薬師のさじかげん
——患者名、レクシオ・ヴァルディーン。年齢二十七。症状、原因不明の全身衰弱。余命、半年。
新品の革表紙に万年筆を走らせながら、私は婚礼衣装のまま机に向かっていた。
窓の外では、まだ披露宴の余韻が庭園にこだましている。笑い声、グラスの触れ合う音、楽団の弦の響き。けれどそのどれもが、この部屋にはひどく遠い。
公爵家の寝室は広すぎて、花嫁が一人で座っていると、少しだけ寒かった。
フィオナ・メディス——いえ、今日からフィオナ・ヴァルディーン。
メディス伯爵家の三女。姉二人はとうに嫁ぎ、私には目立った縁談もなく、実家で薬草園の世話をしながら静かに暮らしていた。取り柄といえば薬学の知識と、それなりに丈夫な体くらいのもの。
そんな私のもとに、この縁談は降ってきた。
——余命半年の公爵閣下の、最期をお看取りいただきたい。
仲介人はそう言った。悲壮な顔で、深々と頭を下げて。
私は二つ返事で頷いた。ただし、その理由は仲介人の想像とはだいぶ違っていたけれど。
(看取り? 冗談ではございませんわ)
万年筆のインクの乗りを確かめ、経過観察日誌の一行目の下にこう書き足す。
——治療方針:食事療法による段階的な体質改善。まずは消化に優しい薬膳粥から開始し、回復に応じて食事の質と量を引き上げる。
余命半年。それは「半年しかない」ではなく、「半年もある」ということだ。
半年あれば、季節はひと巡りする。春の芽吹きから夏の盛り、秋の実り、冬の静けさ。その間に食事を整え、体力を戻し、内臓の機能を回復させる。時間は十分にある。
薬師を甘く見てもらっては困る。
婚礼衣装の裾を翻し、私は荷解きがまだ途中の行李から、実家の薬草園で育てた乾燥薬草の束を取り出した。
明日の朝が勝負だ。
* * *
翌朝、私は夜が明ける前に厨房に立っていた。
「奥様、こちらは料理人の領分でございますが……」
白髪交じりの料理長が、困惑した顔で私を見ている。無理もない。嫁いで一日目の公爵夫人が、まだ暗い厨房を占拠しているのだから。
「お気持ちはわかります。ですが旦那様のお食事は、今日から私が管理いたしますわ。献立の組み立てと味付けは私が行いますので、下ごしらえや火の番はお任せしてもよろしいかしら」
料理長は少し考えて、「奥様がそこまでおっしゃるなら」と渋々頷いてくれた。
竈に火を入れ、水を量り、米を研ぐ。実家から持ち込んだ薬草の束を棚に並べ、乾燥させた棗と枸杞の実を小皿に取り分ける。棗は気血を補い、枸杞は肝腎を養う。衰弱した体にはまず、この二つが基本になる。
粥は水加減が命だ。多すぎれば味がぼやけ、少なすぎれば胃に重い。今のあの方に必要なのは、するりと喉を通る温かさだ。
(さじかげん、さじかげん……)
味見をして、ほんの少しだけ塩を足す。棗の甘みが前に出すぎないよう、枸杞の量を微調整する。匙の上で粥が揺れる。——これでいい。
朝食の支度を整え、食堂へ向かう。
長い廊下を歩きながら、私はこれから会う「患者」の情報を頭の中で反芻していた。二十七歳、男性、公爵家当主。文武両道の才人として知られていたが、一年前から原因不明の衰弱が始まり、王都の名医を含む複数の医師が匙を投げた。食は細く、一日の大半を寝台で過ごしている——。
医師が匙を投げた。けれど、薬師の匙はまだ残っている。
食堂の扉を開けた。
窓際の席に、その人はいた。
白い。
それが第一印象だった。肌も、唇も、長い指先も。陽光が差し込む窓辺にいるのに、光を吸わない体。風が吹けば消えてしまいそうな——そんな危うさを纏った人だった。
