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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第三章 ジョゼの決意

第三章 ジョゼの決意

 ジョゼが喉に唾を流し込む音がした。

「マリー……意味がわからねえ。抱かれてもいいとは、どういうことだ?」

 マリーは張り詰めていたものが切れて、絨毯にぺたんと座り込んだ。

「……お腹に、赤ちゃんがいるの」

 ジョゼは微動だにしなかった。顔も強張ったまま表情が固まり、小さく口を開けたままだ。マリーは俯いたまま、語り始めた。

「ずっと内緒にしていたんだけど、エヴァが気づいちゃって。堕胎しようって言われて。でも私、この子が愛おしいの。殺すなんてできない。どうしても生みたいの」

 ジョゼが戸惑いの声で尋ねた。

「待てよ。エヴァは堕胎しろといったのか? つまり、子供の父親は誰かを、エヴァは知っているんだな?」

 マリーは両手で頭を抱えた。覚悟していた事態とはいえ、これまで自分の身に起きたすべての経緯を話さなければならないのは、辛かった。

 話の途中で、ジョゼが背を向けはしないか、顔を見るのも嫌になってしまうのではないか。不安は尽きない。

 ――ジョゼ、どうか信じて。私のあなたへの思いを。

 マリーは、ぽつりぽつり話し始めた。

「ロランド邸に浚われて、私、グエンから辱めを受けました」

 顔を強張らせたまま、ジョゼの肩がぴくりと跳ねた。

「……なんだって?」

 マリーは涙声になるのを、どうしようもできなかった。

「抵抗できないよう、足に枷を填められて。私に力があったらグエンを殺してやりたかったけど、こうして罪の街に帰って来たのだから、忘れようと思ったの」

 ジョゼは真顔でマリーを見つめていた。表情は固まったままだ。

 同情してくれているのか、マリーを汚いものと見ているのか、なんとも言えなかった。マリーはどうしたらいいか分からず、とりあえず、思いのたけを全て、ぶちまけることにした。

「エヴァだけは、グエンにされた屈辱を知っていたの。だから、お腹の子もグエンの子で、私の妊娠を知られると、子供ともども、取り返しに来られると言うの。洗礼式で信心しないことを誓った私は、グエンと結婚しないで済んだ。でも、お腹の子に父親がいないままでは、ロランド家の血を引く子供と思われて、親子ともども帝国に取り込まれてしまう。エヴァの言う通りだと思う。グエンは、どんな暴挙をするかわからない。どうしても私、この子を守りたいの」

 ジョゼはマリーを見つめたまま、動かなかった。

 マリーは急に不安になった。街でも聖女などと呼ばれ、自分に清いイメージがある事実は自覚していた。聖女の仮面の下に淫靡な顔が隠れていたと、衝撃を受けているのだろうか。

