第二部 悪魔の受胎告知 第一章 不吉な兆し
第二部 悪魔の受胎告知
第一章 不吉な兆し
1
「マリー、店主と話してくるから、そこのベンチに座って待っていてくれ」
夕暮れ近い罪の街十三番通りの路上で、ルイはマリーに声を掛けた。マリーはうんざりして、じろりとルイを見上げた。
「またなの? こう寄り道ばかりしていたら新鮮なミルクも駄目になってしまうわ」
店の開店準備に忙しいエヴァがマリーに買い物を頼んだ。ちょうど店内に戻ってきたルイが、荷物持ちを買って出たのだった。
だが、街の人々はルイを見つけるや声を掛け、地下で怪しげな会合があった、路地裏でまた浮浪者が嬲り殺しにされた、とヘッドのルイに相談を持ちかけてきた。そのたびにマリーは立ち止まり、重い荷物を持って、男たちが話し終えるのを待つ羽目になった。
ルイも先を急いでいると言いながら相談ごとには親身になって応え、「いざとなったら俺の名前を出せ」と相手を安心させていた。
「そう言うな。有志との巡回は日が落ちてからになるが、その前に争いの火種は消しておくに越したことはないだろう」
兄が街のヘッドとしての任務だと言えば、マリーも反論できない。
「わかったわ」
ルイはマリーの手を取り、店のショーウィンドウの前にあるベンチに座らせた。
ルイは店の中にいる男に笑顔を向けながら、マリーには抱えていた荷物を横に置くよう手真似した。マリーはルイを見上げ、反論した。
「街中で荷物を手放すなんて。持って行ってくれと言うようなものでしょう?」
「もうおまえも、立派な罪の街の一員だな」
ルイは睨みつけているマリーを、満足そうに見下ろした。
「俺もおまえを常に視界に入れているが、話に気を取られることもある。エヴァの教育がよかったのもあるが、おまえがこの街で生きると強い決心をしたからだな」
マリーは、わざとつんとした顔をした。
「男は気軽にいつでも守ってやるっていうけれど、肝心な時にいてくれないことのほうが多いわ」
ルイはいびつに顔を歪めた。
「全くだ、反論のしようもないよ」
マリーは拗ねた声を出した。
「だから荷物は取られないよう自分でちゃんと持ってないと」
ルイは満足げに微笑み、マリーの頭を愛しげに撫でた。
「いいか。このショーウィンドウから見える位置にいるんだぞ。すぐ戻ってくるからな」
ルイは再びマリーの肩を叩くと、店の中に入って行った。
マリーは注意深く辺りを気にしながら、いったん荷物を横に置いた。青いワンピースの裾が地面にこすれないよう、腰の位置で数センチほど摘み上げると、膝に荷物を載せ直した。
足元の草を鳩がついばんでいた。日が落ちたら視界がなくなるだろうに、巣に帰る気配がない。
夕食時のせいか、あちこちから煮物の匂いが漂ってくる。マリーは軽い吐き気を覚え、口元に手を当てた。
トマトや豆を煮込む匂いが最近どうも苦手で、すぐに吐き気を覚えてしまう。エヴァに気を使わせないよう、マリーはいつも我慢をしていた。
マリーは夕陽でオレンジ色に染まった西の空を見ていた。大きな建物がないのと空気が澄んでいるのとで、空が赤く燃えているようだった。空は時々不思議な色をマリーたちに見せた。
前方には小さな広場があり、中央で花篭を持った少女が花売りをしていた。野に咲くような小振りの花ばかりだが、夕暮れの街の景色になじむ姿に、マリーは思わず目を細めた。
視界の中に燃えるような金色の髪をした女性が現れた。花売り娘と何事か話していたが、白い百合の花を手に取ると、マリーに近付いてきた。
2
マリーは微笑もうとした。だが、ピンク色の衣服を着た、女性と思われた人物の顔は何と、男の面ざしだった。
女装癖の男性だろうか。何かの事情で女性の格好をしているだけかもしれない。マリーは身体を硬直させ、男を見つめた。
男は眼前に来ると、跪いてマリーを見上げた。百合の花を差し出し、甲高い声を発した。
「おめでとう、恵まれた方。主が、あなたと共におられる」
マリーは「はぁ?」と首を傾げた。何を言っているのだろう。