体は痩せて、かつて鍛えられていたであろう肩幅には服が余っている。椅子に腰掛けているというより、椅子に預けられているように見えた。
だが、目だけは違った。
深い藍色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。諦めの色はあった。けれど、濁ってはいなかった。まだ、光を映すことのできる目だ。
「——君が、フィオナか」
低く、静かな声だった。声にも力はなかったが、言葉は明瞭だった。
「はい。フィオナ・メディスでございます。本日より、旦那様のお傍に——」
「短い間だが、よろしく頼む」
微笑んでいた。穏やかに、柔らかく。まるで自分の死期をとうに受け入れた人のような、凪いだ笑みだった。その笑顔に悲壮さはなく、かえってそれが痛々しかった。
——ああ、この方は。
怒りでも悲しみでもなく、私の胸にすとんと落ちたのは、ひとつの所見だった。
(この方は、生きることを諦めていらっしゃる)
それは衰弱よりもよほど厄介な症状だった。体ではなく、心の問題だ。食事を改善しても、生きる意志がなければ体は応えない。
けれど——それもまた、さじかげん次第だ。
「では旦那様、まずこちらの粥を召し上がってくださいませ」
私は薬膳粥の載った盆を、彼の前に静かに置いた。
棗と枸杞の実で淡い琥珀色に染まった粥が、白磁の器の中で静かに湯気を立てている。ほのかに甘い香りが食堂に広がった。棗の温かみのある甘さと、米のふっくらした匂い。
レクシオ様は少し驚いたように器を見つめた。おそらく、これまでの食事は味気ない流動食のようなものだったのだろう。色と香りのある食事を、久しく見ていなかったのかもしれない。
やがて、細い指で匙を手に取った。
一口、掬って、口に運ぶ。
沈黙。
私は呼吸を止めて、その横顔を見つめていた。
「…………美味いな」
小さく、けれど確かに。かすかに目を見開いて、二口目を掬いながら。
その一言に、私は内心で拳を握った。
(味覚反応あり。嚥下に問題なし。二口目に自発的に進んでいる——良い兆候ですわ)
経過観察日誌の二行目が、頭の中で書き上がる。
私の匙加減は、まだ始まったばかりだ。
* * *
三日目。
「旦那様、本日のお食事です。鶏の薬膳粥に、蕪の葛煮、それから白身魚の蒸し物でございます」
食堂に並べた品数を見て、レクシオ様が瞬きをした。
「……昨日より、品数が増えていないか」
「はい。お顔の色が良くなられましたので、消化に負担のかかるものも少しずつ取り入れてまいります。こちらの蕪は体を温め、胃腸の働きを整える効能がございまして、葛でとろみをつけることで胃壁への負担を——」
「フィオナ」
「はい?」
「……美味い」
感想はいつも、この二文字だった。語彙が少ないのか、それともこれが精一杯なのか。
「——そうですか。では明日は、もう少し味に変化をつけてみますね」
私は空になった器を盆に載せ、食堂を出た。
廊下で、侍女のマーレンが待っていた。公爵家に長く仕える女性で、柔らかな皺の刻まれた顔にはいつも穏やかな笑みが浮かんでいる。レクシオ様の幼い頃からお世話をしているのだと、昨日聞いた。
「奥様。旦那様がお食事を完食なさったのは、もう何ヶ月ぶりでしょう」
「そうですか。……それは良い傾向ですわね」
「ええ、ええ。それにね、奥様」
マーレンは少し声をひそめた。秘密を打ち明けるような、楽しそうな口調で。
