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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第二章 原罪の宿り

第二章 原罪の宿り

 マリーがルイのアパートを出たのは、午前五時を過ぎた頃だった。空はしらじらとしていたが、星がまだ一つ二つ、瞬くのが見えた。マリーは青い上着の襟を合せ、白い水蒸気が上る路地を十六番通りに急いだ。

 不意に数歩先にある民家の裏口から髪を乱した女が出てきた。マリーは危うく衝突するところを左に避けた。女は生ゴミで溢れ返るゴミ缶を、路上に引きずっていった。

 普段なら街全体が寝入っている時間だ。だが起きているのは、マリーとその女だけではなさそうだった。

 路上には一定間隔を置いて、蓋付の大きなゴミ缶が出されていた。街を清掃車が通るのは週に一度。罪の街を内包するアブリル市が委託した集積車が決まった時間に通る。罪の街を無事に通り過ぎる唯一の車両だった。街の女たちは、この機を逃してはならないと、寝間着姿のまま路上に顔を出していた。

 朝帰りのマリーは女たちと顔を合わせないように早足で表通りを過ぎ、グアダルーベの裏口に辿り着いた。ノブを回そうとした瞬間、扉が開き、ぼさぼさ頭のエヴァがぬぅっと顔を出した。

「おかえり。随分ごゆっくりだったわね」

「……ただいま」

 エヴァは明らかに機嫌が悪かった。大きなゴミ缶を腹に抱え、両手で支えながら、道端まで持って行った。マリーはもじもじしながら、エヴァが戻ってくるのを待っていた。

 とぼとぼと戻ってきたエヴァはいつもより青い顔をしていた。髪をしきりに掻き上げる仕草も、イライラしている証拠だ。

「まあ、兄妹仲がいいのは結構なことだけど、こんな朝まで何してるんだか」

「えっと、いろいろあって、その……」

 口籠るマリーの肩をエヴァは強く掴んだ。

 エヴァはマリーに頬を寄せるように顔を近づけた。猫が威嚇するように鼻にしわを寄せ、低く抑揚のない声で告げた。

「それより、話があるの。中に入って」

 エヴァは裏戸を閉めると一人ですたすたと厨房を通り抜け、奥の店まで行ってしまった。マリーは慌てて追いかけた。

 ――まさか、兄さんとの仲を……気付かれた?

 店内では、エヴァは中央のテーブルに着いて、マリーが来るのを待っていた。マリーは落ち着かない思いを抱えたまま、エヴァの向かいの席に着いた。

 エヴァは肩肘をテーブルに着き、苦しそうに指を額に当てた。

「今日から生理で調子が悪いの。でも、ゴミは出さなきゃいけないしで、朝からバタバタしてたんだけど」

「ごめんなさい、大変なときに手伝えなくて。今度からお互いの調子も把握してないと駄目ね。私、もっとエヴァのこと、気をつけて見ているわ」

 するとエヴァは、どんよりした眼でマリーを見上げた。

「確かに気をつけていれば、もっと早く気づいたのよね。あんたがここに来て、一度もトイレの汚物入れを使わなかった、ってことが」

 マリーは顔中の血液が下がっていくのを感じた。この街に来て二か月。エヴァには二回来ていた月のものが、マリーは一回もなかった……。

 エヴァは両肘をテーブルにつき、掌に顔をうずめた。マリーにではなく自分に腹を立てているようだった。

「保護者として、同じ女として恥ずかしいわ。気づいてあげられなくて。まさか、妊娠するなんて……」

 マリーは目頭が熱くなった。エヴァは何も言わなかったマリーを責めてなどいない。マリーの痛みを思い、共に苦しんでくれようとしている。

 己が身体に起きた変化に、マリー自身どうすることもできずにいた。不安な思いは日々ゆっくりとだが着実に膨れ上がり、平気な顔で笑うのも辛くなっていた。

 そんなときに起きた、広場での大天使ガブリエルによる告知。マリーは気が狂わないでいるのが不思議に思えていた。

 ――こうなったら、全て包み隠さず話そう。わかってもらえるかは皆目わからないけれど。

「エヴァ……私……」

 マリーは必死に言葉を継ごうとするが、なかなか喉の奥から出てこない。次第に言葉ではなく嗚咽が漏れ、マリーはこらえきれずに泣き出した。テーブルに突っ伏し、声を殺して、泣いた。

