変わりをしていない高い声だった。だが、妙に態度が大きく、またそれに違和感を感じなかった。それだけ長く生きている気すらする。
「余は腸詰めが好きでな。君の口に合えばいいのだが。飲み物はミルクで良かったかな?」
「おなかに入ればなんでもいいです」
ナイフとフォークが皿にこすれるかちゃかちゃとした音だけが、妙に広い部屋に響いていた。マッシュドポテトを口に運び終えると、クリスは口をナプキンで拭き、ミルクには手を付けず、ミネラルウォーターをがぶがぶと飲んだ。朝食にしては脂っぽいので合わないと思ったからだ。
「……いくつか聞いてもいいですか」
「質問を許可しよう」
「なぜ人さらいを?」
総統はミルクを一杯煽り、口を開いた。
「余は鉄腕に用がある。あの国なしが装備している義腕にな」
「おびき寄せるためということですか」
「その通り。あれに使われている技術は、我々第四帝国のものを遙かに超えている。やつを始末してあの義腕の技術を奪えば、今後の兵器開発に役に立つ。それに」
「それに?」
「余は国なしが目の前をうろちょろしているのが気にくわん」
総統は苦々しく顔を歪め、ミルクをもう一杯煽った。
「じゃあもうひとつ」
「何かね」
「ここはどこなんです?」
「場所は言えんね。ひとつヒントを言うなら、この鉄狼の巣は我が第四帝国の総本山だ。地下に存在する基地ゆえに、侵入は容易ではない。地上までは簡単にたどり着けるようにはしてあるが、地下の余の所まで来るのは無理だろうな。始末されることであろうさ」
まるで楽しみな休日を思い浮かべる少年のように、総統はくすくすと笑みを浮かべた。彼は三度ミルクを煽ると、空になったコップをテーブルに置き、少し前のめりになった。
「ところで、余も聡明なお嬢さんに質問をしたい」
「お嬢さんと呼ぶのはやめて欲しい。クリスでいいです」
「ではクリス。鉄狼の巣は広かったろう。だが、余が思うに君はこう考えているはずだ。『何故こんなにも人を見ないのだろう?』とな」
図星だ。眼光と同じく、総統のカンは鋭いようだった。
「どうやら図星のようだな。確かに、我が第四帝国の本部の構成人数は十人ほどしかいない。だが、余が願っているのは第四帝国による世界統一国家の設立。問おう、クリスよ。余の願いは叶うと思うかね?」
無理だろう。クリスはそう一蹴しようと考えた。が、総統の顔には絶対の自信が満ちているような笑みが浮かんでいる。そんな彼に対して、一概に無理だと一蹴するのはなんだかこちらが間違っているような気さえした。
「余は無理だとは思わん。もう昔のように、大げさな部隊や大量の党員もいらん。大半がコンピュータやインターネットによる効率化で対応できる。主義主張を大声で叫ぶ必要もない。一人の人間が、掲示板に話題を提供し操作してやれば、何万人もの支持者が生まれる。よって姿すら我々には必要ない。要は、我々の意思に賛同する人間がどのような形であれ増えればいいのだ」
「実際準備はできているんですか」
「もちろんだ。我々はコロンビアを足掛かりにして国家を築く。余がこの体で中年になるころには、第四帝国による世界統一国家は成るであろうな」
間抜けな話だ、とクリスは思った。フィクションの世界でもあるまいし、そんなことが簡単に成るはずも無い。世界征服というものは、いつでも誰かに邪魔されるのがオチだ。フィクションでもノンフィクションでも、それは変わらない。
「人は目の前にぶら下がる人参を見逃そうとする。それは怪しさを感じ取るからだ。我々はビジネスという形でその怪しさを払拭する。実際に利益も与えればもっと良い。我々に賛同する財界人は、前大戦から半世紀以上過ぎた今でも存在するから、それはさらに容易なのだ」
総統はソファーに座りなおすと、こほんと咳払いをした。どうやら話しすぎたようだった。尤も、クリスにとってみれば取るに足らない、夢見がちな少年の妄想話でしかなかった。興味もさして無い。ただクリスは少しだけ彼をうらやましく思った。なぜなら、クリスには彼ほど熱く語れる夢など思いつかなかったのだ。
7
ランスはサンタ=マキア県警の本部長室から出ると、がりがりと頭を掻いた。話にならなかった。コロンビアという国は警察組織とアウトロー、そして革命組織FARCが強く結び付いている。政治組織も言わずもがなだ。つまり、よそ者のランスに話すことは何もない、というわけだ。もちろん、資料室をあさるなどの調査は許してくれたが、アンダーグラウンドの組織が正式な文書を残しているわけがない。ようは、サッカー好きに野球のプレミアチケットを渡すようなものだ。
「なぁーにがICPOだ。ただの刑事より劣るぜ」
暗い資料室の扉を開けると、埃っぽい空気が流れ出て、頻繁に開けているわけがないであろうことが容易にうかがい知れた。本にたまった埃をなぞると、白い線が浮かび、あわてて振り払った。
「なんだいあんた。ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
声がしたほうに振り向くと、丸メガネをかけ、ひげを伸ばし放題に生やしたもやしみたいな中年男が現れた。とうとう幽霊でも現れたのかとも考えたが、どうやら人間らしかった。
「実は関係者なんだ。あんたと会うのは初めてだがね」
懐からICPOのバッジを取り出し、男に見せた。あまり反応はない。それもそのはず、ICPOの捜査官は現在ランス一人しかいないのだ。よってその身分を示すバッジもこの一つだけ。知名度ゼロなのだから、男がいぶかしむのも無理はない。
「ICPO? 冗談だろう?」
「俺は冗談は苦手でね。あんたはここで働いてるのか?」
ラテン系の浅黒い男だったが、少なくとも陽気な感じではなかった。むしろ暗いくらいだ。男は丸メガネをかけ直すと、長いひげをさすった。
「まぁね。昔は刑事だったんだが、今じゃ資料室の番人だよ」
「ちょうどいい。あんた、この街に潜伏してるっていうネオナチのことについて何か知らないか。上のやつらにも聞いては見たんだが、歯切れが悪くてな」
男は再びひげをさすると、資料室の奥へと足を進めていった。ランスも男に続いて歩みを進める。すると、日焼けして茶色くなった古いパソコンが机の上に乗っていた。
「私の唯一の楽しみだ。中古品だがメイド・イン・ジャパンでね。インターネットにもつなげられる。お陰で退屈はしてないよ」
マウスを男がいじくると、画面が立ち上がった。かちかち、と軽快に操作し、とあるSNSサイトのコミュニティのホームページにたどり着いた。
