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シロクマの王国

作者: Hellmärc
掲載日:2026/02/17

 レフティはありますか。

 それは、私が楽器屋に行くときに店員に言わなくてはいけない言葉。

 友人から勧められたエレキギターは、その殆どが右利き用だった。別に文句はない。世の中のものは殆どがマジョリティの為に設計されていて、左利き用のものは少ない。ハサミから何から、文字だって右利き用に作られている。


 子供のためを思って、幼少の頃から左利きの子供を右利きに強制する親は一定数いるのだという。イギリスのジョージ六世も親に強制されたというのだから、例え王族であろうともそれから逃れることは出来ない。だって相手は、きっとそれを愛だと思っているから。


 ――――キョウカ。そっちの手は使っちゃダメよ。


 幼い頃の恐怖が、頭を劈く。鳩なんかに脳を突かれているみたいな痛みだ。

 強制、顔を背けたくなるような言葉だと思う。


「なに? その不平不満を申し立てる寸前みたいな表情」


 利き手のことについて考える時、自分はそのような表情をしているらしい。けれどそんな思考の最中に鏡なんて見たことがないから、それが実際にどんな表情なのかは分からない。でもきっと、快くはない表情なのだろう。


「間違ってるわよ。思ってるだけ、言いはしないの」


 ティーカップを半回転させて、持ち手を左側に持ってきたキョウカは、それをゆっくりと持ち上げた。ダージリンの水面に反射する自分を見つめるが、彼女が言った表情をしているようには見えない。もう元の顔に戻ってしまったのだろう。それかキョウカが普通の表情だと思っているこの顔が、不平不満を申し立てる寸前の表情なのかも知れない。


「ここ、高いんだからさ。もっと雰囲気を味わわないと」


 エレキギターを勧めてくれた友人、カエラは一口サイズのサンドイッチを摘まみながら言った。彼女の短く整えられた艶やかなネイルに、吊り下がったシャンデリアが反射している。


「雰囲気なの? 味なんかじゃなくて」


「マカロンもサンドイッチも、駅地下なんかで良いものを買って、家で食べても実際の味なんて大差ないのよ。でもね、ここで食べた方が絶対に美味しい。だって家にはシャンデリアなんて付いてないし、こんなお皿だってない」


 三段のケーキスタンドをうっとりと見つめて、カエラは一番下の段にあったフィンガーサンドイッチを小さく、四分の一くらい食べた。囓ったと言った方がいいかもしれない。

 ケーキスタンドの二段目にはスコーンと各種のジャムが、三段目にはマカロンとティーケーキが置かれている。手を置くのも躊躇われるくらい白いテーブルクロスは小さな丸テーブルを覆っていて、周囲には普段の自分たちなら出会わないような装いの婦人たちが小さな声で微笑みあっている。いったい彼女たちは何を話しているのか。空間は静かで、口だって動いているというのに、その会話は妖精の囁きみたいにキョウカには聞こえない。


 夫がね、なんて単語だけ聞き取れた。その後にも息子が、というワードが耳に入る。何故か夫のことを話す婦人は悪口を言っていて、息子のことを話す婦人は自慢話をしているように見える。

 そんな婦人達の妖精の会話すら、この場所の格式を高めているように感じる。意味が聞き取れないことに意味があるようだった。紅茶を飲んで、少しだけ椅子に座り込む。いくら座っていてもお尻が痛くならないようなクッションを感じた。確かに、この調度品と雰囲気には価値がある。時間と機会、そしてお金があればリピートしたいと思ったくらいには。


 しかし心には疑問という靄が生まれた。予約の必要なアフタヌーンティを日常に取り入れられるほど、キョウカは華麗なる生活を送っていない。この店を紹介してくれたカエラも、この店に出会うような生き方をしているようには見えなかった。今日は淡い水色にストライプが入ったワンピースなんていう落ちついた装いだが、普段はボーダーストッキングなんて履いている子なのだから。いったい彼女は、何があってこの場所を知ったのか。


