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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第六章 この世の地獄へ

   第六章 この世の地獄へ

        1

 ロランド邸から車で一時間。ゆるいカーブを描きながら、さらに高台へと上っていく。

 グエンと並んで後部座席に座っているマリーの視界に、鏡のように光りをあちこちに放つ塔のような建物が、ときどき見えるようになった。

 マリーはそのたびに目を細め、窓に近寄り、光の塔を覗き見た。横でグエンが満足げに笑っていた。

 深い緑の葉をつけたパームツリーが並ぶ広い道を走るのは、マリーとグエンを乗せた車が一台きりだった。マリーが洗礼式を受ける教会は、光の講堂が自慢らしかった。アルメシアの第三の都ケチレノを一望できる高台へは高級住宅地からしか行く足がなく、庶民の日常とは隔絶された世界にあった。

 道路を封鎖するように閉まった鉄製の門が待っていたかのように開かれ、車はそのまま道路と同じ幅がある教会の車寄せへ進んでいった。

 丈の長い黒い衣服を纏った司祭の他、侍祭と思われる男二人が、光輝く講堂の前で控えていた。

「さあ、着いたぞ、セイント・マリー」

 先に降りたグエンの声に促され、マリーは後部座席から教会堂を覗き見た。

「すごい……ガラスの教会堂?」

 グエンが差し出した手を無視し、車寄せに降り立ったマリーは、小さく口を開けて、洗礼式が行われる教会堂を見上げた。

 小高い丘にあるガラス張りの教会堂は、青く澄み渡った空の色を映し、吸い込まれるように建っていた。外から見る限り、四十人ほど入れば満杯になってしまいそうな大きさだった。

 結婚式を行う場合、参列者は近親者に限られてしまうだろう。ただ、美しさは秀逸だ。ステンドグラスで作った入れ物がそのまま講堂になったようで、陽射しを浴びてダイヤモンドのように光り輝いていた。

 周囲にはパームツリーが植えられ、緑豊かな庭園の中にガラスの館があるかのようだ。西欧にある中世風の石造りの聖堂とは趣が全く違っていた。

 ガラスを組み合わせてできた四角錐の建物は、まるで透明度の高い巨大な水晶石のようだった。てっぺんには十字架が設置されているのであろうが、すぐ傍に立ったマリーの位置からは、高過ぎて見えなかった。

 余計な色を使っていないのは、既成の教会のイメージではなかった。それでも、神の光に包まれた聖堂というイメージにしたかったのなら、建築家の発想は成功していた。

 グエンが自慢げに説明を始めた。

「カトリック教の教会は、じめじめと暗い印象だが、それは歴史ある国での話だ。建国百年にもならないアルメシアには、古い教会はない。本日おまえの洗礼式を行うこの教会は、企業の御曹司が派手な挙式をするのに人気なのだ。我々の結婚式も、ここで行うことにした」

 マリーは輝きを失った青い瞳でぼんやりとグエンを見上げた。グエンは手を目の上にかざし、光輝く教会堂を見上げた。

「ロランド帝国の未来の総帥の式には、新聞の取材も来るし、テレビカメラも入る。セイント・マリー、光の教会堂の中では、おまえの神々しさも更に増すのは請け合いだ。当日は聖母の微笑みでロランド帝国の宣伝を頼むぞ」

 マリーはすっかり夫面したグエンに鬱陶しい思いをしながら、ぼんやりガラスの輝きを見ていた。

 グエンは大きく咳払いし、マリーの前に立って大げさに両手を広げた。

「今日のおまえは、実に素晴らしい。灰色のドレスは、正解だった。布地の質がそのまま表れる色だからな。金色の髪もベールを掛けると、ますます荘厳な雰囲気を醸し出す。上等だ、実に上等な花嫁だ」

