80 スノードロップを引き止めて③
寒い早朝に、身体を震わせ、起き上がる。
穏やかな昼頃に、狩りをして、日当たりの良い岩場でひなたぼっこをする。
冷え込む夜は、木の下に掘った穴で、ぐっすり眠る。
それが、雪狐にとっての日常で、当たり前であった。
死ぬために生きている雪狐にとっては、それだけで良かった。
それ以外のものは、いらなかった。
あっても、壊してしまうだけだから。
だからまさか、雪狐の日常を壊しに来る輩が現れるなど、考えもしなかった。
その日はいつもと同じで、何ひとつとして変わり映えしない日になるはずであった。
ただ生き物を食べて、ただ呪いを操る訓練をして、ただ白い森を眺めて、ただ眠るはずであった。
それが、どうしてだろうか。
たった今、雪狐は、自分にとって長年住み慣れた森を、逃げるように駆けていた。
否、確かに逃げていた。
昔と同じように、自分が殺したものから逃げるように、自分自身に怯えて逃げていた。
「まってー!」
だが、今の雪狐の逃げる理由は、それだけではない。
「私知ってる! こういうの追いかけっこって言うんだよね!」
なんで、どうして。
雪狐は、困惑する。
「楽しいね! あははっ!」
どうして、どうやって?
雪狐は、恐怖する。
そう、今の雪狐は、自分を追いかけてくる子供そのものにも、恐怖を抱いていたのであった。
少し意味のズレた、その恐怖の鬼ごっこの始まりは、その日の昼頃にまで遡る……。
太陽が頂点を通り過ぎて傾き始める時間。
雪狐はいつも通りに、自分の呪いを操る訓練をしていた。
いつか別の地に行った時、その地を凍らせないように。
いつか普通に、死ねるように。
ふと、集中していた頭を上げた。
風上から、知らない匂いが香ってくる。
花のような、甘いような、不思議な優しい香りが。
だが確実に、獣ではない他の生き物の臭いであった。
それが分かった瞬間、雪狐は訓練を中断してその場から離れ始めた。
もう二度と、食べもしない人間など殺したくはなかったから。
冷たいだけの無意味な死を、生み出したくはなかったから。
普段の人間達は、奥まで逃げれば来なくなるため、そこまで逃げようと。
だが雪狐は知らない。
それが獣でも人間でもない臭いだということを。
それらをとうに超越した生命であることを。
知りえない未知の存在であることを、雪狐は知らない。
走り、何度か背後を振り返るも、誰もいない。
雪狐は自分の寝床の近くにまでやってくると、その速度を緩めた。
もう大丈夫だと、安心した。
足を止めて、気を緩めた。
その瞬間、雪狐の後ろに小さな気配を感じた。
反射的に、雪狐は後方へ跳んだ。
地面に着地し、雪狐は自分の背後をとった存在をその目に捉えた。
鼻先を、花のような香りが撫でた。
「初めまして! 私はレイ! 君が噂の雪狐かな?」
無垢な子供の、無邪気な笑顔。
眩しいくらいの、綺麗な赤い存在。
冷たい白と、暖かな赤が出会った瞬間であった。
そこから、森の中の鬼ごっこが始まった。
そして、話は冒頭へと戻る……。
一度低い木の上に登り、背後を確認する雪狐。
しかし予想通り、その子供はいた。
自分と同じぐらいのスピードで、自分のことを追いかけていた。
訳が分からないまま、雪狐は木から降りて逃走を再開する。
雪狐は、昔の森からこちらに移り住む時も、何度もこうして人間から逃げてきた。
人間が怖いのではなく、自分が怖いから。
だから逃げ足だけは、早い自信があった。
それが何故、あの子供は簡素なボロ靴で、この雪の森を、自分と同じくらいの速度で走れるのか。
意味不明理解不能とはまさにこの事である。
理性が現実を否定したくなっても仕方あるまい。
必死に逃げる雪狐からは見えないし、分かるはずもないが、その子供、レイは、身体の力だけで走っている訳では無い。
レイの動きを注意して見れば、レイの足元では小さな爆発が生まれている。
ただその脚力に耐えられずに、爆風が起きている訳では無い。
むしろ、自ら足元に爆発を起こして前に進んでいた。
レイの身体は強くない。
推定六歳児の見た目通り、身体的強さなど全く無い。
正直そこらの子供より、少しだけ鍛えている程度の、弱い子供だ。
風の如く疾く走れるわけでも、山河を砕くほどの怪力がある訳でもない。
今すぐ鍛えても、子供の身体が耐えられる訳でもない。
だからこそ、地道に魔力の扱いを身につけて、少しでも強くあれるようにしているのだ。
レイは魔力による爆発を連続で起こし、地面すれすれを飛んでいた。
普通であれば、簡単に出来る芸当ではない。
吹き飛び過ぎず、逆に弱過ぎない爆発を起こし、風を操って転がらないように身体を上手く浮かせる。
