体当たり
指紋にしつこくこびりついた土埃は、いくら洗っても取れやしない。
隣でハンドドライヤーに両手を当てているおっさんが、訝しげにこちらを仰ぎ見ている。
(ジロジロ見てんじゃねえよ、この野郎)
僕は無言の圧力を視線の端に込めた。全身土まみれで悪かったな。
濡れそぼった両手をつなぎのあちこちで拭い、頭から作業帽を引き剥がす。剃ったばかりの頭が痒くて仕方ない。ガシガシガシ。
おっと、最初の商談開始まで二十分程度しか残っていないじゃないか。それほど余裕はないぞ。急がなくては。
奥の個室に入って鍵を閉め、リュックのチャックを開ける。そして、もみくちゃに突っ込んだシワだらけのスーツジャケット、スラックス、ワイシャツ、セール品のガラクタじみた皮靴を取り出す。
便座にそれらを置くと、一目散につなぎを脱いでパンツ一丁に。冷房の効き目が弱い個室内には、まとわりつくような真夏の熱気がこもっていた。
靴下を替えて、スラックスに足を通し、それから新しいティーシャツ、もとい、戦闘服を着装する。今日のバンドティーシャツは、敬愛してやまないハードコアパンクバンド「Black Flag」のヴィンテージもの。太字のバンドロゴと中指を立てた手のイラストが描かれた、どこまでも挑発的で気合抜群の一枚だ。
ワイシャツ越しに透けて見える危険性もなくはないが、厚手の綿素材だから多分問題ないだろう。
よし、これで着替えは完了。最後はネクタイだ。ネクタイ、ネクタイ、ネクタイは、と……。あれ、もしかして忘れてきたのか? なんてこった、クソ!
あ、あった! 良かった。大丈夫、大丈夫。深呼吸しろ。落ち着け、落ち着け。
さっき潤したばかりの喉が早くも乾いて、口内がまたもや粘ついている。水筒の麦茶をがぶりとやると、ほてった喉元と後頭部に冷たい衝撃が走った。
それにしてもひどい暑さだ。このホテル、空調がぶっ壊れているんじゃないのか? 世のビジネスマンたちは、どうしてこんな日にジャケットなんか羽織っていられるのだろう。
蓋を開けて便座に座り、耳のイヤホンを外す。疾走する怒りの音世界から一転、シンとしすぎて耳鳴りのする、味気ない現実世界へ。
麦茶をもう一度口に含んでから、スマホを手にしてYouTubeアプリを開く。「ネクタイ 締め方」と検索して、適当に選んだ動画を再生。
思えば、ネクタイを身につけるのなんて高校の時以来だ。あの頃は難なく締められていたのに、今では動画を視聴しながらでもなかなかうまくできない。こんなことなら畑を出る前に着替えてくるべきだった。
よし、結び目がちょっと不格好な気もするけれど、これで体裁は整えられたはず。商談開始まで、あと十分弱。
僕はリュックのなかから紙袋を取り出し、中身を念入りに確認していった。
(会場の見取り図、名刺、ショップカード、試食皿、プラスチックスプーン、ブルーベリージャム、メモ帳、ペン。水筒はサイドポケットへ)
立ち上がって、つなぎがパンパンに詰まったリュックを背負い、ドアを開けて歩き出す。と、そこで、肝心要の紙袋を鞄掛けにかけたまま忘れていることに気がつく。
(ああ、駄目だ。俺、動揺しすぎだろ)
気を取り直していざ出陣だ。
すまし顔のホテルマンが、軽く一礼してから重厚な趣の扉を開けた。
目の前に広がる大きな空間を満たすのは、クーラーから放たれる生ぬるい弱風と、昔ながらの理容室を連想させる整髪料の匂い。視界を刺すシャンデリアの光に、条件反射でビビってしまう。
会場にいるほぼ全員がクールビズだと分かって、慌ててジャケットを脱いで腕にかける。
何十と並べられた長机には、社名と番号の記載された三角札が置かれ、スーツ姿の男たちが椅子に腰掛けていた。
紙袋から見取り図を取り出して、最初の商談相手を確認する。三十三番の「(株)ルプスフーズ」か。ルプス、ルプス、ルプス。あった、あそこだ。
「平成二十六年度・函館市篤農加工品個別商談会、開始まであと五分です。ご参加の皆様は所定のテーブルまで移動してください」
さっきのホテルマンがマイク片手にアナウンスを行った。いい加減、ここまできたら腹を括るしかない。