「それで、どんな人なの」


 マカロンを一つだけ食べた後に、キョウカは満を持してといったようにそう言った。それはここに来る前から決められていた言葉だった。


「一言で表して欲しい? それとも言葉を尽くして?」

「まず一言で。それから、言葉を尽くして」


 情報は多ければ多いほどに良い。キョウカがこれからすることを思えば、それはここのアフタヌーンティよりも価値があった。

 カエラはフィンガーサンドイッチを食べきると、ナプキンで指を軽く拭き取る。そしてネイルと同じくらい艶めいているリップに手を当てて、耳元で囁くみたいに言う。


「クールな人」


 抽象的に過ぎるが、それはキョウカの望んでいた言葉だった。カエラは続ける。


「アナタの想像通りで、口数は少ないけど、出てくる言葉は魅惑的。意味はよく分からないけど、なんだかロマンチックなの。まるで洋楽の歌詞みたい」


 英語が苦手なカエラらしい例えだが、英米文学科のキョウカにはイマイチな表現だった。


「どのくらい話したことあるの、あの人と」


 なぜ彼女が、彼のことを知っているのかも疑問だった。答えは推測できるが、あまり信じたくはない。なのでカエラが「三週間くらい」と言ったときはその短さに安堵した。


「サークルとか?」

「うんう。肉欲的なデートで」


 紅茶が揺れる。キョウカの動揺を体現したみたいに。だから、テーブルに零れたりはしない。


「どういう関係……」


 訊きたくはなかったが、訪ねないのも嫌だった。


「元カレ……たぶんね」


 カエラはマカロンを爪で突きながら言った。友人に元恋人を紹介するのが気まずいというよりは、何か暗い思い出を振り返っているように見える。


「どうして、たぶんなの」


 それが気になった。セックスフレンドを持つような相手は嫌だ。


「言われたことないから。愛してるだとか、彼女だとか」

「ロマンチックなのに?」

「ロマンチックだから、かな。まるで比喩表現を使って、直接的な言葉を使わないようにしてるみたいって、今なら分かるよ」


 酷い話だった。けれどそんな男子がいるのかと、キョウカは少しだけ感動した。軟派な口調の男だと軽蔑するべきかも知れないが、キョウカが望むのは舞台のような世界だったから。そしてシェイクスピアが好きだった。

 しかし問題が出てくる。カエラを髪の毛から胸下まで見つめてから、キョウカは自分を見た。鏡はないから、またダージリンの水面を使って。

 カエラはカナダ人のハーフで、線は細く肌も白い。髪だって地毛がブラウンだ。日本生まれの日本育ちで、両親が早々に離婚してしまいカナダ人の父と離れた為に、英語はまったく出来ないけれど、洋楽が好きだった。何を言っているのか分からないのが良いらしい。歌詞なんて意味が分からないくらいがいいというのが、ここ最近になって急に言い出した彼女の持論だった。その前は和訳を見ながら音楽を聴くのが趣味だったと思う。


「そんな元彼、友人に紹介するのね」

「訊いたのはキョウカじゃん。それに、良い人だよ。もっと長く付き合えてたら、手に入ったのかななんて思っちゃう」


 含みのある言い方だったので「彼が?」と訊けば、「愛が」とカエラは答えた。この短いやり取りだけで、彼女が振られたのだと分かった。ならばその理由は、何なのだろうか。


「どうして別れたの」

「地雷踏んじゃったから」


 カエラは笑顔でそう言った。未練を隠しもしないような満面の笑みだった。

 有り難い話だ。人の地雷は何度起爆しても撤去できないが、爆発に巻き込まれた相手を見て、その場所を知ることは出来る。


「その地雷を教えて」


 月のお小遣いを超えるアフタヌーンティも、その情報があれば幾分か軽くなってくれる。

 けれどカエラは、また違ったニュアンスの満面の笑みを作る。先ほどよりも晴れやかな笑みなのに、どこか気味が悪いそれをキョウカに向けて、カエラは拒否する。


「うーん、嫌」


 どうして、っと非難の意図を込めて彼女を睨む。けれどそんな視線が感知出来ないといった風に無視するから、仕方なく言葉にする。


「どうして?」


 すると彼女は頬杖をついて、自分の心を見つけたような視線でテーブルの中央を見た。そこにはアクリルスタンドに立て掛けられたプレートがあって、英文で何かが書かれている。その英文は心証的な言葉でもなんでもないのに、カエラはそこに気付けなかった自分の感情なんかが書いてあるように熱心に眺めてから、やっとキョウカに視線を戻す。そうして笑みを薄めてから、妖精の会話を真似したように、静かに言う。


「貴方も踏めばいいって、思ってるから」

 


















 

 それは、打算的な一目惚れだった。

 彼に出逢った瞬間に視界が狭まって鼓動が早くなり、呆然とするだなんていう、俗に言えばときめいたなんていう事はなかった。けれど瞳孔は開いただろう。衝撃はあったから、それは確かだ。ゼミで彼の姿を見たとき、ずっと探していたもの見つけたのだと確信したのだから。

 だからキョウカは、それを一目惚れにした。

 毛先の方は殆ど白くなるくらいブリーチが重ねられた金髪で、毛先と前髪の一部は深い青色に染められている。キョウカにとって大事なのはブロンドであることで、ふわりとした髪質も一目で気に入った。王子様はブロンド髪でなくてはならないから。


 白いリネンのシャツを第一ボタンまで留めて、綺麗にネクタイを締めていて、上にはスーツベストのように黒いジレを着ていた。夜が似合いそうな真っ白な肌に付けたれたシルバーアクセサリーと、朽葉色の瞳がキョウカの胸を打つ。

 中身まで見た目通りであればと願いながら、彼の内側について考える。けれど、最も大事なのは言葉選びだ。彼はどんな言葉を使って、どんな空気を纏って話すのだろう。それが劇的であれば、それは存在しないからと探しもしなかったモノになる。


