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「……とうちゃああああぁぁく!」
魔界で、頭上に開いた黒い穴に頭から飛び込んだシルファーマは、地上界で、宙に開いた黒い穴から舞い降りた。
正に、正に、思い描いていた通り、足元に魔法陣がある。涙ぐみながらシルファーマは、その中央に降り立った。
そこは、まばらに草が生えている荒れ地であり、横を向くと少し離れた場所に、街の明かりが見える。おそらく召喚者はあの街の住人で、人目を避けてここで儀式を行ったのであろう。
魔法陣の大きさも、戦うのに充分な広さだ。何もかも、シルファーマが夢見ていた通り。
「っぐ……」
溢れ出した嬉し涙が、滑らかな頬を伝う。
魔法陣の縁、シルファーマと向かい合う位置に、距離があって顔はよく見えないが、一人の少年が立っている。こいつが、いや、この人が、自分を呼んでくれた魔術師に違いない。シルファーマは大きく息を吸い込み、高らかに宣言した。
「さあ! さあさあさあさあ! まずは腕試しね、うん、わかってる! さっさとかかってきなさい! この、魔王女シルファーマ様の実力を、その身で……ん?」
おかしい。声がおかしい。何か、ノドの具合が、変だ。
と思ったら、
「うおおおおおぉぉ! ロリ悪魔っ子おおぉぉ!」
少年が絶叫して、どだだだだと突進して、喜色満面で抱き着いてきた。反射的にシルファーマは、その頬に右フックを叩き込む。
その、フックの感触も、何かおかしい。握った拳も振るう腕も、踏ん張る足も捻る腰も、別人のもののような違和感がある。パンチに力が入らない。
それでも、当の少年にとっては充分な威力だったらしく、「がぶおわっ」とひしゃげた声を上げて真横にぶっ倒され転がった。が、気持ち悪いほどにスムーズに起き上がって、
「失礼! 悪魔なんて呼び方したのは僕の落ち度だな! ちゃんと肩書きを知ってるのに、ついつい興奮で間違えてしまった! てなわけで訂正! ロリ魔王女様~!」
再度抱き着いてきたので、今度は顎に左アッパーをぶち込む。少年は垂直にぶっ飛んだ。両足が完全に地面から浮いたが、ほぼ真上に飛んだので、そのままストンと降り、立つ。
少年の顔は、何やら恍惚としている。
「ん~♪ 美少女の、白くて小さくて可愛い拳の、容赦ない殴打。この感触がまた何とも」
「っ?! き、気持ち悪いわね、このドMっ!」
吐き捨てるように叫ぶシルファーマに対し、少年はいきなり表情を引き締めて言った。
「おっと。そいつは聞き捨てならないな。僕はドMなんかではない」
「え」
少年は丁寧に、噛んで含めるように説明した。
「いいか? 例えばド貧乏といえば、普通の貧乏よりも更に貧乏、凄い貧乏でなくてはならない。ドケチは凄いケチ、ドでかいモノは凄くでかいモノ、だ。すなわち、ドのつくMというのは、標準のMよりもハイレベル、重度のMでなくてはならないわけだが、」
ここが重要、と少年は人差し指を立てる。
「僕は、素手で叩かれたり、踏まれたりするのは嬉しいが、鞭や蝋燭といった道具で痛めつけられたり、縄で縛られたりはしたくない。あくまでも日常生活の中で、常識的に起こりえる行動の範囲内での責めしか求めていない。これでは【ド】Mとは言えないだろう」
「だから何よ」
「僕は、ハイレベルどころかローレベルってこと。Mであることは否定しない、むしろ堂々と肯定するが、ドを冠する資格はない。ただのM、ただのマゾ。間違えないように」
魔界から地上界に来るなり、いきなりM性癖の講義……ですらなく、【ド】という言葉の使い方についての講義を聞かされてしまった。
シルファーマは呆れ果てて、
「へ、変なことにコダワるわねええぇぇ」
ため息交じりに語尾も伸びる。
少年は、どういうわけか誇らしげだ。
「ふっ。コダワりをなくしては、人生の面白みもないというもの。だから、そんな僕だからこそ、君のことを悪魔っ子なんて呼んだのは不覚だった。正しく、魔王女様と言い直そう」
「様付けしてる割には敬意が感じられないわね」
「まあ、こういうのは様までつけて一続きの名前みたいなもの、と認識してるからね。敬称ではなく。契約者である以上、対等なはずだし」
と語る、この少年。顔立ちはまあ、整っていると言えなくもないのだが、出で立ちが地味だ。その身を包んでいるのは、高貴さと邪悪さを感じさせる漆黒の鎧でも、実用性本位の魔術師用ローブでもなく、これ以上ないくらいに庶民的なシャツとズボン。街の武器屋か防具屋か、あるいはメシ屋か、の店員みたいな恰好なのである。