かなりの努力を重ね、その上で相当慣れなければ出来ないことだ。
だが、レイは可能としていた。
それを、現実にしていた。
ただひたむきな努力で、小さな力を身につけていた。
それにより、その衝撃と僅かな熱で、レイの通った跡が雪の中に地面を剥き出しにして出来ていた。
ある意味、レイの努力の跡であった。
そうして、その鬼ごっこは続く。
雪狐は逃げ続ける。
レイは追い続ける。
雪狐は怯える。
レイは楽しむ。
やがてその鬼ごっこは、雪狐が逃げ隠れたことで決着が着いた。
雪狐にとっては、レイが気配察知に長けていないことに救われた。
全力で距離を開け、隠れて気配を隠せば、レイが見つけることは叶わなかった。
足跡も、雪狐の恐怖の雪で埋もれていた。
「むー、見失ったー」
「逃げられちゃった?」
消えた足跡を睨んでむくれるレイの横に、一人の女性が立つ。
勿論レイの保護者のルルディーである。
レイが鬼ごっこをする間、ずっと森の上空にて見守っていたのだ。
「一瞬追いついたんだけどね、どこかに隠れられちゃった。見つかんない」
「そう。残念ね。でも今日は日もくれてきたし、疲れたでしょう? 探すのはやめて、森から出ましょ」
ルルディーがレイに手を差し伸べる。
「分かった。行こっか」
レイがその手をとり、二人は歩き始める。
勿論ルルディーには雪狐が何処にいるか分かっていたが、大分魔力を消耗して肩で息をしているレイを見て、追わせるのを止めた。
それはレイも自覚していたので、大人しく森を出ることにした。
そして二人は、その森から出ていく。
完全に気配も臭いも感じられなくなって、雪狐はようやく、無自覚に抑えていた息を吐く。
そしてぐったりとした様子で寝床まで戻り、その体を休ませた。
とにかく、あの子供を傷付けることがなくて良かったと。
殺すことがなくてよかったと。
そして雪狐は安心して眠りについた。
「ゆーききーつね! あーそぼ!」
雪狐が逃げる。
レイが追いかける。
何故、何故またこんなことになっているのか。
この子供は、昨日森から出て行ったのではないのか。
自分から離れたのではないか。
諦めたのではないか。
とりあえず訳の分からないことだらけだが、雪狐は必死になって逃げていた。
時は次の日。
雪狐は昨日のことなど過去のことと切り捨てて、いつも通りに過ごそうとしていた。
しかし川で魚をとっていたとき、向こう岸にまたあの子供、レイがいた。
「おはよ! 昨日ぶり!」
そしてまた、鬼ごっこが始まった。
確かに、レイ達は昨日森から出て、その近くで眠った。
しかし、立ち去るとは言っていない。
二度と来ないとは言っていない。
疲れて離れただけだ。
諦める気など、毛頭なかった。
雪狐はそんなレイの心中を察する余裕も無く、必死になって逃げていく。
ただ傷付けたくなくて怖いのと、素直に追いかけ回されて怖いのと、両方が入り交じって足を動かす。
だが不思議なことに、その恐怖は雪狐に成長を与えた。
「いたっ!?」
走っている途中、レイは突然透明な壁にぶつかる。
否、透明だが、不可視ではない。
それは突然現れた、氷の壁であった。
「あううう……。なぁにこれ?」
レイが額を抑えながら、その壁を擦る。
ひんやりとしており、ヒビも空気も一切入っておらず、綺麗な氷の壁であった。
その幅、縦横五メートル程。
厚さ五十センチ程。
そんな氷壁が雪狐の逃げて行った方角に連続で現れていた。
「おおー」
両手でぺたぺた触りながら呑気に関心するレイ。
素直に凄いと感嘆していた。
その間にも、雪狐はどんどん距離を開けていく。
見事に、その壁は妨害の役割を果たしていた。
その壁を作ったのは、勿論雪狐である。
雪狐が、追いかけられたくない、近付かれたくない、触れたくないと願った途端、普段から纏っている冷気が自らの背後に流れ、形を帯びた。
そして雪狐の心中を表すような氷の壁が形成された。
明らかな成長の証であった。
しかし雪狐は分かっていない。
レイも同じように、学び、努力し、成長する存在であることを。
その場での成長も、なせる存在であると。
「えいっ!」
バリンっ! と後方で砕けた音が、雪狐の耳に届く。
馬鹿な、と驚愕したことだろう。
ありえない、と恐怖したことだろう。
あんな子供が、レイのその細腕が、氷の壁を砕くなど、あまりにもデタラメ過ぎると、絶望したことだろう。
「えいっ! そいっ! やあっ!」
だが残念ながら、それは現実である。
魔力を帯びたレイの細腕が氷壁を打ち砕いているのは、紛れもない事実であった。
レイは次々と氷の壁を打ち砕き、雪狐を追いかける。
正直なところ、第三者から見れば、飛べばいいのに、とは思うことだろう。
だがレイは、興奮していてその事に気が付かない。