「『Herzlich willkommen der Vierte Reich』 おーいおい、なんだこりゃあ。いつからやつらはホームページなんぞ開くようになったんだ?」
丁寧に作られたホームページで、デザインもなかなか凝っている。サーバーは海外にあるようだった。契約者は第四帝国の人間だろうが、おそらく末端の構成員もいいところだろう。調べるだけ無駄になりそうだった。
「結構最近にできたんだ。私の友人にも、このコミュニティに所属している人はたくさんいる。ほら、ここを見てくれ。今のコロンビアを立て直す具体的な政治プランも掲示してある。彼らは私達を救ってくれるはずだ」
盲信的な物言いだった。刑事をやっていると、こういう他人に依存するしかない人間を相手にすることが多い。彼らは自分は何もしない、しようとしない癖に、他人のすることには口を出す。自分のことにも関わらずいつも他人事だ。多分に漏れず、ランスはこの手の人間が死ぬほど嫌いなのだった。
「なるほど。よくわかったよ。邪魔したな」
「君もよければ参加しないか。参加するだけでいいんだ」
「お断りだね。俺は俺のもんだ。主義主張の肥やしにゃならねえ」
ランスが入口までいくと、埃がそれを歓迎するように舞い上がった。ランスはそれを振り払うと、壊れんばかりの勢いでドアを閉めた。
鉄腕は、エル・シカゴ十四階のスイートにバニーガールのエリスを招きいれた。メールでのやりとり数回で、ことのほか簡単に誘い出すことができた。小うるさいクリスがいない間に、楽しむだけ楽しんでおこうという魂胆だった。
「マイヤーさん」
「アンナでいい。その代わり、アタシもエリスで通す。OK?」
エリスは勤務中と違い、薄いブルーのワンピースを着ていた。どうにも子供っぽい服装だ、と鉄腕は思ったが、彼女のボディラインの強弱の違いと相まって、何ともアンバランスな妖艶さがあった。
「アンナ……でも、私……女の人とはその、初めてで……」
「気にするな。タイガーウッズだって初めは素人だったんだぜ」
エリスの腰に手を回すと予想以上に細く、なんだか折れそうな気さえした。
「ところでアンナ。私、あなたに聞いておかなくちゃいけない事があるの」
「お聞きしましょう」
「ボスに仕事を頼まれたんでしょう? 私とこんなことしていていいの?」
変な質問だった。確かにエリスはノーベンバーで働いている従業員だ。だが、いくら何でも鉄腕が仕事を頼まれたかどうかなんて分かるはずがない。鉄腕の正体を知っているのならまだしも、ちょっとやそっとじゃ分からないはずだ。一発で分かる右の義腕はまだ見せていない。
「それを聞いてどうするんだ」
「ボスに言われたのよ。ハッパをかけてこいってね。正直なところ、ボスはあなたをあまり信頼してないみたいなの」
「なるほど。それで扉の前に大勢で見張りに来てるのか」
まるでその声でオートロックが外れたかのように、扉が乱暴に開き、黒いスーツの男三人が拳銃をこちらに向けてくる。鉄腕はエリスを突き飛ばすとコートを巻きつけた。案の定黒服達は躊躇せずトリガーを引く。なるほど伊達に訓練を受けているわけではないようで、後ろに一発も逸らさせることなく確実に当ててくる。ただそんな几帳面な銃弾たちも、特製の防弾コートに阻まれむなしく床に落ち、鈍い音を立てた。
「先に撃ったのはお前らだぜ」
鉄腕はなおもトリガーを引き続ける男たちに接近し、一人の男の顎を掴み、そのままひねった。木材を叩き折るような音がなり、その男は拳銃を落とし手をだらんと投げ出したかと思うと、そのまま倒れた。二人目の男はまたぐらに蹴りを叩き込み、うめき声を上げる間もなく前かがみになった顔にショートアッパーを叩き込む。鼻が折れたのか、盛大に鼻血を出した男に、ひざを叩き込んでやる。これで一丁上がりだ。
「さあて、どういうことか教えてもらおうか?」
一人残った男はトリガーに指を入れたままこちらの眉間に照準を向けたままだった。降ろす気はなさそうだ。鉄腕は葉巻を取り出し、マッチで火をつけた。
「おい、動くな」
「なんだ、喋れるのか。言っておくがアタシがここで怪我のひとつでもしてみろ、裏切り行為になるんだぜ。ちゃんとディエゴの許可は取ったのかい? それともキャラメル作れそうなくらい耳糞が溜まってるんじゃないだろうな」
葉巻の煙が宙を漂う。男は一向にトリガーに指をいれたままだった。鉄腕はゆっくりと男に近づいた。コツコツと音を立てる靴に、サングラスをかけた黒服の男は緊張しているようだった。
「やめとけ」
鉄腕が男の持つオートマチック式の拳銃のスライドを掴み、乱暴に引き抜いた。小さなスプリングやら部品やらが周りに飛び散る。オートマチック式拳銃はデリケートな作りだ。当たり前だが、スライド部分を抜かれたら発射する事は出来ない。
「教えてくれるよな」
男は観念したようで、へなへなと壁によりかかりうなだれてしまった。情けない野郎だ、と鉄腕は呆れ、ついでに葉巻の煙を吹きかけてプレゼントしてやった。
「お前は幸運だぜ。さっきの二人は最悪バラさないといけないが、お前はまだ生きる道があるんだからな。ディエゴはどういうつもりでお前らをけしかけてきやがったんだ?」
「し、知らん」
鉄腕はゆっくりとシルクの右手袋をはずし、肘までコートとシャツを捲くると、男の顔の右隣の壁に自慢の鉄義腕を打ち込んだ。鉄腕の右腕はとんでもない腕力を秘めている。ホテルの壁など、ドーナツの穴を開けるくらいたやすいのである。
「そうか。悪いが、次はお前の顔がこのホテルの壁と同じになるな。お前のお袋でも見分けがつかなくなるぜ」
ぽっかりと黒い穴が開いたホテルの壁を見て、冷静かつポーカーフェイスでいるように訓練されているのであろう黒服の男も、さすがに青ざめていた。
「そこまでだ鉄腕。理由は私が話そう」
扉が飛ばされた入り口から、ケバケバしい紫色のスーツを着たディエゴが、明らかに応援と思われる黒服を数人連れて現れてきた。なるほど、ここまではどうやらディエゴの予想の範疇らしかった。
「実は君に頼んだ依頼なんだがね。キャンセルさせてもらうことにした」
相変わらず神経質にそして無表情に、ディエゴは櫛で髪を撫で付けていた。
「どういう経緯でそういうことになったんだ? 葬式か? それとも妹の結婚式ってんじゃないだろうな。申し訳ないが、アタシは祝い金を出せる程今手持ちがないんだ」
ディエゴは胸ポケットから紙巻タバコを出し、すかさず部下に火をつけさせた。やけにあまったるい臭いがした。前に吸っていたシガリロといい、やけに女っぽいタバコが好きならしい。
