第五話「決意」
関羽・張飛の主君に会うべく、一行は古城を後にした。
結局あの後、玉華は彼らに付き従うしかなかった。逃げた所で無事帰れる保証などどこにもない。確実に生き延びるには、今は流れに身を任せる他ないのだ。
それはそれとして、玉華には解せないことがあった。関羽が古城に招き入れられた夜、彼女は彼に殺されそうになった。寸での所で止めに入ったのは他ならぬ張飛である。
関羽の方はどうやら玉華を試したらしい事が窺えるが、分からないのは張飛だ。無理やり攫ってきておいて帰す気がないのなら、玉華の心情など放っておけばいいはず。状況としても少女一人を気にかけている余裕などないのだ。
(何故……)
旅の間、玉華の頭の中で疑問がぐるぐる回っていた。山賊のお頭による、ただの気まぐれ。そう切り捨てるのは簡単だったが、張飛がただの山賊ではない以上、理解できないと分かっていてもつい気になってしまうのだった。
家族連れでの逃避行は大変なことのように思われたが、張飛らは山賊や侠者たちの情報網を駆使し、上手く乗り切っていた。その最中、劉備の夫人たちは打ち解けようと話しかけてきたが、玉華は気の無い返事ばかりを返して彼女たちを困惑させていた。明るく振舞う気力もなく、今までの自分は作り上げられた偽者のように感じられて、それがまた彼女を陰鬱にさせる。任夫人は、そんな玉華を気にした風もなく優しく微笑みかけてくれた。
劉備との合流場所は汝南の端にある富豪の屋敷であり、次の潜伏先でもあった。そこの主人と張飛は既に知った仲であるらしく、着いて早々挨拶もそこそこに親しげに語り合っていた。関羽はそんな彼らを、訝しげに見つめている。
「ようこそおいで頂きました。お疲れでございましょう。うちの食客から本日到着との知らせを受け、宴も御用意しております」
そう言った家主の関定は、嬉々として一同を迎え入れた。特に同姓であり、その武勇伝が広く知れ渡っている関羽には殊更思い入れがあるようだ。
「私どもは河北に住んでおるのですが、ここは別宅でしてな。普段は信頼できる者に管理をさせているのです。今回は益徳様からご連絡いただき、皆様とお会いするため飛んで参りました」
杯に酌をしながら、落ち着かない様子で何かと話しかけてくる。が、関羽にはそれだけではない心情が僅かに彼から感じ取れた。
(……?)
やがて関定はちらりと張飛の方を見やると、関羽に向き直って切り出した。
「ところで、雲長様には是非とも会わせたい者がおりまして」
その時、何故か場の空気が変わったのを誰もが感じ取る。玉華は隣の張飛の目元がぴくりと引き攣るのを見逃さなかった。
「ほう…儂に会わせたい、とは?」
「私の次男でして、ちょうど同伴してこの別宅に来ているのです。幼少の頃より貴方様を目標に、武芸に兵法にと学んできました。お会いできるのであれば、あれも大変喜びましょう。
…さあこちらへ参れ」
彼の合図に、扉を開けてすらりとした若者が入ってくる。歳は玉華より一つか二つ上だろうか。父親には似ておらず、異民族の血が入っているのか瞳は蒼く、端正な顔立ちだ。玉華にはどことなく夏侯覇が思い起こされ、思わず鼻の奥がツンとして顔を伏せた。
「次子の孟均にございます」
(孟…均?次子だと?)
自分の前に拝謁して名乗る若者に、妙な引っ掛かりを感じる。
「孟均…と言ったか。歳は幾つだ」
「はい、十と六になります」
関羽に対しても臆する事なく、強い意志を秘めた双眸でじっと見返してくる。何故かその眼差しは、昔から知っているような気がした。
(まるで旧知の者に出会った…いや、それ以上に懐かしいような……不思議だ…この孟均という若者は一体……?)