「旦那様、最近は朝お目覚めになるのが早くなりましたの。以前は昼近くまでお休みのこともあったのに、今は朝日が昇る頃にはもう起きていらして。食堂のほうをね、じっと見ていらっしゃるのですよ」
(起床時間の前倒し。生活リズムの改善。食事への期待が自律神経の調整に好影響を与えている可能性がある。これも記録しなければ)
「……ありがとうございます、マーレン。参考になりますわ」
「ふふ、参考、ですか」
何がおかしいのか、マーレンはにこにこしながら去っていった。
よくわからないけれど、とにかく日誌に書き留めておこう。
*
十日目。
「旦那様、食後に少しお庭を歩きませんか。軽い運動は消化を助けますし、日光浴は骨の強化にも繋がります」
「……庭か。久しく出ていなかったな」
レクシオ様は椅子から立ち上がるとき、少しだけよろめいた。反射的に腕を差し出すと、長い指が私の袖を掴んだ。
すぐに手を離して、「すまない」と呟く。
「いいえ。遠慮なくお掴まりくださいませ。歩行時のふらつきは筋力低下によるものですから、毎日少しずつ歩くことで改善いたしますわ」
「……君は、なんでも薬師の言葉で返すんだな」
「薬師ですもの」
公爵家の庭園は、手入れの行き届いた美しい場所だった。初夏の風が薔薇のアーチを揺らし、甘い香りを運んでくる。石畳の小径には木洩れ日が落ちて、歩くたびに光と影が交互に顔を撫でた。
並んで歩く。レクシオ様の足取りは、まだゆっくりだった。けれど、一歩一歩が地面を踏みしめている。
「あの白い花は、月下百合だ。母が好きだった」
レクシオ様が立ち止まって、小径の脇に咲く花を指差した。月の光のような白い花弁が、風に揺れている。
「まあ、月下百合。綺麗ですわね。——あの根は煎じると胃痛に大変良く効くのですよ。乾燥させて粉末にすれば、粥に混ぜても風味を損なわず——」
「……君は、花を見ても薬効を考えるのだな」
呆れたように——いや、少し楽しそうに、レクシオ様が笑った。声を出して笑ったのを見たのは、これが初めてだった。
頬に色が差している。三日前よりも明らかに。唇にもうっすらと赤みが戻り始めていた。
(血色の改善が顕著。外気浴と軽度の運動による血行促進の効果と思われる。——それにしても、この方は笑うとずいぶん印象が変わる。笑顔の記録は——いや、これは医療上の所見とは関係が——)
私は慌てて視線を小径に戻した。
「明日も、歩きましょうね」
「ああ。……明日も、頼む」
帰り道、レクシオ様の足取りは、行きよりほんの少しだけ軽くなっていた。
*
三週間目。
その日の夕食は、少しだけ手の込んだ献立にした。
蒸し鶏の薬膳あんかけ。鶏は消化に優れた良質な蛋白源で、生姜と長葱のあんが体を芯から温める。付け合わせに季節の青菜の炒め煮と、蓮の実と百合根の甘煮。蓮の実は心を落ち着かせ、百合根は肺を潤す。
レクシオ様の回復に合わせて、段階的に食事の質を上げていく。三週間前は粥しか受け付けなかった体が、今は固形の肉を噛んで飲み下せるまでになった。
レクシオ様は一品ずつ丁寧に口に運び、すべてを平らげた。箸の動きに迷いがなくなったのも、この数日のことだ。
器が空になった食卓を見つめて、少し黙る。匙を置き、また手に取り、また置く。何か言いたげに唇が動いて——。
それから。
「……おかわりは、あるだろうか」
小さな声だった。
恥ずかしそうに、視線を少しだけ逸らしながら。余命半年を宣告された公爵閣下が、頬をうっすら染めて、おかわりを所望している。
「ございますとも」
