猫
猫
猫が死んでた。
猫が車に轢かれていた。轢き逃げだろう。
行き交う車の間から、私はそれを見た。首輪がついてたから飼い猫だと思う。可愛がられていた白い毛並みは、鈍い赤に染まって斑模様だ。
信号が青から赤に変わり、車の往来が止まってから、私はその猫の傍に寄った。
抱き上げたその身体は、ひどく重い。ぐったりと、ただ何者にも逆らわず、其処に在る。
猫の眼はまるで驚いたように開かれ、長く細い瞳孔も大きく開き、自身が命を消した道路を逆さまに見ていた。緑の眼をした猫を、母親が赤子にするように抱き直した。その力の入らない首は、私の身体に寄り掛かるようにして空を見ている。
寄りかかった猫の身体から私の白い服についた赫は、ゆっくりと白を染めた。血の色は見慣れていたから、別段気にならなかった。この服だって買い与えられたもので、どうでもよかった。
信号がまた青に戻る前に、私は歩き出した。渉り終えた横断歩道の白い線にこびり付いた血を残して。
死んだ猫と私。
私達は、赫の斑が付いた身体で、歩いていた。
なるべく人の通らない道を歩いた。目立つのは好きじゃないから。
俯いて、コンクリートを見ながら歩いていると、猫の首輪が眼についた。首に埋もれた彼女の証を確かめる。
「……そう。貴方、レナっていうの」
彼女の名を知れて、私は少し嬉しい。名前が無いと不便だから。誰かを遠くから呼ぶ時に、とても困るわ。彼女にもこの喜びを言葉で伝えた。相変わらず一点を見つめたまま、レナは動かない。
視界に入るコンクリートの色が濃くなった。歩く内に暗い道に入り込んだようだ。名前の時と同じように、道が暗くなったよ、と彼女に伝える。
湿気た匂いのする道を進むと、狭い道の突き当たりだ。行き止まり。
これは調度良い場所を見つけたわ。私は頭を撫でた。突き当たり正面の壁に寄って、背を預けることにする。私はそのままズルズルと背中を擦って座り込んだ。抱きかかえた彼女と同じように、首を空に向けて仰ぎ見る。其処は狭い裏路地であったけれど、上には広い世界が広がっていた。青に白が斑に浮かんでいる。
「綺麗だよ、空。雲が流れてる」
彼女の眼にも私と同じもの映っているはずだ。そう分かっていても、私は会話を求めるように口に出した。答えが返ってこないのは、分かっている。
空って、面白いね。
だって、青なのに赤だったり黒だったり、それから紫だったりするんだもの。
青い時は白が流れて、赤い時は緋色が土に消えて、黒い時には無数の色達がそこいらに点在してる。朝にはね、薄く掛かった紫の色が、鉄のビルだって、ぼかして隠してしまうのよ。常に変化するのに、それは全て空で、同じものだと言われるの。
空の変化はそうしている間にも続いていき、私たちは星を見ながら、月に照らされる。
まるで、イキモノみたいだね。と、私は彼女に語りかける。見上げた空からようやっと、私は顔を下げ、私の服や彼女の身体に広がる斑を見た。
斑模様が、黒くなっていた。それだけ時間が経ったのだ。
私は彼女の顔をまじまじと見る。
彼女はいつの間にか固く止まってしまっていた。本当は気付いていたけれど、見たら現実になってしまうから見ていなかったのに。見上げ続けて首が疲れてしまったから、仕方が無い。
私はもう目覚めない彼女を眠らせる事にした。
月明かりの下で穴を空けられた大地、その僅かな窪みの中に私は彼女を入れた。ほんの30センチ程度のまんまるの穴、それが可愛らしい猫、レナの眠る場所なのだ。
青い空の下を歩いていたであろう彼女の白が、赤く染まって、黒くなった。そして、薄っすら青い月光にあてられている紫の大地が、眠る彼女の身体を隠した。そのうち彼女の身体はその大地に帰っていくだろう。墓に収まった彼女の上に、私は土を盛った。