興奮して、目が爛々と子供らしからぬ光を帯びていた。
いい加減雪狐は、その子供が普通じゃないことを知る。
理解せざるを得なかった。
理解したからには、また全力で逃げた。
「……もー! また負けたー!」
そしてその日も、雪狐が氷の壁で距離を取り隠れたことで、レイは追いかけっこに一人勝手に敗北していた。
「……へえ、あの雪狐、中々面白いわね」
上空で重力を無視して浮遊し、レイと雪狐を見守っていたルルディー。
ある意味、真のチートはこちらであった。
そしてまた、次の日。
「雪狐ー! 今日も来たよー!」
また次の日。
「今日こそ追いついてやるー!」
そして次の次の日。
「まてまてー!」
その次の日も、その次の日も。
レイは疲れて倒れ込むまで、一日中雪狐を追いかけ回した。
雪狐は正直内心でウンザリしかけていた。
しかしそれだけでなく、別の温かい感情も芽生え始めていた。
その感情の名前を、雪狐はまだ、まだ知らなかった。
そうして、レイ達と雪狐が出会ってから、実に七日もの時が過ぎた。
「雪狐! 今日こそ私が勝つからね!」
突然現れて、胸張って仁王立ちするレイ。
朝起きて、突然エンカウントするのにも、もう慣れてしまいそうな自分が雪狐の中にいた。
そんな気持ちはバレないように内心でため息を吐き、また背を向けて、全力で走り始める。
「まーてー!」
駆けて、跳んで、滑って、隠れて、また逃げて。
でも何故か、体は不思議と、温かくなっていた。
恐怖は自然と、薄れていた。
冷気はいつの間にか、薄くなり始めていた。
自分自身の恐ろしさなど、忘れかけていた。
そうして、逃げて、逃げて、逃げて。
「おっ!」
不意に、雪狐は木の根につまづいて転んでしまう。
「とうっ!」
その瞬間に、レイは大きく跳んで雪狐に追いつく。
「つーかまーえた!」
レイの小さな身体が、そこそこ大きな雪狐の身体を包み込む。
ただ無邪気に、ただ欲望のままに。
そしてその瞬間、忘れかけていた雪狐の感情がぶり返す。
恐怖が、絶望が、悲哀が止まらなくなり、溢れ出る。
溢れたその感情は、その冷気は、辺りを氷で包み込んだ。
辺りの木を、草花を、川を凍らせていく。
氷の膜が、辺りを包み込む。
この環境に適さない小さな生物など、簡単に死んでしまいそうな、そんな冷気が森を覆う。
やってしまったと、雪狐は恐怖する。
また自分は、と雪狐は絶望する。
この子が死んでしまう、と雪狐は困惑する。
だが────。
「ふふっ、冷たい」
────その子供は、確かに、凍り付くことなく動いていた。
「冷たいけど、ふわふわ。あ、でも、ちょっと氷でパリパリしてるかな? でも氷を払えば、ほら、やっぱりふわふわだ。ふふっ、えへへっ。気持ちいいなあ」
レイは雪狐の呪いなどものともせず、その毛並みを堪能していた。
もっふもっふと、その小さな手で雪狐の身体を撫でていく。
「……あったかい」
不意に、顔を毛並みに埋もれさせたレイが、そんなことを言う。
雪狐は、不思議とその言葉の意味が理解出来、一瞬思考が止まる。
温かい?
一体誰が?
こんな冷たい森で、温かいものなんて……。
そしてレイが、バタッと雪の地面に寝そべる。
一瞬やはり死んでしまったのかと慌てる雪狐だが、仰向けになったレイは、笑っていた。
「ふふっ。えへへっ。あははっ」
楽しそうに変な笑い声を上げるレイ。
だがその顔は、確かに満ち足りていて、楽しそうである。
「追いかけっこ、楽しかったね」
微笑み、雪狐の瞳を見つめるレイ。
そしてようやく、雪狐は理解した。
……ああ自分は、温かくて、楽しくて、無自覚に笑っていたのだ。
そんな、知りもしなかった感情が、溢れ出て、涙に変わった。
その涙も、雪狐の纏う冷気で、冷たい氷に変わる。
レイはその氷を拾い上げ、雪狐と交互に見た。
その後その顔を、優しく緩ませた。
「……綺麗だね」
それは素直な感想であったのか、それとも、雪狐を思っての、優しい言葉であったのか。
「この氷も、この森も、君も。とっても綺麗で、温かいや」
そう言って、レイは雪狐を思いの限りを尽くして抱き締める。
雪狐は泣き続けた。
知らなかった感情に、今は溺れることにした。
そうしていつの間にか、流れる雫は、森の雪を僅かに溶かし、消えていった。
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『今回は休憩』
S²「どうやら今回はモフモフ回だそうで!」
S『当機もモフモフだったら……』
S²「君ナデナデされたら萌え死ぬんじゃないかなー」
S『くっ、否定出来ませんね』
追いかけっこの勝敗
六敗一勝で結果的にレイの勝利(謎)




