第一話 夜の語らい
明かりのついていない室内に、唯一光を届けてくれるのは、大きな窓から入る月明かりだけだった。
女性は窓辺から月へと向けていた視線を外し、窓に片手をついたまま、背後を振り返った。そうすると、逆光によって、その優美な顔が暗い影に隠される。
「わたくしの願いを聞いてはいただけませんか?」
女性の声は儚く、暗い室内に吸い込まれるようにして消えた。
しばしの沈黙の後。男性の声が女性に答えを返す。
「あなたは酷なことをおっしゃる。私に友を欺けと?」
どこか揶揄するような響きを持つ低い声。女性の影がゆっくりと、首を横に振った。
「そうは言っておりません。わたくしはただ、彼がどうしているのか知りたいだけなのです」
それが、女性の切なる願い。
暗い室内。月明かりの届かぬ中で、女性は男性が身動きする気配を察する。
男性が、こちらに近づいてきているようだ。女性は窓辺から動かず、気配のする方を見つめた。
ゆっくりと、月明かりの下に現れたのは、黒髪のやけに背の高い男性の姿。
彼はゆっくりと口元に笑みを上らせた。
「それが問題だというのです。消息の定かではない彼のことより、あなたは今の家族を思うべきだ」
女性は顔を俯けた。男は淡々と言葉を紡ぐ。
「あなたには、優しい夫や、可愛い子どもがいる。それに、例え彼の消息が分かったとしても、彼に会うことが出来ないのは、あなたもお分かりでしょう。気持は分かるが、彼のことはもう、忘れるべきだ」
男が口を閉じると、少しの間、静寂が辺りを支配した。
「逢えぬことなど、承知の上です。分かっているからこそ、わたくしは、彼のことが気にかかるのです。彼が今も無事で暮らしているか。彼のことが心配で、夜も眠れないのです」
女性の答えに、男性は苦笑を洩らした。
「あなたは罪な人だ。私に秘密を共有しろとおっしゃる」
女性はその言葉に、目を上げた。
「では……」
喜びの声を上げようとした女性を制し、男性は髪と同じ漆黒の瞳を女性に向ける。
「私は、もうすぐナスタチウムに行く用事があるのです。帰ってきたら旅の話をお聞かせしましょう」
ナスタチウム。それは、彼の居る場所。女性は男性の言葉をゆっくりとかみしめるように、目を閉じた。
「ええ。あなたがお帰りになるのを心待ちにしております」
女性は祈るように、胸に手をあてた。