歳も、せいぜい十代半ば。若すぎる。ぼさぼさの黒髪に威厳のない黒目、貧相とまでは言わないが大したことのないガタイ。シルファーマが胸の内に描いていた、天下統一を目指す野望の男と比べて、全く貫禄がない。
『こいつが、わたしを召喚した、わたしの契約相手なの? こんなお子様では、妖艶さに満ち満ちたこのわたしと釣り合わ……』
そこで、シルファーマは気づいた。
出るとこはしっかり出てる、引っ込むとこはきっちり引っ込んでる、これぞ魔の領域の魅力、傾国の美! などと自負しているシルファーマを見て、【ロリ】魔王女様と、こいつは言ったのだ。こいつがどれほど悪趣味な変態であろうとも、その表現はおかしい。
なぜ、そんな言葉が出てきたのか? そういえばさっき、フックやアッパーを打ち込んだ時、こいつのことを異様に背が高いと思ったものだが……
「え、えっ?!」
腕を見て、脚を見て、判った。シルファーマの体が、腕や脚だけでなく全てが、縮んでいる。
下を向いても足元は見えない、下方の視界を完全に遮っていた豊満な胸は、平らでぺったんこで何も遮らない。完全な8の字、極端な凸凹を形成していた腰は、ずどーんと、するーっと、全くの一直線。弾力に満ち満ちてムチムチで肉感的な太ももはどこへやら、ここにあるのは太もももふくらはぎも殆ど区別のない、簡単に折れそうな棒っきれ。余裕で腰に届く長さだった豊かな髪も、今ではギリギリ肩を掠めている程度だ。
これではせいぜい10歳、ヘタすりゃひとケタ9歳。それぐらいに思える。
「な、なによこれっっっっ!」
シルファーマは自分の体をペタペタ触ってみた。その手に、その体の、感触がある。夢でも幻でもない、現実に体が小さく、幼くなっている。
ぷにぷにの両手で、ぎゅっと拳を握ってみた。それだけでも実感できた。やはり、力が弱くなっている。それも、かなりシャレにならないレベルで。体力はもちろん、内に感じる魔力も。
そういえば先程シルファーマは、目の前の少年を殴り飛ばした。本来のシルファーマの力で殴られたなら、こんな軽傷では済まないはずだ。本来の、縮んでいないシルファーマなら。
「あ、あ、あ、あ、あんたっ!」
「僕の名はソモロン。天才魔術師ソモロン。よろしく。君の名は?」
「シルファーマよ! 魔王女シルファーマ! で、天才とかどうでもいいけどソモロン!」
「どうでもいい、って。もしも僕が天才でなかったら、つまり凡人だったら、魔王との契約なんて術は完成させられないわけで。そこは評価してほしいなあ」
口を尖らせるソモロンだが、シルファーマはそれどころではないので、ただただ怒鳴る。
「うるさいっ! そんなことより、これは一体どういうことよ! あんた、わたしに何したのっ?」
今にも噛みつきそうな剣幕で、シルファーマは自分を召喚した魔術師、ソモロンに詰め寄った。だが、シルファーマの頭のてっぺんが、ようやくソモロンの胸に届くかどうかという身長差なので、あまり迫力はない。
そのせいか、ソモロンは涼しい顔をしている。
「もしかして、本来はもっとムチムチのボインバインのナイスバディだとか?」
「そうよっ! ついさっきまで、魔界にいた時にはそうだった!」
「それが本当なら、」
ソモロンは、シルファーマの幼い体を見て言った。
「その衣装、もっとぶかぶかになってるはずでは?」
シルファーマの、黒く薄い装束は、魔界にいた時と同じ素材で同じ形状で同じデザインだ。それが、今の縮んだ体型にぴったりフィットしている。
その装束の、平らな胸の辺りをちょいと摘まみ上げて、シルファーマは説明した。
「これは、わたしの魔力に合わせて作られている服なの。だから、わたしが大きくなっても小さくなっても、それを読み取って自動的に伸縮するのよ。子供から大人へと成長しても、そのまま着られるようにね。破れたりした場合は、少しずつ自動修復もされる」
「へえ。便利だなあ」
「まあね。でもこんなの、魔界のどこにでもあるわけではないわよ。わたしが王族だから、こういう高級な……って、そんなことより! だからこの、体が縮んでるのは何なのよ! 明らかにわたし、弱くなっちゃってるわよ! あんた、召喚の術に何を仕込んだのっ?!」
「うん、そうだろうな。召喚の術の仕業だ、間違いなく」
ソモロンは頷く。
「そうだろうな、って他人事みたいに言わないでよ! あんたの仕業なんでしょ!」
「いやいや。正確には、仕業というより仕様だよ。この契約の」
「何の為のどういう仕様よ! こんな体では私の夢が! 華々しい活躍が! 武名が~!」