「……実は『組織』の規模は大きくてね。ノーベンバーもそうだし、このホテルエル・シカゴも我々が一枚噛んでいる。つまり、君がICPOとグルになって何かやろうとしていることももう分かっている」
「盗み聞きとは、随分趣味がいいことだな」
やられた。確かに、コロンビアのマフィアは何事も手広くやることで有名だ。それこそ、ドラッグの売買からホテル経営などなんでもやる。街全体が彼らの巣なのだ。部外者の人間に自由に金を使わせるのだから、監視の一つや二つあってもおかしくはない。
「だが、せっかく頼んだ仕事だ。どこまで進んだのか教えてもらおうか?」
「教えたら見逃してくれるのか? それは助かる。なにせアタシのおじいちゃんは心配症なもんでね」
今ここで結果を言うのは簡単な事だ。事実、鉄腕は第四帝国の基地を大体掴んでいる。しかもコートを漁れば、印刷された地図まで見つかるだろう。つまり、鉄腕が最悪いなくても、ディエゴは基地の位置は掴めてしまうのである。単に進行状況を聞くだけなら銃を持った部下をぞろぞろ連れてくるわけがないのだ。
「それは聞いてみないと分からんな」
ディエゴは足をかたかた鳴らし、タバコをふかした。顔ではポーカーフェイスを気取ってはいるが、イライラしていることが透けて見えるようだった。元来、それほど長く待てるタチでもないらしい。
「まぁまぁ、ちょっと待ってくれよ。こっちはレディを突き飛ばしちまったんだ。起こすくらいはいいだろう? アンタも紳士を気取ってるんなら、ちょっとはスマートに待ちなよ」
エリスは大きな瞳に涙を浮かべながら、カーペットに体を突っ伏していた。神様、神様とうわごとのように呟いている。そりゃあ、目の前で銃撃と流血騒ぎにあったわけだから、反応としては当然のことだ。ならないほうがおかしい。
「立てるかな、うさぎちゃん?」
「なんなのよ一体……。私は何も知らないわよ。ホント。ホントに何も知らないんだから! ボスから伝言を頼まれただけなのに……」
エリスがヒステリーを起こす前に、さっさと掃けた方がよさそうだった。珍しいことに、このエル・シカゴにはベランダがある。さすがはスイートといったところだ。鉄腕はエリスをひょいと抱えると、ベランダへ通じるガラス戸を開けた。
「動くんじゃない鉄腕。情報を聞いていないぞ!」
ディエゴのイライラは頂点に達したようで、珍しく声を荒げた。ここまで焦らせば十分だろう、と鉄腕は思った。何よりも、クライアントといえども自分を殺そうとするなら敵と同じだ。そこまでの仕打ちを受けて、黙ってホイホイ殺されるほど鉄腕は人間が出来ていない。
「ディエゴさんよ」
「何だ」
「チェックアウトにゃちょっと遅いが……さようならだ」
鉄腕はガラス戸を蹴り閉め、恐らく大理石で出来た柵に手をかけ、力を込めた。ぱきん、と思いのほか簡単に砕け、さらに柵を蹴り倒す。
「ちょっと……嘘でしょ?」
目もくらむ高さが眼前に広がり、エリスはただくらくらしていた。
「スプラッシュマウンテンの二倍って所だ。尤もアタシは行ったことないがね」
銃撃をBGM代わりにして、ふわりと飛び出したと同時に、エリスの顔は真っ青に染まった。
8
コンクリート打ちっぱなしの寒々しい部屋で、少佐は脂汗を拭き、心臓用の錠剤を飲んでいた。彼女の左腕は無骨な機械で出来ている。特殊な装置を使用することでマジックを起こすので、心臓に負担がかかるのだ。思えば、彼女の両親が熱心なナチズム信奉者だったのがまずかった。南米に渡り、事故で失った左腕をこんな風にされてしまうとは思ってもみなかった。もっとも、単なる外国人排斥と民族主義組織でなくなった第四帝国の事は、彼女は嫌いではなかった。時代に合わせて変わることは悪いことではない。あの総統は、まさに生まれ変わったのであろう。
「少佐、いらっしゃいますか」
初老の男の声が扉の外から聞こえた。第四帝国の本部に所属している兵士は、ほとんどいない。昔は『最後の大隊』なんて大層な名前がつき、それこそ一個中隊はいたらしいが、大抵は老人になってしまって退職している。いつの間にか冷戦は終わり、第四帝国が望んだ『漁夫の利』は成立しえなくなってしまったのだ。これが組織の体制の変化の原因の一つらしいが、少佐にはあまり興味がなかった。こんな体になったのだから、あの小さな総統の願いを叶えるという未来こそが、少佐の唯一生きる目的だった。
「待て、今出る」
コップを置き、マントをつけてから扉を開けた。
「どうした。何かあったのか」
「FARCの様子が変だ、と内部工作員から連絡がありました」
「馬鹿な。例のルートを通して、我々に対してちょっかいを出さないと契約を交わしたはずだ。くそアカどもでも約束が守れんわけじゃないだろう」
「……はい、それは確かに……。しかも、我々の基地の方角に進行をするとも」
どうにも状況は悪いようだった。しかし、なってしまったものは仕方無い。絶対侵攻不可能な鉄狼の巣。内部構造を知るものは、既に寿命で死んでいる。もちろんデータも存在しない。冷戦時代はイスラエルの諜報員が周りをうろついていた事もあったが、ついに一度も生きて返すことは無かった。地下の備蓄だけでも十年は戦える。大丈夫だ。
少佐の分析の半分は、自分勝手な願いに過ぎなかった。
「とにかく、私は総統閣下に報告をしてくる。迎撃の準備をしておけ」
少佐は敬礼をした初老の男を省みることなく、マントを翻し総統の執務室へ向かった。何としても、敵の侵入を許すわけにはいかない。
赤いファイアエンブレムを施したハーレーダビッドソンが、街を疾走していた。法定速度など関係ない。サンタ・マキアでそんなものを守る奴は誰一人居はしないのである。同じく守る気の無い黒塗りのベンツが数台。その窓には黒服の男が腰掛け、サブマシンガン・ウージーでこちらに鉛玉を雨あられのようにぶち込んでいた。ハーレーの主の女は、コートのボタンを珍しく閉めていた。防弾コートを機能させ、普段付けないフルフェイスのヘルメットをすることで、万が一の可能性を避けているのである。さて、普段は彼女の相棒のクリスが載っているサイドカーの中には、エリスが頭を抱えて震えながら乗っていた。もちろん、彼女もフルフェイスのヘルメットをしている。
とんでもないことになったわ……。
彼女は思った。ボスがボーナスをくれると言うものだから、アンナのヘタクソなナンパにも乗ったし、必要があれば一夜を共にする覚悟だってできていた。それが、ホテルの十四階から紐なしバンジーして、勤め先から銃弾をプレゼントされる羽目になるとは。神様は残酷だ。
