光明
今日もいつもと同じ夢を見たんだ。二年前、真冬のカナダで体験した、あの不思議な夜の出来事をそっくりそのまま繰り返す夢だ。
その日、ひとりで飲んだくれた末に終電を逃した僕は、深夜のバスターミナルで冷えきったベンチに腰掛けていた。
夜空からちらほらと舞い落ちてくる粉雪だけが、侘しい夜に遠慮気味な優しさを添えていた。
だだっ広いターミナル内には、床を清掃している眠たげな女性職員と、世捨て人そのもののホームレスと、僕の三人しかいない。
氷点下二十度の気温に気圧されて、鼻先と頬の感覚は先刻からすでになくなっていた。
肺の隅々まで入り込んでくる悪魔みたいな冷気は、全力で僕の命を奪い取ろうとしていた。
幸い、分厚い壁とドアで密閉された室内には寒風が入ってこないから、外よりは幾分かマシなものの、バスが到着する前に凍死してしまいそうだった。
彼方から、トラックのそれとおぼしき低いエンジン音が聞こえてくる。
(俺のクソ人生なんて、もうどうにでもなりやがれ)
ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、CDショップで買ったばかりのアルバムのケースを取り出す。それからブックレットを開き、ほとんど理解できない英詞を斜め読みしてみる。
なんとなく、ため息ついでに窓の外の夜空を見上げてみると、名前も知らぬ一等星が爛々と輝いていた。
そのまま視線を下げた僕は、口のなかで小さな舌打ちを鳴らした。さっきまでは遠くのベンチに座っていたホームレスの男が、こちらを見つめたまま、ヨタヨタと近づいてくるではないか。
(ったく。俺が恵んでほしいくらいだよ)
CDケースをポケットにしまい直し、目を合わさないよう黙ってうつむいていると、案の定、そいつは僕の目の前までやってきて、ハタと立ち止まった。酸っぱい匂いが鼻孔を突いてくる。
あいにく小銭は持っていないよ。そう告げようと思って顔を上げると、そいつはホームレスにしては珍しく、欧米人の青年だった。
歳の頃は、きっと僕よりも少し上くらいだろう。顔の下半分が茶色い髭に覆われているせいで表情はほとんど読み取れないものの、吸い込まれそうなほどに青い瞳をしている。それは、誰ひとりとして立ち入ったことのない、山奥の滔々とした湖を連想させた。
「Did you know pal? You can be anything you want.(知ってたかい? 人はなんにでもなれるんだぜ)」
彼は静かにそう言った。とても誠実な口調で、はっきりと。
僕は呆気にとられてしまった。僕のことを知り合いか何かと勘違いしているのだろうか? いや、どうもそんな様子ではなさそうだ。
「嘘じゃないって。スポーツ選手にでも、宇宙飛行士にでも、なんなら大統領にだってなれるんだぜ。なれないものなんて、何ひとつないんだ」
全くもって予想だにしていなかった台詞を投げかけられたものだから、返す言葉がひとつも浮かんでこなかった。
「さてはお前、疑ってるな? 無理もないけど、本当なんだって。誰もなったことのないものにだって、お前次第でなれるんだよ」
踵を返し、窓の外の夜空に顔を向ける男。
「それにしても寒いな」
そうぼやき、ドアを開けて出て行ってしまう。一体なんだったんだ、今のは……。
勢いの強まった寒風にたなびく彼のコートが、遠くの闇夜と徐々に同化していく。僕はその後ろ姿を、磁石に引き付けられた鉄屑のごとくいつまでも見送った。
(誰もなったことのないもの……)
あの日、あの瞬間、僕は確かに、ホームレスの姿を借りた「何者か」に語りかけられたんだ。
自己否定の嵐が吹きすさぶ混乱の日々のなかで、彼の口から放たれた言霊は、灰色の人生を照らす一筋の光明だったのかもしれない。
そう、その時、間違いなく、僕は人智を超えた何かに語りかけられたんだ。