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第八話 名前

 今より、ずっと小さな頃。

 一人、小川の前に座って泣いていたあの日。

 子どもは妖精にあった。本当に妖精だったのかは分からない。

 まるで妖精のように綺麗な人だった。名前の知らないあの人を、子どもは妖精と呼んでいる。

 その妖精はあの日、美しい金色の髪をなびかせて、森の奥からふいに現れた。

 子どもに気づいた妖精は、まるで花が咲くような笑顔で子どもに声をかけてきた。

『どうして、泣いているの? よかったら、一緒にお話ししましょう』

 妖精は子どもに手を差しだした。白く華奢なその手に、子どもはゆっくりと小さな手を重ねた。

 そして、その日。子どもは夢のようなひとときを過ごすことになる。




 満天の星が空に輝く。優しい月明かりが、暗い森を照らしていた。

 ゆっくりとした流れの小川に、大きな月が少し歪んで映っている。

「ああ、またここにいた」

 草をかき分ける音とともに、低く穏やかな声が背後から聞こえてきた。子どもはゆっくりと振り返る。

 そこには、昨日会ったフラワーマスターがいた。黒髪に黒眼の彼は、服が白っぽい色でなければ、夜目には見えにくい。

 彼はゆっくりとした足取りで木々の間から出てくると、子どもの隣に腰を下ろした。まるで、昨日の昼間の再現のように。

 だが、今日はパンを持ってはいないようだ。昨日は彼が近づくにつれて、空腹を刺激する良い香りが漂ってきた。

「今日は何で来なかったんだ? せっかくカボックがお菓子を焼いて待ってたのに」

「え? 本当か!」

 お菓子という言葉に、思わず食いついてしまい、子どもは慌てて、フラワーマスターから顔を背けた。

「何で、来るんだよ。そうだ、昨日も。どうしてオレがここにいるって分かったんだよ」

 話を逸らそうと、子どもは声を上げた。フラワーマスターは、微笑みを子どもに向けると、体を少しひねり背後に目をやった。

「教えてくれたんだよ」

 子どもはつられて背後を見て、首をかしげた。背後には誰もいない。草や木々が時折吹く風にあおられて、葉擦れの音を響かせているだけだ。この時間には、鳥の鳴き声さえも聞こえない。

「誰が?」

「この森が」

「え?」

 子どもは背後からフラワーマスターの顔に目を向けた。

「森の木々が教えてくれたんだよ。お前はこの辺でよく遊んでいるらしいな」

 真意を探ろうと、子どもはしばらくフラワーマスターを見つめた。謀られているのかと疑ったのだ。

 だが、ん? と、首をかしげたその顔は、とても偽りを言っているようには見えない。

「なあ、本当に、木に聞いたのか? オレがどこにいるか。木が教えてくれたのか?」

 本当なのかと、何度も問う。

「ああ、忘れたのか? 俺はフラワーマスターだぞ」

 言われてそういうものなのかもしれないと、納得しそうになる。

「でも、オレ、木が喋ってるとこなんて見たことないし」

 子どもの言葉に、フラワーマスターはその大きな手を伸ばし、近くに生えていた草に触れる。

「感じるんだよ。こうやって、手を添えて。木や草花の声を感じ取るんだ。お前だって、薬草園で、薬草の世話をしているんだろう? 気持ちが通じたって思うことないか?」

 問われて、思う。あの地下室の花々のことを。白く可憐で綺麗な花。いつも話しかけていた。寂しい時や、辛い時。癒してくれる存在だった。

「うん。でも……」

 子どもは、昼間聞いた、フラワーマスターとカボックの会話を思い出した。地下で育てているあの可憐な花が、実は麻薬になるのだと。

 麻薬は、人に害をなすものだという知識はあった。それが、どう人に害を及ぼすのかは分からなかったが、悪いものであるということは知っていたのだ。

 そして、その悪いものを自分は育ててしまった。それをこのフラワーマスターは咎めに来たのだ。

 遠い、王都から。

 せっかく、優しくしてくれたのに。

 子どもの目に、知らず涙が溜まる。

 急に黙ってしまった子どもを何と思ったのか。しばらく子どもを見つめていたフラワーマスターは、不意に声を上げた。

「そうだ、名前。決めたぞ」

「え?」

 唐突な言葉に、つい顔をあげる。子どもの目に、涙が溜まっていることに気付いたのだろう。フラワーマスターは子どもの頬に手をあて、親指で子どもの目に溜まった涙をぬぐった。