 講義が終わるとシャッター音の鳴らないカメラアプリでこっそりと彼を撮って、駅まで少しだけ後を付けた。同じ大学で同じ駅なのだし、何番線に乗るかくらいは知ってもいい。

 それから写真を見返していると、なんだかバンドでもやっていそうだなと思って、ちょうどギターを教わっている最中の友人に電話で彼の容姿を伝えれば、偶然にも友人は彼を知っていた。それから交渉して、友人がもう一度行ってみたかったというアフタヌーンティを、キョウカが二千円多く払う約束で彼のことを訊くことが出来た。


「私って、貴方に全然似てないけど。チャンスがあるって思う?」


 全てのスコーンとケーキを食べ終えてから、カエラに訪ねた。ロマンチックを願いすぎて、キョウカに交際経験はなかった。だから短い期間でも付き合えていたカエラにジャッジして欲しくなる。背中を押してもらうということだ。


「キョウカって、夢見がちなくせにプライドは高いし、話し方も冷淡で愛想がない。気なんて使わないし、話しててもだいたい不機嫌そう」

「諦めろってこと?」


 不満げに言えば、カエラは首を振る。首とは反対の向きに、逆向きのハートのピアスが小さく揺れた。


「うんう。とっても彼が気に入りそう。きっと好きだよ、キョウカみたいな子。愛想がないくせに、妄想家なところとか」


 とても褒められているようには聞こえないのは、自己肯定感だけのせいではないだろう。


「そういう子が好きなの?」

「レアな子が好きみたい」


 自分に希少性があるかは分からなかった。他人よりも少しだけ珍しいといえるのは、せいぜいが左利きというくらいだ。けれど、やはり友人の言葉は後押しになってくれる。話しかける勇気だって見いだすことが困難だったが、少なくとも門前払いにはならないですみそうだと思えた。


「あと、考え事ばっかりしてるから」

「誰だってそう」

「違うよ。脳天気な子なんかはね、彼には似合わないと思う」


 思慮深い子が似合うのかと訊こうとしたが、それは何か違う気がした。


「でも、男になんて興味がないって感じだったのに、どうして彼?」


 さんざん訊いたんだから理由くらい教えて欲しいと、今度はカエラからの質問だ。そう思われていたとは心外だけれど、分からなかったのなら答えるしかない。それも予行演習を兼ねた言葉選びで。


「結局ね、人生には恋愛しかないのよ。ゴーチエ曰く」


 興味が無かった訳じゃない。興味を持てる相手がいなかっただけ。

 そう考えると、これは彼の好みと同じかも知れないと思った。きっと自分も、希少な人間が好きなのだろう。中学生の頃にシェイクスピアとゴーチエに出会って以来、キョウカはロミオを探していた。けれどそんな人はいなくて、高校は当然のこと、大学にだっていなかった。彼がいたから、そこには今まではという註釈が付くのだけれど。


「いつ別れたの」


 最後の問いだった。あまり時間が経っているのは良くない気がしたから。


「二週間前。そのくらい」


 そういえば、その頃にカエラは大学に来なかった。それ以外の変化が見られなかったことが、彼と彼女の関係を物語っているように思う。

 おおよそ十四日という期間は短すぎる気がしたが、とっくに他の誰かが代わりになっているくらいの時間が経っているよりはいい。


「……今、フリーってことかな」


 それは重要なことだった。

 


















 略奪なんて趣味じゃない。そういった物語を好まないという訳ではなかったけれど、現実では忌避している。それにキョウカは、純愛こそが至高だと思うから。第一、略奪されるような人は、いつかもっと良い人が出てきてしまったとき、そちらに行ってしまうに決まっている。

 けれどもっと言えば、既存の相手から恋人の座を奪い取れるほど、自分が魅力的である自信がないからだ。


 どんな服を着て、どんなメイクをしよう。

 殆ど考えたこともない悩みだ。オシャレは嫌いではなかったが、キョウカは母親からバイトを禁じられており、一ヶ月のお小遣いは一万円。高校まではそれでよかったが、大学生には心許ない。

 母親との教育に関する考え方の違いで、父親は別居している。別居してもう十年になるのに、離婚もしないで養育費を払い続けてくれているのが、父親の愛情だと思った。そして中学の頃から毎月送り合っている手紙には五千円札が入っていて、それがキョウカのお小遣いの半分だ。もう半分は母親から貰っている。頼めば次からの手紙には一万円札が同封されているかも知れなかったが、そんな我が儘を言うには、十年間も手紙のやり取りだけの父親は希薄すぎる。


 彼を見た。色素が抜けたのか、先週は鮮やかだった暗い青色のメッシュが淡くなっている。頬杖をつきながら、けれど真摯に講義を聴いていて、その杖にしている手にはいくつかのシルバーアクセサリーが煌めいていた。今日の彼は七分に捲ったグレーの柄シャツを着ていて、首元にはループタイが付けられている。杖に使っていない左腕にはヴェルサーチェのスカーフがブレスレットのように巻いてあった。