私は立ち上がり、厨房へ向かった。少しだけ——ほんの少しだけ、早足で。
(食欲の回復は極めて良好。胃腸の機能が正常域に戻りつつある。おかわりの自発的な要求は治療開始以来初めて。これは大きな進歩——)
……大きな進歩だ。
だから、嬉しいのだ。薬師として、患者の回復が嬉しいのだ。
それ以外の理由は、ない。ないはず。
厨房で蒸し鶏の残りを温め直し、あんをたっぷりかけてよそいながら、自分の頬が熱いことに気づいた。
(——おかしいな。厨房の竈が近いせいだ。きっとそう)
*
一ヶ月目。
その朝、目を覚まして窓を開けると、庭から規則的な風切り音が聞こえた。
見下ろすと——レクシオ様が、剣を振っていた。
銀色の切っ先が朝日を弾き、するどい弧を描く。一ヶ月前には匙を持つ手すら震えていた人が、長剣を片手で操っている。足運びは滑らかで、呼吸に合わせた正確な太刀筋が、朝霧の中に白い軌跡を描いていた。
この人は——もともと、こういう人だったのだ。文武両道と称された公爵閣下。衰弱がその姿を覆い隠していただけで、体の奥にはまだ、これだけの力が眠っていた。
思わず寝巻きのまま庭へ飛び出した。
「旦那様! お体に触ります! まだ激しい運動は早いですわ!」
「ああ、すまない。起こしてしまったか」
剣を下ろしたレクシオ様が振り返る。額に薄く汗が滲み、息は少し上がっていたが、その顔には——一ヶ月前には絶対になかった——生気が満ちていた。頬には健康な赤みがあり、目が輝いている。
「だが、少し体を動かしたくなったんだ」
「お気持ちはわかりますが、段階を踏んでいただかないと筋を痛めますわ。まずは軽い体操から——」
「久しぶりだな、こんな気持ちは」
私の言葉を遮るように、レクシオ様が呟いた。剣を鞘に収め、空を見上げる。朝焼けの残る空が、藍色の瞳に映っていた。
「……こんな気持ち、とは」
「朝が来るのが、楽しみだということだ」
その言葉を、私はうまく受け止められなかった。
胸の奥で何かが跳ねて、うまく呼吸ができない。
だから薬師の顔に戻って、「とにかくお着替えください、汗が冷えますわ」とだけ言った。
部屋に戻って、経過観察日誌を開く。
——一ヶ月目。患者の運動機能は著しく回復。自発的に剣の素振りを行うまでに至る。筋力、持久力ともに衰弱前の水準に近づきつつあるものと推測される。
そこまで書いて、万年筆が止まった。
ペン先が紙の上で小さな染みを作る。
しばらく迷って——余白にこう書き足した。
——旦那様の剣を振るお姿は、とても
三文字ほど続けて、慌てて線を引いて消した。
(これは所見ではない。こんなものは記録にならない。私は薬師だ。薬師として、客観的な観察を——)
万年筆のインクが、消し損ねた文字の上で小さく滲んでいた。
滲んだ文字は、よく見ると「綺麗」と読めた。
* * *
一ヶ月と十日目。主治医のリーゼル先生が、定期診察のために公爵邸を訪れた。
白髪に銀縁の眼鏡をかけた壮年の医師は、レクシオ様の脈を取り、瞳孔を覗き、胸の音を聴き、舌の色を見た。
そのたびに、銀縁の眼鏡の奥で眉が上がっていく。
「……これは」
聴診器を首にかけたまま、リーゼル先生は椅子に深く腰掛けた。呆然とした表情で、診察記録を二度読み返している。
「レクシオ殿。衰弱が、嘘のように回復しておられる。脈は安定し、顔色は良好、筋力も戻りつつある。……一ヶ月前に私が診た方と、同一人物とは思えませんぞ」
