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供物

 翌朝、いつも以上に早起きした僕は、屋根裏部屋の奥から引っ張り出してきた全身鏡の前に立った。


 右手を顎へ。左手をこめかみへ。目に余るほどの滑稽さを自覚しながらも、腰をしっかりと落とし、鏡のなかの自分の顎めがけて、下手くそなジャブとストレートを無心で繰り出していく。


 朝焼けの赤に染まった、見えないボクシンググローブを両手にはめて。


 数分足らずで、まずは額、次に顔、そして胴体から、滝のような汗が吹き出してきた。


 これならランニングよりも遥かに短時間で、なおかつ効率的に有酸素運動をこなすことができる。


 折しも、ランダム再生にセットしたプレイリストが、Black Flagの「Depression」をスピーカー越しに鳴らし始めた。


Depression's got a hold of me. Depression, gotta break free.

Depression's got a hold of me. Depression's gonna kill me.

(この鬱屈とした気持ちから、一刻も早く解放されなければ。無惨にも殺される前に)


 絶望をはね退けるための創作。創作を完遂するためのトレーニング。トレーニングによる体の疲れを癒やし、再び創作に向かうエネルギーを補充するためのセルフケア。


 今ならクリアに分かる。創作とは、現実の厳しさに萎え削がれた心をいち早く修復し、クソッたれな人生に歯向かうための胆力を取り戻す最善の手段なのだ。と同時に、簡単には克服できない過去の痛手を治癒する妙薬にもなるし、一旦は退けても、いつまた襲ってくるとも分からない不安に対抗するための有効的な精神鍛錬にだってなる。


 僕は他の誰のためでもなく、まずは自分自身の魂を救うために渾身の作品を創るのだ。己という名の絶対王に献上する、完全無比な供物を構築するのだ。


 死ぬほどやかましい大音響のなか、なおもワンツーを繰り出し続けていくうち、体中の感覚が曖昧になるほど限界の向こう側へ躍り出た僕は、無我の境地の中核へとかつてないほどに肉薄していた。


 心臓が暴れるように脈打ち、息が切れに切れているにもかかわらず、頭のなかは、以前目にした洞爺湖の水面よりもぴたりとしていた。


 すると、創り手としての人生を歩み始めて以来、様々な人からぶつけられた、あるいは受け取った印象的な言葉の数々が、鮮明に蘇ってきた。


 言われて嫌だった言葉と、嬉しかった言葉。それぞれを頭のなかで時系列順に並べていくうちに、意図せず作品のプロットがみるみる整えられていく。


 息を整えてからブルーベリー葉茶を煽ると、動悸が徐々に収まっていき、これまでは片鱗すら掴めていなかった、新たな気づきが徐々に浮き彫りに。


(そうか、そうだったのか)


 僕は、言われて嫌だった言葉ばかりを反芻して、応援してくれている人たちの言葉はおざなりにしていた紛れもない事実に気づき、そんな己を強く恥じた。


 それにそもそも、嫌だった言葉はどれも、僕自身の過度な被害感情によって悪意の印象を増幅させられていただけに過ぎなかったのだろう。


 ましてや東京にいる母さんは、いい歳になっても不出来で危うい僕のことが心配でしょうがないのだ。痛めつけてやろうなんて意図はこれっぽっちも持っていなかったのだ。

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