「お前の名前は、シオンだ。どうだ?良い名前だろう」

 シオン。子どもは数度胸の中でその名を口ずさむ。

 そして、その名の響きに引っ掛かりを覚えて、記憶を探る。いつか、どこかで聞いたような気がする。しばらく、目を瞑って考えていると、唐突に記憶がよみがえってきた。

「あっ、あの人もオレのことそう呼んだ」

「誰?」

 問われて、子どもは口にする。

「ずっと前にここで会った妖精に」

「妖精?」

 子どもは頷いた。そう、丁度この場所で泣いていた時に会った、あの綺麗な妖精。

 名がないと不便だと、妖精がつけてくれた名がシオンだった。名をつけてくれた時、どこか悲しげな表情をした妖精の顔が、シオンの脳に鮮やかに蘇る。

 あの妖精は、別れる間際この小川の近くに群生している小さな藍色の花を摘んで、子どもに手渡した。

 誰かに花を貰うのもはじめての体験で、子どもはとても嬉しかったのをよく覚えている。あの時、妖精が言った一言が、今でも頭に強く残っていた。

『泣きたくなったら、この花を思い出しなさい。きっと悲しみを吸い取ってくれるから』

 そう言って、妖精はいなくなった。

「妖精は、オレが淋しくないように一緒に遊んでくれたんだ。オレが独りだっていったら、ギュっってしてくれた。すっごくいい匂いがして、こんな人がオレのお母さんだったらよかったなって思ったんだ」

 言いながら子どもは顔を俯けた。たった一度遊んでもらっただけだが、子どもには忘れることの出来ない良い思い出だ。

「なあ、もしかして、その名前。妖精に聞いたのか?」

 ふと、思いついて子どもは尋ねた。

「さあ、どうだろうね」

 うそぶくフラワーマスターに、子どもは詰め寄る。木と話ができるくらいなのだから、妖精とだって友達かもしれないではないか。そんな思いが子どもに湧きあがる。

「教えろよ」

「なら、シオン。お前が先に教えてくれよ。どうして、約束したのに屋敷に来なかったのか。どうしてさっき、泣きそうになっていたのかを。そうしたら教えてやるよ」

 言われて、子どもは俯いた。また、あの白い花が頭に浮かぶ。人のためになる薬草だと聞いていたのに、人を害する花だったなんて。

「シオン? どうした。何を泣く?」

 聞かれて、子どもは気づいた。自分の瞳から涙が流れていたことに。

 流れる涙を拭うこともせず、子どもは顔を上げた。

「ごめんなさい。オレ、知らなかったんだ」

 そう言うと、子どもはフラワーマスターに抱きついた。一瞬、驚いたようだったフラワーマスターは、そっと子どもの背を宥めるように撫でた。

 その温かい手のぬくもりに、なぜか余計に涙を誘われて、子どもはしばらくの間、泣き続けたのだった。




 深夜。寝室から出てきたカボックは、アキレアに肩をすくめて見せた。

「すっかり熟睡してますよ」

「そうか」

 どこか安堵の響きをにじませて、アキレアは呟いた。カボックはアキレアの座る席の向かいに腰掛ける。

「まったく、いたいけな子どもに嘘を言って、ケンム草の世話をさせていたなんて。あんな紳士面して、よくそんな卑劣なことができたものですよね。あー、腹の立つ。腹が立ち過ぎて眠気も吹っ飛んでしまいましたよ」

 鼻息も荒く、カボックはそう言い捨てる。そんな弟子に、アキレアは苦笑を浮かべてみせた。

 ようやく泣きやんだ子どもを屋敷へ連れ帰り、アキレアはカボックとともに、子どもから事情を聞いた。

 どうやら、予想していた通り、領主がケンム草の栽培をさせていた張本人らしいと知れた。

 さて、どうしたものか。

 そう思っていると、カボックの声が耳に入ってくる。

「まあ、それはそれとして。マスター。あの子の名前、どうせ花の名前にするなら、もっと他にもいい名前があったでしょうに。もっと良い花言葉の花の名前とか。どうしてシオンなんですか」

 カボックは不満げだ。アキレアはカボックに、口元に笑みを浮かべてみせた。

「最初から、そう決まっていたからだよ」

 どういう意味ですか? と、カボックが問う。だが、口を開いたアキレアは、問の答えとは全く違う言葉を口にした。

「さあ、そろそろお仕置きの時間といこうか」

「え? 今からですか」

 驚きの声を上げた弟子に、アキレアは言う。

「そう、今からだよ」

 アキレアの顔に笑顔はなかった。


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