邂逅
夜の大都市札幌にそびえ立つ百貨店の九階で、僕はその油絵と邂逅したんだ。それは、ハイソな画廊のエントランス横にでかでかと飾られていた。
キャンバスに叩きつけられているのは、血の赤色で描かれたボクシンググローブ。背景は、廃墟のコンクリート壁を連想させるざらざらとした質感のグレー。
ただそれだけのシンプルな絵なのに、こんなにも強く惹きつけられるのはなぜだろう。
これほどまでに「生」の確認作業を強いてくる作品には、いまだかつて出会ったことがない。
すっかり散策どころではなくなってしまった。間近でちゃんと見なければいけない気がして、僕は気がつくとその絵にしっかと吸い寄せられていた。
閉店一時間前のフロアには、僕の他に十代のカップルが一組いるのみ。テナントのほとんどは閉まっている。
無愛想な蛍光灯の明かりに隅々まで照らされた館内は、わざとらしいほどに漂白的だ。どこからともなく漂ってくるのは、革製品の艶やかな匂い。
エントランスから覗く画廊の室内は、思っていたよりも小ぢんまりとしていた。人っ子ひとりいない真っ白な空間の三方に、合計三十点ほどの絵が整列している。
僕は軍パンのポケットに手を突っ込んだまま、グローブの絵を至近距離から眺めた。拳と親指の先の部分が色褪せて茶色くなり、手首の紐は黄色く変色している。
持ち主が描いたのだとしたら、この人はきっとボクシングに相当打ち込んでいるのだろう。
「こんにちは」
背後から声がして、僕はビクッと振り返った。
そこには品の良いスーツに身を包み、濡れた手をハンカチで拭いている白髪の男性が立っていた。
歳の頃は恐らく六十を少し過ぎたくらいだろう。引き締まった体躯と、しゃんと伸びた背筋が、どこか誇り高い白樺を連想させた。
七三のきれいに整えられた分け目。澄んだ瞳。洗練された紳士といった印象を受ける。
初めて会ったはずなのに、僕は彼のことをずっと前から知っているような気がしてならなかった。
「あ、すんません。俺、絵を買いに来たわけじゃないんすけど」
僕が一文なしの貧乏青年であることを、彼はとっくに見抜いている様子だった。さらりとした微笑を浮かべ、こう言う。
「そんなことは気にしなくていいので、好きなだけ見ていってください」
その口調には、相手に気を使わせない細やかな配慮が含まれていた。
だけど、彼の物腰柔らかな対応に安心感を覚えた反面、画廊とは無縁の人生を送ってきた僕は、正直戸惑ってもいた。
こういう場所に来た時は、こんな職業の人と、一体どんなことを話せば良いのだろう。
そもそも僕は、ここに飾られている絵はもちろんのこと、額縁のひとつすらも買い求めることのできない、一般庶民以下の最下層民だ。ここは早々と退散するのが正解なはず。
そんな僕の思考をすんなりと読み取った様子の彼。やにわにグローブの絵の前に立つと、
「これ、いいでしょう?」と話題を振ってくれたのだった。