 ――ジョゼが今こうして話した事実を受け入れてくれないのなら、これ以上の話は、とても無理だわ。

 するとジョゼは、ようやく口を開いた。

「マリー……なんてことだ。そんなにも苦しんでいたなんて。時々、気分が悪そうにしていたから、何か病気にでもなっているのかと、心配していた」

 マリーはジョゼを見上げた。

「心配してくれていたの?」

 ジョゼは頬を軽く染め、灰色の瞳を揺らした。

「君のことは、ずっと見ていた。初めて会ったときから、ずっと、君だけを」

 マリーは口を小さく開け、ジョゼを見つめた。

「このままずっと、君が誰かのものになるまで、見届けるつもりでいた」

 マリーの頬が火照るのを感じた。ジョゼは密かにマリーを見守ってくれていた。ジョゼの口から聞けて、こんな嬉しいことはない。

「ただ、マリー、君の今の説明では、お腹の子はグエンの子ではない、ということか?」

 マリーは「ああ」と苦しい息を漏らした。

 グエンの子だと言ったほうが、ジョゼの同情を買える。人の道に外れた行いをしたのを知られることなく、マリーは守ってもらえる。

 だが、何故どうしても生みたいと思うのか、説明をしたかった。

 母としての情が湧いた、とごまかしてもよい。だが、今後ジョゼと寄り添い、生きていくためには、出発地点で嘘を言いたくなった。

 ――どうか、どうか嫌いにならないで、ジョゼ。

 マリーは脳天から血の気が失せそうになるのを堪え、言葉を継いだ。

「お腹の子は、グエンの子ではないの。グエンに触れられる前に、私は……子を宿してしまったの」

「心ならずの妊娠か? それとも、愛し合った結果か?」

 マリーは一瞬ぽかんとした。自分でもどっちなのか、皆目わからなかった。

 確かにルイは、強引に関係を迫った。だが、マリーは、最終的には自分が受け入れたと思った。思いたかった。

 兄を憎く思うなら、お腹の子に愛情は湧かないはずだ。マリーにとって、ルイは全てであり、神のような存在だった。

 生むのは……当り前のような気がしていた。

 マリーはジョゼの手を放し、ワンピースの裾を直した。

「畏怖の念というか、従うのが当然なのだと思っていたの。決して、嫌いではないと思う。お腹の子を憎いとは、思っていない」

 ジョゼは灰色の瞳を光らせ、マリーに先を促した。マリーはすがる思いで口を開いた。「この街に来る、ちょうど一月前。ルイが……兄さんが私の部屋にやって来たの。兄さんは、私に『愛している』と言った。私は、ずっと以前から、兄さんの気持ちに気づいていた」

 ジョゼは呆然としていた。マリーは辛くてジョゼの顔を見ていられなくなった。

「兄さんは、だいぶ酔っていて、子供ができるとか、そういうこと、気をつけてくれなかった」

 再び沈黙が部屋を支配した。マリーは俯いたまま、ベッドに載ったジョゼの足を見ていた。

 ジョゼは、ぴくりとも身体を動かさなかった。何も言わなかった。だが、相当の衝撃を受けているには違いなかった。

 マリーはジョゼから顔を背けたまま、話を続けた。

「私たちが愛し合うことを神が許さないのなら、信心などしなければいいと思った。でも、近親相姦の上にできた子供は、人の道に反してしまう。私とルイは結婚できるわけではない。獣のように交わって生まれた子だと言われたら、この子があまりに可哀そう」

 ベッドの上でジョゼが動いた。ジョゼが身を乗り出し、膝に肘を載せた。

「ルイを今も、愛しているのか?」

 マリーは目を閉じ、小さく首を横に振った。

「愛、ではなかったと思う。お父様とお母様が死んで、兄さんだけが頼りだった。愛を示され、戸惑ってばかりいたけど、所詮は兄と妹なのよ。兄さんは私を女として見続けているけれど、私は兄さんしか知らなかった。無知だったの」

 マリーの頬をぽろぽろと涙がこぼれた。最初のうち、何が悲しいのか、自分でもわからなかった。

 ――私にとって初めての人は、ジョゼであって欲しかった。

「ジョゼ、信じてくれないかもしれないけど、この街に来て、ずっとあなたが好きでした。あなたに見つめられると、心のざわつきが消えるの。あなたの横に立つと、不思議なほど安らぐの。あなたの声を聞くたび、波立った気持ちが穏やかになるの。そのくせ、あなたの顔を見ていると心臓は高鳴るばかりで。あなたと過ごす時間、私の頬は火照りっぱなしなの」