劇の練習か何かだろうか。それとも、何かを売りつけようとするのだろうか。男は百合をマリーの鼻に押し当てた。マリーは思わず顔を顰めた。男は今度は低く声を潜めた。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」
マリーは、はっとした。この台詞、どこかで聞いた記憶がある。聖書の中の一節にまったく同じ場面があることをマリーは洗礼式の準備の学びで覚えていた。
――この男は妄想で、自分が大天使ガブリエルだと思い込んでいる。そうなると、次に出てくる言葉は決まっている。
「やめて」
「あなたは身籠って男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」
マリーは耳を塞ぎ、叫んだ。
「嫌、いやぁああ!」
広場を行き交う人々が足を止めた。
「セイント・マリーじゃないか、どうしたんだ?」
「引ったくりにでも遭ったか?」
グアダルーベの常連客らしい男二人の声が近付いてきた。
マリーは膝に荷物を載せたまま、顔を見知った男たちに助けを求めた。
「この人が、この人が変なことを言うの」
大天使ガブリエルを気取った男は常連客二人に肩を掴まれ、驚いた顔をしていた。客の一人が男の顔を覗き見て、呆れた声を上げた。
「またおまえか、ガブリエル。悪ふざけもいい加減にしやがれ!」
もう一人が意味が分からず問い掛けた。
「ガブリエル? なんだ、その大げさな名前は。本名か?」
「んなわけねえだろ。自分は神に仕える大天使だと信じている狂人さ。あちこちで青いワンピースを着ている女性を見かけると、花を持って近づくのさ。『あなたに神の子が宿りました』とか、何とか言ってさ」
男はマリーの青いワンピースを見て、「ああ」と納得の声を上げた。
「マリー、災難だったな。こいつに悪気はないんだ。頭がおかしくなっちまった悲しい男だってことで、許してやってくれ」
マリーは唇の震えが止まらず、声にならなかった。必死に首だけ縦に振り、了解の合図をした。
大天使ガブリエルは男たち二人に両腕を掴まれ、広場の中央に引き戻されていった。ガブリエルはマリーから目を逸らさずにいた。マリーの耳にいつまでもガブリエルの声が木霊していた。
――「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身籠って男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」
マリーは激しく首を横に振った。
――馬鹿げてる、馬鹿げてるわ! 私は聖霊とも悪霊とも何の関係もないのよ!
ルイが店内から首だけ出し、マリーに声を掛けてきた。
「マリー、どうした? 騒がしいが何かあったのか?」
マリーは遅すぎる白馬の王子に怒りすら覚え、睨みつけた。
「なんでもないわ、ルイ。これ以上ぐずぐず遅くなるなら、私は先に帰ります」
3
マリーはルイと並んで、罪の街十六番通りへ帰路に就いた。
「受胎告知」とは新約聖書の中の有名な一場面で、昔から多くの画家が題材として取り上げてきた。
聖マリアは男を知らないまま身籠った。その旨を大天使ガブリエルが伝えに来る。マリアは読書の最中を描かれる場合が多いが、糸をつむいでいるときもある。純潔を表す青い衣に身を纏っている図がほとんどだ。
大天使ガブリエルは金色の大きな翼と、女性のように美しい長い金色の巻き毛をしている。手には、やはり純潔を現すという白百合の花を持っている。二人の周囲には聖霊を表す鳩が飛び、マリアの顔には聖なる光が当たっている。
この構図の絵が飾られるのは、有名な美術館や聖堂に限らない。カトリック信者の多い南米の他の国々では土産物の絵葉書にもなっているし、町の名もない絵かきが描いた作品が道端で売られている。
マリーの身近にも、この絵はあった。エヴァと眠る寝室の隅に、桃色フラミンゴや聖マリア像の横にある、五十センチ四方の板に描かれていた。
エヴァに信心があるわけではない。国境沿いを旅したときに話のネタに買ってきたもので、エヴァは何の知識も持っていなかった。
