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躊躇

 ふたりに話しかけてみようか。せめて挨拶だけでもと思い、テントに向かって歩き出した矢先、僕は、自らの心に巣食う奴の声に呼び止められた。


(おい、待てよ。まだ一回しか会ってないんだから、馴れ馴れしく話しかけるのはどうかと思うぞ。お前ごときがおこがましいよ)


(ひっきりなしに訪れるお客さんの対応でてんてこ舞いみたいだから、今はそのタイミングじゃないだろ。そんな常識的なことすらも分からないのかよ)


(それに挨拶をしてみたところで、どんな会話をするつもりなんだ? 何も買わないのだってさすがに失礼に当たる。今のお前の懐具合を確認してみろよ。持ち合わせなんてからっきしないくせに)


 忙しない脳内会議の結果、僕は踵を返して駐車場へ戻ることに決めた。水くさいのは承知していたけれど、あれだけの人混みだ。今日は仕方なかった。うん、そうだ。仕方なかった。


 無理やりそう自分に言い聞かせながら、早足でもと来た道を歩き、車に乗り込む。


 しかし、きらめく洞爺湖の水面を見つめているうちに、だんだんと、さっきの情けない決断に対する後悔が頭をもたげてきた。まったく、自分でも自分が面倒くさくてしょうがない。


 僕は一旦運転席を降りて外の空気を吸い込むと、軍パンのバックポケットに突っ込んでおいたメモ帳を取り出して、


(夏の洞爺湖、知人に話しかけられなかった自分がふがいなかった)と書き込み、再度車に乗り込んだのだった。


 助手席のリュックのなかから、雑多なジャンルの文庫本数冊を無造作に取り出す。


 座席を倒し、適当な一冊を開くと、意識のテリトリーから外界がみるみるシャットアウトされていくのを感じた。ふいに、突拍子もないフレーズが頭に浮かんでくる。


(活字を通して死んだ人たちと会話する時間。初期衝動が焼きつけられた騒音を浴びる時間。畑で植物たちとの関係を深めている時間。それさえ確保できたら、俺はいつだって、自分自身が生きている事実を再確認できる)


 メモ帳をダッシュボードに放り投げ、唇にペンノックを押し当てつつ、再び本の世界のなかへ。


 それからしばらくの間、いくらでも残された「時間」という名のシートに深くもたれかかり、僕は活字による「生」の確認作業を心ゆくまで行ったのだった。

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