6. 思惑発覚
翌朝、なんだかんだで仲が良い様子のジョアンナたちに「今日は美味しいパンをリコちゃんと作るから楽しみにしてて」と送り出されたハリーは意を決して上官の部屋を訪ねることにした。
教会はダメだと判断したのだ。
途中で同僚や先輩たちに、ついでとばかりに上官へ渡す書簡を山ほど持たされつつ、彼は己を鼓舞して上官の執務室へとやってきた。
両手が塞がっているため、扉にもたれるようにして書簡を支えながら、何とか右手を上げてノックしようとした瞬間。
意図せず扉にくっつけることになった耳が、少しばかりくぐもって聞こえる声を拾う。
「では聖女は見つけ次第、離宮へ。速やかに第三王子と婚礼ということで」
ハリーは硬直した。
たった今、その話をしようと思っていたところである。
息を押し殺し、耳をそば立ててさらに扉に張り付く。
室内にはハリーの上官と、先ほどの言葉の主──見知らぬ誰かがいるらしかった。
ちなみに第三王子とは現国王と王妃の四番目の子どもで王家の末っ子、二人の兄と一人の姉に甘やかされた元気いっぱいの七歳児だ。
「よかろう。ならばこちらは婚礼がすぐ行えるように手筈を整えておこう」
そう答えたのはハリーの上官で、国の祭礼行事を一手に取り仕切っているベラトーリ伯爵だった。
彼はばりばりの王家派。そしておそらく、会話の相手も王家派である。
想像よりも王家が本気で動くつもりのようだった。
声は真剣味を帯びており、どこから聖女の話を仕入れたのか、単なる噂と考えていない様子だ。
情報をどこから仕入れたのか。
ハリーには皆目見当もつかなかったが──真相は簡単なことである。
善意しかない女神が大真面目に気を利かせて、襲撃とも受け取られない暴風と共に国王の夢枕に登場し「貴方の国に聖女を連れてきたから、ちゃんと見てあげてね。捕らえて虐めちゃダメよ。優しくしてくれたら国に加護あげるからね」と、要約するとその様なことを言ったのだ。
残念ながら女神と親和性のなかった国王は、彼女の言葉を半分も聞き取れなかった。
かろうじでわかった「国に…聖女…捕らえて…加護」だけを頼りに行動を起こそうとしているのである。
実は似たようなことが教会にも起こっている。似たような単語しか聞き取れなかった大司祭も似たような行動を起こしている。
「何としてでも教会より早く聖女を見つけ出さねばならんな」
「まったくだ。しかし、こうも行方がわからぬとなると、やはり匿っている者が──」
ハリーは悟った。
いや、正確には悟り切れていないが、ともかく聖女が政治の駒にされるであろうことは理解した。
そしてベラトーリ伯爵まで話が来ているということは、第三王子と聖女の結婚は王家としては決定事項だ。王族の結婚は魔法契約が絡んだ色々と面倒な手続きがあって時間がかかるのだが、それらを最速で行うための根回しが目の前で行われている。
一刻も早く聖女と王家を結びつけ、教会にぎゃふんと言わせてやる気に違いない。
そんなのあんまりにも可哀想だとハリーは思う。
理子と第三王子は出会ってすらいないのにいきなり結婚させられるのだ。
しかも王子は七歳。その歳で将来の相手を勝手に決められるのは酷ではないか、というのが庶民の感覚である。王子の兄、王太子は一応は恋愛結婚をしているのに。
理子が何歳かは知らないが、少なくともまだ少女の域を出ていない。まだ子どものはず。二人とも子ども。
それが大人たちの事情で本人の意思を無視される。などということは、ハリーは到底受け入れられないことだった。
とにかく聖女の存在がバレなければいい。
そう考えたハリーは、どうすれば理子に一番いいのかを悩み始めた。心優しいことである。
しかし彼はうっかりさん。
早くその場を去ればいいものを、部屋の前でもんもんと悩み出してしまった。
だから目の前の扉が開いたことにも反応が遅れたし、上官のベラトーリ伯爵とその話を相手──国政大臣のハウエル侯爵ともばっちり顔合わせをしていた。
「貴様……ここで何をしている?」
「はわわわ……!」
「まさか話を聞いていたのか?」
はじめて合うハウエル侯爵の、獰猛な獣のような眼に気圧されたハリーは飛び上がる。
手に持っていた書簡を盛大にぶち撒け、彼は恐怖のあまり泣き出していた。たったのひと睨みで、絶対に殺されると思った。
「ひえぇ…すみませんでした!!!」
