言葉よりも、魔法の笑顔で
保育士を目指している、と言うと「あぁ、子どもが好きなんだね」という顔をされる。
確かに子どもは好きだし、可愛いと思うけど、私が保育士になりたい本当の理由は、そんなに単純なものでも純粋なものでもない。
子どもが好きだと言うより、“子どもじゃないもの”が苦手なのだ。
昔から、同年代の子と遊ぶより、まだ言葉もロクに喋れない年下の子をあやす方が得意だった。
同年代以上の人間は難しい、と思っていた。
ささいな言葉の行き違いで、怒ったり、傷つけ合ったり……あるいは、自分の言った言葉が全く別の、思いもよらない解釈をされて、誤解から人間関係がこじれたり……。言葉ひとつに気を遣う。
まだ言葉も話せない赤ちゃんなら、ただにっこり笑いかけてあげるだけで済むのに。
人と人とが想いを伝え合う手段は、言葉だけとは限らない。
目と目を交わすアイコンタクトに、抱擁などのスキンシップ、身ぶり手ぶりのボディーランゲージ……。
言葉によらないそれらをまとめて“非言語コミュニケーション”と呼ぶのだと、学校の発達心理の授業で習った。
言葉ほどの情報量を持たないそれで、複雑な思考を伝えることはできない。
だけど、感情を伝えるだけなら充分だ。
むしろ、千の言葉より一の笑顔の方が、相手の心を動かす場合だってある。
言葉に自信の無い私にとって、笑顔は最大の、そして、ほぼ唯一の武器だった。
仲良くなりたいという気持ちを込めた笑顔、敵意や害意が無いことを示すための笑顔、相手への好意を伝えるための笑顔……。
足りない言葉を補うように、笑顔で気持ちを伝えようとしてきた。
ちゃんと伝わっていたかどうかは分からない。だけど、それが私にできる精一杯の努力だったから……。
言葉を使うのは、怖い。
本当に伝えたいはずの想いが、ささいな言葉選びのミスで台無しになってしまうことがあるから。
本当は互いを大切に想い合っているはずなのに、ふとした言葉がきっかけで、しなくて良いケンカで仲違いする人たちを、何人も見てきたから。
どうしてそうなってしまうのだろうと、いつも思う。
大切なのは“言葉”じゃなくて、その言葉で伝えたかった“想い”のはずなのに。
言葉なんて、想いを分かってもらうための手段に過ぎない。
紙を切るためのハサミのような、文字を書くためのペンのような、目的を果たすための道具だ。
なのに、いつの間にか、言葉の方が主役のようになって、そればかりが注目されて、その奥にあるはずの“想い”や“気持ち”に、誰も目を向けていないような気がする。
皆、“言葉”の“意味”を理解することにばかり夢中になって、それが何のために吐かれた言葉なのか、それで何を伝えようとしているのか……一番肝心な部分を忘れてしまっているように見える。
それさえ忘れずにいられたなら、たとえ相手がちょっとくらい間違った言葉を口にしても「あぁ、本当はこういうことを言いたいんだろうな」と分かってあげられるはずなのに……。
言葉のうわべにばかり振り回されて空回りする世界を見ていると、いつも哀しい気持ちになる。
まるで心が置き去りにされて、人類が皆、言葉の奴隷になっているみたいだ。
皆、そんなに言葉が好きなのかな。
本当に大切なことを忘れて、言葉遊びや言葉の揚げ足取りで一生を浪費してしまっても、それでも良いと思えるくらい、骨の髄まで言葉に支配されてしまっているのかな。
私はたぶん、言葉に振り回されたくなくて、言葉によらないコミュニケーションの方が大きな意味を持つ世界に、身を置いていたいのだ。
今日も帰りの電車の中、スマホで保育士関連のニュースまとめに目を通す。
見れば夢や希望がしぼんでしまうような記事が多いが、キツい現実は先に知って心の準備をしておきたい方だ。
子どもと接する仕事とは言え、子どもとだけ接していれば良いわけではない。
同僚保育士に、上司となる園長や主任、保護者との関係だってある。
正直、不安を感じないわけではない。私はこの先、ちゃんとやっていけるのだろうか……。
物思いに沈みかけたその時、声が聞こえた。