 日常生活でループタイなんかをする大学生が、いったい世の中にはどのくらいいるのだろうか。キョウカは彼一人しか知らなかった。

 こんなに見つめていて、自分の視線がバレないだろうかと考える。彼は二つ前の席にいるから気付かないとは思うけれど、気付かれて欲しいような気もした。よくない考えだと分かっているけれど、自分から話しかけるよりは、なんと思われようとも彼から話しかけて貰った方が楽だから。


 当番の二人組の発表が終わる。質疑応答の時間になって、数人のゼミの履修生が発表者に質問していた。つまらない質問だ。本当にそれが気になっているのではなく、質問することによる加点が目的になっている質問だった。

 彼の番はいつだっただろうか。もし彼があの黒板の前に立って、質疑応答の時間になったのなら何を訊こう。発表に関係しない質問は論外であるのは分かっているが、訊いてみたいことを想像する。

 彼は黒板の前に、洒落たバーテンダーのような格好か、あるいは文豪のような和装で立っている。このゼミで取り扱っている詩人に関して、彼の理知的で素晴らしい発表が始まり、童話を読み聞かせるような口調で話し出すのだ。発表はいつもより少しだけ大きな拍手で終わり、待ちに待った質疑応答の時間が来る。最も熱心に彼の発表を聞いていた少女は、熱い視線のままにこう訪ねる、「貴方の予定に、埋まっていない日ってあるかしら」。


 彼女の視線にとっくに気が付いていた彼は、きっと新月になる前の月のように薄い笑みを浮かべて、こう言うのだ――――


「ねえ。そのリボン、どうしたの」


 現実に引き戻される。

 想像の彼が、本物の声にかき消された。


「…………どうして」


 考えて、考えられなくて。やっと出せたのは回答ではなく問いかけだった。

 質問に質問で返すのはどうなのだろう、なんて言った後に焦ったけれど、彼は先ほどの想像と殆ど変わらない、消える前の三日月のような笑みを浮かべた。自分の想像力が凄いのか、彼が痛い女の想像通りであることが凄いのか、判断が難しかった。


「ずっとパンツスタイルだった女の子が、急にスカートを履いてリボンで髪を飾ってきたら、気にもなるかな」


 スカートが嫌いな訳ではない。ただ月曜日にガーリーな服を着て、それに合うメイクをするのが億劫であったから。彼の前ではいつもパンツスタイルだったのだろう。後ろ髪を纏めたバレッタにも、確かに彼を意識した青いリボンが付いている。しかし彼の言ったことは、必ずしも今まで口も訊いたことがない女子に声をかける理由にはならない。


「それだけ?」


 自分が、彼の立場だったらどうだろうか。カジュアルな服装ばかりしていた同じゼミナールを受講している男子が、急に服装を変えてアクセサリーを付けてきたら。果たしてそれを機に話しかけようと考えるだろうか。


「違うけれど、他にも理由がいるのかな」


 やはり、それだけではなかった。能動的に話してくれそうにはない彼に、キョウカは「いる」とだけ短く伝える。それを受け取った彼は、言いにくそうにしながらも訳を話してくれる。


「見られていたから、話したいのかなって」


 概ね目論み通りだったというのに、現実に言われると想像以上に羞恥心を揺さぶられる。キョウカの視線は思った以上に分かりやすかったようだ。


「オレも訊きたいことが出来たから。時間がとれるときに、話そう」


 そこには今日は無理だけれど、というようなニュアンスがあった。理想通りの展開に、それでも取り乱さないように注意を払って静かに頷き、それから連絡先を交換した。

 話しかけられないだろうから、どうにか頼んでカエラに紹介して貰おう。という計画は必要なくなって、恐らくデートと呼ばれるものの約束まで取り付けてしまった。それどころか、彼は少なからず自分に気があるのではないかという期待だって持てた。


「ところで、君って何年生?」


 このゼミは三年生と四年生が受講できる。だから学年が違う可能性があった。大学院に進むつもりなので就職活動などはしていないキョウカが、「四年生」と答えると、彼は少しだけ眉を下げて、どこか気まずそうに笑った。


「じゃあ、先輩か」


 彼は年下だった。

 


















 

 手を眺めている。

 まるで自分の人生の方位でも占うように、キョウカは掌を見つめていた。

 家を出る前にもしたことだが、もう一度ハンドクリームを塗る。とても落ちつく、ホワイトティの香りだ。本物のホワイトティを飲んだことはないが、カエラから誕生日プレゼントで貰ったこれを、キョウカはホワイトティの香りだと疑っていない。

 今日の目標は、手を繋ぐことだ。だから普段はあまり付けないハンドクリームだって塗っている。けれど手を繋ぐ以上のことはしたくない。でも彼は良い匂いがするだろうから、きっと持っているだろう色香に惑わされないかが不安だった。


「何か書いてある?」


 肩の上に彼の顔があった。ピタリとはまるように顎がおかれて、頬が付きそうになる。鼓動は早くなるどころか止まるようで、横目に彼の顔が見える。羨ましいくらいに長い睫毛があって、それを蝶の翅のように瞬かせている。翅の奥には青い瞳が納められていて、大学で見た彼の目は水中の枯れ葉のような色だったから、その青さはカラーコンタクトなのだと分かった。毛先が白くなるほどの金髪には、とてもよく合う色だ。