大の大人が、しかも難関試験を潜り抜けたであろう文官の男が、突然泣き出した。
そのことに面食らって、動きを止めた二人を残してハリーは走り去る。そのあまりに早い逃げっぷりに呆気にとられた二人は、ややあってから顔を見合わせた。
「あの様子は話を聞いていたな」
「それにしても慌てすぎではないか?」
「ふむ……確かにそうだな。あの文官、調べてみるか」
散らばった書簡を拾い集めた二人の男たちは、もう次に打つ手を決めていた。
こうして事態は動き出す。
*
泣いて戻ったことで同僚達にドン引きされながら仕事を終えたハリーは、食卓のテーブルいっぱいに並ぶ、たくさんのパンと共にジョアンナたちに迎えられた。
「はりー! おかえり」
「今日はパンパーティーよ」
「わぁすごい。パンがいっぱいだ」
やり切った顔の理子に案内され、ハリーはさっそく席につく。
「はりー、みて。ねこ」
「わっ、これリコちゃんが作ったの? かわいいね」
時間をかけて作った自信作を褒められて嬉しそうな理子と、ちょっとかたいパンをご機嫌に食べるハリーをジョアンナは眺めていた。
昨日の突然の出費により肉類が買えなくなり、しばらくパン生活が始まる。
その痛手を紛らわそうと奮闘し、様々な動物パンを作った達成感で理子が満足気なので、ジョアンナはひとまず安心した。
穏やかな食事を終え、理子の読み書きの練習のあと、寝室に入ったハリーはジョアンナに向き合い今日見聞きしたことを話した。
「国も頼れないし、こうなったら一度、リコちゃんを連れて国を出ようと思うんだ」
ジョアンナは瞠目し口を開きかけたが、何も言わず静かに続きを待った。
「隣国には商人をやっている叔父がいる。彼を頼ろうと思ってる」
「ほ、本気なの?」
「うん。あっちは貿易も盛んで人の出入りも多いし、色んな信仰の人がいるから教会の影響も強くない」
「そんな……あの子はよくやく私たちに慣れてきたのよ? それに、言葉も上手く話せないのに、これからまた別の国で一人ぼっちなんて可哀想だわ」
「そうだね……言葉はまぁ、この国と似ているから大丈夫だとは思うんだけど。僕も大体はわかるから、教えられるし」
膝の上で握り締められた小さな手を優しく包んで、ハリーは精一杯明るく言う。
「叔父のところは大家族だから賑やかできっと楽しいよ。むこうまでは僕らも一緒に行こう。ほら、最近流行ってるだろう? なんだっけ…君が新婚のうちに行きたいって言ってたあれ」
「……新婚旅行?」
「あっそれ。リコちゃんもいるからちょっと違うけど、そんな感じでさ」
理子はあまり出歩かないし、家にいることを好んでいたのでこのままで大丈夫だとジョアンナは言ったが、この国に長くいればいずれ王家か教会に見つかるのは時間の問題だとハリーは考えていた。
見つかってしまえば、もうハリー達にはどうすることもできない。
きっと連れて行かれるだろうし、その先で何が起こっても助けてあげられない。ハリーはそうなる前に、すこしでも影響の少ないところへ逃してあげたかったのだ。
「ごめんねジョアンナ。僕のせいだ」
「ハリー…そんなことないわ」
「でもあの時、僕がご褒美が欲しいなんて馬鹿なことを言わなければ、リコちゃんが連れてこられることもなかったんじゃないなって。すごく思うんだよ。君にも迷惑をかけているし」
「自分を責めないで。たとえそうだとしても、私たちは夫婦なんだもの。二人で半分ずつよ」
包んでいたはずの手をしっかりと握り返されて、ハリーは弱々しく微笑んだ。
ハリーはこうなってしまったのは自分の責任だと思っている。そもそも自分が女神にお願いしなければ、理子は聖女になっていたかったはずだと。
二人が己の無力感に苛まれているころ、夫婦の家の屋根には幾人かの気配があった。
彼らはハリーがうっかり顔合わせしたハウエル侯爵の指示でやってきた諜報員である。
闇に紛れるような黒尽くめの者たちは、必死に家への侵入を試みていたが不可視の力によって阻まれ、苛立ちを隠せない。
「くそっなぜ入れない」
「ダメです。屋根裏部屋っぽい小窓も、びくともしねぇ」
「なんなんだこの家は!?」
この不可視の力は虫に驚いた理子がうっかり構築した聖なる結界なのだが、それを見破れる者は残念ながらここにはいない。
彼らはどうにか屋根裏に忍び込み家内の様子を探ろうとしていたものの、結局──夜が明けそうになっても何もできなかった。