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第72話 『月夜にひとり、隠した気持ち』




 舞翔は夜の街を疾走した。


 ただ何も考えたくなくて、痛む胸を感じたくなくて、ただ走る。


 けれども郊外まで足を踏み入れそうになったその時、誰かに強く腕を掴まれたかと思うと、強引に引き寄せられた。その腕の主に抱き締められながら、反動で地面に倒れ込む。


 誰かの胸に顔をうずめながら、その衝撃に舞翔は目を瞑った。


 けれども舞翔の体は少しも痛みを感じることは無かった。


 それはそう、まるで全てから守るように、その誰かが舞翔をしっかりと抱き締めてくれていたからだ。


「?」


 舞翔はぼんやりと顔を上げる。

 頭に添えられていた手が、そんな舞翔をふいに優しく撫ぜた。

 マルベリー色の長い髪、金色の瞳。


「カラ、ン?」

「大丈夫か、舞翔?」


 カランは心配そうな顔をしながら、器用に上半身を起き上がらせて舞翔を自分の膝の上に座らせた。


「なんで、カランが?」

「君がいなくなったことはすぐに気付いていた! だからガンゾリクとのバトルを早々に終らせて口を割らせて街中探していたんだ」


 少しだけ怒ったような口調だった。


 けれどもそんなカランの様子など見えていないように、舞翔はぼんやりとした様子で「そっか」とだけ呟く。


 その様子にカランは思い切り眉間を寄せた。


「街でキリルと君が追いかけっこをしているのを見つけて、驚いた」

「そ、そうだよ、舞翔」

「すまない、舞翔さん」

「いんやぁ、結局バレちゃってごめんなぁ、舞翔さん」


 と、ようやく追い着いて来たのかカランの後ろから息を切らせたキリル、ユル、ガンゾリクがひょっこりと顔を出す。

 カランと同じく舞翔を追いかけて来てくれたようである。


 舞翔は皆に何度も名を呼ばれていたのに、全く気付かず全力疾走していたのだ。


 それでもまだ、舞翔は心ここに在らずで俯くことしか出来なかった。


 その尋常ではない様子に、カランの表情が変わる。


 けれどもその空気を察したキリルがカランに必死で手でバツを作ってサインを送った為、何も言わないままじっと舞翔を見つめるに留まった。


 十中八九ソゾン関連だろうことは、カランには一目瞭然だ。


 けれどもそれだけでは説明が付かない程に、舞翔は落ち込んでいる。

 聞きたいけれど、それは彼女を更に追い詰めることになるのだろう。


 今までのカランであれば口に出してしまっていた。

 しかしそれでは駄目なのだ。


 今回はキリルの制止も功を奏したかもしれないが、カランは何かと周囲が見えなくなってしまう己の欠点をついに自覚した。


 だから、聞きたい気持ちをぐっと押さえ込む。


「舞翔、とにかくもう夜も遅い。センターへ帰らないか?」

「っ! あ、センター、は」


 舞翔は口籠る。

 児童養護センターでもしまたヨーロッパチームに鉢合わせてしまったらと思うと、手が勝手に震えた。


 ソゾンに会うのが怖い。


 けれどもそれだけではなかった。

 次にベルガに策を弄され、その手を取ってしまうかもしれないことが、怖い。


「!」


 カランは舞翔が自身の服の裾を強く掴んでいるのに気付き、目を瞠った。


 恐らく無意識にやってしまったのだろう、けれども今まで彼女が自分から助けを乞うような行為をしたことは一度も無かった。


 その舞翔が、無意識でもカランに頼ってしまうほど、追い詰められている?