「……人生とか」


 心臓はまだ動かない。もう止まってしまったのかも知れない。それか、うるさいだけの心臓のことなんて忘れてしまったのだろうか。


「分かったら面白いね。いや、どうだろう」


 改札前の金属策に立っているだけなのに、彼は天上に隠された空に想いを馳せる詩人のようだった。そんな詩人はキョウカが眺めていた手を、生地の質を確認するみたいに取る。早速ハンドクリームが役に立った。


「生命線、長い?」

「比較できるほど、他人の手に興味を持ったことないの」


 けれど、彼の手は気になった。

 キョウカは自分の手を握る、銀細工に彩られた骨張った手を眺める。キョウカのものより大きく、色が白い。太陽が彼を嫌っているような白さだ。

 柔らかさでも確かめられているのか、握られた手は軽く力が込められてから緩められるのを繰り返していた。それはまるで鼓動のようで、忘れた心臓がそこにあるように思えた。


「オレの生命線、途中で途切れてるんだ」

「途切れてる?」


 その部分が引っかかった。短いのではなくて、途切れている。


「そう、途中で他の線に切られてる。でもそこから、少しだけ続くんだ」


 言いながらも、彼は手を開かない。


「きっとオレは、人生が終わる前に死ぬんだよ。それで異界にでも飛ばされて、そこで少しだけ生きる。特別な力なんかを持っている訳でもないから、異界なんかじゃ長く生きられないんだろうね」


 嘘だと思った。彼は魔方陣が描かれたケープ付きの上着を羽織っていて、ポケットからは懐中時計のチェーンが出て、シャツに付いているリングに引っかかっているなんていう、いかにも超能力なんかを持っていそうな見た目でいうから。大きくもない東京の駅には似合わない服装だ。それこそ、異界なんかにいた方がしっくりくる。


「それが、貴方の運命?」

「いや。オレの、手のひらの中の人生」


 掌の中の人生。そう言われれば、彼の手を見ない訳にはいかなかった。けれど、未だに彼はキョウカの手を握っている。


「手……繋いだままなの」


 もう今日の目標を達成してしまったけれど、(ほど)いて欲しい訳でもない。そんなニュアンスを精一杯に込めて言えば、彼は「あぁ」と困ったように唸ってから後ろ髪を弄る。そうしてキョウカの手を持つのではなく確りと握って、ニヒルに微笑んだ。


「開ける鍵、無くしちゃったんだ」


 これだ。手を繋ぎ続ける言い訳であっても、こういう言い方をしてくれる人を探していた。 あまりに感動が強くて、胸をときめかせることだって忘れてしまったが、顔はちゃんと赤くなった気がした。チョロい女だと思われていないかだけが気がかりだ。


「行こうか」


 鍵は無くしたままにしようと思った。少なくとも、何処かに辿り着くまでは。

 キョウカはどこに行くのかを知らない。待ち合わせ場所を知っているだけだから、彼に手を引かれるままに付いていくしかない。カラオケなんかに付いたら幻滅して、ホテルに連れ込まれそうになったら一考はする。なんて期待しない展開をシミュレートしていたけれど、彼はキョウカの想像よりも想像通りの人だった。


「こういうところ、好きかな」


 そこはカウンターにはハンキングチェアと、ヒッピーの服のように毛の長いソファが敷かれたそれなりの広さがあるカフェだった。ゆったりとした森の中のような音楽と、ちょっとした植物園くらいの観葉植物が迎えてくれて、レジではジビエのジャーキーやドライフルーツの販売もやっている。


「分からない。入ったことないから……」

「じゃあ、気に入ってくれるように努力するね」


 それはどういった努力なのだろうか。彼は私がこういったカフェを気に入るために、何をしてくれるのだろう。彼の言葉は何処か欠けていて、想像力を刺激する。「脳天気な子なんかはね、彼には似合わない」、そう言っていたカエラの言い分がよく分かった。確かに、そんな子に彼の言葉は勿体ない。

 何組かのカップルがいる店内を進む。店員は注文を訊くだけで、案内なんかはしてくれないシステムであるらしい。店内を歩けば、最初のデートにはピッタリだと思った。まだ日は高く、ロマンチックよりもリラックスが合う時間だから。


「此処にしよう」


 言われるがままに、毛の長い毛布が被せられたようなソファに座る。対面にもハンキングチェアがあったけれど、彼はキョウカの隣に座った。女の子の隣に座ることになんの疑いも持っていないような、迷いのない動きだった。

 名前もよく分からないカラフルなドリンクを頼んで、メニューを見直してから高いなと思う。カエラとのアフタヌーンティのせいで、財布の中はとても寂しい。


「おなか減ってない?」

「少しだけ……」


 こういう時、ちゃんと食べていいのか迷う。朝起きてから水しか飲んでいないので空腹ではあったが、無難にサンドイッチでも頼もうと思った。またメニューを見る。鹿肉のカレーが写真付きで大きく書かれていて、サンドイッチはそこに添えられるように小さく書かれていた。