 マリーは涙を流しながら、ジョゼの膝にすがりついた。

「信じてください、私の気持ち。あなたのものになりたいの。あなたに、この子の父親になって欲しいの。あなたに、私の全てを捧げたいの」

 ジョゼの手がマリーの頭を撫でた。マリーは恐る恐る顔を上げた。

 ジョゼはベッドから降り、マリーと向かい合い、膝をついた。顔をマリーに近づけ、耳元で囁いた。

「ベサ・メ(キスしろ)」

 マリーは呆然とジョゼを見たが、すぐに目を見て頷いた。絨毯に座ったまま、ジョゼの肩に腕を回した。

「ミ・アモール(私の愛しい人)」

 マリーは首を伸ばし、ジョゼの唇に口付けた。伸びた髭がマリーの唇に触れた。マリーが優しく舌で舐めると、塩辛い汗の味がした。

 ジョゼの腕がマリーの背に回った。マリーはジョゼの唇を夢中で受けながら、胸と腹を密着させた。そのまま二人は絨毯の上を転がりながら、口付けを繰り返した。

 ひとしきり互いの唇を味わった後、まずジョゼが上半身を起こした。マリーは不安に思い、ジョゼの瞳を見つめた。

 ジョゼは髭でざらついた頬を手で撫でると、おもむろに立ち上がった。マリーが寝転んだまま、見ていると、ジョゼは部屋の隅にある洗面台に向かった。

「いい加減、髭を剃らないとな」

 マリーは上半身だけ起こすと、ジョゼの後ろ姿を見ていた。髭を剃って、それからどうするのだろう?

 ジョゼは電気カミソリで髭を剃り、顔を洗った。顔に当てたタオルを剥がすと、マリーを見下ろした。

「婚姻届を出すには、証人が一人、必要だ」

「ということは、ジョゼ、私の願いを聞いてくれるの?」

 ジョゼはタオルで手をぬぐい、洗面台にかけてマリーの傍にやって来て、膝をついた。

「入籍は、早いほうがいい。今ここでルイの耳に入ったら、オレの命はない。今から準備をするから、市役所へ出かけよう」

 ジョゼとの結婚を知ったら、ルイはどう行動するだろう? ジョゼを殺し、マリーを奪い返そうとするだろうか?

 マリーの考えに答えるかのようにジョゼは声を発した。

「籍を入れたら、グエンは君に手出しができなくなる。ルイにしても、君との関係を街の全体に知られるのは困るだろう。こちらで先手を打って夫婦になり、事後承諾にすれば、ルイに二人を引き裂く権利はない」

 マリーは逸る心を抑えきれず、ジョゼの手を取った。取った手を頬に持って行き、肌のぬくもりに、うっとりした。

「証人はエヴァにお願いできないかしら。私たちの共通の友人でもあるし、今後も私たちを見守っていって欲しいわ」

 ジョゼは難しい顔をして、首を横に振った。

「エヴァにも、まだ言わないほうがいい」

「あら、なぜ?」

 マリーは不思議だった。エヴァが十三歳のときワルの道に入り、ジョゼと知り合ったという。少女の頃から今まで、ずっと友情を育んできたはずだ。二人の仲の好さは、マリーが嫉妬を覚えるほどではないか。