沸き起こった疑念と動揺を隠すかのように、関羽は関定の方を振り返る。
「これは良い御子息をお持ちだ。貴殿が自慢したい気持ちも分かる。…しかし失礼ながら、何故次男であるのに『孟』という字なのだ?」
大抵の場合、「孟」は「伯」と同じく長男である者の字に使われる。もちろん当てはまらない場合もあるが珍しい事には違いなく、関羽は違和感を覚えた。
「実は私と孟均には血の繋がりはありませぬ。私の妾が初めて出会った時に既に身篭っていた連れ子…言わば義理の親子なのです」
関羽とは対照的に、関親子は至って冷静に振舞っている。出生の事実を他人に明かされても、孟均は表情一つ変えない。
「しかし、それだけが理由ではございません。我々は、いつか雲長様にお会いできる日があれば、叶えて頂きたい望みをずっと昔から持ち続けておりました。その為に私はこの子が一人前以上であるよう厳しく躾てきたつもりですし、この子もまた、それを夢見て日々励んで参りました。
雲長様……どうか孟均を、貴方様の子としてお連れ下さいまし」
頭を地面に擦り付けるように下げる関親子の他は、時間が止まったかのようだった。突然目の前で起こった事態に驚きながらも、玉華は張飛が嬉しさで口元が歪むのを見た。興奮のあまり暴れたいのを堪えるように体を揺すっているのを見ると、彼はこうなることを知っていたようだ。
(以前から聞いていたのね……雲長殿にもずっと内緒で?)
玉華の思考を余所に、関羽は関定に確認する。
「それは……儂に、御子息を引き取って欲しいと?」
「いいえ、お返しするのです。この子がいるべき、本来の処に」
長い、長い沈黙が訪れた。誰も口を聞かない。その中で関羽は、記憶の奥底に思い当たることが一つあった。有り得ない……しかし、そうとしか考えられない。自分は『現場』を見てはいないのだから。
「金定の子か…………益徳」
関定でも孟均でもなく、関羽が問い掛けたのは、張飛。はっと仰ぎ見る玉華の視線も気にせず、張飛は杯を置いた。
「あの時、斬らずに逃がしたのだな」
「卑怯だってことは分かってんだ」
少しも狼狽した様子もなく、張飛は目だけをぎょろりと向けた。
「侠に生きる者として、この乱世に旗揚げする覚悟として家族を…後顧の憂いを断ち切らなきゃならなかったのは承知してる。だがよ…………俺には出来なかった。金定一人だったら俺は何の躊躇もなかった。彼女が腹を、庇ってさえいなけりゃあな」
その話は、玉華も何度か聞いていた。家族が何に置いてもかけがえのない玉華にとっては信じられず、また侠という人種を受け入れ難いものの象徴であったのだが。
「兄貴に初めてできたガキなんだぜ。 きっと兄貴にそっくりなんだろうなって。それが一度も腹から出られずに、この世を拝めねえで逝っちまうんだ。一寸でもそう思ったら、斬れなくなった。甘いと言われてもしょうがねえ。
……だが間違ったとは思っちゃいないぜ」
そう語る張飛の言葉に、玉華は知らず嬉しく思った。確かに張飛の主張は甘いのかもしれない。しかし、そのおかげで一人の若者の命が今、ここにある。その判断を責めることが出来ようか。
(殺さなかった。殺さずに、いてくれた……)
いつも偽悪的に振舞う言外の真実。斬ってきた敵の数を思えば笑えるほどの例外だが。
(それがこんなにも、嬉しいなんて)
関親子と玉華は他人ではあるが、彼女自身、二度も張飛に命を預ける形になっているのだ。今後嫁ぐかもしれない相手が、理解できない敵からほんの少し、こちら側に寄ったようで、思わず胸が熱くなった。
「俺はこっそり金定を逃がした。もう兄貴の前には現れないって約束してな」
「私はその頃、旅の行商をしておりました。そしてちょうど雲長様の当時の御宅の前を通りかかったのです。事情を聞いた私は、金定を妾として引き取ることにしました。そのまますぐに村を立ち去った為、誰にも気付かれませんでした。
私は雲長様と同姓ではありましたが、金定は息子を関雲長の子とは名乗らせないつもりでした。それが益徳様との約束であり、雲長様の望みだからと。けれどいつかこの時が来る日の為に、密かに益徳様と連絡し合っていたのです」
張飛の後を、関定が引き継いで説明する。
「大変だったぜ、十年以上もバレないようにするのは」
カラカラと笑う張飛を無神経、と玉華が顔を顰めたのは、関羽が浮かない顔をしていたからだ。
「それで……金定は今……」
「母は亡くなりました」