「カレーと、このミルクレープを」


 先に彼が注文した。やはり男の子は食欲旺盛なのだろう。


「カレー、食べるの」

「オレはミルクレープ」


 じゃあカレーは何? という意味を込めて首をかしげれば、彼はキョウカと視線を合わせるように頬杖をついて、首を少しだけ傾けた。


「おなか、減ってそうだから」


 なんて笑顔で言われてしまえば、冷淡だなんだと言われているキョウカでも顔を赤くせざるを得なかった。


「……そんなに?」

「どうだろう。喉が渇いてる人は分かりやすいけど、お腹が減っている人は分かり難いから」


 でも合っていたみたいだねと、彼は静しげに笑む。爽やかに笑うのが苦手なのか、少しだけ冷たい。秋風のような笑い方だ。しかしこちらを玩んでいそうで、妙に腹立たしくなる笑い方だった。

 最初に注文したハーブティがマグカップに入ってやってくる。彼はオレンジブロッサムで、キョウカはワイルドベリーハイビスカスだ。一口飲めば熱く、どうしてか喉が渇いた。水分を取っているはずなのに、味が濃いせいで液体が口の中に張り付くようで、液化したハイチュウを飲んでいるようだった。


「不味い?」

「美味しくない」

「素敵な言い方だね」


 彼が飲むフレーバーティは美味しそうであった。カレーと違って直ぐに来たミルクレープと一緒に飲んでいるから、特にそう思う。

 口直しに別の飲み物を頼もうとメニューを開く。そうしたら、ホワイトオーチャードというグリーンティが目に入る。説明にはホワイトティがブレンドされていると書かれていて、ブレンドなので純粋なものではないのだろうが、本物はどんな香りがするのか気になった。


「君、利き手が独特だね」


 ミルクレープをまるで地質学者のような視線で眺めている彼が、視線をキョウカに移さないままにそう言った。化石でも探しているようだったので、キョウカもミルクレープの生地とクリームの層を見てみるが、彼とは違って、そこから何かを見いだすことは出来そうにない。


「別に、ただの左利き」


 左手でカップを持って、美味しくもないハーブティを一口だけ飲む。素直に不味いと言っていればよかったような味だ。


「そうだったんだ」


 キョウカの言動を見て、彼はあからさまに驚いた。瞳孔を開いて、頬杖を辞めて、肩は微かに上がっていたから。驚嘆していたと言ってもいいくらいだった。

 それからカレーが運ばれてきて、テーブルに置かれる。店員が「ごゆっくり」と愛想良く言って立ち去ると、それを待ったいたのか、囁き声で彼が言う。


「君って、右利きなんだと思ってた」

 


















 小さい頃、母に利き手を強制された。

 まだ羊水の中で揺られていたときからクラシック音楽を聴かされて、習い事はピアノとバレエだった。そういった教育と同じように、キョウカは左利きになるように強制された。

 母なりの愛情で、芸術的な子供を育てるための最善策だと疑わなかったのだと思う。利き手の左右なんて才能には何の関係もないのに、左利きであることを求められた。多くの親とは違って、娘をマイノリティにしようと必死だったのだろう。

 クリエイティブな子供が欲しかったのだと、母は言っていた。でも思ったものと違ったから、思ったモノに近づくようにと無理矢理に取り繕うとしたのだ。父親とはそういった教育への価値観の違いで別居になって、手紙と養育費だけが届くようになった。


「キョウカ。そっちの手は使っちゃダメよ」


 母に手を挙げられたことは一度もない。怒られたことも、数えられるほどにしかない。影響を受けやすい母だから、子供は褒めて育てるのが良いのだと、何かの本で読んだからだろうと思っている。

 けれど何度も、それは続いたのだ、優しく、諭すように、母は何度もキョウカに言った。昔話を語るように言い聞かせた。


 ――――そっちの手は使っちゃダメよ。


 いつからかその言葉はなくなって、何を使うにも自然と左手を使うようになっていた。元々利き手だった右手は、意識的に使わないようにしていた反動なのか、箸を持つことも出来なくなって、右手を使おうとするたびに母の言葉が頭の中で反芻される。


「……どうして、そう思ったの」


 きっと、自分は彼を睨んでいるのだと思った。今まで誰にも悟られなかった秘密を、一時間も話していない相手に言い当てられて、名探偵の推理を聞かされる殺人犯のような気分だから。目つきが悪くならないはずもない。