先生は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「そもそも——あなたの衰弱は、内臓や血液の疾患ではなかった。検査では何も見つからなかったのです。つまり、心が体を道連れにしていた。生きる意志を失った体は、自ら衰えていく。私はそれを止める術を持たなかった」
「そうらしいな」
「そうらしいな、ではありませんぞ。私が余命半年と診断した患者が、一ヶ月で剣を振っているのです。医学の常識が揺らぎます」
レクシオ様は穏やかに笑うだけだった。視線がちらりと私のほうに向いたのを、リーゼル先生は見逃さなかった。
先生の視線が、まっすぐに私に向いた。
「フィオナ殿。あなたは一体、何を食べさせたのです」
「特別なものではございません。基本的な薬膳食を、体調の変化に合わせて段階的に——」
「記録はおありか」
「はい。こちらに」
私は経過観察日誌を差し出した。一ページ目から順に、毎日の献立、食事量、顔色、脈拍、睡眠時間、起床時間、運動量、排泄の状態。すべてを項目立てて記録してある。
リーゼル先生はページを繰りながら、何度も頷いた。
「大したものだ。これほど緻密な食事療法の記録は、四十年の医師人生で見たことがない。学術的な価値すらありますぞ。……ところで」
先生の手が、日誌の後半に差しかかった。ページをめくる指が、途中で止まる。
「最後の数ページも、拝見してよろしいか」
「——っ」
私は反射的に日誌を取り返した。
心臓が跳ねている。背筋に冷たいものが走った。
最後の数ページ。あそこには——。
——今日のレクシオ様。粥のおかわりを二杯。嬉しそうに食べる横顔が、窓からの光に照らされて、とても綺麗だった。
——レクシオ様が庭の花を手折って持ってきてくださった。「これも薬効があるのか?」と笑っていた。薬効はない。でも、枕元に飾った。
——剣の素振りの後、レクシオ様が水を一息に飲み干した。喉が動くのを、つい目で追ってしまった。所見として記録する意味はまったくない。
……もはや経過観察日誌ではなかった。いつからか、ただの——日記に、なっていた。
「いえ、あの、最後のほうは少々走り書きが多くて、お見せできるような体裁では——」
「ふむ」
リーゼル先生は眼鏡の奥で目を細めた。すべてを見透かしたような、けれど責めるでもない、長い人生を歩いた人特有の穏やかな表情だった。
「フィオナ殿。薬膳の効能は確かに素晴らしい。記録を見れば、あなたの処方が理にかなったものであることは明白だ。だが——」
先生は一拍置いて、静かに言った。
「薬が彼を治したのではありませんぞ。あなたが毎朝、食卓にいたことが、彼を治したのです」
頭の中が、真っ白になった。
「……それは、非科学的です」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「非科学的、ですか」
リーゼル先生は立ち上がり、鞄を手に取った。帽子を被り、外套を羽織る。扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「ええ、そうかもしれません。ですがね、フィオナ殿。私は四十年医師をやっておりまして。——非科学的なことほど、よく効くのですよ」
扉が閉まった。
廊下を遠ざかっていく足音を聞きながら、私はしばらく日誌を胸に抱えたまま、動けなかった。
耳が、熱い。
指先が、震えている。
(私は薬師だ。私が行ったのは食事療法であり、経過観察であり、それは職務であって——)
——本当に?