「一体私は何に巻き込まれたのよ……。アンナは何も言ってくれないし」
彼女はちらりとアンナを見た。フルフェイスのヘルメットだから、おそらく言ったことは伝わらないだろう。だが、わずかな隙間から見えた表情は、笑顔だった。楽しんでいるのだ。ピンチを。エリスはそんな彼女を頼もしく思った。会ったばかりで何も知らない女のことを。
「こんな事になるんなら、逆に地元警察を利用するぐらいはするんだったぜ」
フルフェイスのヘルメットの中で、鉄腕は呟いた。どちらにしろ、もうすぐでゴールだ。今止まっても、ゴールで止まっても結果は同じだろう。二人仲良く蜂の巣にされ、そのままハーレーごと爆破処理がセオリーというところだ。鉄腕は大通りから逸れ、わき道に入り、とある建物の前の広場でブレーキを引いた。エリスがその勢いで頭をぶつけ、猫か何かを踏んづけた時のような声を出していた。彼女はそのままガンガンする頭をヘルメット越しにさすると、周りを見回した。サンタ・マキアにしては、妙に小奇麗な公園だった。ピクニックでも出来そうだ。奥には、パルテノン神殿のような、これまたサンタ・マキアとは無縁そうな建物が鎮座していた。
「ここ、サンタ・マキア記念博物館じゃない……」
「よく知ってるな。出来れば君とはデートで来たかったが、そうも行かないみたいだぜ」
いつの間にか、鉄腕はヘルメットを脱ぎ、コートの右袖を肩まで捲くり、鈍い鉄でできた義腕を露出させていた。続々と組織の連中の乗る黒いベンツが追いついてきていた。八台はいるだろうか。そこから、大柄な黒服の男たちがぞろぞろと出てくる。
「さあて、誰からダンスを踊ってくれるんだ?」
鉄腕はそう言うと、にやりと笑みを浮かべながら肩をぐるぐる回した。
クリスは三時のティータイムを一緒にしたいという総統の希望通り、執務室で紅茶を飲んでいた。チョコチップクッキーは中々のものだった。誘拐先でもらったおやつでは最高級のものだろう。
「これはどこのクッキーですか?」
「これは日本のものだ。あの国も中々バカにできん」
総統もお気に入りの品のようだったが、クッキーはあっという間になくなってしまった。クリスにとって、おやつは二度目の昼飯に近いのである。紅茶のおかわりをクリスが要求したのとほぼ同時に、執務室の扉が開いた。
「総統閣下、緊急にお話したいことが」
少佐が、もとから白い顔を少し青白くさせて入ってきた。あまり気に食わなかったようで、総統は眉を少し顰めた。
「何だね。余はフロイライン・クリスと紅茶を楽しんでいるのだが」
「緊急事態です。どうやら、FARCと思われる一団がこちらに向かってきているようです。……そして、例の国なしも謎の集団を連れて上まで来ているようです」
余裕の表情を崩さなかった総統も、さすがに目の色を変えた。国なし──つまり鉄腕のことだが──が来ているのは分かるが、謎の集団とは何だ? 一匹狼の鉄腕が、こんな時に集団行動をするわけがない。
「その謎の集団というのはなんだ。まさか鉄腕に手下がいるわけでもあるまい」
「こちらをご覧ください」
執務室のデスクに置いてあったリモコンを少佐が操作すると、暖炉の上からスクリーンが下りてきて、外の映像が映った。とんでもない映像だった。銃が四方八方から撃ち込まれる中、コートで受け、右腕で弾き、敵の体に拳を打ち込む女が一人。こんな芸当が出来るのは、世界を探してもただ一人。紛れもなく鉄腕だ。
「……圧倒的だな」
「鉄狼の巣には侵入させられません。中で暴れられたら、私でも止められるかどうか……」
「ならば君が地上まで行くしかない。やれるかね、少佐?」
「もちろんです、総統閣下。圧倒的なのは我々も同じです。あれを使って跡形も無く消し飛ばしてやります。それでは。勝利万歳!」
クリスはエスパーなんかでは無かったが、少佐が今どんな事を考えているかが透けて見えるようだった。少佐の握ったこぶしは、少しだけ揺れていた。
9
「なあ、もうお開きか? アタシはもう少し楽しめると思ったんだがね」
小奇麗な広場は、鉄腕の手によって地獄絵図に変えられていた。ある者は腕をへし折られ、ある者は足がおかしな方向に曲がっていた。幸い、死体になっている者はいなかったが、どれも鉄腕を満足させることはできなかったのだ。鉄腕は返事が無いのにイラつき、舌打ちして黒塗りのベンツに近づいた。まだ、微動だにしていないディエゴが、余裕の表情で後部座席に座り、相変わらず甘ったるいタバコを吸っていた。
「いいや、まだパーティは終わっていない」
「主催者が言うと見苦しい言葉だな。かぼちゃの馬車の迎えはいるか? なんだったらあの世行きのチケットにしてやってもいいんだぜ」
鉄腕はコートをまさぐり、葉巻を探した。が、どうやら一本も残っていないようだった。ケンカの最中に落としてしまったのがまずかった。再び舌打ち。
「一本いかがかな」
ディエゴがケースを取り出し、鉄腕にシガリロを差し出した。鉄腕はそれを払いのけると、ディエゴが咥えているタバコを奪い取り、吸った。まずい上に無駄に甘ったるいだけの、クソみたいなタバコではあったが、少しは気分が晴れた。
「敵さんからもらうもんは危険物だけだと思ってるんでね。悪く思うなよ。……ところで、なんでパーティが終わってないって言いきれるんだ? まさかデザートにプリンがあるなんてわけじゃないだろう」
鉄面皮のディエゴが、その時初めて笑顔を見せた。正確には、勝者の余裕の表情だった。まさか狂ったわけでもあるまい。ディエゴは間違いなく何か隠し玉を持っているのだ。
「私がなぜ君にあんな調査を依頼したのだと思う?」
「ナチのコスプレでもしたかったんだろ」
「違うね。君をあの第四帝国と繋がりを持たせたかったからだ。君はあの組織から忌み嫌われている。と同時に、君は求められているのだ。その右腕の技術をね」
鉄腕は甘ったるい香りを不快に感じはじめ、地面に落とすと踏みつぶした。
「なるほど。アンタはアタシをここまでおびき寄せる事で、金を頂くって寸法だ。大方さっきのシガリロにしびれ薬でも塗ってたんだろう? まぁ、どちらにしろ作戦は失敗だな」
「それではまだ五十点だ。私にはまだ成すべき目的がある。そして、君はもうここまでで充分だ。必要ない」
ディエゴが足を組み直すと、空気を切り裂くような音とともに、大きな爆発音が後ろから聞こえた。鉄腕のコートがはためき、もうもうと黒い煙が足元を流れていった。車が爆発したのだろうか? だが、鉄腕の持っている火種なんてマッチがいいところだ。ガソリンも漏れてない車が爆発するとは思えない。後ろを振り向くと、爆炎を上げるベンツが、灰色の腹をぐしゃぐしゃにして見せていた。