それは、マリーも同じだった。初めて部屋を訪れたときは、金色の髪をした女性二人が並んでいるだけだと思っていた。
ロランド邸からの脱出にあたり、マリーはグエンと結婚する資格を得るためと称し、洗礼式の準備の学びを行った。信心するのに必要な知識の中に、聖母マリアの処女受胎の一節があった。
結局マリーは信仰をしないと宣言し、罪の街に逃げ帰ることに成功した。
エヴァの寝室で再び寝起きするようになり、マリーはその絵が「受胎告知」という宗教画である事実に気づいた。
マリーは洗礼式において「信仰しない」旨を宣言した。神も聖霊も悪霊も存在を否定したのだ。決意に今も変わりはない。
街の広場で起きた出来事は、不信心のマリーがいつまでも心に留めるべきものではなかった。下手に知識を持ってしまったから不気味に思えてしまうのだ。
――気にする必要ないんだわ。この街に戻るまでいろんなことがあり過ぎたから、頭に残ってしまうけど、いつまでも覚えている価値もない出来事だわ。
マリーは小さく首を横に振ると、ルイに荷物を預け、グアダルーベの裏口の鍵を開けた。
4
厨房にエヴァの姿はなかった。店内の喧噪に時々エヴァの笑い声が混じる。客も料理よりエヴァと話をしていたほうが酒も進むし、楽しく飲める。
マリーは紙袋に鼻をくっつけ、口呼吸しながら、厨房の調理台に荷物を置いた。
「ルイはもう店に行って。買ってきたものを冷蔵庫に入れないといけないから」
マリーは紙袋からミルクやバターを取り出し、厨房の左隅にある冷蔵庫のドアを開けた。
ルイが流し台の淵に尻を乗せ、睨むように視線を送って来た。マリーは視線を合わせないよう、必要以上に動き回った。ルイが何を言いたいのか、よくわかるからだ。
「マリー、なぜ昨夜、俺のアパートに来なかった?」
マリーは視線を合わせるのが怖くて、冷蔵庫の中の整理を始めた。
「昨夜? えっと昨夜は、お店を閉めてから、エヴァに頼まれて酒蔵の整理をしていたから」
「最初から予定に入っていたなら、俺が店にいる間に言えばよかったんだ。そんな雑用、勤務外にやらせるなんて、エヴァがするかな」
マリーはルイの厳しい視線を横目でちらちらと見ていた。ルイはさらに続けた。
「たとえ看板後に仕事があっても、会いたいと思うなら、深夜二時でも三時でも来るんじゃないか?」
マリーは観念してルイの前に立った。ルイはうなだれたまま黙っているマリーの手を取った。
「マリー、昨日だけじゃない。このところ俺を避けようとしていないか? 俺が何か気に障ることをしたか?」
「いいえ、ルイ。いつも優しくしてくれて、感謝してるわ」
「だったら、何で最近、俺を避けるようにする?」
マリーは一瞬、迷い、口ごもった。だが結局、思い切って声を出した。
「ルイ、私たちは夫婦になれるわけではないのよ。このままでいいかどうか……少し考えてみない?」
ルイはホッとしたような笑顔になった。
「なんだ。そんなことを気にしていたのか。俺とおまえが愛し合うことで、誰に迷惑を掛けている? 神だというのなら、愛する俺たちが兄妹としてこの世に生まれ落ちたのは、神の策略だ。そんなものに乗る必要はない。俺もおまえも神は信じていないし、この街には法律なんて、あってないようなものだ。俺たちはお互いを思い合っていけば、これから先も、何の問題もないんだよ」
マリーは全身がひくつくの自分でもわかった。
「何の問題もない……そうね、確かに、その通りよね」
「マリー、今夜は来てくれるな?」
マリーは小さくうなずいた。
「兄さんのほうで、適当な用事を私に作って。店が看板になったら、二人でアパートへ行きましょう」
「よし、わかった」
マリーは不意に怖くなり、ルイの胸に飛び込んだ。ルイは驚いて目を見開いたが、すぐ優しい笑みでマリーの顔にキスしながら、優しく抱き寄せた。
「マリー、何を心配してるんだ? 俺はこれから先も、ずっとおまえの傍で支えていく。怖くなんかないんだぞ」