 エヴァの手が今度は優しくマリーの肩に触れた。温かくて、心をそっと掬い取ってくれるようだった。マリーが取り乱すのを許し、ただ優しく肩をさすってくれた。

 やがてマリーも落ち着いてきた。ときどき、しゃくり上げるものの、静かに涙を流すまでになってきた。エヴァは立ち上がり、マリーの横に立った。

「でも、変な噂になる前でよかったわ。私より先に他の誰かが気づいて、ロランド帝国に報告されたら、大変な事態になっていたわ」

 マリーは戸惑いながら鼻を噛んだ。エヴァは何を言っているのだろう。今さらロランド帝国などマリーに関係ないではないか。

「信心をしないという宣言が、どこまであんたを守ってくれるか、カトリック教の人間たちにとってどれだけ強い力となったのか、私には今一つわかんないのよ。グエンは信心しないあんたと結婚はできないかもしれない。けど、ロランド家の跡取りがあんたのお腹の中にいると知れば、話は変わってくるかもしれない。ああ、こういうところは、私よりジョゼのほうが詳しいんだけど、まさか言えるわけないし」

 エヴァの言葉の意味がわかるまで数秒を要した。その間にもエヴァは一人じっと考えを巡らし、靴音を立ててマリーの周囲を歩き回っていた。

「あれから二か月ということは、まだ胎児って言えるほど育っていない。メスを入れるにしても、あんたの身体に少しでも負担が少ないほうがいい」

 二か月? いや、違う。お腹の子はもっと大きくなっているはず。メスを入れる? 身体に負担? それって、まさか……。

 マリーは顔を上げた。

「まさか、エヴァ、お腹の子を殺してしまうつもり?」

 エヴァはマリーの声に振り返り、眉を吊り上げた。

「あんた、まさか生むつもりなの?」

「えっと、そこまで考えていないけど……でも」

「でも、何?」

 マリーはエヴァに睨みつけられたまま、小さく答えた。

「お腹の子は、生きているのよ。殺すなんて絶対できない」

 エヴァは顔の表情を変えず、口だけ動かした。

「シングル・マザーになる気?」

 マリーは戸惑いながら頷いた。エヴァの声が大きくなった。

「夫がいないなら、ロランド家の種と確定されて、子供を帝国に取られるだけよ。あんたは、その生母として、結局は帝国に取り込まれてしまうでしょう。親子で幸せになれるとは、とうてい思えないわ」

 マリーは反論できずに俯いた。エヴァ一人の考えを鵜呑みにもできない。とはいえ、グエンはエヴァが言う通りの反応をするだろうと、マリーも予想はついた。

 エヴァが背後からマリーを抱きしめた。

「ごめんね、あんたが一番苦しいのはわかってる。でも、ぼやぼやしてたら、大変な事態になっちゃうのよ。時間を置けば、あんたの身体に負担が増すだけ。噂も広まる。アブリル市の三番通りに、いろいろうるさくない医者がいるわ。午後にでも出かけましょう」

「エヴァ! 急すぎるわ、もう少し考えさせて」

「何を考えるというの!」

 エヴァの怒声にマリーは反論できなかった。

 ――どうしよう、どうしよう! エヴァはグエンの子だと信じている。それはそれで罪の子だけれど。ああ、今さら真実なんて言えない……。

 今の状況でエヴァには味方でいて欲しかった。マリーは折衷案を出した。

「……医者の診察なら受けるわ。でも、堕胎は待って。心の整理がつかないの」

 エヴァは難しい顔をして、首を横に振った。

「駄目よ。今日の午後に行って、堕胎してもらいましょう。鈍感な私がようやく気づいたのよ。店のお客ですでに怪しんでいる人間はいるはず。気持ち悪いのをこらえていたり、今にして思い返してみると、あれやこれや合点がいく行動を、あんたは取っていたの」

「そんな……」

 どうして堕胎しなければならないのか。グエンに連れ戻されるから? 父親と呼べる人間がいないから? 