小さな声が、胸の奥で問いかけていた。
おかわりを求められて嬉しかったのは、本当に薬師としての喜びだっただろうか。庭を歩くとき手を差し出したのは、本当に患者の転倒防止のためだっただろうか。朝、厨房に立つとき、あの人の「美味いな」を思い浮かべていたのは——。
答えは、もう分かっていた。
経過観察日誌の最後のページに、全部書いてあった。
*
その夜。
夕食を終えて食器を片づけ、自室に戻ろうとしたとき。
「フィオナ」
廊下で、レクシオ様が待っていた。
窓から差し込む月明かりの中に立つその姿は、一ヶ月前とはまるで別人だった。背筋が伸び、肩幅が広がり、頬には血の色が通っている。月光に照らされた銀灰色の髪が淡く輝いて、深い藍の瞳はまっすぐに私を見ていた。
けれど表情だけは、少し——不安そうだった。唇が微かに震えていた。
「旦那様。どうかなさいましたか」
「……君に、聞いてほしいことがある」
レクシオ様は壁に寄りかかるでもなく、まっすぐに立っていた。月明かりが足元に影を落としている。
「余命半年と言われたとき——怖くはなかった」
「……」
「ただ、空っぽだった。痛みも、悲しみも、怒りも、何も感じなかった。毎日同じ天井を見て、同じ流動食を流し込んで、意味もなく息をしているだけだった。生きていたいと思う理由が、ひとつもなかった」
淡々と語る声に、少しずつ感情が滲み始める。
「だが、君が来て——朝が、変わった」
「朝、ですか」
「ああ。目が覚めると考えるようになったんだ。今日はどんな匂いがするだろう、と。今日の粥は昨日と味が違うだろうか、と。蕪が出るだろうか、鶏だろうか、と。……くだらないだろう。余命半年の男の生きたい理由が、粥の味だなどと」
「くだらなくなど——」
「だが、それは粥の話ではなかった」
レクシオ様が、まっすぐに私を見た。
「匙加減も、味も、温度も、献立も。全部、君が決めてくれた。毎朝、日が昇る前から厨房に立って、俺の体に何が必要かを考えて、一さじずつ加減してくれた。食卓で、いつも真剣な顔をして俺の食べる様子を見ていた」
一歩、近づいてくる。月明かりの中で、藍色の瞳が揺れていた。
「君がいなければ、俺はとっくに——」
「旦那様」
遮ったのは、私の声だった。震えていた。
「それは——薬膳の効能であって、私の力ではございません。食材の組み合わせと調理法が適切であれば、誰が作っても同じ結果に——」
「違う」
静かに、けれど揺るぎなく。
「——君だ」
月明かりの中で、レクシオ様の瞳から諦めの色が消えていた。そこにあるのは——怖いくらい、まっすぐな光だった。
「フィオナ。俺が生きたいと思ったのは、君の粥が美味かったからじゃない。美味い粥を作る君が、毎朝そこにいてくれたからだ」
——ああ。
視界が、滲んだ。
止められなかった。薬師として、冷静であるべきだった。経過観察を怠らず、客観的な記録を取り続けるべきだった。それが私の仕事で、私の役目で——。
けれど、日誌はもうとっくに日記になっていた。薬師の目はとっくに、ただの女の目になっていた。
「……私も」
声が震えている。みっともないと思った。鼻の奥が痛い。こんなの、所見にも記録にもならない。
「私も、おかしいのです。日誌が、いつの間にか——旦那様の症状の記録ではなくて、ただ、あなたのことばかり」
涙が頬を伝った。
レクシオ様の手が、そっと伸びてきて——私の頬に触れた。大きな掌が涙を拭う。一ヶ月前には匙すら持てなかった手が、今はこんなにも温かい。
「……見せてもらっても、いいか。その日誌を」
「恥ずかしくて死にます」
「余命半年の男を生き返らせた人が、日誌ごときで死ぬのか」
「笑い事ではございません……!」
泣きながら笑ってしまった。最悪だ。薬師として、あるまじき顔をしている。涙と笑いがごちゃまぜになって、しゃくり上げるように肩が震える。
みっともない。こんなの、記録にも所見にもならない。
けれどレクシオ様は——嬉しそうだった。
それは、生きている人の顔だった。
*
部屋に戻り、並んで椅子に腰掛けて、二人で日誌を開いた。
