第132話 『ソゾンと舞翔、扉越しの告白』
ソゾンは舞翔の部屋の前で、その何の変哲もないドアを見ていた。
この扉の向こうに、舞翔がいる。
それからソゾンは周囲をゆっくりと見渡した。
(ここが、舞翔の育った家)
特別な物など何もない、恐らくこの国ではごく平均的な一般家庭。
けれども扉にかかったネームプレートや、掃除の行き届いた屋内がそれだけで温かな家庭を思わせる。
自分の育って来た環境とは、分かり切った事だが全く違う環境。
(そうか、舞翔はずっと、ここに居たのか)
ソゾンは自分の掌をじっと見つめた。
親も無く、大勢の子供が押し込められた孤児院で育ち、物心ついた時にはそこを逃げ出して路上で暮らしていた。
泥にまみれ、寒さと飢えに耐え、弱肉強食の世界で強さだけが全てだった。
それでも心のどこかで、街を行く幸せそうな子供を見ては、渇望していた。
自分にも欲しかった、帰る場所。
舞翔は当たり前のようにそれを持っている。
筈なのに。
「舞翔」
意味も無くその名を紡ぐ。すると扉の向こうで息を呑んだ気配がして、そのことにソゾンは何故だかほっと胸を撫で下ろした。
(俺は舞翔に、俺と同じ孤独を見ていた)
舞翔の瞳はたまに、どうしようもない暗闇を映し出す。
その時の舞翔は酷く遠くて、彼女自身が意識的に自分達との世界に一線を引いているように見えた。
そして不思議なことに、その暗闇から舞翔はソゾンをいつも見ているのだ。
そのことをもどかしく感じるようになったのは、いつからだったのだろうと、ソゾンは考える。
「聞いて欲しい。俺は、薄々だがお前が適用者であることは知っていたし、ゲイラードを使ったあのバトルにファントムが関係していたであろうことも予想していた」
「!」
言葉を選び、慎重に並べていく。
間違えてはいけない、細心の注意をもって彼女の壁を崩さなければ。
ソゾンは既にハッキリと己の中の渇望と欲望を自覚していた。
「あの時お前は、その事で俺が失望したとでも思ったのだろう?」
扉の向こう側の気配に全神経を集中させる。
微かな息遣い、足や腕の動く衣擦れの音、何一つ逃さないように。
恐らく今、舞翔は肩を震わせた。
「すまなかった。俺はあの瞬間まで、自分の気持ちにすら気付いていなかったんだ」
ぴたり、空気が止まった。
舞翔がソゾンの声に耳をそばだてている。
だからソゾンは扉に触れて、それから自身の額を扉にぴたりと付けた。
コツリという小さな音に、舞翔が息を呑んだのが分かる。
「俺はあの時、決着だとか、勝敗だとか、そんなもの全てどうでもいいと、そう思ってしまった自分に動揺していた」
「!」
扉に囁くようにソゾンは言った。
正確には、扉の向こうに居る舞翔に届くように。
「俺はお前の優しさに甘えて、自分の気持ちにすら向き合わず、誤魔化して、結果お前を傷つけてしまった」
「っ!」
舞翔が何か言いかけて、言葉を切った気配がする。
そのことにソゾンは自嘲気味に微笑みながら、まだ動かないドアノブを寂しげに見つめた。
「俺がエフォートに残ったのは、舞翔、お前がいる日本へ来るためだった。決着を着けると言うのも方便だ」
自分の中に、こんな想いがあったことにソゾンは自分でも不思議だった。
けれども言葉にしてみれば、それらはやけにすとんと腑に落ちて、そうかこれはそうだったのかと、自分でも驚くほど穏やかに全てを受け入れられた。
「舞翔、ただお前にもう一度会いたかった」
胸からあふれ出した、心からの言葉。
少しだけ熱のこもった声で、ソゾンはハッキリと言い切る。
近付こうとすれば遠ざかり、遠ざかったと思えば手を差し伸べて来る舞翔に、ソゾンはいつも翻弄されては一人で勝手にいじけていた。そんな自分を恥ずかしく思う。
今なら分かる、この目の前の扉のように、彼女の中にある隔たりが。
(俺はずっと、舞翔の世界に俺を入れて欲しいと願っていた。お前に手を引いてもらえたらどれだけいいだろうと。だが)
ソゾンは一歩、扉から離れる。
「それだけを伝えたかった。邪魔をしたな」