 父親はいない。処女受胎したわけでもないのに。

 思い出したのは、昨夜のジョゼの言葉だった。

 ――「力になれることがあったら、ヨセフのようにとはいかなくても、できるだけ協力はしたいと思う」

 マリーは目を閉じ、心の中で叫んだ。

 ――ジョゼ、私を助けて! お願い!

 エヴァはマリーの背中から離れると、厨房に向かった。

「私が従いていくから、心配しないで、マリー。とにかく朝食の準備をするわ。ゆっくり食事して、それから出かける支度をしましょう」

 マリーは唇を噛み、両手を拳にして震える身体を抑えた。

 堕胎が最善の方法には思えなかった。

 マリーは厨房に引っ込んだエヴァの気配を探った。蛇口から水を流す音、金属の鍋がこすれる音がしていた。

 店内にはマリーが一人だった。奥にある表扉の向こうは、まだ人影もまばらだろう。

 マリーは椅子をそっと引き、立ち上がった。そのまま靴音をさせないよう気をつけながら、表扉に近づき、閂を開けた。

 扉の外に出ると、東の空から太陽が昇っていた。

 ――このまま東に歩いていけば、七番通りに行ける……。

 普段からエヴァと話していて、ジョゼが七番通りのホテル・シグロという建物に住んでいることを聞いていた。

 マリーは青い上着を再び羽織ると、太陽に向かって小走りに歩きだした。

 早足で三十分程歩いた。八番通りと七番通りを繋ぐ石畳の細道を下ると、急に視界が開けた。通りの幅が二倍ほどになり、車両が通行していた頃は六車線となっていたようである。

 この界隈だけは路上に放置された乗用車がなく、人が寝転んでもいなかった。

 広い車道の真ん中では、カラスが三羽、捨てられたスナック菓子を争うようについばんでいた。

 まばらに置かれたゴミ缶の下には酔っぱらいの吐瀉物が散らばり、つわりが始まっていたマリーには歩くことが辛い場所でもあった。

 道が広いのは、この通りが平和な証ではない。罪の街と言われる区画で唯一の歓楽街と呼べる地帯だった。

 夜になれば、かかとの尖った靴に露出の高いきわどい服装の女たちが客を引く。今はちょうど一段落して客共々ベッドで寝息を立てている頃だろう。

 四階建ての赤煉瓦の連れ込み宿についた入口の段に、黒猫が気持ちよさそうに眠っていた。鈴を付けているところを見ると、娼婦の飼い猫かもしれない。マリーは、その前をゆっくり通り過ぎた。

「ホテル・シグロ……、シグロ……。どこにあるのかしら。ホテルという名だから、ある程度は大きな建物よね」

 マリーは赤煉瓦の連れ込み宿の先まで歩いて、先に大きな建物がないことを不思議に思った。

 マリーは、そのまま通りを歩いていった。でも、ついに広い七番通りには、ホテルと呼べる雰囲気の建物は他になかった。マリーは、とぼとぼと元来た道を戻ってきた。

 再び黒猫が眠る段の前までやって来たマリーは、途方に暮れて、赤煉瓦の建物を見上げた。先ほどは気づかなかったが、入口のアーチに沿ってアルファベトが記してあった。いくつかは剥げて見えなかったが、マリーは人差し指で指しながら、字を読んだ。

「H・O・T……L、…えっと、次は読めないわ、あとは……IGLO? ホテル……イグロ? まさか」

 目指しているのは「ホテル・シグロ」だった。剥げて読めなくなった文字がSだと仮定すると、先程から行ったり来たりしている目の前の赤煉瓦の建物が、ジョゼの住所と一致する。