 だが、ジョゼはマリーの提案を退けた。

「あいつは……オレたちの結婚を喜ばない気がする」

 マリーは耳を疑った。そんなことがあるのだろうか? エヴァもジョゼと同じように、全てを知れば、二人の結婚も理解してくれるとマリーは思い込んでいた。

「お腹の子が普通の子じゃないから?」

 ジョゼは素肌に革の上着を羽織りながら、マリーに声を掛けた。

「なんとなく、そう思うだけだ。俺の直感に過ぎない。ただ、俺の勘が、これまで俺を生き延びさせてきた。婚姻届を出して一息ついたら、グアタルーベに二人で報告に行こう」

 マリーは納得が行かないまま、うなずいた。

 ジョゼはマリーをかすめてベッドの横に進み、置いてあった電話を手に取った。短くダイヤルして「女将を呼べ」とだけ言った。

 程なくして短く三回、扉を叩く音がした。ジョゼは素早く扉に近づき、覗き穴から確かめると、鍵を開けた。

 先程マリーを足止めした女将が、大きな胸を揺らし入って来た。ジョゼがさっそく女将に尋ねた。

「女将、婚姻届の証人が一人いる。この宿の娼婦を一人、貸してくれ。市役所まで行ってくる」

 女将は目を丸くし、ジョゼからマリーに視線を移した。

「こりゃまた、えらく急だわね」

「急ぐんだ。早く一人、適当なのを連れて来てくれ」

 女将は「あいよ」とジョゼとマリーを部屋の外に手招きした。

「ちょうど昨日から暇にしていた子がいるんだ。あの子に任せよう」

 会ったこともない見ず知らずの人間に証人を任せて、いいのだろうか。マリーは不安な気持ちで、ジョゼに疑問をぶつけた。

「婚姻届って簡単に提出できるのかしら?」

 すると女将は、マリーに向かって、にやりと笑った。

「この地域の婚姻は、ラスベガス並みに簡単だよ」

 マリーとジョゼはアブリル市の一番通りを歩いていた。数歩先には婚姻届を提出するに際し、証人となった娼婦ニタが歩いていた。

 黒い髪を後ろできつく結び、ラテン系の派手な顔をした女だった。踊りのほうも素養があるのか、先程からステップを踏みながら、鼻歌混じりにマリーたちの遙か先を歩いていた。

 婚姻届は、あっけないほど簡単に受理された。暗い戸籍課の窓口で、職員は仏頂面のまま二人の用紙を受け取った。

 証人がマリーの知らない娼婦でも、一向に問題はなかった。詳しく住所を聞かれることもなく、戸籍の確認も、ろくに行われなかった。

 市の職員から「おめでとう」の一言もなかった。その代わり、何の異議も唱えられなかった。マリーは、あまりにあっけなく、ジョゼの妻になることができた。

 帰り道、そろそろ日も高く昇り、道を行き交う人も増えた。アブリル市の中心である一番通りを歩く人々は、罪の街の住人とは雰囲気が違った。どことなく品があるし、眼付の悪い男もいなかった。

 マリーはジョゼの横に追いつき、そっと手を握った。ジョゼはもう、マリーから触れても、身体を強張らせることはなかった。マリーは、この男が夫なのだと強く実感しながら、ジョゼに話しかけた。

「私の新しい名前、セイント・マリー・クレメール、素敵な響きよね」

 マリーは叔父のヒューズ姓を捨て、ジョゼ・クレメールの妻になった。マリーは自分の新しい名前を何度も繰り返し、微笑んだ。

「そんなに気に入ったか」

「ええ。私は最初から、この名前になる運命だったと思えるほどよ」

 ジョゼのマリーへの態度も、他人行儀ではなくなった。「君」から「おまえ」と呼び方が変わると、マリーもこの男の配偶者になった実感が沸く。

 ジョゼは、まとわりつくマリーを優しい笑みを浮かべて抱き寄せた。

「ニタのやつ、さっさか歩いていきやがって。どこへ消えた?」

 ジョゼの言葉に、マリーが前方を見ると、確かにニタの姿はなかった。

「面倒なことを頼んでしまったものね。乗り気でなかったのかもしれない。申し訳ないわ」

 するとニタが、数メートル先の花屋から顔だけ出した。

「ジョゼ、マリー、こっちよ」

 ジョゼとマリーは顔を見合わせた。二人はすぐに早足でニタがいる花屋に向かった。

 ニタは白い小花で作ったブーケを持って立っていた。マリーが現れると、ブーケをマリーに差し出した。

「花嫁なんだもの、ブーケぐらいは持ってないと。今、ここの店員に作ってもらったの」

「まあ、ニタ、ありがとう」

 マリーは感激だった。白いウェディングドレスも指輪も、式すら行わない結婚。これでいいのだと思いながらも、十六歳の少女の心は、ほんの少しだけ寂しかった。

 ニタの心遣いがマリーには嬉しくてたまらなかった。

 マリーはブーケを鼻に近づけ、香りを嗅いだ。自然の花の香がマリーの全身を駆け巡り、とても幸福な気持ちになった。横に立つジョゼも鼻を近づけた。

「うん、素敵な香りだ。ニタ、ありがとうな」

 ニタは、くくっと小さく、小鳥のように笑った。

「私たち娼婦には縁のない話だからさ。まるで私たち娼婦のうちの誰かが、足を洗って、愛する夫と結婚生活を踏み出せるような気分になってるの。マリーは私たちと違って、綺麗な身体だから、こんなこと言われるのは嫌かもしれないけど」