強い声だ。
言葉にならない感情を、声を張り上げて必死に訴えかけるような――赤ちゃんの泣き声。
ハッとして顔を上げると、赤ちゃんを腕に抱いた女性が、大声で泣くその子を必死にあやしていた。
それまで座席で眠っていた人たちが、目を覚まして迷惑そうに顔をしかめる。苛立ちを隠さずに舌打ちする人もいる。
車内の空気は嫌な感じにピリついていた。
母親はますます必死になって赤ちゃんをなだめようとするが、それでもその子は泣き止まない。
――そうだろうな、と、まだボンヤリした意識で思う。
まだ言葉も分からず、状況を理解できる能力も無いあの子に分かるのは、きっとこの場のピリピリした空気だけ。
自分を取り巻く人々の嫌悪するような眼差しや、母親の焦燥に満ちた表情だけ。
そこから生まれる感情など、恐怖と不快感しか無いだろう。
そして、それを訴えたくても、言葉を持たないあの子には、ただ泣くことしかできないのだ。
なんて哀しい悪循環だろう。
皆、誰でも、この世界に生まれてきたばかりの頃はああだったはずなのに、いつの間にかそれを忘れてしまう。
分かって欲しいことがあるのに、言葉を知らないから分かってもらえないもどかしさ。
必死に訴えようとすればするほど、周囲が嫌な空気になっていくことへの絶望感。
それは一体、どれほどのものだろう。
大人たちは何故だか、言葉を知らない赤ちゃんや動物に対しても言葉で言うことを聞かせようとする。
相手に分からない言葉を使って、それでコミュニケーションを取った気になっている。
だけど、違う。そうじゃないはずだ。
誰かと想いを通じるための手段は、言葉だけじゃないはずなのに――。
そのうちとうとう母親は、周囲の目を気にして立ち上がり、人の少ない車両を探すように移動し始めた。
私には、この場の空気を変えるような気の利いた言葉は言えない。言い出す勇気も無い。
だけど、その代わりにひとつだけ、私にでもできることをした。
母子が私の前を通り過ぎていくその瞬間、その子へ向けて微笑みかける。
安心させるように。大丈夫だよ、と伝えるように。
恐がらせて、ごめんね。泣かせて、ごめんね。
あなたのことを、嫌ってなんか、いないよ。
迷惑に思ってなんてないよ。
誰もあなたを攻撃したりなんかしないよ。
だから、安心していいんだよ。
そんなに必死に泣かなくても、いいんだよ――そんな気持ちを込めて……そんな気持ちが伝わればいいな、と思って……。
きっと自己満足の、気休めに過ぎない行為――そう思って微笑みかけたのだが……。
瞬間、その子がぴたりと泣くのを止め、びっくりしたような――不思議そうな顔をして私を見た。
そんな表情で私を見たまま、母親に運ばれて向こうの方へと去って行った。
偶然かも知れない。
だけど、思いがけないその効果に、私の方が呆けてしまった。
――まるで、魔法みたいだ。
そう思った後に、思い直す。
みたい、じゃなくて、魔法なのかも。
まだ科学で解明されていない奇跡や、仕組みの分からない技術を魔法と呼ぶなら、これも魔法の一種なのかも知れない。
胸の奥からじんわりと、あたたかいものがにじんでくるのを感じた。
――そうか。私、魔法を持ってるんだ。
誰にでも通じる魔法ではないかも知れない。いつでも使える魔法ではないかも知れない。
それでも、こんな魔法が私の中にあるなら、ちょっとだけ、自分に自信が持てる。
これは、魔法。私と、さっきのあの子だけが知っている魔法。
きっと言っても誰も理解してくれないだろうし、認めてもくれないだろうから、誰にも言わない。私だけの秘密の魔法だ。
不安の色ばかりだった未来に、じんわりと明るい色がにじんでくる。
なんて素敵な財産を手に入れたのだろう――心の底から、そう思えた。
この魔法を胸に抱いて、私は社会へ漕ぎ出して行く。
これからも、きっとずっと、この魔法と一緒に生きていく。
Copyright(C) 2020 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.