「ここが……普通の宿に見えないのは、私の偏見かしら」

 黒猫が先ほどから挙動不審でいるマリーを、迷惑そうに金色の目で見上げた。マリーは危うく、猫にお辞儀をするところだった。

「あんた、さっきから、うちの前にいるけど、何か用なの?」

 不意に背後から声を掛けられ、マリーの全身が跳ねた。恐る恐る振り向くと、洗濯籠を抱えた太った女性が、マリーを睨みつけていた。

 マリーは首だけ下げて会釈すると、おどおどと女性の顔を見た。

「ホテル・シグロを探しているんですけど……まさか、ここ、ですか?」

「そうだよ」

 女は籠を腰に当て、腹を突き出してマリーと向かい合った。マリーは思い切って尋ねた。

「ここって、アパートですか?」

 女はシミで汚れた丸い頬を歪め、吐き出すように、逆に切り返した。

「あんたには、そう見えるの?」

「いえ、そうは見えないんで、尋ねているんです」

 女は口に指を入れ、さっきから噛んでいたチューインガムを取り出し、地面に投げ捨てた。ぺちゃりと嫌な音をさせ、チューインガムは路上の汚れと同化した。

「詳しいことは女将に聞いてよ。私は洗濯に雇われているだけなんでね」

 洗濯女は段で様子を見ていた猫を「しっ、しっ」とどかし、入口から、大声でホテルの中に呼びかけた。

「女将、うちに用があるって、若い女が来てますよ」

 暗い奥から「今いくよ」と眠そうな声と共に室内履きの靴音が聞こえてきた。

 マリーが意味がわからず、突っ立っていると、洗濯女は赤煉瓦の建物沿いに進み、奥に折れて姿を消した。洗濯物の干場がそちらにあるのだろう。

 マリーが洗濯女の行く先に気を取られていると、耳元で大きな声がした。

「ここで働きたいの?」

 マリーは慌てて振り向いた。肩に大きな朱色のショールを纏った、胸の大きな女がマリーの顔を覗き込んだ。

 マリーが目を合わせると、彫の深い顔を歪め、艶っぽく笑った。

「こらまた、透き通るようなブロンドだね。訳ありなら、詳しい話は聞かないよ。ま、中に入りなさい」

 どうやらマリーを、ホテルで働きたいのだと勘違いしているようだ。

 ホテルの種類からして、ただの従業員希望では済まないかもしれない。マリーは素直に事情を話すことにした。

「はじめまして。実は私、ホテル・シグロという場所を住所にしている、ジョゼという人を探しているんです」

 女将はいびつな笑顔を引っ込めた。代わりに黒い瞳で射るようにマリーを見た。

「悪いことは言わない、このまま帰りな。あんたが来たことは、三秒後に忘れてやるよ」

 マリーは戸惑った。忘れられても、困る。今はジョゼに会うためなら、どんなことでもする。マリーは食い下がった。

「ジョゼがいるのなら、取り次いでください。私、てっきりホテル・シグロは、アパートだと思っていたんです」

 女将は腕を組み、怖い顔でマリーを睨みつけた。

「知り合いなら、ここが連れ込み宿だってことぐらい、知ってるんじゃないの? そもそも、その程度の情報でジョゼに会おうなんて、甘く考え過ぎていない?」

 マリーは小さく「あっ」と声を発したきり、何も言えなくなってしまった。

 ジョゼの所在に辿り着けないのは、殺し屋という職業と関係があるのではないか。エヴァが店で口にした「ジョゼの住所」は、殺し屋を追う人間たちにとっての偽の情報だったのかもしれない。

 中途半端な情報を頼りに会おうと試みると、ホテル・シグロの女将の尋問を受ける羽目になる。

 女将は、さらに捲し立てた。

「見たところ、身なりはともかく、出身があたしたちなんかと違う人だってことはわかるよ。噂を聞いて依頼をしに来たってところだろう。強い決意で来たことはわかるけど、会わせるわけにはいかない」

「そんな……私どうしてもジョゼと会わなければならないんです。名前が必要なら言います、私の名前は――」

 次の瞬間むんずと後ろから男の力強い手で腕を掴まれた。マリーは驚いて後ろを振り向こうとした。

 だがマリーが振り返るより早く、頭上から声が聞こえてきた。

「女将、悪かったな。こいつはオレの知り合いだ」

 やはりジョゼの声だった。マリーはホッとして身体の力が抜けた。腰砕けになりそうなマリーを、ジョゼは両手でしっかり支えた。

 ジョゼは上半身、裸だった。胸は汗ばみ、臭いが鼻をついた。

 マリーはジョゼの顔を斜め下から見上げた。

 髪が乱れ、髭がずいぶん伸びている。今まで眠っていたのだろうか。

 ――横に女は……いなかったわよね……。

 ジョゼの根城が眼前のホテルだからと、偏見を持ってはいけない。マリーは自分に言い聞かせた。それでもジョゼの灰色の瞳が澱んだままなのが、気になってたまらなかった。

 ジョゼはマリーの右手首を掴んだまま、女将に声を掛けた。

「誰も、入れるな」

 ――え、ええ? まさか、この連れ込み宿に、ジョゼと一緒に入るの?

