その2
いったん目をぎゅっと閉じてから、ゆっくり開けた。
鼻先に冷たい風。手のひらには乾いた土のざらつき。指でこすると、ぱらりと崩れる。
耳の奥では、水の流れる音が細く長く――静かに続いていた。
薄れていく記憶を追う。さっきまで見ていたのは……夢。どんな夢――。
(……夢?)ほっぺをつまむ。
「痛っ。……はぁ、ガチの現実っぽい」
喉に指を当てる。いつもはない固い出っ張りが指先に触れた。
(声、低い。目線、高い。手、ちょっと大きい――やっぱり男の人の身体)
上体を起こす。膝の位置がいつもより上で、立ち上がると一度ふらつく。
「落ち着いて。ゆっくり、ゆっくり」
身なりを確かめる。粗い布のシャツ、紐で縛るズボン。
首には見慣れない藍の手ぬぐい。驚くほど肌になじむ上質さだ。
ひゅうっと風。落ち着こうとするほど、視界がにじむ。
(泣きそう……お母さん……)
深呼吸をひとつ。吸って、吐く。にじみは少しずつおさまった。
おぼろげに夢で会った月桂冠のおじさん――神さまと名乗った顔が浮かぶ。
(あの人の……せい? ここ、別の世界? 「願いを叶える」って――なんで性別まで)
胸の奥に、言葉にならない重さがずしりと落ちる。
「これ、どうやって戻るの……」
川べりにしゃがみ、もう一度水面をのぞく。
見知らない青年の顔。私が息をのむと、向こうの口元もわずかに動く。
(これが、私……)
熱くなる目頭を手ぬぐいでそっと押さえる。輪がゆっくり広がって、なかなか消えない。
風が梢を撫で、小鳥がひと声。
思い直して周囲を見渡す。湿った草、遠く風の音。
少し歩くと、足元の砂利に細い車輪跡が一本、まだ新しい筋を残していた。
(定期的に何かが通ってる。近くに人、いる――前向きに前向きに)
大声を出すか、喉が迷う。
(でも、何がいるかわからない。今は静かに少し待ってみよう。それで、人を見つけて、話して、場所を聞く)
右手の親指が無意識にポケットを探る。空っぽ。
「スマホもお財布も、行方不明……」
もう一度、深く息を吸い、小さく声に出して整理する。
「優先順位――一、ひと見つける。二、情報。……泣くのは後回し」
立ち上がって川沿いの細い道を見る。
下流は茂みに隠れ、上流には小さな石橋。草むらは背丈が高い。
(逃げるなら、橋側に下がれる)
――そのとき、風に低い軋みがまじった。
続いて、がらがらと乾いた車輪の音。薄く土埃の匂いが流れてくる。
心臓が速くなる。手ぬぐいを握り直す。
(人……? どうか、人で)
私は一歩だけ下がり、足場を確かめる。
茂みが、静かに割れた。
先にのぞいたのはロバの耳。続いて、棒で草を払いながら日焼けした男が現れる。肩と腕は細いが固く、腰には短い刃物。視線がよく動いている。
私を見るなり、男の肩の力がわずかに抜ける。人だとわかって、呼吸が戻る。
数歩手前で男は止まり、距離を保ったまま低い声を落とした。
「大丈夫か、兄ちゃん」
「あ、はい。えっと、ここ……どこですか」
その一言に、男は私の腰、足元、川筋を順に確かめる。刃物は抜かないが、用心は解かない。値踏みする目だ。
「妙なことを言うな。こんな所で人に会うのは珍しい。道を外れたか」
「外れました。……たぶん、だいぶ」
男の目が、しばし考えたあと、ほんのわずかに細くなる。
「ここは川上のわき道だ。人の立つ場所じゃない。危ねえのは森の奥だが、川べりでも長居はよくない」
「そうなんですね……」
胸の固さが少しほどける。(よかった、話ができそう)
男は棒を地面に立てかけ、言葉を継いだ。
「町は上流側。俺はちょうど向かうところだ。——でだ」
男は黙って私を見る。返事を待つ視線。私が口をつぐむのを見て、何かを決めた顔になる。
「教えとく」男はわずかに声を硬くした。
「この辺りじゃ話すことも道案内も運ぶ手間も、みな品だ。ほしい相手にただで情報をくれてやるのは、こっちから盗られるのと同じ、ってのがここらの考えだ」
強めの調子に、肩がぴくりと跳ねる。
「……交換するものが、あればいいってことですか」
「そうだ。お前が盗人でなけりゃな」
突き放すほどではないが、線は引いている。私は持ち物をもう一度たぐり、首の藍の手ぬぐいに触れた。
「何もなくて……これしかありません。これ、価値ありますか」
男は受け取り、光に透かして糸目を見、布端をぱちと弾く。
