82 スノードロップを引き止めて⑤
白い、白い、森の中。
小さな、小さな、荒い息。
響く、響く、激突音。
赤い雫が、森を染める。
「見つけたか?」
「いや、いないな。どこかに隠れたらしい」
「だが血を流していた。すぐに見つかるさ」
知らない声が、耳に響く。
恐ろしい音が、耳に届く。
彼らは何かを探している。
負傷して血を流している何かを。
……いや、違う。
何か、などではない。
『ち……』
探されているのは、獲物は、自分の方であった。
自らの白く美しい体毛を、無慈悲に赤く染めている血を見て、雪狐は一匹怯え震えた。
どうして、なにが、いつのまに。
そんな疑問が思い浮かべど、痛みに思考を邪魔され消えていく。
それほどまでに、傷は深かった。
流れ落ちる血が、思考を鈍らせる。
恐怖だけが、心を占める。
雪狐は隠れ穴から曇り空を見上げて、ただ思う。
どうか、あの人はこんな風に血を流していませんように、と。
ちゃんと遠くで、いつも通りに過ごせていますように、と。
誰かを想った事など一度も無い雪狐は、確かにそう強く思い、そのまま息を潜め続けた……。
時は遡って一日前。
森の外間際で、二人と一匹が対峙していた。
「それじゃあ、私達は行くね。君を巻き込みたくは無いし、他の所にも……行ってみたい、からね」
レイが寂しそうな顔でそう告げる。
雪狐はレイのその顔の奥に辛さが見えたような気がして、首を傾げる。
『まきこむ?』
「……追われているのよ、私達は。いつだって他の神族から追われ、狙われ、命の危険に晒されている。認識阻害の魔術はいつもかけているけど、魔術痕を完全に消すことは出来ない。大胆に魔術を使えば、敏感な奴らに見つかるわ。今も、いつ見つかるか分からない。もしかすると、既に監視されているかもしれない。だから各地を転々と旅しているのよ」
『……どうして?』
雪狐が追われる理由を聞くと、二人共陰りを見せる。
「……貴方が、普通の狐と違うのと同じ。私もレイも、普通の神族とは違うの。違うから、理解されず、忌み嫌われ、時に利用される。でも私達が望むのは、ただの平穏。普通が欲しいんじゃない。ただ静かな旅が欲しい。戦うのだって、出来るだけ避けたい。だから、隠れて、逃げて、ずっと生きているの」
普通と違う、という言葉に雪狐が震えた。
普通じゃない、なくなった。
ただそれだけで、今の自分は苦しんでいる。
この人達も、同じである。
ただそれだけで、苦しめられている。
違うと言うだけで、ひとりぼっち、ふたりぼっち。
今が幸せであったとしても、その事が、少しだけ悲しいのだ。
「見つかれば、どんな目に遭うか分からない。私達の面倒事に、君を巻き込んで、傷付けたくない。だから、もう行くよ」
レイはそう言って、雪狐を強く抱き締めた。
もう最後だと言うように、強く優しく抱擁した。
「さようなら。もう二度と会えないだろうけど……元気でね」
じくり、また胸の中が疼く。
雪狐はよく分からないまま、小さく鳴く。
後ろでルルディーも微笑み、雪狐の頭を撫でた。
「レイと一緒に遊んでくれてありがとう。貴方がその能力を操れるようになることを祈っているわ」
その優しい瞳に、雪狐は心が温かくなる。
隣のレイはもう、寂しそうな表情を隠していた。
寂しい表情をつくれば、きっともっと寂しくなってしまう。
そう思って、レイは安心させるように笑った。
ただ、笑った。
「それじゃ、さようなら」
「さようなら、雪狐」
レイとルルディーが手を振って遠ざかる。
『さよ、なら』
たどたどしい言葉で、雪狐も別れの言葉を言った。
雪狐には、その言葉を言う寂しさや、悲しさは分からなかった。
それまで経験したことがなかったから。
そんな感情、あったことも無かったから。
だが、何故だろう。
今どうしようもなく、あの背中を追いかけたいような気になるのは。