その通りだ。ルイならどんな厄災がマリーに襲いかかっても蹴散らしてくれる。信じてこの身を預けていればいいのだ。ルイこそがマリーの唯一神であり、恐れ敬い、愛する対象なのだから。
先程、広場で起きた出来事が、マリーの脳裏に蘇った。マリーは聞こえるか聞こえないかの小声で呟いた。
「私が変わってしまっても、ルイは愛してくれる?」
「ん? 何か言ったか?」
マリーは微笑みでルイを見上げ、首を横に振った。
「ううん、何でもない。それじゃ、今夜ね」
5
マリーはルイに続いて、灯りの点いた店内に出た。
店内には常連客が四人いた他、ルイを囲むようにホアンとダニエルが椅子に腰掛けていた。
マリーはジョゼの指定席を盗み見た。水の入ったグラスが置いてあることで、中座しているだけだとわかった。
ダニエルが紫の瞳を細め、いやらしい笑みでマリーを見上げた。
「マリーはジョゼがいないと、寂しくてたまらないらしい」
ルイが怖い顔でマリーを睨みつけた。
「そうなのか?」
「まさか。関係ないわ。ダニエルって、人を困らせて喜ぶところあるわよね。直したほうがいい性格だわ」
マリーは無関心に見えるよう顔を作り、エプロンで頬を仰いだ。
ホアンがルイを見るや、目を輝かせた。
「マリーも災難だったな。大天使ガブリエルなんかに絡まれて」
ルイは憎々しげに顔を歪め、ホアンを見た。
「なんだ、マリーが狂人に絡まれた話がもう噂になっているのか?」
ルイはマリーの窮地の最中立ち話をしていたことで、軽い罪悪感を覚えているようだった。マリーはホアンと顔を合わせないよう、カウンターで酒瓶を並べていたエヴァの横に立った。
「どうせホアンが話に尾ひれをつけて吹聴してるんでしょ。ホアンは私のこと、あまり好きではないようだから」
ホアンが大げさに目を見開き、手を広げながらすがるようにルイを見た。
「そんなことないさ。ただルイがマリーのことを第一に考え過ぎるものだから、一の子分としては、ちいっと妬けちまうんだ」
マリーはホアンの言葉などもう聞いていなかった。マリーの脳裏に、広場での出来事が蘇った。
金色の髪をした大天使ガブリエルは、実際にはどんな場面で聖マリアにお告げを伝えたのだろう。「神の子が宿った」などと言われて、マリアは内心どう思ったのだろう?
自分の身体は自分が一番よく知っている。特に女は己が身に起きた出来事も、故の肉体の変化も、教えられなくてもわかっている。
――言われなくても、わかっているわ。大天使ガブリエルも大きなお世話なのよ!
信心しないと誓い、戻ってきた街で、大天使ガブリエルと出会った。まるで自分を信じないマリーを懲らしめるように、恐怖を植え付けるつもりか!
「自分を天使だと信じるなんて、罪深い狂人がいたものだぜ」
ホアンの呟きにダニエルが反応した。
「その大天使って野郎が、マリーにどんなことをしたっていうんだ?」
「ガブリエルは青い衣装を着た女に「あなたのお腹に神の子が宿りました」って告げるのさ。キリスト教では、その場面はとても有名らしいぜ。カトリック信者崩れのジョゼがいたら、おまえに手取り足取り教えてくれたろうよ」
マリーは、はっと顔を上げた。
ジョゼに話してみようか……何を期待するわけではないけれど、マリーの今後の助けになるような何かを知っているかもしれない。
ルイはホアンとダニエルを連れて、九時から十時まで街の巡回に出る。ルイがいる前でジョゼに話しかけるのは難しかった。特に込み入った話をすると、ルイはあからさまに嫌悪感を示し、ひどいときは邪魔に入る。
マリーはさりげなく壁の鳩時計に目をやった。
6
兄が街を巡回する九時から十時までの間が、ジョゼとゆっくり話ができる唯一のひと時だった。エヴァも察してくれて、九時になると給仕の仕事からマリーを解放してくれた。
マリーは暗い厨房を抜け、裏口を開けた。ジョゼはやはり、いつものように、射撃練習場にいた。
射撃をしているときはジャケットを脱いで、近くの生垣に掛けている。どうやら今夜は、射撃をするつもりはないようだ。ジャケットを着たまま、ブロック塀に背を預けている。
マリーが現れたことに気づき、火をつけようと取り出したキャメルを再び箱にしまった。