「いい織りだ。藍が澄んでる。専門じゃねえが、一級の布ってのはわかる。——本当にいいんだな」
うなずく。手放しがたい感触に掌が汗ばむ。(でももう情報をもらってるし。もっと情報をもらわないと——)
男は手ぬぐいをきちんと畳んで懐にしまい、台車の箱を探った。
大きめのパン、干した実を二つ、そして革の水筒。
「このままだと、こっちが受け取りすぎだ。だから足す」
水筒を軽く持ち上げる。「それとな。ここいらは水に値打ちがある。井戸も湯も許可の札だ。勝手に汲むな。せめて喉を湿らせるくらいでやめとけ」
水筒が手に押し当てられる。金具から冷たさがじわりと伝わる。
(直飲み……でも、ここは)
一口だけ飲む。冷たさが舌を洗い、喉を落ちていく。胸のざわめきが半歩だけ静まった。
「……ありがとうございます。おいしいです」
男の口の端がわずかに上がる。
「道理に合う取り引きは腹にもいい。ここの言い草だ。覚えとけ。俺はガラン」
「私は——」と言いかけて、喉で止める。呼び名を選ぶ一瞬の逡巡。
「……ミナトです」
「ミナト、か。いい名だ。——ここで止まってると目につく。町まで案内してやる。ついて来い」
私はうなずき、パンを小さく割って干し実と一緒に口に入れる。
甘さがじわっと広がり、肩から力が抜けた。(甘いと、落ち着く)
川沿いの道を、ロバの歩みに合わせて進む。
木の軋みまじりの車輪音が、草の匂いに溶けた。私はどこまで話していいのか測りかね、出せるのはごく簡単なことだけ。ガランはしばらく聞き手に回り、言葉の端から必要な情報だけを拾っていく。
「見立てどおりだな。迷い人ってやつだ」
ガランは肩を小さくすくめた。「噂では聞いてたが、実物は初めてだ」
(私以外にも、来たことのある人がいる——)
その一言が、胸の奥に小さな灯をともす。
「町に入る前に、まず門の詰所だ。困りごとの窓口がある。お前の話は軽く通してやる」
私が質問しようとすると、ガランは掌を軽く上げて制した。
「それと、おそらく教会へ回される。俺からも聞きたいことはあるし、お前にもあるだろうが――説明を聞いてからにしよう。順番は、詰所→教会だ」
(教会……何か決まりがあるんだ)
「はい」
「だからだ」
ガランは横目で私を確かめる。
「教会に行く前に、むやみに喋るな。こっちじゃ聞かねえ地名や、知らねえ道具の呼び方、妙な知恵——そういう匂いに鼻の利く連中がいる。興味本位が集まると、ろくなことにならねえ」
ひと拍置いて、言葉を選ぶ。
「ここで何が良くて何が悪いか、まだお前は知らねえ。わかるまでは危ない。教会でその辺を先に学べ。……それと、禁忌を踏めば火あぶりだ。『知らなかった』は通らん。気をつけろ」
私は思わずぶんぶんとうなずき、手の中のパンを落としかけて慌ててつかんだ。(火あぶりは無理。絶対いや)
「質問されたら、どう返せばいいですか」
「短く。『わからない』『後で』で切り抜けろ。困ったら黙れ。沈黙は金だ」
「覚えておきます」
ガランは前を見たまま、声を少しやわらげた。
「脅かしたが、セーレンはわりあい自由な町だ。多少は目をつぶる。長くいりゃ、そのうち勝手に馴染む。急ぐな」
「……はい」
少しして、ガランがふっと笑う。
「ミナト。ちょいと目つきは鋭いが、言い方は柔らかいな。悪くねえ。丁寧で損はしねえ。ただ、呑まれないようにしとけ」
胸の奥で呼吸がひとつ静まる。
(最初に会ったのが、この人でよかった)
「ありがとう、ガランさん」
「ふっ、妙なやつだ」
ロバの首筋をぽんと叩く。「行くぞ」
道がゆるく折れて、視界が開けた。
うっすら湯気をまとう灰色の建物が立ち、その足元から布がはためく市場通りがのびている。
人の声。笑い声。蜜の甘い香りに、どこか獣脂の匂いが混ざって、空気が少しあたたかい。
人の気配に安心し、知らない顔ばかりに不安が影を落とす。飲み込まれないよう、次の手順を並べる。
——門の詰所、教会、迷い人の扱い、これからのこと、帰り道の手がかり。
私は小さく口の中で「ぼく」とつぶやき、うなずいた。
「ガランさん、よろしくお願いします」
「おう。詰所が見えてきたな」
ロバの鈴が、からんと鳴る。
川風に背を押されるみたいに、私たちは門へ歩いた。
投稿したつもりができてなかった。 コミカルってむつかしいね、時間があくとさらに内容のつなげるのも苦戦する。