朗々と響く声に、一同がはっと目を向けると、孟均がこちらに向き直っていた。
「父の屋敷に着くまでの長旅と心労により弱っていたと聞きます。また、私を産む際にも難産だったらしく……」
ここで初めて、孟均は目を伏せた。
「……そうか」
関羽はただ、静かに返事を返した。死ぬ運命だった母、自分たちを捨てた父、そして保証のない夢…一体どんな思いで、この運命を受け入れていたのか。
「さぞかし、儂を恨んでおろうな」
「いいえ!」
関羽の言葉に孟均は一転してぱっと目を見開くと、それを否定する。
「我が家は多くの侠者とも通じていますし、その考えは理解しているつもりです。そして、その世界に足を踏み入れる覚悟もまた、出来ております」
迷い無き答え。玉華は彼に共感を覚えた。自分もまた、伯父の為なら自分の人生を預けてもいいとすら思った。だが、そんな孟均に対し、関羽は冷たい声で言い下した。
「それならば胸に刻んでもらいたいことがある。我ら侠の者は、血の繋がりよりも仲間同士の絆を至上とする。自らが選び、認めた者こそが真の兄弟であり、主君なのだ。
我らが妻子を斬り合ったのも大義成すまでは決して後ろを振り返らぬという覚悟の為。
張飛の決断を今更責めるつもりはない……が、儂や兄者にとって、金定はあの時死んでおる。死んでいなければならぬ。そして腹の子も、この世にはおらぬはずなのだ。生きていたからと言って手放しで受け入れては、兄者を、儂自身の覚悟を裏切ることになる。
儂は……妻子を失うことよりも、兄者や張飛との絆を絶たれる方が恐ろしい」
「雲長!!てめえ何てことを……」
絶句する玉華の横で張飛が吼える。孟均は目を見開いたまま硬直しているが、関羽は構わず続けた。
「それに、関定殿への恩はどうなる?今まで育ててくれた、この御方こそがお主の父であろう。ここであっさり乗り返るような不孝者は儂はいらん」
「雲長様、孟均は私にはもったいないほどの孝行者です。貴方の子と認めて欲しいというのは私の独り善がりの願い。実の親子が寄り添うことこそ本来有るべき姿なのではと。そんな勝手をこの子は許諾し、己の運命と出自を受け入れたのでございます。雲長様の御機嫌を損なうことがあるならば、それは私の愚かさ故です」
焦って弱気な声で口を挟んだ関定は、ここにきてようやく金定の言っていた意味が分かった。実の子だと明かした所で、認めるどころか己の覚悟の為に自ら手を下すことも有り得たのだ。
「父上」
孟均が関定を制し、真っ直ぐな眼差しで関羽を見据えた。彼の鋭い眼光にも怯む事はない。
「貴方のおっしゃる通りです、『雲長様』。確かに父上より幼き頃から、実の父の話を聞かされておりました。当たり前のように、いつか雲長様の元へ参ることを受け入れていたのです。
ですが、私にとっては雲長様と血が繋がっていることは重要ではありません。血の繋がりはなくとも、父は今まで私を生かし育ててくれた方。その恩に報い、敬い慕わずにはおられましょうか。
それでも雲長様は……父であろうとなかろうと、話に聞く生き様と信念には、強く強く惹き付けられておりました。お側に馳せ参じ、危機にあって貴方の盾となり得るのなら…それこそが、あの時に命を預けられた私に示された道なのだと信じております」
「孟均…」
関定は、はらはらと涙を零した。本当は孟均も実の親子としての対面を心待ちにしていたのだろう。しかし、関羽が受け入れられない心情も理解できるし、関定を父と慕う気持ちもまた嘘ではないのだ。
玉華も頬に涙が伝うのを感じていた。思い出さずにはいられない、伯父への想いと家族の記憶。例え関羽や張飛にとっては憂いとしかならない存在であっても、玉華には捨てられない。血の繋がり故の絆があると信じていたい。
「雲長様。どうか、どうか孟均をお連れ下さいませ」
頭を下げる親子をじっと見下ろしていた関羽だったが、溜め息を吐くと、今一度孟均に向き直った。
「一つ、申しておく」
「はい」
「我々は常に流浪と逃亡を繰り返す身であり、今も潜伏している状況だ。いつ何時、奇襲を受けるか分からぬ。例え武芸に秀でていようと、そなたには経験がない。また食に困るなど日常茶飯事で、汚い事にも手を出すことになろう。こことは違い、命を落とさぬ保証など一日たりとてないのだ。そうなってもそなたを助けぬし、最悪の場合は囮にするやもしれぬ。