「なんだなんだぁ? 車のくせに恥ずかしくなったってわけじゃないだろうな」
「ようやく来たか。予想より早かったようだ」
ディエゴがぼそり、と呟いた。鉄腕はその声は聞こえなかったようで、あたりをキョロキョロ見回していた。まさか自爆装置が仕掛けてあるわけがないはずだ。ではこの爆発は一体何か。答えは人為的なものに違いない。鉄腕はふと博物館の屋根を見上げた。太陽にかぶさっている影が見える。人にしては大きいような気がしたが、サングラスによって陽に慣れやすい鉄腕の眼はその人物を捕らえた。
「おーおー。随分と大げさなもんくっつけやがって」
黒く光る発射口の大きさは八十八ミリ。その発射音から、ナチスドイツ兵からは勝利のファンファーレとも称されたドイツの守護神、八十八ミリ高射砲FLaK18。シールドから覗く金髪に三白眼は、昨日の夜のナチかぶれこと、少佐その人だった。
「どうしたんだレディ? そのぶっといアハトアハトでアタシをどうしてくれるんだ? アンタの左腕に自信を無くしたんなら悪いことは言わん、やめときな。世の中大きさが全てじゃないんだぜ」
「安心しなさい、国なし。別にすぐにあなたを狙おうなんて、私は考えていません。あなたからは見えないでしょうが、FARCが近くまで迫ってきているんです。あなたよりまず、あのくそアカどもから始末してやる必要があるだけです」
少佐はそう言うと、左腕の鉤十字を回転させ、+にして電磁石を起動した。左腕のアシストでアハトアハトのトリガーを引く。ビルが崩れる音、何かが爆発する音が響く。おそらくうまく敵をとらえることができたのだろう。彼女は、たった一人でアハトアハトを運用できるのだ。もちろん、装填数には限りがあるはずだ。だが、人に当たればおそらく消し飛ぶ。五台もあれば戦車師団を滅ぼせるアハトアハトで狙われたら、鉄腕に防ぐ方法など無い。
「さて、足止めは済みました。あなたを消し飛ばす番ですが、準備はよろしいですか?」
「意外とせっかちなんだな。言われなくても遊んでやるぜ」
太陽にアハトアハトの長い砲身が重なり、巨大な重兵器と化した少佐が宙へ身を投げ降りてきた。大理石が重みで砕け、瓦礫が周りに飛び散る。鉄腕は手始めにベンツのバンパーを引っつかむと、ぐるりと回転させ遠心力で投げ飛ばす。アハトアハトの発射口が炸裂し、ベンツは爆散。今度はベンツの部品だったものがあたりに飛び散った。見事な使いっぷりに、自然と鉄腕は口笛を吹いていた。
「やるねえ」
鉄腕の足が地面を蹴る。この化け物の弱点はもう分かっている。砲身の長さだ。対空対地万能とは言っても、それは相手が兵器であった場合のことを言っているのだ。砲身の長さは五メートルあるのだから、その懐まで入ってしまえば何も出来ない。鉄腕は射線上を避け、斜めから少佐に向かって突進した。
「ずいぶんと迂闊なんですね? 私は何も、アハトアハトを固定しているなんて一言も言っていませんが?」
少佐は左腕の電磁力でアハトアハトをむりやり浮かせた。シールドについている取っ手を掴み、運動エネルギーをくわえてやれば、アハトアハトは巨大な鈍器となって鉄腕に襲い掛かる。右腕でそれを抑えるも、予想以上にスピードが付くのが早く、右腕は軋みを上げ、鉄が擦れて悲鳴のように聞こえた。
「そして、私は自由に磁力を操ることが出来る!」
アハトアハトが磁力を失い、糸が切れたように地面に落下する。一瞬血の気が引きかけたが、強引にそれを押し戻し、地面に叩きつけた。
「あなたもなかなかやりますね」
「そりゃどうも。欲しいんならサインもつけてやるぜ」
瓦礫に押しつぶされていた黒服のポケットから、鉄腕はめざとく紙巻タバコを見つけ、一本取り出すとそれに火をつけた。本当はいつもの葉巻がいいが、贅沢はいっていられない。コロンビアを出たら、またとびきりいい葉巻を買えばいいのだ。
「まじいタバコだこと」
紙巻タバコは、やはり下品なにおいがした。
「素晴らしい闘争だ。そうは思わんかね? フロイライン」
スクリーンには、鉄腕と少佐が命を削る様が映し出されていた。おそらく、総統は楽しいのだろう。安全な場所で見る命のやり取り程楽しいものはない。クリスは楽しそうな総統を、冷やかな目で見ていた。勝つ方は分かっている。勝ちが分かる試合ほど下らないものは無かった。
「ところで、トランクをかえしてほしいんですが」
「何だって?」
「トランクです。部屋にはなかったので」
総統は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、デスクの裏から重そうにトランクを引きずってきた。どうやら自ら管理していたらしい。ご苦労なことだな、とクリスは思った。
「しかし、トランクなどどうするつもりだ?」
「決まっている事です。そろそろ迎えが来ますから」
そういうと、残りの紅茶を一気に飲み干した。居心地は悪くなかったし、食事もおやつもなかなか良かった。あと一時間もしないうちに去るであろうこの基地も、ほんの少しもの淋しく思える。クリスがそんな事を考えていたその時、総統の執務室の扉が開いた。お客が来たようだった。
「お久しぶりですな、総統閣下」
低い男の声。予想は外れたようだ。スクリーンには、未だ戦いを続ける二人が写っているのだから、当然と言えば当然だった。
「その声はディエゴ君か。思えば最後に会ったのは二十年前だったかな?」
総統はデスクに備え付けてある赤く大きな椅子に身をあずけて、ディエゴの姿を見た。彼の右手には、サイレンサー付きの拳銃が握られており、寸分違わず総統の眉間に向けられている。総統はそんな姿を見ても、全く動じていないようだった。
「私もポーカーフェイスを信条としていますが、閣下には敵いません」
「何、余も四十三回目にもなると、暗殺には慣れてしまってな。撃たぬのかね? ディエゴ君。それに、我々のお出迎えは受けなかったのかな」
「私は元々ヒットマンでしてね。連中はとんだアマチュアでしたよ。何か証言されても困りますし。それに、私がなぜ撃たないのかは閣下が一番よく分かっていることでは? 何せ、閣下は死んでも生き返るのですからね」
ディエゴに負けないくらいのポーカーフェイスだった総統の顔が、少し動揺したように見えた。クリスにとって、人の顔の機敏を見ることなどお安い御用だ。それくらいできないと、誘拐先でうまく取り入ることなど出来ない。しかし、クリスにも分からないことがあった。死んでも生き返るとは一体どういうことなのか?