積み重なった土の上部をなるべく平らにして、RENAと名前を刻む。
イキモノが死ぬのは悲しいことだと、昔誰かから教わった。家族に、かもしれない。
私は彼女の墓の横で、自分の身体を抱えるようにして泣いた。悲しい時は泣くものだと教わったからだ。
墓の上には、其処が墓だと判るように何かしら物を置く。
それは十字架だったり、長方形の石だったり、土だったり、アイスの棒だったりする。
死んだ者を忘れないようにする為だろう、と私はそう教えられた。けれど、教わったからと言って私個人もそう思った訳ではない。墓と言うのは死んだ者本人の為にあるのだ、と反論した。
だってそのヒトは知らしめたいんだよ、自分が其処にいた証を。
だって、私もきっと、そうするから。そうしたいと思うから。
そう熱く語った。何故あのときの私はあんなにも一生懸命に反論したのか思い出せない。あのときの私は今よりも少しばかり子どもだったのかもしれない。今は、私の隣で、彼女のお墓の中で、眠る猫の事を考えるとそうは思わないのに。
確かに、墓が無いと皆はそのヒトを忘れてしまうかもしれない。
墓があって、其処に訪ねて、懐郷の日々を思う。そうする事で、人は、記憶の中に残るその人を確かめるんだわ。記憶は、思い出さなければ常に消えては増えていくのだから。
1年後の私が此処を訪れないとしたら、白い猫の姿や出会ったことを覚え続けていられるだろうか。ふと思い出せるだろうか。
訪れようと思えば、どうだろう。私は白い猫が道路の真ん中で死んだ事を忘れずに居られるだろうか。
もしそうなら、私も来年の今日、ここを訪ねなければね。
彼女の墓にそう言う。手帳を買ったら、それにもきちんと書こう。
そんなことを考えていたら、雨が降って来た。
ぽつり。頬に雨が当たったのだろう。水滴の冷たさで私は眼を覚ました。
いつの間にか寝ていたようだ。何処かに行ける夢を邪魔されたような気がして、気分が良くない。濡れた服の裾で顔を拭いた。
空は灰色に雲って、朝なのか昼なのか判らない。どれくらい、眠っていたんだろう。
隣の彼女の墓は、盛った土がどろりと崩れ、刻んだ名前が消されていた。私は、もう一度彼女の名前を書いた。今度は消えないように、しっかりと。
雨はまだ止みそうに無い。
私は立ち上がって、薄暗い通路を行く事にした。
通りに出るために歩き、来たときと同じように暗い道を行く。それから5分程歩くが、ぴちゃぴちゃと靴が鳴くだけだった。
この突き当たりの路地から出ても、人は誰も歩いていなかった。
人の代わりに、良い物が転がっていたのだけれど。
鉄と、透明なビニール、それとプラスチックで出来ているその子は、ビニールには所々穴が空き、鉄の部分はいくつかは折れて、下部にある持ち手はプラスチックで覆われていた。
それは壊れた傘。きっと使えなくなって捨てられた誰かの傘が風で飛んで来たのだろう。
レナと同じくらいに白い持ち手を持ったその傘を、私は掴んでまた路地の奥へと戻る。
彼女の墓標に到着するとすぐに、折れた傘を墓に被さるようにセットして、持ち手の部分で地面を抉らせた。雨除けくらいにはなるだろうと思ったのだ。
穴の空いた部分から少し雨が零れてくるが、無いよりも全然マシだった。盛り上げられた土と、そこに書かれた名前、そして、その横から斜めに伸びる細い鉄の軸と、ビニールの天井。雨が降ってくる前よりも、ずっと墓らしかった。
私はといえば、雨を浴びながら、空と同じように瞳まで曇って。ただぼんやりと目を開けていた。見えるのは、一層暗くなった眼前の通り道だけになった。
何処を見まわしても、在るのは冷たい景色と私だけ。
とても寂しい。
ひどく哀しい。
私は自分の膝を抱き締めて、雨が止むのを願う。
