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復活

 僕は大慌てで現実世界の湯船から飛び出て、一目散に脱衣所へ向かった。


 ロッカーを開け、リュックのなかからいつものメモ帳とペンを取り出す。


 不審そうにこちらを仰ぎ見る利用客のおじさんや作業員のおばさんを尻目に、ひたすらな勢いで言葉を書き殴っていく。


「ねえ、あの人何してるの? なんか様子が変」


 小学校高学年くらいの男児が、隣で服を脱いでいるお父さんにひそひそと訪ねた。


 人目も憚らず、ペン先を動かす行為そのものに全身全霊の集中力を注ぐ。濡れそぼった素っ裸のままで。


 今、この瞬間、拾いきれずに取りこぼしてしまった閃きやフレーズは、きっともう二度と思い出すことができないだろう。なぜだかは分からないけれど、そんな確信があった。


 ようやく全てを書き繋ぎ、受け止めきった頃、いつの間にか体中の水滴がすっかり蒸発して、骨まで湯冷めしていることに気がついた。


 サウナで軽く汗を流し、かけ湯で身を清め、脱衣場に舞い戻る。


 そしてタオルで全身を拭いた後、大きな鏡に映った自らの立ち姿を確認する。ここに来た時とは、明らかに背筋の伸び方や眼光の鋭さが違う。


 一連の体験を経て、僕はその場ではっきりと悟った。


 これまでの長い年月にわたって、僕という小宇宙のなかを漠然と浮遊しているに過ぎなかった断片の数々は、今、星座のごとく一本の線で繋がったのだと。


 絶望の淵からリラックスの境地へとひとっ飛びしたことにより、僕は新たな啓示を授かることができたのだろうか。


 もしくは、あらゆる方面からのしかかってくるストレスに蝕まれて、いよいよ脳みそがとち狂ってしまった可能性もなきにしもあらず。


 なんにせよ、今の自分がまだかろうじて正気を保てているのか、あるいは発狂してしまっているのか、どちらなのかは皆目分からないものの、そんなことは実際のところ大した問題ではなかった。


 突如として僕に与えられた至上の命題。それは、メモ帳に刻みつけたばかりの言葉たちをこれから細かく検分し、そこからさらに新たなイメージを数珠つなぎに生み出していって、驚天動地の作品へと結実させることだ。


 ここ数日間の絶望的なコンディションは、一体なんだったのだろう。そう思えるほどに、僕の心は雄々しい熱気で満たされ始めていた。




 男湯ののれんをくぐる際、強面のいかついおじさんと肩同士をぶつけてしまった。


 小声で詫びの言葉をその場に置き捨て、早足で駐車場へ向かう。


 夜空にぶらさがった満月が、創作の狂気に目覚めた僕を、全力で祝福してくれているように思えてならなかった。


(祝福だって? はっ、希望的見解に過ぎないさ、そんなの)


 せっかく精神が回復の兆しを見せ始めているというのに、奴は問答無用で横槍を刺してくる。


(テメー、いい加減黙れよコラ。さもないとぶっ殺すぞ)


 僕はすかさず両耳にイヤホンをねじ込んで、影の自分の醜い横っ面に、ヘヴィーなハードコアサウンドをぶちこんでやったのだった。

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