 洗礼をしてもらう立場のマリーは「受洗者」と呼ばれる。司祭の前で信仰宣言をするマリーは、上質の布でできた丈の長いドレスを纏い、頭から白いベールを被っていた。

 マリーは興奮するグエンを、白けた気持ちで一瞥した。

「今日は結婚式ではなく、私の洗礼式でしょう?」

「ははは、そうだとも。わたしたちの結婚のため、超えなければならない通過儀礼だ。なに、難しく考える必要はない。洗礼式の準備の学びに、おまえは真剣に取り組んでいた。わたしたちは結婚という、取りあえずのゴールを目指して歩いている最中だ」

 マリーは洗礼式を受けるに際して「準備の学び」として聖書や神の勉強をした。講師として司祭が何度もマリーの部屋を訪れ、洗礼式を受ける意味や、最低限の知っていなければならない教義を伝えた。

 洗礼式とは一度、水によって受洗者の命を失わせ、神を信じる新しい命として生まれ変わる儀式なのだそうだ。マリーは司祭の言葉に耳を傾け、一応は聖書も読んだ。だが、信心は、ついにマリーに芽生えはしなかった。

 知れば知るほど、自分は神の傍に行けやしないと再認識させられただけだった。

 洗礼式をぶち壊すと最初から決めていた。神を信じるつもりもない。

 それでも、マリーの心に罪悪感が沸き上がる。マリーの洗礼式のために、教会と司祭は力を尽くしてくれている。マリーが神を冒涜する宣言をするとは夢にも思っていない。

 マリーの心は鉛のように重くなった。マリーは神に仕える司祭を騙し、侮辱する。マリーが本日、この教会の一員となると信じ、司祭も助祭も嬉しくてたまらないといった顔で微笑んでいる。

 それでもマリーは宣言しなければならない。私は神を信じない、と――。

 胸の痛みは地獄に堕ちる日まで胸に抱えていこう。救いを求める権利も神にすがる資格も捨てて、生きると決めたのだから。

 グエンとマリーは光に輝く聖堂の横にある控室に入った。白い清潔な壁に大きな窓から明るい陽射しが差し込んでいた。

 隣にある聖堂のダイヤモンドのような美しさを強調するためか、色鮮やかなヴィドリエラは、窓のほんの一部に留められていた。長く広い壁には聖書の一場面と思われる情景を描いた絵が飾られていた。

「キリストが十字架から降ろされ、聖母マリアに抱かれている。この構図は昔から多くの画家によって描かれてきた。『ピエタ』と呼ばれる有名な場面だ」

 三十過ぎの息子を掻き抱くマリアは、それなりに歳のはずだ。だが、まるで少女のような面ざしをしていた。マリーは、ぼそりと呟いた。

「マリアがずいぶん若いわね。まるで恋人を抱きしめているように見える」

 マリーの指摘に、グエンは「なるほど」と手を叩いた。

「言われてみれば聖人は、あまり老いた姿を描かれることはないかもしれないな。聖マリアは聖人の中でも特別な存在なのだ。穢れなき心を映すように、若い姿で描かれることは多い」

 ユダヤ人であるはずのマリアが白い肌に金色の髪をしているのも、同じ理由からなのだろうか。

 グエンは高揚しているのか、しきりに話しかけてくる。相槌を打つのも面倒だったが、怪しまれても困るので、マリーは時々そっと話に頷いてみせ、グエンを喜ばせた。

 不意に扉の奥が騒がしくなり、何やら男たちの低い声が聞こえてきた。

「父上がいらしたようだ」

 グエンが扉に近づくより早く、白髪混じりの黒髪を綺麗に後ろに撫でつけた、恰幅のいい五十過ぎの紳士が入ってきた。

 イタリアのブランドと思われる高級スーツに身を包み、彫りの深い顔の奥で黒水晶のような目が輝いていた。壮年期の色気と力強さの漲る眼前の紳士こそ、グエンの父にしてロランド帝国の総帥、ミカエル・ロランドだった。