 そのようなキョウカの視線も気にせずに、彼は飄々と話し続ける。


「利き手って、生まれ付きだから。だから咄嗟に動くのは利き手なんだ。君さ、オレが驚かせたとき、右手の方を上げていた」

「それだけ?」


 その程度の行動で、人の利き手を判断できるとは思えない。


「あとは、そうだな。右手、使わないようにしているみたいだったから。小さい頃に、教育熱心を履き違えた親なんかに直されたのかなって」

「…………」


 想像以上に核心を突いた言葉に、押し黙るしかなくなる。彼は嘘には敏感そうだったから。けれど沈黙も、彼の推測を裏付けるものにしかならない。

 せっかくのデートなのに、こんな状況で、これから何を話せば良いのだろう。


「左利きって、大変じゃないかな」


 君は偽物だけれど。その言葉には、そういった続きがある気がした。けれど実際に困ったことはあったし、黙秘するほどの質問でもない。


「改札は反対だし、ハサミも使いにくい……習字なんかも、左利きには向いてない」

「世の中のものはマジョリティに向けて作らないと、上手く回らないから」


 いろんな事に不自由して、左利きにされたのは自分を苦しめたかったのだろうかなんて思ったこともあった。右手は今も上手く動かなくて、使おうとするたびに母の言葉が宙を舞うガラス片のようにチラつく。


「利き手なんて……皆同じなら良かったのに」


 母はもう、キョウカに期待していない。普通の母親になってくれた。芸大に入れなかったキョウカに失望し、父が相談したせいで実の祖父母に叱られ、娘を芸術的な人間にする事などとっくに諦めている。それでも左利きであり続けようとするのは、失った期待への未練だろうか。

 雰囲気が悪くなってしまったと、言い当てる必要の無いことを話題に出した彼に非難の目を向けようとするが、彼を方を見れば青い瞳に捕まってしまう。どうやって生きていたら、そんなに真っ直ぐに人の目を見られるのだろうと言うくらいに、彼の双眸は射貫くほどにキョウカの目を見ている。


「君は、シロクマの王国に行きたいんだね」


 風が拭いたように髪が揺れるくらい、微かに身体を傾けて、彼は言った。


「シロクマの、王国……」


 知らない言葉を、キョウカは復唱する。自分の声で聴いても、やはりそれは知らない言葉だった。


「知っているかな。シロクマはね、皆が左利きなんだ」


 彼は、ホッキョクグマのことを言っているのだろうか。キョウカは他に白い熊を知らない。けれど皆が左利きだなんて、それはとても良い王国であるように思える。そこにはきっと芸術性を押し付ける母親も、本当の利き手を隠し続ける娘もいないから。

 彼は、話しを続ける。


「その白い世界には、差別がないんだ。平等って訳じゃないけど、平和と平穏がある。間違った事実は無くて、言葉は真実に満ちている。それが、誰も住まない白い世界」


「シロクマの王国?」


 そんなものがあるかと、キョウカは再び復唱した。


「そう。シロクマの王国」


 彼も続ける。けれど、そこにシロクマはいない気がした。


「そんなに良い場所なのに、どうして誰も住んでいないの」

「住んでいないんじゃなくて、住まないんだ。とても寒いからね」


 それだけが理由ではないと、行間に注意書きが書かれているような含みのあるイントネーションだった。


「そこは、何処にあるの」

 その日に付けていく腕時計を選ぶみたいに逡巡する様子を見せてから、彼は小さく口を開く。


「南極」

「シロクマって、ホッキョクグマのことじゃないの?」

「そうだね。でも北極には人が住んでいて、ホッキョクグマがいるから」


 答えになっていそうで、何も答えてはいない返答だ。けれど、彼はそれこそがシロクマの王国なのだという。「実際はホッキョクグマは全員が左利きじゃないし、南極にはシロクマじゃなくてペンギンがいる」のだと、今までの話しが全て嘘だったかのように言ったけれど、それでもと続ける。


「何処にも無いから、理想の場所なんだ。誰もいないから、夢のような所なんだ。そこはただ白くて、愛以外は何も無い。月の無い夜でも、星明かりだけで世界が見える。そんな王国」

「……シロクマの王国」


 それ以外の言葉では表せない、何処にも無い白い王国。雪原でも氷塊の上でもない、何処までだって白い大地を夢想する。そこには何があるのだろう。木々は、川は、空の色はどうなっているのだろうか。きっとその全てを知っているのだろう彼に、その知りうる全てを訪ねてみたくなる。知っているのでは無く、行ってきたような口ぶりで聴きたい。それは箇条書きのように聞かされるよりは、物語のように話して欲しかったから。

 けれどキョウカには捻くれた質問が思い浮かんで、どんな素敵な情景よりも、それが気になってしまった。


「でも王国なんだから、王様はいるんでしょ」


 だからこそ、彼は平等ではないと前置きしたのだろうか。彼は少しの迷う様子や考えるそぶりも見せないで、「鋭いね」とだけ言ってから、少しだけ曖昧に答える。


「きっとそこに辿り着いた人は、王様になれるんだよ」

「王様は、何が出来るの」


 あるいは、何をしなくてはいけないのか。


「さあね」


 本当に知らないのだと、ハーブティを飲みながらに肩をすくめる。


「けれど何も出来なくて、何もしたくないから。彼は王国を目指したのかも知れない」


 半分ほど中身の減ったマグカップを、羊毛フェルトのような質感のコースターに乗せる。音なんて鳴らないはずなおに、ソーサーの上に置いたときのように陶器同士がぶつかる幻聴が、やけに大きく聞こえた。疲れてしまったので背もたれに体重を預けると、毛長のソファからはパイプ椅子のような軋みが聞こえる。もしかすれば自分は音がすり替わった世界に入り込んでしまったのでは無いかと考えて、「ぁ」とだけ声を発してみるが、それは確かに自分の声だった。

