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湯船

 湯けむりを受け止める紅葉の向こうに、パンケーキみたいな満月が輝いている。


 その小麦色と黄色の中間を鏡写しにした海は、恐ろしいくらいに静まり返っていて、途方もなく大きい湖みたいに見えた。


 目の前には、明かりを灯した市街と、黒くうずくまる函館山。七重浜から一望する函館湾は、今日もいつもと遜色ない絶景を湛えていた。


 誰もいない露天風呂の縁にうずくまり、足先で白湯と戯れてみる。


 泣き腫らしてしょんぼりとした両目を強く擦ったその刹那、幼い頃の記憶が断片的に呼び覚まされた。


 涼しい夜風を火照った全身で受け止めていると、暴走を重ねて疲労困憊した自我が、ゆっくりと入眠していく。


 凛とした潮の香りは、今、この瞬間だけでも、何も考えずとも良いのだよ、と僕を優しく諭してくれているように思えた。


 湯気によって温められた頚椎の動脈が、本来の動きを取り戻していくのが分かる。


 現代人が抱えがちな主だった数パターンの悩みなんて、大抵は滞った全身の血流を改善するだけで、ある程度までなら軽減できるものなのかもしれない。漠然とそんな仮説を立ててみた僕は、


(それって、あながち間違ってもいないんじゃないか)と、やけに確信めいた結論をひとり導き出していた。


 目の前に山積する問題やら、からみつく義務やら、差し迫るプレッシャーやらをなんとしてでもねじ伏せてやろうと躍起になるから、事態が余計ややこしくなるのだ。


 僕はこれまで一度たりとも制御できた試しのない己の人生の手綱を、一旦、そう、あくまでちょっと間だけ、思いきって手放してみることにした。


 スムーズに進まないことづくしの仕事。絡みつきへばりつく生活上のあれこれ。近頃なかなか噛み合わない柄ちゃんとのコミュニケーション。お金や先行きに対する拭い難い不安。そして、うまくいっているように見えてしょうがない他者に対する、いわれなき嫉妬。


(もうやめた。全部やめた。やめたやめた。やめてやる、今だけは)


 そんな、おまじないともつかない、おまじないもどきを口のなかで小さく唱え、己の図体を再び湯船にとっぷりと沈める。

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