 マリーがぐずぐずする隙すら与えず、ジョゼはマリーの手首を引っ張り、宿の廊下を早足で歩き出した。マリーはワンピースの裾をもつれさせ、必死にジョゼの後ろをついて行った。

 ――普段なら、足の心配をして、横を歩いてくれるのに。

 マリーはジョゼの様子がグアダルーベにいるときと全く違っている事実に戸惑っていた。

 ジョゼは廊下の突き当たりの扉を開いた。

 マリーを引きずるように部屋に連れ込むと、廊下に誰もいないことを素早く確認し、扉を閉めて鍵をかけた。ジョゼは、ようやくそこで、マリーの手首を放した。

 マリーが赤くなった手首をさすり、文句を言おうとジョゼを見た。ジョゼは扉の前で目を閉じ、小さく息を吐いた。次の瞬間、じろりとマリーを睨みつけた。

「何しに来た?」

 マリーは何を言ったらいいか皆目わからなくなってしまった。

 来た理由は、即答できるものではない。だが、それより文句を言いたいような、疑問を問い正したいような、怒りに近い思いが込み上げた。

 普段のジョゼなら、マリーにこんな荒々しい振る舞いはしない。紳士的とまではいかないにしても、もっと女性に敬意を払う男だと思っていた。

 マリーの目に浮かんだ不快の色にジョゼも気づいたらしい。ジョゼは苛立ちを抑えるように目を閉じた。気まずい沈黙が部屋を支配した。

 マリーも落ち着こうと深呼吸し、部屋の中を見回した。予想していたようなどぎつい装飾はなかった。

 汚れて黒くなった赤い絨毯に、うっすら黴の生えた薄茶の壁。天井は思ったより低い。不格好な金のシャンデリアが、ベッドから手を伸ばせば届く位置にぶら下がっていた。

 さりげなくベッドに近づくと、赤黒い絨毯に色が同化しかかった薄いスカーフのようなものを見つけた。よく見ると、ベッドを使った人間の忘れもののようだった。

マリーが思い切って沈黙を破った。

「ジョゼはいつも、この部屋を使っているの?」

 マリーは棘々しく言いながら、絨毯から黒いストッキングを摘み上げた。

 マリーは「まさか、あなたのじゃないわよね?」と意地悪く微笑んでみた。

 ジョゼの顔が奇妙に歪んだ。怒っているようでもあり、しまったと心で舌打ちしているようでもあった。

 ジョゼの瞳に光が宿り、わずかに揺れた。

「だいたい、いつも、この部屋だ。そういうモノが落ちているのも、弁解はしない」

 マリーはストッキングをそろりと、ベッドの上に置いた。

 悪さを見つかった子供のようなジョゼを見て、マリーは思わずにんまりした。自分の立場が上になったかのようで、ほんの少し気分がよくなった。

 だが、そんなマリーを見て、さすがにジョゼもムッと来たようだ。

「女が来るって知ってたら、男だって掃除はしておくさ。ルイの部屋にだって、こういうのはあるんじゃないか?」

「知らないわ」

 マリーは、わざと拗ねた声で呟くと、ベッドの上に腰を下ろした。ジョゼがこの宿の女を抱いている事実を目にしても、自分で思っていたほどの衝撃は受けなかった。

「この宿の用心棒でもしているの?」

 ジョゼは仕方なくといった様子で口を開いた。

「オレの仕事は、住所を吹聴して回れるようなものじゃない。仕事を円滑に進めるのに、ここの女たちの助けを借りている。その代わりに、君の言うとおり、用心棒まがいのことは、やっている。それでも……厄介になる場合のほうが多いが」