 グエンは手を大きく広げ、父親のミカエルを迎え入れた。

「父上、お忙しい中、ようこそお出でくださいました」

 グエンの肩の位置までしかないミカエルは、息子と軽い抱擁を済ませると黒い目を剥いて、奥に座ったマリーを見据えた。

 射るような鋭い瞳に見つめられ、マリーは身体がすくんでしまった。マリーは心の内を見透かされそうで、思わず目を伏せた。ミカエルは息子の肩に手を添えたまま、後ろを向いて声を掛けた。

「セニョール・ヒューズ、お入りなさい。姪ごさんと会うのは、久しぶりでしょう」

 ヒューズ叔父様が来ている? マリーはハンカチを握りしめ、立ち上がった。

「叔父様が来てらっしゃるの?」

 ミカエルは大きな腹を持て余すように、近くのソファに腰を下ろした。視線の先を追うと、暗い廊下から細面の背の高い男が肩を丸めて入ってきた。

 最後に会ったのは、マリーが罪の街へ逃げる前の晩だった。「グエンのもとに嫁ぎたくない」と大喧嘩したとき、真っ赤な顔で怒った叔父は、見る影もなく窶れていた。

 マリーを見つけると、落ちくぼんだ青い瞳を潤ませ、哀れっぽい声を発した。

「マリー、久しぶりだな……元気にしてたか?」

「叔父様、叔父様!」

 マリーは叔父に駆け寄ると、首筋に縋って泣きじゃくった。

 叔父は戸惑いの顔でマリーを抱きしめてくれた。飛行機事故で亡くなった両親の代わりに、大事に育ててもらい、愛情は十分に感じている。やつれた顔を見て、マリーは叔父が苦しんだことが、よくわかった。

 ミカエル・ロランドがマリーと叔父の抱擁を見て、大きな声で笑った。

「感動の再会ですなあ、セニョール・ヒューズ。そんなにも仲が良いのなら、息子も危険な救出劇をしなくて済んだのですがね」

 マリーは思わずむっとして、叔父の身体から離れようとした。するとヒューズは、マリーの首を後ろから強く抱えて身体を密着させたまま、首だけ回してミカエルを見た。

「昔から甘えん坊なのです。こんな泣き虫がロランド家の一員になれるのか、不安でいっぱいです」

 グエンが殊更に甲高い調子で、ヒューズに声を掛けた。

「これからは、わたしが叔父上の代わりにマリーを支えます。どうぞ、安心をしてください」

 ヒューズはしきりに首だけ頷き、グエンに礼を言った。

「ありがとう、グエン。くれぐれもよろしく頼みます」

 叔父が惨めに媚びへつらう姿に、マリーは怒りが込み上げた。せめて最後に堂々とした叔父を見たかった。

 ――私は生贄の羊ではないわ!

 次の瞬間、叔父がマリーの手首を強く掴んだ。マリーは驚いて叔父を見上げた。叔父の口が小さく動いた。

「洗礼式をするにあたり、セイント・マリー、おまえに渡したいものがある」

「はい」

 ヒューズはマリーの手を優しく取り直し、もといた窓際の椅子に導いた。マリーを座らせると、足もとに膝をつき、伸びあがって額に口付けた。

「セイント・マリー、おまえは今日、ロランド家と教会の導きにより、洗礼を受ける。神の名のもとに、新しい命を与えられるそうだね」

 マリーは歯を食いしばった。叔父はなぜ今さら、わかりきったことを言うのだろう。

 ヒューズはポケットか掌に載るぐらいの小さな箱を取り出し、マリーに差し出した。

「わたしがおまえにしてやれることは、これだけだ。開けてみなさい」

 マリーは戸惑いながら掌に箱を受け取り、丸い箱の蓋を開けた。マリーは驚愕に目を見張った。

「これは……!」

 見覚えのあるプラチナの指輪だった。

 エリザベスを罪の街へ使者として送ったとき、持たせたものだった。なぜ、この指輪が叔父の手元にあるのだろうか?