「……昔から信用できぬとは思っていたが、まさかそこまで嗅ぎつけていたとはな。余の秘密を知ったとて、それがどうなる? 君は神にでもなる気か?」
デスクの後ろの鉤十字が染め抜かれた旗を、銃弾が貫いた。ディエゴの握る拳銃からは、硝煙が少し漏れていた。
「閣下はやはり傲慢極まりないお方だ。我々チリ・カルテルを信用できぬと? どうやら我々の組織を下に見ているようですな。あのようなハシタ金で第四帝国の傘下に入るわけがない。そもそも、我々にはFARCがいますしね。ことコロンビア内に関しては、閣下の手を借りずとも我々に敵う者はいません」
ディエゴが再びトリガーを絞る。銃口から飛び出した銃弾は、総統の耳たぶを難なく食いちぎった。バーナーで焼かれたような激痛が走り、手で押さえても、溢れる泉のように血が流れていった。
「なに、簡単なことです。閣下の技術によって世界中が幸せになることでしょう。我々はそれを金持ちに売り、組織を潤す。その功績によって私も大幹部、後にボスまで出世する。そうそう、今は耳を撃ちましたが、次は指です。口がきけるなら不死の技術は話せるでしょう?」
ディエゴのポーカーフェイスは、すでにもう満面の笑みに変わっていた。
10
鉄腕はアハトアハトの砲身で殴られ、自分の愛車・ハーレーのそばまでふっ飛ばされていた。相手は何しろ、電磁力を利用して、鉄製のものなら何でも飛ばせるのだ。地面に叩きつけられた時に、どうやら額を切ってしまったようで、どくどくと血が流れてきた。
「ちょ、ちょっと」
「おお、エリスか。付き合わせて悪かったな……。本当はまともなデートに行きたかったがそうもいかねえ。早いとこ逃げるんだ」
どうやらエリスはサイドカーの中で腰を抜かしていたようで、ヘルメット越しでも顔色の悪さが分かるほどだった。
「それより、ボスが博物館の方に行ってたんだけど……」
「あ? マジか?」
後ろを確認すると、すでにベンツは全て鉄くずになり、炎上していた。ディエゴの姿は当然見ていない。まさか、あの男が巻き込まれてオダブツとも考えにくい。
「第四帝国とグル、おまけにねぐらも当然ご存知とくりゃあ、逃げ場はまあそこしかねえか」
ディエゴは恐らく、第四帝国の基地に潜り込んで急場をしのぐつもりなのだろう。始めから鉄腕をハメるつもりだったのだ。基地に潜り込むのも計算のうちなのだろう。普段と違うタバコのせいかもしれないが、鉄腕のはらわたは正直なところ煮えくり返っていた。
「それって、ネオナチの組織でしょ? ボスの組織がそんなのと仲良くするわけがないわ。この街はFARCとボスの所属してるチリ・カルテルが作ったんだもの」
「だからなんだってんだ。現実問題、手を結んでるんだから仕方ねえだろ」
「でも、ネオナチって共産主義が嫌いなんでしょ? 前にFARCのお偉いさんがノーベンバーに来た時に言ってたもの。FARCの共産主義革命には、ああいうのが一番邪魔なんですって」
そういえば、ディエゴは鉄腕をおびき寄せるだけがすべてではないと言っていた。ではやつの目的とは一体何だというのか。ディエゴと第四帝国は仲間ではない。なら、なぜディエゴは基地に入っていったのか?
「わからねえ……」
瓦礫に吸殻を押し付けると、鉄腕はまた立ち上がった。少佐が相変わらず三白眼でこちらを睨んでいた。とにかく、こちらのお嬢さんにどこかへ行ってもらうしかないようだった。そうで無ければ、基地には到着しえない。愛しのクリスにも会えないだろう。
「エリス」
「な、何よ」
「早く逃げろ。絶対に振り向かないように。頭を低くして、裏路地を通っていけ。君の可愛いお尻に穴があくのはアタシには耐えられないからな」
とりあえず、この親切なウサギさんに逃げてもらうのが先決だった。少佐はそんなことはお構い無しに、マークを-に切り替える。どういう原理かは知らないが、少佐は狙ったものだけを引き寄せたり反発させたりできるようだ。少佐の左腕が青白く電流を帯びると、鉄腕の右腕が反応し、強引に引っ張られていく。すこぶる相性が悪い事は分かっている。だが、無理を無理と言っても誰も助けてはくれない。自分の尻は自分で拭かなくてはいけないのだ。
一気に引き寄せられたかと思うと、少佐は鉄製の重い左腕でパンチを放ってきた。それを鉄腕は右手で防ぐ。この拳一本で修羅場を潜り抜けてきた鉄腕にとって、少佐のただのパンチなど屁でもない。
「どうした、ナチレディ。顔が陶器みたいに白いぜ」
少佐は答えなかった。確かに普段から白い肌をしている。だが、医者でもなんでもない鉄腕から見ても、今の少佐の顔の青白さは異常だった。
「敵の心配をしている暇があるのですか」
電磁石を起動させ、鉄腕の右腕を強引に振りほどくと、今度は首に手をかけて転がっていたアハトアハトに押し付けた。電磁石のせいで、鉄腕の首は徐々に絞まっていく。
「死ね!」
鉄腕は地獄に片足を突っ込んでいたが、意外にも冷静にこの事態を見ていた。一体今苦しんでいるのはどちらだ? 確かに今鉄腕は苦しい。タフで通してきたが、さすがに息が出来ないと死んでしまう。だが、青白い顔をしている少佐はどうだ?
「な、なぁ」
「うるさい、死ねっ! 偉大なる帝国の礎となれ!」
「別にアタシが死のうが関係ないが、その前にアンタも死ぬぜ」
鉄腕はニヤリと笑い、少佐の左手首を掴む。電磁石も起動しているので当然離れはしない。まさに獲物に喰らいつく蛇そのものだった。そして、蛇に喰らいつかれて無事に済むわけも無い。少佐の手首は鉄にも関わらず簡単に砕け散った。元々義手としては完成度も低かったが、耐久度もあまりよくなかったようである。
「さて、左手無しでアタシと戦えるのか? これ以上動くとアンタも死ぬ」
がくり、と少佐は膝をついた。
「通してもらうぜ。アタシは基地に用がある。邪魔はしてくれるなよ?」
コートのポケットを探り、エドワードにもらった地図を取り出す。博物館の奥の資料室に入り口があり、そこ以外に道は無い。逃げられる心配も無いが、逃げにくい。しかも、博物館の中という立地ゆえ、突然敵に攻められる恐れも無いわけだ。博物館の扉の前に立ったとき、瓦礫が崩れる音がした。コンクリートが転がるくらいなら、鉄腕は気にしなかっただろう。だが、その音は明らかに何かが持ち上がる音だった。振り返らないほうがおかしい。
「動くな」
振り向くと、膝をついていた少佐が立ち上がっていた。左腕には電磁力で強引に固定した八十八ミリの発射口が鉄腕を捕らえている。
「さっき言ったはずだがな。動くと死ぬのはそっちだ。邪魔はしないでくれ」
「黙れっ! 私が貴様のような国なしに負けるわけが無い! 死ぬのは貴様だ!」
狂ったように青白い光が走る。アハトアハトのトリガーが電磁力の力によって引かれ、まっすぐに砲弾が鉄腕を襲う。発射音も含めて考えれば、差し詰め地獄行きの超特急へのチケットといったところだった。鉄腕は残念そうに息を吐き、右腕を引いた。
「いいや、やっぱり死ぬのはアンタさ、レディ」