「この宿の女の中に……恋人がいるの?」

 ジョゼは片眉を吊り上げ、額に皺を寄せてマリーを見下ろした。

「そんなことが、知りたいのか?」

 ストッキングの持ち主がジョゼの恋人なら、自分はこの部屋から出ていかなければならない。

 マリーは、頷いた。

「知りたいわ。ものすごく」

 ジョゼはズボンのポケットを探り、キャメルの箱を取り出した。掌に載せ、しばらく見ていたが、中身を出さずに、くしゃりと潰した。

「仕事の後は、異常なほどの興奮状態に陥る。気持ちと身体を鎮めるのに、女を抱いているのは事実だ」

 相手の脳天を打ち抜き、血しぶきを見たら、どれほどの興奮状態に陥るのだろう。気持ちを鎮めるために女の身体を使う。それだけを聞いて、ジョゼが女を卑下する男だと考えるわけにはいかないとマリーは思った。

 マリーは下を向き、小さな声を発した。

「興奮を、鎮めるため、だけ? この女が愛おしいという、特別な思いはないの?」

「ないな。そういう感情を持ったことは、一度もない。なんというか、平静に戻るための、とても特殊な事情からなんだ」

 マリーは小さく頷いた。とりあえず、今の言葉で満足しよう。マリーが聞きたいことは、それだけだったのだから。

 ジョゼはマリーと面と向かう位置取りで、ベッドの前に立った。

「がっかりしたか?」

 マリーはジョゼを見上げた。がっかり……しただろうか? 今の話を聞いて、この男の価値が下がっただろうか?

 もし、ジョゼが自分を助ける完璧な白馬の王子なら、マリーは助けてもらう資格のない女だと思った。汚い部分を比べたら、マリーはジョゼの比ではない。

 ――むしろ、話しやすくなったかもしれない。

「ジョゼのお仕事は特殊なのだと、もっと理解しないといけないのよね」

 マリーがこれから打ち明ける話は、ジョゼを確実に落胆させる。マリーの思い上がりでなければ、ジョゼはマリーに好意以上のものを感じてくれている。その思いに乗じて頼みこもうというのだから、マリーはどうしても引け目を感じてしまっていた。

 なにしろ、頼みの内容が内容だ。自分の思いがジョゼ以上であること、つまり、愛しているということを果たして信じてもらえるか、自信がなかった。

 ジョゼはマリーが向いている壁とは反対側に置かれた冷蔵庫に歩いて行った。マリーは自然とジョゼの姿を追い、身体を捻じ曲げた。

「なんか、飲むか。といってもアルコール以外のものは、あったかな」

 酒の力を借りるのも悪くないかもしれない。マリーはジョゼの背に声を掛けた。

「ビールがあったら……飲んでみたいわ」

 ジョゼは不思議そうな顔でマリーを見た。そのまま無言でビールの缶を二つ、取り出した。

 マリーはベッドから腰を上げ、ジョゼの傍に歩いていった。ビールを受け取ると、努めて真顔でジョゼを見詰めながら、缶を開けた。

「いただきます」

 マリーは思い切って口をつけた。しゅわっと苦いだけの炭酸がマリーの鼻に上った。マリーは鼻を摘み、顔をしかめながら、二口だけ飲んだ。脳天からアルコールが立ち上るような不快感が残った。

 ジョゼは缶を開けながら、マリーと代わるようにベッドに腰を下ろした。周囲を見回し、窓辺に置かれた書物机についた椅子を見やった。

「そこに、座るといい」

 マリーは首を横に振った。立ったままのほうが声を出す力も入るし、勇気も湧いてくる気がした。

 もう、縋れるのは、この胸しかない。ジョゼから見たら、すでに汚れた身体だ。それでも受け入れて欲しい。マリーと、この身体に宿る新しい命を……。

 マリーは、ジョゼがビールを一口飲むのを待って、声を発した。

「私を、お嫁さんにしてください」

 ジョゼが缶を手にしたまま、ぽかんと口を開けた。

「マリー、何を言ってる?」

 マリーはジョゼに一歩、二歩と、ゆっくり近づいた。

「抱き心地の悪い女は嫌だというのなら、今ここで試してみて。私、精一杯、応えますから。だから、ジョゼ、お願いします」

 マリーはジョゼの前まで行くと、膝をついた。凍り付いている顔を仰ぎ見ながら、膝の上に載せてあった手を取り、口付けた。


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