 叔父はマリーの目を必死に見つめ、わざとらしく大仰な言葉を掛けてきた。

「この指輪は、おまえの母親の形見で、わたしがずっと保管していたものだ。ヒューズ家を出て行く時、おまえに持たせようと思っていた」

 見え透いた嘘。叔父は別のことを伝えようとしている……。

「結婚式には少し早いが、おまえの旅立ちのときだ。セネガルにあるサン・ルイ島に旅したときに手に入れたと聞いている」

 マリーは叔父の言葉を口の中で反芻した。

 サン・ルイ……フランス語で確か「聖人ルイ」という名の島。マリーは息を呑んだ。

 ――叔父様は聖人の名を使って、兄さんと会ったことを伝えようとしているんだわ!

 エリザベスは無事に罪の街まで辿り着いた。ルイと会ったときに指輪を渡したはずだ。

 つまり指輪はルイの手から、叔父の手に渡った。マリーの洗礼式の真の意味を、兄ルイから伝えられた、ということか!

 マリーは、からからの喉に何度も唾を呑み込み、潤した。声がなかなか出てこない。

「叔父様……いただいて、いいのですか? 叔父様にとっても、大事なもの、でしょう?」

 マリーは必死の思いで叔父を見つめた。

 ――叔父様、本当にいいのですか? 叔父様の立場を更に悪くすることになるかもしれないんですよ?