「舞翔、今日は近くにホテルを取ってそこで休もうか」

「え?」


 カランはいつもよりも一段、穏やかさを意識して舞翔の目を覗き込んだ。

 声も落ち着かせるように少し明るく、ゆっくりと発する。

 それから舞翔の背に手を添えて、優しく笑んだ。


「この事は俺から士騎に提案しよう。舞翔は何も心配しなくていい」

「そ、それは悪いよ! 大丈夫、センターに帰ろう」

「……っ舞翔、だめだよ!」


 舞翔の瞳にようやく光が戻って来た。いつもの調子で遠慮した舞翔にほっとしながらも、カランは口を挟んできたキリルに視線を向ける。


「今はベルガから逃げるべきだ。絶対に、あの男は諦めたりなんかしない」

「! ベルガ、だと?」

「あっ」


 キリルはしまったといった目をしたが、もう遅い。


 舞翔はこの事でキリルが責められてはいけないと、慌てて「私が説明する」とカランの腕を引いた。


「実は……」




※・※・※・※




 夜、舞翔は何とか借りることが出来たホテルの一室でベッドにぼんやりと座っていた。


 あれからベルガにエフォートへの勧誘を受けた事、ベルガがソゾンへどんな仕打ちをしていたかをキリルに助けられながらカランに説明した。


 エフォートに士騎の姿があったが口論の末に立ち去ったことも。

 あくまでも客観的な事実だけを伝え、自分が何を言われ何を思ったのかまでは、話さなかった。


 それを聞いてカランは少し考え込んだが、少しして「分かった」と頷いた。

 それからこの事は今のところは自分達だけの秘密にしよう、士騎にも伝えない方が良い、と提案し、その場に居た全員がそれを承諾した。


 ちなみに武士は士騎が戻って来た時に誤魔化す役として、バトルスペースに残ってくれているらしい。


 その武士にも、肉親である士騎にも関わることだからと、内緒にする事にした。


 そうしてほとんどカランの独断で、舞翔は今このホテルに居る。


 士騎には体調不良だとカランから説明してくれるとのことだった。


「……駄目だなぁ、私」


 誰も居ない、灯りもつけていない、静かで暗い部屋の中。

 窓から差し込む月明かりだけが舞翔を照らす。


「一人じゃ何も、出来やしない」


 綺麗に整えられたベッドの布団をぐしゃりと握った。

 士騎の言葉、ソゾンの言葉が油断するとすぐに舞翔を責めるように蘇る。


――あの子はあくまで武士の代理だ! 特別な力や才能なんか無い!


――貴様を見ていると反吐が出る、その偽善っぷり、見ているだけで虫唾が走る!


 まるで内側から搔きむしられたような恥ずかしさが舞翔を襲った。

 思わず頭を抱え込み、何かから逃れるように身を縮こませる。


「知ってる、何も間違ってない、その通りだ」


 両腕で顔を覆い隠しながら、瞳をこれでもかというくらいに見開いた。

 そうでもして目を乾かさなくては、今にも零れてしまいそうだったのだ。


 大嫌いな、涙が。


(泣くもんか、泣いていい訳がない、泣いたら駄目だ)


 舞翔は鼻先までつんと沁みたそれを呑み込んだ。

 それから深呼吸をして気持ちを落ち着ける。


「そうよ、私は最初からただのモブ、武士の代理」

(そんな私があんな最低な奴の言う事で舞い上がって、何か出来るかもなんて、自惚うぬぼれもいいところじゃないか)


 舞翔はそうだそうだと頷いて、ふんと鼻息を鳴らすと「ベルガめ!」と憤慨ふんがいしてみせた。


「とにかく、今私が出来ることはBDFを決勝戦に必ず連れて行くこと!」


 舞翔はぐっと拳を握り心に誓う。

 けれども胸の中はそれとは裏腹に、どこか空白があるような虚しさがあった。

 その空白に夜の静けさがじわじわと浸食する。


(だけど、私なんかに出来るの?)