 マリーは、どきりとしながらも、慌てて首を横に振った。

「いいえ。私はホテル・シグロでジョゼと結婚を決めたの。仲間のように思ってくれるのは、すごく嬉しいわ」

 ニタはぎょろりと丸い眼を思いきり細めてマリーに笑いかけた。

「で、今日は、これからどうするの? 新婚旅行とか、行かないの?」

 マリーとジョゼは顔を見合わせた。ジョゼが先に問い掛けた。

「これから、どうしたい、マリー?」

 マリーは浮き浮きした気持ちだった。

「このままホテル・シグロに帰りたいわ」

 ジョゼが「ほぉ?」と意外そうな顔をした。マリーが自分の思いを正直に吐き出すには、まだ勇気が必要だった。マリーは下を向き、顔から火が出そうになった。

「あなたを……早く知りたいの。いつもジョゼが眠るあの部屋で、私のことも、知ってほしい」

 ジョゼの瞳が怪しく光った。マリーの手を握る力が強くなった。

「そうだな。オレも早く、おまえを知りたい。場所なんてどこでもいい。妻にした女を、この手で確かめたい」

 ニタが明るく笑った。

「ごちそうさま。昼も高いうちからお熱いことね」

 マリーは目の前が極彩色になった気がした。婚姻届を出しただけで、この男のものになったというだけで、世界が変わって見える。

 ――私は兄さんの呪縛から解き放たれたんだわ。

 これからは全てが良い方向に進む。マリーは頼りがいのある夫の胸に甘え、顔をうずめた。

 昼下がり、七番通りを行き来する人の声が、開け放たれた窓から聞こえてきた。

 ベッドの上でマリーはゆっくりと目を開いた。右横にはジョゼの逞しい身体がマリーを守るように横たわり、胸の筋肉が呼吸と共に上下していた。

 マリーは固く引き締まった腕から肩にかけて、そっと指でなぞった。恥ずかしさと嬉しさで、自然と笑みが漏れた。

 ――こんなにも優しい愛し方があったなんて。

 男の暴力に屈してばかりだったマリーは、ジョゼの胸で初めて、対等の愛を知った。求め合い、捧げ合う。当り前の愛し方ができて、夢のようだった。

 マリーは改めて、夫となったジョゼの寝顔を見つめた。長い睫毛、まっすぐ通った鼻筋、触れると溶けてしまいそうな、愛しい薄い唇。

 出会えたことが奇跡に思えた。ジョゼの腕から肩にかけての窪みに、マリーの身体はすっぽり納まった。夫婦となり、愛し合うことが運命だったと、つくづく今は思う。

 軽い喉の渇きを覚え、マリーは身体を起こした。スリップだけ頭から被ると、素足で絨毯に降りた。

 部屋を歩いて、冷蔵庫を開けた。中にはビールの缶と黴かけのチーズの他、カクテルを作るためと思われる炭酸水が入っていた。

 マリーは炭酸水の瓶を取り出し、冷蔵庫の上に載せてあった栓抜きを使った。しゅわっと小さな音がした。マリーは瓶のまま、炭酸に口をつけた。

「オレにもくれ、マリー」

 マリーは夫の声に振り返った。傍にマリーの気配がなくなった違和感で、目が覚めたのかもしれない。

「ごめんなさい、起こしちゃった?」

 マリーはもう一瓶、冷蔵庫から出すと、栓を抜いた。両手に一瓶ずつ持ち、ベッドに近づいた。

 ジョゼは腕だけ伸ばして瓶を受け取ると、その手でマリーの手首を引っ張り、身体を引き寄せた。危うく炭酸水がこぼれそうになり、マリーは「きゃっ」と明るい悲鳴を上げた。

 ジョゼは無言でマリーの肩を引き寄せ、再びベッドの上に寝転がらせた。ジョゼの唇がマリーの耳から頬にかけてを舐めた。マリーは甘い感触に、うっとり目を細めた。

 マリーはジョゼに頬を寄せ、耳元で囁いた。

「ジョゼ、私、幸せだわ」

 ジョゼはわずかに額に皺を寄せた。