言いながら、扉の向こうで舞翔が何かを躊躇っている事にソゾンは気付いていた。
それでも扉は開かない。
当然だろう、それだけショックだったのだ。
それだけ彼女を、傷付けてしまったのだ。
これはマカレナだけの責任ではない。ソゾンもまた、自分の想いに気付きもせずに彼女に八つ当たりのようなことばかりしてしまった。
だから。
「後の事は何も気にせずゆっくり休むといい。今度こそ、俺がお前を守る。だから全てが終わったら……」
ソゾンの瞳が優しく細まる。
「舞翔、お前のことを教えてほしい。お前の悲しみも絶望も全て――俺は、知りたいと思うから」
その高い声は、まるで舞翔を優しく包み込むように響いた。
(俺はもう待ったりしない、壁があるのなら壊せばいい。舞翔が出来ないと言うのなら、俺がお前の方へ行けばいい。どれだけかかっても、必ずその手を掴んでみせる)
※・※・※・※
舞翔の心臓ははち切れんばかりに脈打っていた。
顔は過去最高に真っ赤に染めあがり、扉の向こうの気配に全神経が勝手に集中してしまう。
ソゾンの声に脳がとろけて、訳が分からなくなりそうだった。
けれども階段を下がっていく足音が響いて、舞翔は急速に現実に引き戻される。
(あ、あ! ソゾンが)
咄嗟にドアノブに手を掛けた。
それでも、手が震えていて、どうしても扉を開ける事が、出来ない。
(っ、なんで?)
また涙が溢れ出しそうになる。
そうこう葛藤している内に、一階からソゾンと三都子の会話が聞こえて来た。
「突然の訪問大変失礼しました」
「いえいえいえ! もういいんですか?」
「はい、失礼します」
「あらまぁ、またいつでも来て下さいねぇ」
心なしか三都子の声が弾んでいるのが分かる。
何故かそれすらにも舞翔は嫉妬を覚えてしまった。
嬉しくて、会いたくて、好きという気持ちが後から後から湧き出してくる。
けれどもそれと同時に同じくらい、怖い、駄目だ、勘違いだと否定する声が舞翔の足を引っ張るのだ。
玄関の扉が閉まる音がした。
舞翔は窓際に走り、慌てて窓の外を見る。
そこにラズベリーレッドの髪が見えた。
後ろ姿だが、確かにそこにソゾンがいる。
(夢じゃなかった、幻じゃなかった)
けれども不意にソゾンが振り返り、舞翔は反射的に思わず身を隠してしまった。
壁に背を付け、ずるずるとずり下がって行き、床にへたり込んだと同時に真っ赤になった顔を両手で覆う。
「な、んで」
頬が熱い。同時に酷く、胸が苦しい。
混乱していると自分でも分かった。その証拠のように、感情が高ぶったせいで涙が再び溢れ出してくる。
(あんなソゾン、知らない。あんな、甘くて優しくて、私を家まで追いかけて来るソゾンなんて!)
そんなの、妄想すらしたことが無かった。
同時にソゾンの「ただお前にもう一度会いたかった」の言葉が蘇り、舞翔の既に赤い顔が更に濃い赤に染まっていく。
まるで体中の血液が沸騰でもしているようだ。
「浮かれるな、舞翔! 私はただのモブ、この世界では主人公でもなんでもないモブなんだよ!?」
(だけどソゾンは、私に会いに自分の国から遠い日本のこの街まで来てくれた)
両手で顔を塞いだまま、項垂れる。
耳まで赤いその顔から、ついに蒸気まで昇り始めた。
それでも直後、暗く重い気持ちが舞翔の胸を酷く強く締め付け始める。
(私は武士みたいにバトルドローンに真っ直ぐにはなれない、ソゾンみたいに勝つことに貪欲にもなれない。元の世界でも、この世界でも、私はモブで、主人公にはなれない。そんな私がソゾンを好きでいて良い訳が無い、ソゾンに想われる筈も無い。きっと余りに可哀想で同情してくれたんだ。きっとそうだ。全部全部、私がソゾンを好き過ぎるから普通の言葉を過剰に受け取ってしまっているだけっ。ソゾンはああ見えて優しい人だもの、私が特別なんかじゃない! だって、そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃっ)
「こんなの、あり得ない」