 舞翔は窓の外を眺める。

 思い出すのは、最後に見たソゾンの姿。

 苦し気に歪んだ顔、傷だらけの身体、そして、舞翔を真っ直ぐに見つめる眼差し。


「私じゃ、救えないのかな」


 呟きが夜に溶けていく。

 どれだけ嫌われても、罵倒されても。

 ソゾンが好きだ。

 ソゾンが救われて欲しい。

 その気持ちだけは、なにひとつ変わりはしない。


「悔しいなぁ」




※・※・※・※




 次の日からの舞翔は本当にいつも通りだった。


 元気で、けれども弱音も吐くし、おどおどもする。

 児童養護センターへ戻ってからは、心配するキリルにお道化どけてみせたりもした。


 何も知らされていない士騎や武士では分からないくらいにそれは完璧だった。


 ロシアでの最後の試合までの数日は、今までが嘘のようにとても穏やかで、舞翔からは顔の痣も消え、捻挫も治り、すっかり元通りの毎日。


 そうして迎えたオセアニア戦当日。


「オセアニアは現在三勝二敗、恐らく今回のバトルに勝つか負けるかが彼等にとっては決勝に進めるかどうかの重要なラインになって来る。そしてそれは四勝二敗の俺達も同じだ」


 控室にて、バトル直前にいつも通り士騎主導によるミーティングが行われた。


「だが、君達ならば勝てるはずだ! それから」


 士騎は言いながらデスクに置かれていた二つのボックスを開いた。

 その中に入っていたのは、言わずもがな、エレキストとスプリングスである。

 傷付いたのが嘘のように修繕され、その姿はキラキラと輝いて見えた。


「耐水耐塵仕様のエレキストとスプリングスだ! これでもっと自由に飛ぶことが出来るだろう」


 士騎は満面の笑みでそれぞれの前にボックスを差し出した。

 カランは嬉しそうな笑顔で早速スプリングスを取り出し眺め始める。

 しかし。


「舞翔?」


 武士が首を傾げ、名を呼んだ。

 士騎もまた、舞翔の姿に戸惑いから眉を顰める。


 舞翔はエレキストをじっと見つめていた。


 それはまるで張り詰めた糸が震えているような眼差しだ。

 いつもの舞翔であれば大喜びでエレキストに飛びついているはずなのに。


 カランはハっとして誰にも気づかれないように隣に座っていた舞翔の背に手を添えた。


「……っエレキスト!」


 直後、舞翔は違和感などまるで無かったかのようにエレキストを抱き上げた。


 とても嬉しそうに、大切そうに。


 士騎と武士はその姿に安心したように「感動し過ぎだぞ」「舞翔くんは本当にエレキストが好きだね」と口々に言った。


 しかし、カランだけは神妙な面持ちで舞翔を覗き込む。


「舞翔、大丈夫か?」


 ぼそりと、彼女にしか聞こえない程の声で囁いた。


「うん、ありがとうカラン」


 しかし舞翔はいつも通りににっこりと笑って返事をするだけで、それ以上は何も言ってはくれない。


 ずっと、そうだった。


 ホテルに泊まったあの日、翌朝迎えに行ったその時から、出て来た舞翔はいつも通りに笑っていた。

 まるで何もかも、無かった事のように。


(それでも俺は、君に何もしてあげられないのか)


 もどかしかった。

 あの日彼女をたった一人でホテルの部屋へ泊まらせたことをカランは後悔している。


 一緒に居てあげるべきだったのだ。


 一晩でもずっと、何も聞き出せなくても、寄り添うべきだった。


 それなのにキリルから一部始終話を聞き出すことをカランは優先してしまった。


 彼女が聞いてしまった言葉、見てしまった真実を思えば、平気であるはずがない。


 それなのに、舞翔は完璧に平気なふりをしている。


 カランが心配する隙を与えない程に、もしかしたら本人すら平気だと思い込んでしまってそれを真実にしてしまったかのように。


 カランは人知れず拳を握り締める。

 今はもう、彼女が大丈夫であるように祈る事しか出来ない。


「さぁ! いよいよオセアニア戦だ、きばっていこう!」


 そんな事は露とも知らず、士騎は拳を握りながら立ち上がった。

 武士も「応援してるぜ!」といつも通りに快活に笑う。


 今はこの二人の兄弟のいつも通りの明るさが少しだけ救いである。

 舞翔とカランも立ち上がり、士騎を先頭にスタジアムへと歩き出す。


 まさかあんなことになるなんて、誰も想像すら、出来ないまま――





次回、オセアニア戦!

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