「式も挙げられず、新婚旅行もない。新居は連れ込み宿の一室だ」

 マリーはジョゼにしがみつき、口付けを繰り返しながら、声を発した。

「それでも、幸せ。あなたのものになれたこと、あなたに愛してもらえたこと、ありのままの私をあなたに捧げられたこと。どれもが素直に嬉しいの」

 ジョゼは炭酸水を一気に飲み干すと、マリーが持っていた瓶も合わせて、横のテーブルに置いた。

「身体は、苦しいことはなかったか? 気持ちが悪いのは、しばらく治らないだろう。辛かったら、遠慮なく言え。お腹に子供がいる大事な身体だ」

 マリーは愛しさを超えた感謝の気持ちが溢れた。

「ジョゼ、ありがとう。私なんかを妻にしてくれて」

 ジョゼは不思議そうにマリーの顔を覗き込んだ。

「何を言う。二人で決めたことじゃないか」

「そうだけど……お腹の子のことも、受け入れてくれたでしょ。私、ありがたくて、涙が出てきそう」

 ジョゼは無言でマリーの肩を引き寄せ、頬に口付けた。マリーはまだ感謝の言葉を言い足りなかった。

「もし、あなたが受け入れてくれなかったら、私、苦しくて気が狂ってしまったかもしれないわ」

 ジョゼはキスを首に散らしながら、囁いた。

「お腹の子を、人の道に外れた罪の子と言うのなら、オレが代わりにその罪を背負ってやる。この手で、おまえと一緒に幸せにしてやる」

 マリーは目を潤ませて「ありがとう」と何度も頷いた。

「マリー、おまえは言っていたな。ヨセフのように愛せるか、と。おまえなら、愛せる、マリー。おまえは、オレにとっての聖マリアだ。お腹の子を引き受けるのは、当然だ」

 マリーはジョゼの胸に身体をうずめた。

「兄さんは、私たちの結婚を知ったら、どうするかしら」

 ジョゼは小さく笑った。

「普通なら、殺されるな」

「そんな!」

 マリーは、がばっと飛び起き、ジョゼの顔を見た。ジョゼは穏やかな顔のまま、気持ちよさそうに目を細めていた。

「心配するな。そう簡単に殺されはしない。それが所帯を持った男の責任でもある」

 マリーは不安と恐怖でジョゼにしがみついた。

「あなたが死んだら、私、後を追います。あなた以外の誰のものにも、もう絶対なりたくない。兄さんのものには、もうなりたくないの」

 ジョゼは、いつもの抑揚のない声で、しかしはっきりと告げた。

「わかってる。ルイにはもう二度と、おまえに指一本たりとも触れさせない」

 ジョゼは身体を起こし、蒲団をはぐと、ベッドから降りた。マリーは背中に声を掛けた。

「ジョゼ、私たち、本当にあなたに従いていっていいの?」

 ジョゼはゆっくりと振り返った。

「罪の街のヘッドの妹と、兄の了解なしに結婚しちまったんだ。それなりの覚悟はしている。オレが死体にならない限り、従いてこい」

 最後の言葉がマリーを不安にさせると気づいたのだろう。ジョゼは背を向けたまま、付け加えた。

「オレは、死体になるつもりは毛頭ない。安心しろ」

「わかりました」

 ――この人に、どこまでも従いていこう。兄さんと敵対するのなら、私は夫に付くまでだわ。

「先にシャワーを浴びさせてもらう。マリー、もう一休みしたら、グアダルーベに出かけるぞ」

 マリーはスリップの肩紐を上げながら、「はい」と答えた。ジョゼはシャワールームに姿を消した。

 今宵、グアダルーベでルイはマリーとジョゼの裏切りを知る。ルイは果たして、どう出てくるだろうか。

 マリーは震える身体を両腕で抱え、静かに目を閉じた。


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