砲弾にありったけの力を込めてストレートパンチを見舞う。右腕ごともっていかれそうだ。だが、少佐を黙らせるには、この一撃で天国へ送ってやらなくてはならない。鉄腕の右腕には次第に力がこもり、巨大な砲弾を一気に押し戻していった。
「ば、馬鹿なっ!」
戻ってきた砲弾を弾き飛ばそうと電磁石を解除し、+にマークを変化させたところまでは良かった。だが、少佐の電磁石は発動しなかった。ただでさえ心臓に負担をかけるこの技を、短い時間で多用してしまったせいでセーフティがかかってしまったのだ。少佐は飛んでくる砲弾を眼に焼き付けることしか出来ず、轟音と縛炎に飲まれていった。
「忠告はしたんだがな。ま、先に逝っててくれ」
鉄腕は紙巻タバコを取り出すと、飛び散った小さな火でタバコに火をつけた。やはり嫌いな匂いだったが、不思議と気分が落ち着いた。
「アタシは天国へは行けないんでね。いずれ地獄で会おうじゃねえか、レディ」
手向けに投げた紙巻タバコは、燃え盛る火に消えていった。
11
「ところでディエゴ君。余の話を聞く前に頼みを聞いてもらえるか?」
総統の耳は血でぬめり、細い手首に伝って肘から落ちていった。
「聞きましょう」
「ソファーの裏に余の客人がいる。何も言わなければ、君はフロイライン・クリスを殺すだろう。だが殺すな。殺せば余は秘密をしゃべらない」
都合のいい願いだ。ディエゴにとってみれば、餓鬼二人をいたぶり殺すぐらいは何でもない。クリスを殺して、総統の口を割らせることなどどうってことない。
「それによって私にメリットがあるのですかね?」
「ある。君も資料に目をとおしたはずだが? 国なしからフロイライン・クリスを攫った人間は絶対に逃げられない。攫っただけでもひどい目に合う。殺せば大変な事になるのではないのかね?」
ディエゴは銃を総統に向けたまま、ソファーに近づいた。総統の言う通り、ディエゴにとってクリスの存在はやっかいだった。そもそも、クリスを誘拐するように仕向けたのは自分だ。そして、基地を確実に見つけさせるため、ホテルの従業員にベッドに鉤十字のペイントを施した。そうして基地に現れた鉄腕に、第四帝国の切り札である少佐をぶつける。うまくいけば鉄腕を始末できるし、最悪でも少佐を潰せば第四帝国は丸裸だ。ディエゴにとって、不死の技術さえ手に入れば何も問題ない。ソファーの後ろにいたクリスはノーベンバーで見たとき同様、不機嫌そうな顔をしていた。
「……いいでしょう。こちらとしても閣下の技術さえもらえれば文句はありません」
地下には音がよく響く。突然銃声が響き、普段から慣れているはずのクリスでさえ驚き、周りを見回した。ディエゴが撃ったのではないかとも考えたが、様子がおかしい。ディエゴは銃を落としていた。そのまま赤いソファーにぶつかり、ずるずると背中を滑らせ、座り込んでしまった。
「愚かなやつだ。金はきちんとやったのにな……。欲を出すからそうなる」
総統はぴかぴか光る変な銃を持っていた。その銃から硝煙が漏れていた。撃ったのは総統で、ディエゴは死んでしまったのだ。その銃は黄金作りで綺麗な宝石がはまっている。昔、本で読んだことのある、黄金のワルサーPPKにそっくりだった。それを持っていたのはたった一人、ナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラーだけだ。
「すまないね、フロイライン。怖い思いをしたかな?」
「大丈夫です」
かつかつと軍靴を鳴らし、もう動かなくなったディエゴを見下ろした。哀れな男だ、と明らかに見下した表情だった。
「少佐は死んだようだな」
唐突にぽつりと呟き、ワルサーPPKをベルトに挟むと、デスクをあさり始め、小さなUSBメモリをPCに接続し、何か操作し始めた。楽しそうでも、悲しそうでもなかった。ただ機械のように作業をしていて、まるでロボットのようだった。
「やはり余は負けるのか」
総統が扉に手をかけるのを見て、クリスも慌ててトランクを引きずり始めた。鉄狼の巣はもうおしまいなのだ、とクリスは思った。少佐も、兵士達もいなくなってしまった。総統へどこへ行くのか聞こうかとも考えたが、それは野暮なことなのだろうとも思った。総統の背中は、年相応の小さなものだった。
あれだけ饒舌だった総統も、今は火が消えたように静かだった。迷路のように複雑な鉄狼の巣をすんなりと抜け、エレベーターに乗り、博物館のようなところについてもそれは変わらなかった。鉄狼の巣は博物館の下にあったのだ。
「さて、これからどこへ行くとしようか」
「僕は帰ります」
クリスは間髪入れずに答えた。冷酷なようだったが、クリスにとって総統にもう用はなかった。総統がどこへ行くのか気になったが、それはもうクリスには関係のない事だった。所詮他人である以上、興味はないのだ。
「待ちたまえ」
クリスの背中に固いものが当たるのが分かり、そこから動くことはできなくなった。なにが当たっているのか、などは考えなくてもわかる。
「取引をしよう、国なし。いいや、鉄腕」
博物館の中は暗い。どうやら今日は休みのようだった。白い肌の彫刻しかいない。そんなただっ広い空間に、いつもと違う紙巻タバコのにおいが、白い煙とともに柱の陰から流れてきている。いつもの靴の音、コートがこすれる音が、クリスの確信に近い確信を確定させてくれた。
「待たせたなクリス。かぼちゃの馬車も白い馬もないが、王子様のご到着だぜ」
柱の陰からゆっくりと現れた鉄腕は、紙巻タバコを足元に捨て、踏みつぶした。
「下品な女だ。やはり国なしは不愉快だな。本来なら蜂の巣にしてやる所さ」
「そりゃ失敬したな。アンタの部下のレディはもうバーベキューになっちまった。その様子じゃ、守ってくれる部下ももういないようだな。まさかガキがボスとは思っちゃいなかったがな」
総統にはもうだれも味方はいない。総統自身それを分かっているはずなのに、背中の銃は当たったままで、外れる気配は無かった。
「余はもう丸裸だ。だが余は何度でも蘇ってみせる」
ふとクリスの背中の圧迫感が消えた。振り向くと、総統はワルサーを自分のこめかみに押し付けていた。再びクリスが前を向くと、王子様が冷ややかな目で総統を見つめているのが分かった。
「何のつもりだ? 閣下どの。自決なら見えないところでやってくれ。寝覚めが悪いんでね」
「自決? 馬鹿を言え。余は死なんよ。ただ、ちょっとコンパクトになろうというだけさ。今や、この社会に姿など必要ないのだ。それは余も、貴様も、そしてフロイライン・クリスも同じだ」
鉄腕のタバコは再び地に這い蹲り、哀れにも踏みにじられた。ペースがだんだんと速くなってきていた。イライラしているのだろう、とクリスは思った。
「くだらねえ。コンパクトだって? それならアタシがもっと簡単にしてやるぜ。お前の背骨を叩き折って、パカパカ開いたり閉じたり出来るようにしてやるよ。笑ったり泣いたりは出来なくなるだろうがな」
総統はにやりと笑みを浮かべ、銃はこめかみに押し付けたまま、ポケットをまさぐった。鉄腕は少し身体をこわばらせたが、出てきたUSBメモリを見て大きく紫煙を吐き出した。
「フロイライン。良ければ貰ってくれないか。余の全てがこの中にある」