願っても、黒い雲は晴れないままなのだけれど。
雨もぽつりぽつりと降り続け、冷たく私に当たる。
もう1本あれば良かったね、傘。
地面の下の彼女にそう言ってはみるものの、私は変わらず、彼女の墓に手向けた傘の隣で、雨を浴びた。
抱えた膝に顔を押し付けて、眼を閉じれば世界も閉じた。
今の私に届くのは雨音だけ。その他は何も無い。
こういう空間は「自分」を考えるのに最適だと思う。暖かな部屋があった頃もそれは同じだった。静かな暗闇は人間が最も落ち着ける空間だ。視界が無くなるだけで、色んな事が頭を駆け巡り出してくれる。
私の事、
レナの事、
雨の事、
墓の事、
家の事、
逃げだした事、
そして兄の事。
「…そうだ。」
私は顔を上げた。世界はまだ路地裏だった。
「レナ。貴方にはまだ教えてなかったね。」
どうして私が逃げてきたのか、その事を。
地面の下のレナは前と変わらず、何も発さなかった。
私ね、飼い猫だったの。
貴方と同じ。
阿呆な飼い主に着飾られて飼われていたの。
部屋に閉じ込めて、「安全だから」と言って誤魔化す―…そんな人だった。
私は何に狙われていたと言うのかしらね。そんな事、有り得ないのに。
私をあの家に閉じ込めて行く事で、自分が満足して、それが正しいと思っていたみたい。私は何もしなくて良かった。それが嫌で堪らなかった。
私の飼い主だという顔をして、困ったように笑う兄が嫌いだったのよ。
貴方はどうなのかしら、地面の下のレナ。
貴方も飼い主が嫌で、逃げて来たの?それとも捨てられた?
そうだとしたら羨ましいよ。貴方は自由になれたんだから。
私はあんな束縛よりも、一人でも自分の足で歩いていきたかったのに。
見えない居ない喋らない猫に、私は語る。
わたしは頬を引き上げて、笑いながら語った。
アニメ映画で見た、紫色の猫のように。笑わずに居られるものですか。
雨も、猫も、兄も。
もっと愉快になれば声を出して笑っただろう。
けれど、それより前に声を発した何かが居た。
誰かが私を呼んだのだ。
唐突に、私の名が叫ばれた。
驚いて前を見ると見覚えのある顔が、暗い道の向こう側にあった。忘れもしない私の飼い主。
「エリカ!」
わざとらしい呼び方。さも心配してました、と言わんばかりに。
貴方が心配なのは、私では無く「私を守っている自分」が無くなる事なのに。その事には気付かないのに、彼は私の存在には気付く。
「エリカ!良かった無事で!さあ帰ろう、風邪をひいてしまうよ?」
近付いて来る束縛者。
厭味な白いスーツと、濡れていない髪。
見慣れすぎて嫌気のさした顔。
ゆっくりと此方にやってくる束縛者の後から、上から下まで真っ黒に仕上げた足の速そうな男が傘を持って走り寄ってくる。男は白いスーツに追いついて、降り注ぐ雨を防いでいた。
逃げられない。
私にこの包囲網を潜り抜けられる力は無い。
目の前に迫り来る飼い主と、黒服。
抵抗する体力も確かになかったが、それよりも心が更なる逃亡を諦めていた。
すぐ傍まで、触れられる距離まで、やってきた飼い主。
彼は私の名前をもう一度呼んで、うな垂れていた私の手を取り、立ち上がらせる。
満面の笑みだ。私の表情を全部奪い取ったみたいに、表情をなくした私に彼は最上の笑みを向ける。
足に力が入らない。
きもちわるい、と身体の奥が泣いた。
黒服が私の身体を背中から支え、押すように歩かせた。
何の抵抗もなく、私は手を引かれて連れて行かれる。
ああ。おしまいなんだ。
首だけでレナの墓を振り返って、私はさよならと言った。
私の逃走劇は終わってしまったのだ。
そして、車の中で。
高級外車の名前なんて知りたくもなかったが、購入当時兄が散々私に自慢していた黒い車だと分かった。