 刹那の酔いだったように思う。原因はシロクマの王国の話しか、ワイルドベリーハイビスカスなのか。あるいは彼が持つ雰囲気のせいなのかは、キョウカには分からなかった。そしてそれは分からない方が良いことのような気がした。


「貴方って、シロクマの王様だったりするの?」

「誰かの王子様だったことはあるけど、王様はまだないかな」


 気分を害された。その通りなのだろうが、デート中の女の子に言う台詞ではないだろう。目つきに出やすいキョウカの視線に気が付いたのか、彼は目を伏せて笑んでから、「冗談だよ」と言ったけれど。嘘だとは言わなかった。


「オレは王様なんかじゃないよ。今のオレが辿り着ける場所だとしたら、そこはシロクマの王国じゃないんだ」


 それならと、キョウカは訪ねる。


「どんな人が、王様になれるんだろう」

「どうだろう。ただ少なくとも、赤の女王みたいな人でも、サウロンみたな魔王でもないだろうね」

「どうして?」

「歩き疲れた人が辿り着く場所で、支配から逃げてきた人が見つける場所だから」


 赤の女王仮説、そんな言葉が浮かぶ。きっと彼も同じ理由から言ったのだろう。ただ、キョウカは指輪物語を読んだことがない。


「私が、行けると思う……?」

「シロクマの王国に?」

「シロクマの王国に」


 彼はキョウカを見た。彼女の耳が赤くなっていくくらいには見つめて、観察した。それからゆっくりと時間を使って言葉を探して、答えを見つけ出す。


「……一生って時間を想い続けるくらい欲しいものがあって、それを諦めずに願い続けて。それでも、もう進めなくなってしまうくらいに、疲れてしまったなら」


 きっと辿り着ける、とまでは言わなかったけれど、その結末の欠如した言葉こそが、シロクマの王国への道であるのだと、キョウカには漠然と理解できる。彼が言いたいこととは違ったのかも知れないけれど、間違いではないのだ。

 キョウカは左手を見た。偽物の利き腕を見つめて、その手でワイルドベリーハイビスカスの入ったマグカップの取っ手をなぞる。


「行きたいな……欲しいものは、だいたいが手に入らないから」


 けれど、自分にシロクマの王国に辿り着けるほどに願ったものなどあっただろうか。これまでの人生で、何をどれだけ欲しいと願って、何が手に入らなかったのかを考える。そして、今でも欲しいと想い続けているモノのことを。

 日が傾いて、瞳の中に眩しいまでの光が入ってくる。思わず目を細めて右側に顔を背ければ、人の影が静かに遮光してくれて、自分が彼の方に顔を背けてしまったことに気が付いた。


「ぁっ……」


 それは自分ではない、とても可愛くて愛想のある誰かの声に聞こえた。

 だって、キスなんてされていたから。


「…………なに」


 短すぎる、本当に触れたのか確証が持てないくらいの時間だったから、キョウカから出てきたのはふてぶてしい言葉だけだったけれど、彼はそんな視線なんかは意に介する事も無く笑っている。忌々しいくらいにはタイプな笑みだ。


「欲しいもの、あげようかなって」


 相当な自信があって、なおかつの湖に写る自分に見惚れて死にそうな男でないと出来なさそうな行動だ。そういった言動なんかを悪くないと思ってしまっている自分が憎らしい。


「……欲しそうだった?」


 キス待ち顔でもしていたのかと、不思議なファーストキスを経験したキョウカが訪ねると、彼は無責任にも首をかしげる。


「どうだろう。でも、いらなかったなら、返してくれてもいいよ」

「じゃあ、貰っておく」


 ふてくされながらも、キョウカはそれを受け入れる。自分からしなかっただけ勝ったと思うことにしたのだ。

 そして不意に、自分はこれから彼を手に入れられなかったのなら、いつかシロクマの王国に辿り着けるのだと思った。

 ろくな人間ではないということは、短い時間でも充分に理解できたけれど、夢物語を叶えるには、好んで悪夢に足を踏み入れなくてはならないときがある。


「そういえば、どうして貴方はシロクマの王国には行けないの?」


 そんなもの必要なさそうだから、求めていないからなのだろうかとも思ったけれど。視線を流した彼はニヒルに笑って、そんな口元を隠すためかのようにティーカップを持つ。


「まだ、歩いてる途中だからかな」


 あぁ、とキョウカは納得する。

 きっと彼にも、シロクマの王国が必要なのだろう。

 

面白かった星をくれ。夜は明るい方が良いだろ。あと、暇ならこっちも読んでくれ―――― https://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/3063620/

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