クリスは恐る恐る手を差し出すと、USBメモリを受け取った。裏返したりして全体を見回してみても、至って普通のUSBメモリのようだった。
「さて鉄腕。ビジネスの話をしよう。と言っても、そのUSBメモリは余のかけた呪いのようなものだ。絶対に遂行してもらうぞ」
「だから、そいつは一体何なんだ」
総統は柱から背中を離した鉄腕に向かってワルサーを向ける。銃口を見て鉄腕は反射的に両手を挙げた。
「話は黙って、静かに動かずに聞くものだ、鉄腕。このUSBメモリには余の不死の秘密が入っている。というより、余自身が入っている。貴様にはこのUSBメモリを守ってもらう。……第三帝国時代からすでに、余は今の時代のような超情報化社会が来ることが分かっていた。情報を操作することで人を操作できるのならば、余自身が情報になればいいことに気づいたのは、連合軍にライン川を突破されたころだった。もう時間が無かったのだ。南米でこうして雌伏の時を過ごしたのも、全て無に返ってしまった。責任くらいはとってもらうぞ、鉄腕。貴様の様な国なしに我が帝国の全てを託すなど屈辱の極みだが……。余は世界統一帝国のため、あえて泥を啜ろう。そしていつか、貴様も倒してやる」
総統のワルサーは再びこめかみを捉えると、そのままトリガーを引き、一発の銃弾を放った。
12
総統はこと切れていた。こめかみにぶち込んで死ねたのなら幸せだ、と鉄腕は思った。二十二口径で死ぬのは難しいのだ。最悪、脳をかき混ぜただけで脳に銃弾が残り、障害が残る可能性すらある。うまく脳漿ぶちまけられただけでももうけものというものだ。
「幸せな閣下だこと」
クリスが鉄腕のズボンにしがみついているのを見て、鉄腕はクリスの頭を撫でた。もうコロンビアに来ることは出来ないし、来ることも無いだろう。何せ、街を牛耳る組織の幹部を間接的にとはいえ殺してしまったのだから、こちらが殺されないほうがおかしい。ともかく、逃げる必要がありそうだった。
「しかし、『USBメモリを守れ』ねえ」
クリスの持っているUSBメモリをひったくると、鉄腕はそれをまじまじと見つめた。見れば見るほど至って普通のUSBメモリだった。おそらく、総統の呪いとはこのUSBメモリをネオナチどもが狙ってくるということだろう。だが、鉄腕にとってそんな事は屁でも無い。鉄腕にとっては依頼をされたのなら誰であってもクライアントなのだ。もちろん、それに見合うだけの金を払ってくれるのであれば、だが。
「オーケイ、引き受けてやるよ。ただ、代金は貰ってくぜ」
血だまりに沈んでいく総統の手には、黄金のワルサーが握られていた。そのワルサーを強引に奪い取ると、鉄腕は自身のコートにそれをしまいこんだ。
「さて、口もワルサーも組織も部下も無くなって、アンタが総統だなんて分かる人は居なくなっちまった。アンタは一体誰なんだろうな、少年」
カーキ色の軍服を着た少年は、もう何も喋ることは無い。同時に、彼が何者だったかを知るものは居なくなってしまった。鉄腕の求めた代償は、総統が思うより大きかったのだ。
結局、鉄腕が選んだのは南米大陸からの脱出だった。コロンビアの南に位置するペルーには、鉄腕のなじみの密航屋がいる。そこからなら、おそらく足はつかないはずだ。あのクソチンピラ共も、海外まではやってこない。そう、ある一人を除いて、である。
『止まれ、鉄腕! 鉛玉ぶち込んで顔の風通しを良くしてやる!』
海岸沿いのローカル線で、コロンビア警察のパトカーが砂糖に群がるアリのように鉄腕のパトカーに迫ってきていた。先頭を切るパトカーには、堪忍袋の緒を二・三本ぶち切ってしまったような、憤怒の表情を浮かべたランス警部が窓から拡声器片手に、こちらに罵詈雑言のアメあられを降らせていた。
「やれやれ、アンタもしつこいもんだ」
それもそのはず、鉄腕からの報酬はディエゴの死亡によってパー。おまけに、本人は全く覚えの無いエドワードからの請求書が届いたのだから怒るのも無理は無い。
「クリス、ちゃんと掴まってろよ」
鉄腕はハーレーのエンジンをぶん回すと同時に、コートから黄金のワルサーを取り出し、後ろに向かって撃った。先頭のランスの乗るパトカーのフロントガラスにぶち当たり、ガラスが真っ白に染まった。前の見えなくなったパトカーがそこかしこにぶつかる轟音が聞こえ、やがてサイレンの音は。その場から急速に遠ざかるその時、鉄腕は断末魔のように叫ぶ男の声を聞いた気がした。
『次は逃げられると思うなよ、鉄腕!』
「その前に、アタシは二度と会いたくないね」
呟いた言葉は、誰も聞いていなかった。
ペルーに入り、人気の少ない海岸線沿いで、鉄腕とクリスは野宿をすることにした。思えば、今回も散々だった。現金は一セントも手に入らなかった。まぁ、経費の分を踏み倒すことで、何とか借金は免れたし、黄金作りのワルサーも手に入ったが、それで何とか差し引きゼロといったところだった。鉄腕はまたため息をついた。
「ねぇ」
クリスが焚き火を見つめながら、唐突に口を開いた。
「なんだ? ミルクならもうないぜ、子猫ちゃん」
非常用の缶詰は、クリスがほとんど食べてしまっていた。昼間事件に巻き込まれても、食い意地は張っているようである。鉄腕は、葉巻の代わりの紙巻タバコに火をつけた。早く美味い葉巻が吸いたい。
「そんなことどうでもいい」
「じゃあなんだってんだ」
「死んだらどうなるの?」
珍しいことだった。クリスは疑問を全て自分で解決してしまう。最近などは、鉄腕が何か質問をすることがあるくらいなのに、自分から何か質問するなんてありえないことだ。
「さぁな」
もっと簡単な質問なら良かったのに、と思った。鉄腕は宗教家でもなければ哲学者でもないのだ。そんな高度な質問は専門外だ。しばらくはクリスも鉄腕もしゃべらず、波が寄せて返す音だけがその場を支配していた。
「怖いのか」
「何が?」
「死ぬのがだよ」
クリスは頷いた。ずいぶんとセンチメンタルなことを考えるものだ。
「死んだ後のことなんて、誰も知らねえよ」
一瞬だけマリアの事が頭をよぎったが、強引に押し込めた。
「じゃあさびしいんだと思う」
「あ?」
「死んだらさびしいんだと思う。さびしいのは怖い」
鉄腕は、クリスの肩を抱いた。少し震えているようだった。コートをかけてやっても、それはしばらく止まらなかった。なんだかんだと強がってはいるが、クリスはまだ十代の子供だ。今回の出来事はハードだった。あんなハードな出来事に巻き込まれていれば、心細くもなるのだろう。
「ねぇ」
クリスがコートのすそを掴む。クリスの目には夜空の星が鏡のように写っていて、美しかった。ビー玉に銀河全体をブチ込んでも、こんなに美しくは無いだろう、と鉄腕は思った。
「何だよ」
「キスして」
唐突な願いだった。だが鉄腕には、クリスの唐突な願いをかなえてやる義務があったし、鉄腕自身もそれに答える準備は出来ていた。
「ずいぶんと積極的なんだな」
「いいからキスして」
鉄腕は頭を一掻きすると、咥えていたタバコを取った。子猫ちゃんはいつもよりわがままなようだった。