一ページ目。
——患者名、レクシオ・ヴァルディーン。年齢二十七。症状、原因不明の全身衰弱。余命、半年。
「初日からこれか。……容赦ないな」
「事実の記録ですもの」
ページをめくるたびに、献立と所見が並ぶ。脈拍、体温、食事量、起床時間。淡々とした数字と、過不足のない文章。几帳面な文字が行儀よく並んでいる。
だが、日付を追うごとに——文字が変わっていく。
行間に「旦那様」という表記が増える。「患者」と書いていたのが、いつからか「レクシオ様」に変わっている。記録の横に小さな走り書きが混じり始め、消した跡や書き直した痕跡が増えていく。
所見と所見のあいだに、医療記録とは呼べない一文が紛れ込む。
——今日の粥は少し甘くしすぎた。でも美味しいと言ってくださった。明日は加減を戻そう。……いや、甘いほうがお好きなら、このままでも。
——庭の散歩中、転びそうになった私の腕を支えてくださった。握力の回復を示す好例。……手が大きかった。
——おかわりを二杯。嬉しそうに食べる横顔が、窓からの光に照らされて、とても綺麗だった。
——旦那様の剣を振るお姿は、とても綺麗だ。(消し跡あり。ただしインクが滲んで読める)
レクシオ様は、一行一行をゆっくりと読んでいた。その横顔を盗み見る。笑っている。目元が柔らかく緩んでいる。
そして——最後のページ。
そこにはもう、数値も所見も項目立ても書かれていなかった。
乱れた筆跡で、ただ一文だけ。
——今日のレクシオ様。よく笑う。よく食べる。よく眠る。
——ずっと、こうだといい。
レクシオ様が、日誌をそっと閉じた。
「……ずっと、こうだといい、か」
「……はい」
「なら——そうしよう」
シンプルな言葉だった。飾りも気取りもない、たった六文字。
けれど、余命半年を宣告された人が口にする「ずっと」は、どんな誓いよりも重かった。
私たちは並んで座ったまま、しばらく何も言わなかった。
窓から夜風が入ってきて、机の上の日誌のページがぱらぱらと揺れた。
一ページ目の「余命、半年」という文字が一瞬見えて、また閉じた。
もう、あの文字の出番はない。
* * *
翌朝。
いつものように夜明け前に起き、厨房に立つ。
今日の献立は、鯛の薬膳蒸し。白身の上に千切りの生姜と葱を散らし、棗の甘みを効かせたあんをとろりとかける。体を温め、気を補い、滋養を与える一品だ。
——ただし、今日は。
味見をして、少しだけ迷って、もうひとさじ。
甘みを足した。理由は特にない。薬効の観点からは不要な一さじだ。
なんとなく——今日はこのくらいがいい気がした。
食堂に運ぶと、レクシオ様はもう席についていた。最近はいつも、私より先に食堂にいる。窓から朝日が差し込んで、銀灰色の髪を金色に染めている。
「おはよう、フィオナ」
「おはようございます、旦那様。本日は鯛の薬膳蒸しでございます」
盆を置く。湯気が立ち上り、生姜と棗の香りが食卓に広がった。
レクシオ様が匙を取り、一口。
「——美味いな」
いつもの二文字。けれど今日は、その目がまっすぐに私を見ていた。粥ではなく、私を。
「……あと、旦那様」
「ん?」
「おかわりは、ございますので」
レクシオ様が目を丸くして、それから——ゆっくりと、嬉しそうに笑った。一ヶ月前には見る影もなかった、血の通った温かい笑顔だった。
「ああ。……いただこう」
窓から朝日が差し込んで、食卓を金色に染めている。湯気の向こうに、向かい合う二人分の食器。どこにでもある、ありふれた朝の風景。
けれどこの風景が在ることは、ほんの一ヶ月前には誰も想像していなかった。余命半年の男と、看取るために嫁いだ女。そのはずだった二人が、朝の食卓で向かい合って、おかわりの話をしている。
——さじかげん。
料理の味を決める、匙の加減。
けれど私が量っていたのは、たぶん、もっと別のものだった。
どれくらい関わるか。どこまで踏み込むか。いつ、薬師をやめて、ただの妻になるか。
その答えを、私はまだ匙の上で転がしている。
けれど今朝の鯛は、昨日より少しだけ——甘かった。