その後部座席に座らされた私は、ひどくぐったりしていた。
ようやく実行出来た逃走劇が失敗に終わり、あの家に引き戻されなければならない。
私はまた安全で着飾られた部屋の中で、無為な時間を過ごすのだ。
げんなりと腰を落とす私の隣には、二度と見ることもないだろうと信じた兄――私の飼い主の顔。
ふいに兄が口を開く。耳に声だけを認識して、視界は窓の外を見た。
「どうして、逃げたりしたんだい?エリカ」
私は反応しない。
「何処かに行きたかったのかい?こんな事しなくても連れて行ってあげたのに」
外は危ないんだよエリカ、君はこんな事をしなくてもいいんだエリカ、僕が君の世話をするのが父さんの遺言なんだから。いつもどおりの決まり文句を情けない声で並べている。きっと、見慣れたものと同じように眉を下げて笑っているだろう。
父は自分の息子の極端な愚かさを知らなかっただろうか。
いいや、知っていたのなら、そんな馬鹿げた遺言を残す訳が無い。
私はひとりで立てないような子供ではないのに。兄には私がそう見える。
「エリカ」
飼い主は何度も私の名前を呼ぶ。
「どうして君は喋ってくれないんだ?医者に看せようとしても嫌がるし。何か有るなら言ってくれよ」
言って通じなかったから黙ってんですけど。
なんて、そんな風に言ったら、きっとまた四方八方を尽くすに違いないんだこの人は。
窓の外は爽快な速度で流れている。
唯一外出を許されるのは、密封された車でだけ。隣にはいつも飼い主の姿。
窓の外だけが唯一外と私を繋ぐもの。以前と同じ、閉ざされた自由だ。
景色が流れるだけで、私は何処かへ行けるような錯覚をする。そう思うことで解消された私の自由への渇望具合が、今はもう懐かしい。そんな風にファンタジックな思いでごまかせるほど、私は現状に満足していないのだ。
それでも流れる景色は映画のようで、心地がいい。出来れば、これが制限の無いものだったら、どれだけ良かったか。全く止まらずに私を知らない処に連れていってほしい。
けれど、その願いも虚しく、景色はピタリと止まってしまう。
「すいません、渋滞に引っ掛かりました」
運転席の黒服が言った。
「構わない。エリカも乗ってるんだ。急ぐ必要は無い。」
すかさず兄は答える。私に話すときと全く違う声だ。
私としては一刻も早く発進してほしいものなのだけれど。
ふと。
少し前方にある横断歩道に薄っすら血痕があるのが見えた。
ここは、私がレナと出会った場所だ。
ほんの数時間前の出来事を私は思い出す。
レナならば、こんなところで束縛されてなんか、いるだろうか。
レナはどうしてあそこに居たのだろうか。
逃げたのか、捨てられたのか。
それでもあの子は自分の足で地面を蹴っていた事に違いはないのに。
私はと言えば。
そして車が走りだし。
発進と同時に、私は口を開いた。
「兄さん、」
私の飼い主が心底驚いた顔をして、此方を向いた。
その表情には少し歓喜が含まれているようだ。が、
「エリ…」「さよならよ」
満面の笑みで私はその期待を裏切り、言葉を遮った。
兄が私の顔を見ている間に、外したドアロック。そのまま、ドアを開けて私は飛び出す。正面ではなく、後ろ向きに着地したので、やはりバランスは崩した。車道に転がり、走り去る黒い車を見送る。後ろの窓に、ぽかんと口を開けた兄の顔が見えた。
幸い、発進直後でスピードが出ていなかったので、かすり傷程度、殆ど無傷だ。対向車が居ない反対側の車道に降りたのは正解だったようだ。
私は走り出す。
雨もいつの間にか止んでいた。
飼い主が――兄が何か叫んだのを背中の方で聞いたが、構わなかった。
再び私は逃げだしてやったのだ。
私は自由を勝ち取ったのだ。
気侭な猫になる為に。
わたしは猫だ!!




