困憊
壁に点々とこびりついたシミを目で追う。
僕は漫画本がズラリと並べられた棚を横切ってドリンクバーへ向かった。軽くびっこを引きながら。
氷水をコップに注いで、蜂の巣房のような個室のひとつに入る。
見慣れた黒のリクライニングチェアにもたれかかり、痛いほどに冷たい水を、燃え盛るような疲労感に覆われた全身へ注入していく。
今日は家に帰る気力までをも絞り尽くしてしまった。スーツを脱ぐ余力すら残っていない。
絆創膏の内側で激しく脈打つ親指の爪。精魂尽き果てた気力とは裏腹に、この身体は、生存本能から与えられた「今すぐに負傷部を治癒せよ!」との指令を忠実に遂行しているらしかった。
明日のアルバイトは、いつもよりやや早い十七時からのスタートか。さすがに日中の農作業はやめておこう。
相変わらず財布のなかの手持ちは少ないけれど、こればかりは仕方がない。今夜はこのままここで寝てしまって、朝一番の電車で帰るとするか。
これほどまで心身ともに消耗した一日は、たかだか二十数年あまりの人生といえど初めてだ。
嗚呼、朝を迎えるのが憂鬱で仕方がない。明日なんて一生来なければ良いのに。
僕は個室に備え付けられたヘッドホンを頭にかけ、PCの電源を入れた。ウェブブラウザを開いてYouTubeにアクセスし、いつも視聴している動画を再生する。
そこには、瓶底眼鏡を版画板に目一杯近づけ、狂ったように彫刻刀を振るう棟方志功の変わりない姿があった。
大人になった今でも、彼の版業に触れる度、僕の魂は、少年時代と全く変わらない熱量で打ち震える。そんな自分を確認するにつけ、本物の安心感を得ることができるのだ。
それにしても、僕が志功みたく魂を存分に燃やすことのできる日は、一体いつになったらやってくるのだろう。願わくば全ての面倒事から逃れ、死ぬまで作品づくりに没頭したい。
(わだばゴッホになる。その宣言通り、志功は本当にゴッホになった。俺も叶うものならいつかは味わってみたい。彼らに何度となく訪れたであろう、聖なる創造の瞬間を)
そんなことを考えながら、僕は今日一日の出来事を手帳に殴り書きすると、力尽きるようにして夢の世界へ旅立ったのだった。
備え付けのヘッドホンを耳にかけたまま。革靴を足から引き剥がすことも忘れて。空腹に悶える胃の腑を満たすことすらしないうちに。