逃げてばかりだった自分が、追いかけたいと思うのは、一体どういうわけなのだろう。
その理由が分からないまま、雪狐は一匹静かに、二人の姿が見えなくなるまで見送った。
それからは、もういつも通りであった。
いつもの様に狩りをして、いつもの様に能力を操って、いつもの様に眠りについた。
特に、今までと何も変わらない、ただの平穏。
そうしていつもの穴の中、身体を丸めて目を閉じ、ふと目を開けて隣を見てしまう。
昨日の夜中、目を開ければ穏やかな寝顔があった。
小さな寝息を立てて、暖かそうに、幸せそうに眠っていた。
小さな命が、確かにそこにあった。
その隣には、見張りのため起きている者が。
ふと目が合うと、その者は小さく笑う。
夜空に映える笑顔で、雪狐も言葉には出来ないが、綺麗だと思えた。
それがもう、何も無い、誰もいない。
たった一日だけだったのに、寝床は酷く寒い。
たったの七日だけなのに、森はもう冷たい。
だが、その寒さも、冷たさも、きっと出会わなければ知らなかっただろう。
楽しいなどという感情も、知らないままだったろう。
そう思うと、雪狐は少しだけ嬉しい気がした。
寂しいのかもしれない。
だけれど、寂しいと思えるような出会いがあって良かったと、素直に思えた。
その感情を胸の奥に閉まって、雪狐は眠りについた。
その平穏な眠りが、その日で最後になるとも知らず……。
次の日、雪狐は突然目覚めた。
何か嫌な気配を感じて、本能が肉体を起こしたような感覚だ。
一気に意識を覚醒し、穴の中から辺りの気配を探る。
雪狐の寝床は、十数人ほどの何かに囲まれていた。
人型で、異様で、嫌な威圧。
これは、そう、これはまるで、昨日の彼女のような……。
『かみ……?』
そうして雪狐は、まるで誰かと同じように、逃げ惑う身となった。
「感知出来た。この辺だ」
「まだ能力も満足に操れず、魔術すら使えない獣で助かった。もし暴走されたり、逆に知性と能力が高すぎたら処分するのも一苦労だ」
「全く。能力持ちの獣神など、利用出来る能力でも無い限り産まれんで欲しいな。我々の星が乗っ取られかねん」
何やら声が聞こえる。
雪狐はまだその難しい言葉は理解出来ないが、確かに聞こえていた。
恐らく、ルルディーの言っていた、神々の共通言語だろう。
理解は出来なくても、拙い状況であることは理解出来ていた。
「そこか」
茂みの合間を縫って移動しようとした途端、目の前に巨大な土の槍が現れ、咄嗟に身を引く。
その場から離れ、別の所から逃げようと方向を変える。
しかし身を引いた場所からも土の槍が現れ、踏み出した場所から、また別の場所からも。
気が付けば、雪狐は閉じ込められていた。
「簡単に済ませるぞ。あまり森を荒らせば、近くの人間に悟られかねん」
「本来なら魔術痕など一切残さないために、魔術すら使わん方がいいのだろうが、相手は獣神だ。手短に魔術で済ませた方が良い」
「全く、何故今まで気がづかなかったのだろうな。能力持ちなど、引き込むか処分するかしないと厄介だろう」
「昔にも能力を暴走させ、国一つ滅ぼした輩もいたものな。全く、害悪極まりない。神と人の世の境を曖昧にするなど」
複数の目が、自分を見下ろす。
好奇でも、恐怖でもない。
確実に自分を廃そうとする、敵の目だ。
頭上に迫る、殺意を持った雷光の剣。
それを見て、雪狐はふと思う。
……嫌だなあ。
また、まだ、遊びたいなあ。
そんな子供地味た願望が、揺れた感情が、能力の蓋を開く。
その願いに、答えるように。
その思いに、答えるように。
「なっ! 能力の暴走か!?」
「引け! まだ確実なことが分からないうちは防御に徹しろ!!」
土の槍の壁に阻まれていた雪狐が、突如辺りに極寒の吹雪を巻き起こす。
地面が、木々が、全てが氷で覆い尽くされる。
