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励まし

「それで、その、突然こんなことを言うのもアレかなって思うんすけど、俺には、命を燃やすもの、つまり、その、絵でいえばモチーフみたいなものがなかなか見つけられないんです。胸の奥から込み上げてくる、なんつーのかなー、うーん、『得体の知れないエネルギー』みたいなものをどこにも吐き出すことができなくて。だから、ただただ心に溜め込んでおくしか方法がないっつーか」


 僕は膝の上に置いた両手の平を固く握った。


「それと、早く何者かになりたいっていう焦りもあると思います。っつーか確実にあって。そんな憂鬱な気持ちとか焦りとかが、毎日のように心を蝕んでるんです。すげー勢いで」


 うつむいたまま、切実な苦しみをさらけ出した僕と、それを傾聴しているらしい彼との間に、今度は気まずさを覚えるほどの長い沈黙が居座り始める。


 初対面だというのにこんな深刻な話をして、もしかしたら戸惑わせてしまったかもしれない。


 後悔の念と共に湯気の消え去った紅茶から視線を上げると、ハッとするほどの深い慈愛を湛えた彼の視線が、真っ直ぐにこちらを捉えていた。


「君は間違いなく大丈夫だ」


 予想外の言葉に、僕は目を見開いた。


「君は人生のモチーフを見つけられないと悩んでいるみたいだけれど、その実、心のなかでは必ず見つけ出すと決めている。僕にはそれが分かるんだ。だから君は、必ずそれを見つけ出すだろう。それもきっと近いうちに。焦る必要なんてどこにもないように僕には思えるがね。至極シンプルなことさ」


 励ましの言霊が画廊の中空を突っ切って僕の鼓膜を震わせるにつれ、視界を覆っていたイメージの霧が一気に晴れていった。そう、自分でも驚くほど一気に。


「ところで君、『啓示』っていう言葉を聞いたことはあるかい?」


「ケイジ……。どうすかね。たぶん、なんとなくは」


「要は、芸術家に突如として舞い降りてくることのある、超自然的なインスピレーションのことさ。君がいつか啓示を受けて人生のモチーフを見つけ出し、自分自身の魂を救う渾身の作品を完成させた暁には、是非とも僕に見せてほしい。それが買えるものなら喜んで買わせてもらうよ」






 すっかり長居してしまっていたことに今さら気がついた僕は、立ち上がりざま、彼に何度もお礼を言って、後ろ髪引かれる思いと共に画廊を後にした。


 店じまいの時間はとっくに過ぎていたらしく、「蛍の光」のメロディが流れている。


(絵を買うこともできない俺みたいな奴に、わざわざすみません)


 危うく振り向きざまに野暮なことを言いそうになって、僕はその言葉を腹の底へと引っ込めた。


 目の前に広がる味気ない百貨店の最上階は、さっきと何も変わらないはずなのに、これまでとはまるで別の世界線に存在しているように感じられた。


 一時間ほど前にすれ違った十代のカップルが、閉店時間など一向に構う様子もなく、階段横のベンチに座りながら頭をもたれ合って、ただ静かに床を見つめている。そうすることによって、お互いに欠けているものを補い合っているのかもしれない。


 僕がこれまで抱え続けてきた、この言い知れぬ欠損間を満たしてくれる女性は、広い世界のどこに存在しているのだろう。


 そんなことを考えながらぼんやり振り向くと、今しがたそこにいたはずの画商の彼の姿はどこにもなかった。


 事務室にでも行ったのだろうか。テーブルの上に、空のカップがふたつ、ぽつんと置かれたままになっている。


 急激に摂取したカフェインのせいで全身の脈が早まっているのを感じつつ、エントランス横に飾られたあの絵を、もう一度間近で眺めてみる。記憶中枢の深部に焼き付けておきたくて。


 再び視界の中心を射抜いてきたボクシンググローブの赤は、さっきの血の赤ではなく、朝焼けの赤に変化していた。


(この人が生きたかった今日を、俺はさも当たり前のように生きてるんだな)


 そう心でつぶやくと、見えないグローブに背中を小突かれた気がしたのだった。

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