着手
さっきは祝福の光を放ってくれていた満月が、帰宅した頃には、分厚い雲の影に追いやられてしまっていた。
窓の向こうでは、闇夜のなかで濃い影を浮かび上がらせている果樹の小隊が、風になびきながら葉音を響かせている。
携帯を開いて、ラインや着信の通知を確認してみる。柄ちゃんからも、颯くんからも相変わらず音沙汰なし。鈍い孤独感が蘇ってくる。
納品予定だった商品が全て出荷できなくなり、今後の見通しが全く立たなくなってしまった今、それどころか、明日からの生活さえままならないほどの経済的窮地に置かれている今、悠著な創作活動なんかに取り組んでいる場合じゃないことはよくよく自覚していた。
借り入れた運転資金だって、ようやく返済がスタートしたばかりの段階だ。
(現実逃避以外のなんだってんだよ。全くもって建設的じゃない。早いところアパートに戻って、今後の身の振り方について彼女と話し合うべきだ)
(あれこれと考えまくるのはよせよ。しょぼい現実かもしれないけど、ありのままを受け止めて、死ぬまでの時間を揺蕩うように過ごしていけばそれでいいのさ。もう楽になれよ)
僕は頭をぶんぶん振って、気を持ち直そうと踏ん張った。今日の奴は、珍しく真っ当なことを言っているようにも思える。だけど今は、とてもじゃないけれどアパートに戻る気にはなれない。
部屋のなかに響いてくるのは、コオロギの鳴き声と、ぽつらぽつらとした雨の音。外から漂ってくる雨と土の匂いを肺の奥底まで取り込み、ラップトップの電源を入れる。
よもや、一読書好きとはいえ、文芸作品の類にはとんと疎い僕が、何より、およそ文学ひいてはアートの世界から程遠い見た目と中身の僕が、まさか小説を書くことになるだなんて。冗談にしたって出来が悪すぎる。
ほんの一ヶ月ほど前の自分に、「来月、お前、小説を書き始めることになるぞ」なんて伝えたら、一笑に付した後、
「そんなわけあるかよ」と吐き捨てるに違いない。
画面に向かって思いつくままのプロローグを打ち始めた僕は、わずか数分で手を止めた。
たかだか原稿用紙二枚分程度の文字を吐き出しただけなのに、予想を遥かに超える精神エネルギーの消耗具合だ。
ただただ闇雲に突っ走ったところで、こんな調子じゃ途中で力尽きて投げ出してしまうことは目に見えている。
どうやら畑仕事と全く同じで、文章も結局のところは体力と精神的持久力がモノをいうのだろう。
狭い自室の隅から隅までを何度も往復しながら、僕は無言で頷いた。数枚のコピー用紙を床にばらまいて、執筆における独自のルールづくりに着手する。
(これほどまでのっぴきならない集中力と気力を要する作業であれば、全身全霊で打ち込めるのは、一日あたりせいぜい二、三時間程度が限界だろう。
そうなると、執筆・睡眠・食事以外の約十二時間をどう過ごすかに全てがかかっているといっても過言ではない。
まずは部屋の片付けだ。もう必要のないもの、特に溜まりに溜まった古本やら服やらを一斉に処分して、心の垢を洗い流そう。
苦心して集めてきたバンドティーシャツたちとも、いよいよお別れする時がやってきたらしい。
それから今後は、食事の量と内容にももっと気を遣わねば。間食はできるだけ避け、野菜や果物を意識してたくさん摂取するように心がけよう。
なにせ、満腹中枢を慢性的に刺激し続ける暴飲暴食の習慣は、クリエイターの命綱ともいえる野生本能を弱体化させる最も厄介な敵に他ならないのだ。
家庭菜園で栽培した果菜類や葉菜類がいくらでも業務用冷凍庫にストックしてあるし、芋や米などのタンパク源も十二分な蓄えがある。もちろん、カシスとブルーベリーはどんな時でも食べ放題。
贅沢はできないけれど、とりあえず当面の間は食うに困らないだろう。これぞ生産者の役得ってやつだ。
常日頃から全身の血流をスムーズに保っておくことも、アイディアの女神様から好かれるためには絶対に欠かせない要素なはず。
柄ではないけれど、この際だ。ヨガや有酸素運動も毎日欠かさずやってみることにしよう)