空気さえも凍りつき、息を吸っただけで喉が凍りそうな氷点下の世界になる。
雪狐の心が、辺りを染め上げていく。
『しぬ、やだ……』
魔力で紡がれた言葉が、口から零れる。
心から漏れ出た雫が、冷気の渦に呑まれる。
死にたくないと、本当にそう願った。
贖罪のためでも、誰かのためでもない。
また、遊びたい。
また、あの楽しい追いかけっこをしたい。
その小さな欲のために、生まれて始めて、自分のために、生きたいと願った。
能力は所有者の感情に左右される。
所有者が喜びを覚えると、能力も喜びに花開く。
所有者が悲しいを覚えると、能力も悲しみに揺れ動く。
そして所有者に生きるための強い意志があれば、能力は生きる力を貸す。
ただし、操れなければ所有者をも殺しかねない、大いなる力を。
「っく……これは……」
土の槍壁の横に、ドサリと重たいものが落ちる。
襲撃しに来た神の一人だ。
全身を氷に包まれて一切の身動きも、思考も出来なくなっている。
神とて所詮は生物。
身を守るため魔術を編むが、そのための思考する脳が凍り付けば、勿論魔術は自動的に止まる。
浮遊して一方的に攻撃を仕掛けていたが、雪狐の暴走させた冷気によって一人の身体は氷に包まれ、無惨にも落ちていった。
神は多少頑丈なのでまだ生きているだろうが、このままでは生物として窒息して死ぬだろう。
勿論その出来事に神々は動揺し、だが周りの状況は今の雪狐の思考には微塵も入ってこなかった。
完全に、自らの今を能力に委ねていた。
「力が増している!? 全員冷気に抵抗しろ!」
「くそっ、想定以上だ!」
「人間に知られようと知ったことか! これ以上暴走される前に処分する!」
もはや人目を気にせず、動揺した一人が巨大な魔術を編み始める。
それが目に入れど、雪狐は能力を止めようとしない。
逃げようともしない。
そもそも、能力に呑まれすぎて、既に手足は凍り付いて動かなかった。
全てを固める能力の中心にいるのだ。
その能力そのものなのだ。
いくら耐性があれど、自分自身が凍り付くのは、能力者とて必然であった。
やがて発動された、己を殺すための魔術。
雷と暴風の魔術が、荒れ狂う冷気を越えて、巨大な槍のように雪狐に迫る。
逃げ場も時間も、どこにも無い。
その結果は、誰もが見えていた。
雪狐の白さが高く染まる未来を。
だからこそ、予想外からやって来た小さな影に、誰も気が付かなかった。
『……え?』
確実にこの世を去ったと思い、緩く瞑っていた目を、ゆっくりと上げる雪狐。
いつの間にか、能力は完全に発動をやめ、辺りには静寂が戻っていた。
いや、静寂にならざるをえなかった。
神々も、雪狐も、その存在に絶句していたのだから。
『レ……ィ……?』
顔を上げた雪狐に抱き着いていた、小さな温もり。
それは魔術に背中を焦がされ、衣服も髪もボロボロにして、雪狐にもたれかかったレイであった。
「ぅ……」
その神々は、知りもしない。
その存在が、この世界で最も存在を狙われており、同時に絶対に手を出してはいけない存在であることを、勿論知らない。
その小さな温もりに手をかけることで、一体何を敵に回したのか。
哀れな事に、知る由もない。
理不尽な事に、理解する暇もない。
そうして嫌な静寂が、冷気の代わりに、辺りを染めあげた。
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『今回は休憩』
S『ここが茶番舞台でなければ当機今すぐあの可燃ごみを焼却しに参るのですが』
S²「おいついてパイセーン!これ過去話!既に済んだ話だから!てかここで知っていたとしても、本編の君も知ってるってわけじゃないから!」
S『じゃあ腹いせに貴方に天誅通しますね』
S²「それなんて理不じnあばばば」
一応ここはただの舞台裏なので、本編とは一切関係ありません。




