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名古屋からさらに西へ。
和歌山から四国へ、そして九州。
営業しているのか分からないような古びた喫茶店へ入り、名も知らない誰かの個展にふらりと立ち寄り、アーケード街に寂れたゲームセンターがあれば飛びつくように入店してひたすら筐体にコインを投入する。夜は飲み屋街を気ままに練り歩く。
見える風景が、感じる風が、全て初めてのもの。
だが、刺激的であるはずのそんな体験が、やがて訪れる最終出勤日のイメージで薄暗いものに変換されてしまう。
楽しいはずの時間はあっという間に過ぎ、気づけば俺は有休を使い果たして会社の正面入口に立っている。
あの鉄仮面の顔をまた見ないといけない。それが例えほんの挨拶程度のものだとしても、果たして耐えられるのか俺には自信がない。
「あ、大城さん。もう来てたの」
振り返ると、総務の山下さんがいつものにこやかな笑顔を浮かべて立っている。
「お久しぶりです。早かったでしょうか」
「そんなことないわ。さあ入って」
山下さんは俺と入口の間にスッと入って、慣れた手つきで職員カードをリーダーにかざした。ドアのロックが外れたことを確認し、浅く頷いてから重そうに開けるその素振りは相変わらずだった。
「大城さんが来ましたよ」
総務ならではの気配りか、それともこの人の性分か、山下さんは自らオフィス全体に声を掛けてくれた。何人かは顔を上げ、パーテーションの向こうから手を振ってくれたり、会釈や挨拶をしてくれたりする。
気まずさを感じながら頭を下げ、つい奥のデスクに目をやってしまった。武藤係長がこちらを見ることなく無表情でキーボードを叩いている。死んだような、何を考えているのか分からないような目。何も変わらない。俺が退職の意思を告げた時と、何も。
「さ、大城さん。こちらにいらして」
山下さんの声で我に返る。会議室に通され、退職の説明を一通り受けた。
「これからどうするか、決まってるの?」
「いえ、特には決めてないです。何が出来るか、ゆっくり探そうと思います」
「そう。行くところがなかったらいつでも帰って来て良いと、私は思うわ」
山下さんは笑顔でそう言ったが、必死に作っているみたいだ。心から寂しそうにしている山下さん。こんな人が上司だったら良かったのに、と本気で思う。
「とりあえず説明は終わりです。特になければ、もう上がって大丈夫だわ」
今までありがとう、と山下さんが頭を下げたその瞬間、会議室のドアが静かに開いた。
武藤係長が、会議室に入って来た。
息が詰まる感じがする。さっきはシカトしたクセに、何しに来た。俺はもうアンタと話すことなんてない。
「大城君、本当に辞めるのか」
耳を澄まさないと聞き取れないくらいのボリューム。俺は「はい、そうですね」と返すのがやっとだった。
俺は今まで、技術的なことから進捗的なことまで必要と思うことは報連相を欠かさなかったつもりだ。武藤係長は直属の上司だから、プロジェクトにとって良いことも悪いこともキッチリ報告した。勿論自分のタスクも遅れることなくこなした。
それに対してコイツは何かしただろうか。プロジェクトマネージャーとして、リーダーの報告を受けてコイツが動いたことは、ない。アドバイスもなければ顧客調整もなし。社内随一の技術を持っているはずなのに、プロジェクトを揺るがすトラブルが起きた時も知らん顔をしていた。結局俺がその分まで必死に動いて、そして潰れた。
そのうえでこの鉄仮面は、どうしてここに現れた。謝罪でなければ一体俺に何を言うことがあるのだろうか。
「大城君」
鉄仮面がボソリと呟く。俺は「はい」と返した。もしかしたら怒気が含まれていたかも知れない。心の中で山下さんに謝る。
「突き詰めれば、仕事は面白くないこともない」
それだけ言って、来た時と同じく音を立てずに会議室を出て行った。
「……山下さん、もう行きます。今までありがとうございました」
優しい山下さんにだけは愚痴を吐かないよう、顔を合わせないように頭を下げてそそくさと出て行くことが俺に出来る精一杯のことだった。
最後の最後に言い残した言葉がそれか。一人の部下をダメにした自覚はどうやら全くなかったらしい。
ビルを出てガードレールを思い切り殴った。痛いどころの話ではない。でも、それで良かった。
このやり場のない思いは、こうでもしないと収まりそうになかった。