儂はそなたが実の子であることは、生涯口にする気はない。今の裕福な暮らしを捨て、ひたすら地獄を生きることになるが……それでも、我らについて来る覚悟はあるか?」
玉華の身体を、ぞくっと震えが走るのが分かった。これから、そんな地獄を味わわなければならないのか。幼少のあの出来事を思い出す日々が、これからずっと。関羽は孟均に向けているようで、暗に玉華に言っているのではないか。
覚悟。
無理やり連れて来られた玉華に持てるわけがない。
そんな暗澹たる気分を打ち破ったのは、孟均の澱みない一声。
「這ってでもお伴致します!生き延びる自信と覚悟はございます。私が死ぬ時は、貴方を庇い命を救う時を置いて他にありませぬ!!」
躊躇なく即答する孟均。譲らない気迫の彼に関羽はついに折れ、にやりと笑みを浮かべる。
「一人前に……大きく出たな。関定殿よ、貴殿の御子息、真に気に入った。儂が責任を持ってお預かり致す!!」
わっと歓声が起こった。孟均の表情にみるみる喜色が広がる。関定も何度も「ありがとうございます!」と頭を下げ、息子を嬉しそうに抱きしめた。
孟均の出生は、ここにいる一同の心にのみ秘められるものになったが、彼は関羽の側に置いてもらえるだけで、ただそれだけで幸せを感じていた。その心は玉華自身、痛いくらいに分かった。
孟均は新たな義母となる任夫人にも礼を取る。彼女は十も歳が離れていない彼に、慈しみの笑顔を向けた。関羽が何と言おうと、孟均を息子として愛すると決めたようだ。孟均の方も、任夫人を関羽が金定以後初めて正式に娶った妻と認め、早くも二人は仲良くなれそうだった。
そんな誰もが祝福する中、ただ一人張飛だけは、先程と打って変わって不満げに杯を呷っていた……
「何やら不満そうだな、益徳」
昨晩からむっつりとして口を聞かず、酒を呑んでいる張飛に関羽が苦笑する。用意された部屋の床には早くも酒瓶が転がり、それを横にどけて胡座を組む。分かっているくせに、こうしてしらを切るところが張飛は気に入らなかった。
「何で息子って認めてやらねえんだよ」
「昨日言った通りだ。互いに手にかけたはずの妻が産んだ子が生きていましたでは兄者に申し訳が立たん。せめて共に連れて行くしか出来ぬ……言わば、儂なりのけじめなのだ」
「めんどくせえな、兄者だって喜んでくれるに決まってるだろ?折角嫁さんまで貰ったんじゃねえか。ついでっつっちゃ何だが…」
「益徳よ…本来のけじめとしては、孟均が金定の子と判明した時点で斬り捨てるべきではないのか」
ぶつくさ文句を言う張飛は、関羽の一言で酒の手が止まる。
「以前の儂ならば、そうしただろうがな……その考えが変わったきっかけは、紅昌との出会いだった。董卓の官女をしていた頃に間者の容疑で拷問を受けた紅昌は、以来声を失くした。その後は呂布の妾から杜夫人の侍女となるまで波乱に満ちた人生だったと聞く。
最初、身請けをしたのはそんな彼女への憐みからだった。弱き者が希望を抱ける世とすることが我らの大義だ。儂の側で兄者の描く天下を見せてやりたいとな。
…だが、そんなものは傲慢でしかないと気付いた。夫婦として生活する内に思い出したのは、最初の妻金定のこと。我ら兄弟の絆は何よりも優先したが、それでも金定を失ったことも決して軽くはないのだと思い知った。だからこそ、邪魔にしかならぬ妻を、今度こそ守ろうと誓ったのだ。紅昌を娶ってほどなく、息子に巡り会えたのは運命やも知れん」
「あー、ちょうど良い頃合いかと思ってな」
台無しにするような張飛の一言に咳払いすると、決意したように言う。
「ともかく、孟均と会ったことで儂は決心がついた」
「何をだ?」
それには答えず、関羽は立ち上がった。
「玉華に告げねばならぬことがある。借りるぞ……それに、お前に確かめたいこともな」
「今言やいいじゃねえか」
「まずは玉華だ」
眉を顰める張飛を残し、関羽は部屋を後にした。
「玉華殿。話があるのだが、よろしいかな?」
関羽に苦手意識を持っている玉華は、突然声をかけられ警戒したが、その壁を感じた関羽は解きほぐすように笑ってみせる。
「そう固くなるな。今度はお主にとって朗報かも知れんことだ」
「朗報…?」
「お主次第では、妙才殿の元に戻れるということだ」
その言葉に、玉華は信じられない思いで息を飲んだ。
任紅昌…元代の雑劇における貂蝉の姓名。
孟均…関平と関索を足して2で割ったオリジナルキャラクター。
胡金定…関索(孟均)の母親。「花関索伝」では生きてます。