「オラ・コモ・エスタス?(こんばんは、調子はどう?)」
「ムイ・ビエン(おかげさまで)」
マリーは足元の草を爪先で蹴りながら、ジョゼに近づいた。
「今日、買い物に行ったら、変な人に会って。気分が今もよくないの」
ジョゼは腰に手を当て、目を細めてマリーを見た。無言のまま先を促しているようだ。マリーはぽつぽつと話しながら、歩を進め、ジョゼの横に並んだ。
「自分は大天使ガブリエルだと信じている人が、私に「あなたは神の子を宿しました」とかなんとか言ったの。受胎告知の一場面を、そっくり真似して」
「受胎告知なんて、よく知ってるな」
「洗礼式の準備の学びで、有名な場面は覚えたの。細かいことは一切わからないけれど、印象的でもあったし」
ジョゼは「ああ、そうだったな」と納得し、マリーの全身を舐めるように見た。
「青いワンピースのせいかな。青は聖マリアの純潔や禁欲を現すことがある」
マリーは目を伏せ、溜息混じりに呟いた。
「マリアは純潔だと言うけど、科学的にあり得ないことなんでしょう?」
「処女受胎ってやつか」
「そう。変よね。その……何て言うか、誰にも触れられていない肉体に命が宿るっていうのが」
マリーは自分で言いながら顔から火が出そうだった。なんでジョゼの前でこんなことを言わないといけないのだろう。マリーが尋ねたいことを一番よく知っているのがジョゼなのだから、仕方がないのだが。
――やっぱりエヴァに尋ねたほうがよかったかも。ああ、失敗。
マリーが自分の頭をぽんぽん叩いている横で、ジョゼは思案顔をしていた。
「イエス・キリストは神の子と信仰されているだろう。義理の父親のヨセフも、系図を辿ったらアブラハムの子孫だから、十分に高貴な存在なんだ。マリアも聖書には記されていないが、ダビデの直系らしい。そんな二人の息子であっても、聖霊によって身籠った神の子であると言うほうが、長い信仰と布教の歴史の中では便利だったんだろう」
マリーはジョゼが挙げた聖人の名前は知らなかった。マリーが目をぱちくりさせると、ジョゼは小さく笑った。
「マリアは何らかの理由で結婚前に妊娠してしまった。ヨセフはその噂を知って、一度は婚約解消しようとした。だが、良い娘なので、子供の義父となる決意をし、二人は結婚した。こう説明したら、いつの時代も、どこの世でもある話だろう?」
「そう言われれば、そうかも……」
ジョゼは空を見上げ、明るい声で言った。
「愛し合っていても報われない形が、現実にある。誰もが結婚に行き着くわけじゃない。本当の父親が誰かなんて、マリアとヨセフには意味がなかったことかもしれない。二人に愛が芽生え、お腹の子を二人の子として育てる決意をして結婚する。普通の若い男と女の愛の物語だと思わないか?」
マリーはジョゼの灰色の瞳を覗き込んだ。
「ジョゼは男として、マリアみたいな女、どう思う?」
「どうって?」
マリーは恥ずかしさに口ごもりながら、思い切って尋ねた。
「他人の子をお腹に宿した女って……嫌い? やっぱり好きになれない?」
ジョゼは驚きに目を開き、マリーの顔を覗き込んできた。しばらく無言でいたが、ようやく口を開いた。
「苦しむのはいつも女のほうだ、と思う。心ならずの妊娠だってあるし、カトリックのように中絶を禁止しているところもあるしな。力になれることがあったら、ヨセフのようにとはいかなくても、できるだけ協力はしたいと思う」
「そう……」
マリーが大満足する回答ではなかった。するとジョゼは、ぼそりと付け足した。
「その女を一生ずっと愛していこうと決意することができたら、男はヨセフと同じ行動を取る。要は相手が誰か、なんだ」
マリーは恥ずかしくて声にできない言葉を、喉の奥に呑み込んだ。
――あなたにとっての聖マリアの席には……もう誰かいる?
マリーの視線にジョゼは不思議そうな顔を返した。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
マリーは笑顔を作り、慌てて星空を見上げた。




