うつらうつら虚ろに移り
川の増水でホームレスの住処が壊されたら、俺は高架橋から飛び降りて死のうと決めていた。高架橋下にはホームレスが住んでいて、組まれた木材に青いビニールシートが掛けられている構造の住処があった。高架橋はバイト帰りに通っている。
ベルトコンベアの流れ作業を終えると真っ直ぐに家に帰る。交通費五百円までが支給され、最寄りからアルバイト先までは二百九十円なので給料をそのままの形で受け取ることができた。
最寄り駅までは自転車で向かっている。月に二千円の駐輪場代を払う必要があった。短期のバイトのみで生活をしているから知らない駅に降りることが多く、最寄り駅の駐輪場は必需だった。
今回のアルバイトは新入生セットを組み立てる業務内容だった。小学五年生おめでとう!! と段ボールに書かれている。流れてくる段ボールには数冊の教科書が既に積まれていて、それに続いて国語の教科書を入れていった。合計で九時間の労働で、三回の休憩が設けられていた。
エプロン、マスク、軍手、帽子の四つを身につけた人たちがベルトコンベアの脇に立っている。低い位置にあるので猫背になっている人が多い。四十メートル程度の長さのレーンが十列並んでいた。ここはBレーンだと担当者が言っていた。
こういう業務は歳にばらつきがあり男女の割合も半分に近い。右隣には褪せた肌のわりに白髪が全くない女性、左隣には単純作業が苦行らしく、眉間のシワが刻まれているメガネの男性がいる。二人のつむじは薄かった。ここでは大多数の人間を見下ろすことができた。
業務開始から二十分が経過するとミスが減ってくる。ミスをしたら監督している本社の社員さんがベルトコンベアから段ボールごと手に取って一人で完成させる。ミスの連発も開始十五分がピークで、以降はただの単純作業となる。
教科書のデザインが知っているものとは違う。知っているゾウの絵はどこへ行ったのだろう。改訂を繰り返され、収録されている作品は追加されたり削られたりして、表紙には色素の淡い蝶が二匹舞っているのに、名前は「国語」のままだった。
右隣の女性は数学の教科書を積んでいる。数学の教科書も変わっている。時代に引きずられるようにして女性の肌の若さや教科書のデザインは変遷する。
始業一時間になると自分たちは一つの生き物のようになっていた。人間という消化管を拡大したような生き物になる。互いに連動して一つの段ボールを積荷にするまでの生命体だった。こうなると意思は要らなくなる。ただ時間のままに身を任せればよかった。汗が流れてくると時間の流れを感じた。
そのまま昼の休憩時間になるまで作業を続け、チャイムがなるとベルトコンベアは停止した。帽子を脱ぐと蒸れていた。自分は疲れているのだと思った。一つの生命体だった自分たちは分離すると、それぞれ休憩室に足を進める。両隣の男性と女性は猫背のままだった。男性の眉間のシワは悩んでいるのではなくて元々そういう顔だった。常に睨むようにしているとシワが刻まれてしまうのだろうか。
休憩室は教室が二部屋分はある広さだった。長い会議机が並び、感染症対策のために透明なプラスチックの仕切りが一席ごとに連立していた。かなりの席数があったが一席空けて座れるほどではなかった。
「あれ? なんか見ない顔だね」
隣に座ったアラフォーぐらいの女性だった。若い頃と同じ食生活を送ってきた腹をしている。エプロンを脱ぎ終わると椅子に掛けた。周りの人もそうしていたので、そういうものなのだろう。畳んで机に置いているエプロンを広げて椅子に掛けた。
「はい。初めてです。ここ短期じゃなくて頻繁に募集してるバイトなんですか?」
周りの話し声が大きい。短期は休憩になっても無言が多く、特に単純作業ではその傾向が強い。何回かのやりとりがないと、ここまでのざわめきはない。
「そう。年初めだから。それ系の仕事は一日じゃ終わらないよね」
「やっぱりそうなんですね」
パフで何回叩いたのか分からないくらい白い頬と、明るい口紅。この人は化粧をいつから激しくしたのだろう。魅力は減退し若さは失われるから、化粧で穴埋めをしようとしたのだろうか。肌の白さの分だけ共感することができた。
会話は二往復で終了した。あとで知ったが、席にはある程度の定位置があり、あの女性の隣には通常他の人が座っているらしかった。
仕事が再開すると意識は統合され、また一つの生命体になる。そして汗の流れで時間の経過を知る。休憩時間に摂った昼食はカップラーメンだったりパンだったり人それぞれだった。口から得た炭水化物のエネルギーは、新五年生の祝福へ変換された。
それから二回の休憩が挟まれ、順調にベルトコンベアは流れた。ベルトコンベアはミスした段ボールが多過ぎると停止されるが、今日の作業で滞ることは一度もなかった。
エプロン、マスク、軍手、帽子の四つを返却すると、アルバイトをしていた人はそれぞれの服装に戻った。華美でない服装と指定されていたが、指定に関係なく私服のまま着ている印象を受けた。明るい色の服を着たいと思わないから、アルバイトも明るい系統以外を選んでいるのかもしれない。
タイムカードを切って工場を出た。近辺には田舎町が広がっており、駅までは歩いて十五分かかった。夕暮れのオレンジ色が狂ったように稲穂やアスファルトを照らした。歩道のない路肩を歩いて行った。
前後には同じ仕事をした人が歩いている。足並みを揃えて黙々と進んでいく自分たちは、橙色の頬を晒している。駅までの道のりで自分たちは微かに共鳴していた。一つの臓器を共有しているような錯覚だった。このまま駅を過ぎて、街灯のない田舎に消え入りたい思いがあった。それは膨張するが駅のホームがピークだった。車内はゆりかごに変わり、疲労した肉体を残酷に労った。
車内は同じアルバイトをしていた人が多くを占めていたが、各駅に停まるたびに他人と入れ替わった。降りる駅がやって来ると、腰を上げてドアの前に立った。振り向くと、覚えている限り一人しか同じアルバイトをした人がいない。寂しかった。改札まで階段を降りた。そういえば車内に残った最後のアルバイトの仲間は、男性だったか女性だったか。もう既に忘れていた。そもそも覚えていなかった。
自宅までの経路に高架橋がある。高架橋下にある青いビニールシートは、内部のライトに照らされている。スマホを取り出すと八時になっていた。指紋認証で時間を知りたかっただけなのにホーム画面まで開いた。電話アプリを起動して110を押した。
「すみません警察の方ですか」
「はい」
「阿倍野の〇〇橋の下にホームレスの方がいらっしゃいます。迷惑なので注意していただけますか」
それだけ言うと電話を切った。川は増水する気配を見せず、濁ったまま波風を立てずに滞りない。自宅までの道のりにはカレー屋があり、通るたびに良い匂いをさせていた。食べたいと思った。もう橋を渡り終えていた。八時二分になった。
スマホの電源を落とすには側面のスイッチを押し込む必要がある。顔認証で起動しかけ、ライトアップした途端画面は暗くなった。カレーの匂いが鼻を撫でた。