 叔父の青い瞳が潤んだ。

「可愛いセイント・マリー。おまえは、私とは違う道を行く。笑顔で送り出すのが、わたしの最後の務めだ」

 マリーは熱いものが込み上げるのを何度も呑み込み、ようやく声を発した。

「叔父様、ありがとうございます……私は今日、新たな人生に旅立ちます。叔父様に見守られて旅立てることを、幸せに、思います」

 叔父は涙を溜め、何度も頷いた。マリーは声にならなくなり、叔父の胸に顔をうずめた。

「セイント・マリーの決意を目の当たりにすることができて、我々も得をした気分だ」

 ミカエル・ロランドが目を細め、マリーたちを見ていた。

「洗礼式の準備の学びは、一人の少女を神の道に見事に導いた。司祭には、後でよく言っておかなければならないな」

 ミカエルは横に立つグエンを、ぎろりと見上げた。

「おまえも少しはセイント・マリーを見習え。幼い頃から教会に通ったにしては、おまえの信心は中途半端だ」

 グエンは苦虫を噛み殺し、父親に頭を下げた。マリーと叔父の抱き合う姿を横目で見ると、わざとらしい大きな声を出した。

「美しい場面だ。叔父上、まるで今生の別れのようですな。たとえあなたが無神論者のままでも、我々は寛容です。ロランド家の門は、いつもあなたのために開いていますよ」

 マリーとヒューズはグエンの言葉を無視し、抱擁を続けていた。グエンは不満そうに鼻を鳴らし、横を向いた。

 扉を叩く音がし、ふくよかな身体を黒い衣服に包んだ司祭が現われた。

「お式の準備が整いました。皆様、そろそろ聖堂にお出で下さい」

 司祭が黒い瞳で奥にいたマリーを見据えた。マリーは小さく頷くと、叔父の手を取り立ち上がった。

「よろしくお願いいたします」

 ミカエルを先頭に、一行は聖堂の中へ入っていった。

「……この日、その昔より予言されていた救い主が生まれたのです。世を癒し、我々を救う御方を迎えるために――」

 光の降り注ぐ聖堂の中、司祭の声が響き渡った。

 洗礼式の前に行われたミサの説教は、キリストが馬小屋で生まれたくだりだった。初めて教会に来たマリーのため、わかりやすいミサにしたのかもしれない。

 聖堂の一列目にはミカエルを中央にグエンが座り、両脇におつきの男が座った。二列目の通路側にマリーが、横に叔父が座った。通路の反対側に見知らぬ中年の婦人が座った。

 洗礼を受けるにあたり、すでに信心している者が代父母となり、神の道へ行く手伝いをする。受洗者マリーが女であるため、同性の代母が任を務める。

 赤の他人に母という名前がつけられることにマリーは抵抗を感じないでもなかった。だが、代母になるには、受洗者の真の親でないことが条件だった。

 マリーは真顔を作り、神妙に見えるよう長い睫毛を伏せ、うやうやしくお辞儀をした。

ミカエル・ロランドの邸に仕える、身長百五十センチもない、やけに小柄な白髪の婦人だった。婦人は興奮に顔を赤らめ、聖人の名前をすでに持つ少女を、うっとりと見上げた。

 ――この人は、役目にふさわしいほど深く信心しているのね。

 マリーはさりげなく、代母がロザリオを手にしているのを見やった。

 ロランド邸でグエンと接していて、信心していると思える行いは少なかった。食事のときも祈りなどせず、すぐに酒に手を伸ばす。十字架を身に着けている様子もないし、準備の学びでマリーが尋ねても、聖人の名前もろくに知らなかった。

 兄の話では高校時代、成績は常に学年一番のはずだ。教会の教えに関する限り、試験がないので、勉強もしなかったのかもしれない。

 マリーは首を垂れたまま、前方に座るミカエルの背中を覗き見た。ミサの途中だというのに、怖い顔で横を向いていた。隣に座るおつきの男がした粗相を、身ぶり手ぶりで責めていた。

 マリーは心の中で、にんまりと笑った。

 ――今更、罪の意識なんて感じなくてよいのだわ。

 罪を犯した身体は神の前に跪き、許しを願う。マリーがこれから行う洗礼も、罪人であるマリーが一度は死に、改めて神に祝福された身体をもらうらしい。

 新たな清い命など要らない。これまで生きてきた人生は何一つ失われることなく残り続ける。

 罪というのなら、罪のままでいい。マリーはこの世の地獄、罪の街へ帰るのだから。

「それでは、セイント・マリー・ヒューズ。代母と一緒に前に進み出なさい」

 祭司の低く響き渡る声に促され、マリーはびくんと肩を動かした。

 マリーは横目で叔父を見た。叔父は正面を見据えたまま、大きく頷いた。マリーは目を閉じ、心の中で告げた。

 ――叔父様、さようなら。

 マリーは神妙な顔を意識的に作ったまま通路に出て、代母と並んで、祭壇の前に進み出た。

 ヴィドリエラのような聖堂は吸い込んだ光を四方から祭壇に投げかけていた。祭司の顔が太陽の光を受け、まぶしく輝いた。マリーは思わず目を細め、光の洪水を避けた。

「愛する兄弟姉妹よ、恵み深い天の父は洗礼によって私たちを主イエス・キリストと結びつけ、罪と死から救ってくださいます。罪の子として生まれた私たちは、洗礼によって神の子として新たな命を受け、永遠に継ぐものとされます――」

 マリーは司祭の「罪の子」という言葉に小さく反応した。

 兄と交わることを、教会は罪と言うだろう。ならば自分の一部から作られたエヴァと愛し合ったアダムは、別の理由で楽園を追われなければならないではないか。アダムとエヴァの兄妹相姦を非難する話を、未だマリーは聞いた覚えがなかった。

 教会の言っている事象を全て信じている人など、この世に果たして存在するのだろうか。

 つくづく、教会の一員にはなれないと、改めてマリーは強く思った。

 ――聖なる光なんて、いったいどこにあるのかしらね。

 光り輝く聖堂は、恵まれた富裕層のためにしか開かれない。マリーを先程から照らすステンドガラスを通した白い輝きは、底辺の人間たちに注がれることは金輪際ない。

 マリーは今さら自分の名前が「聖マリア」であることを光栄だとも、逆に恥ずかしいとも思わなかった。父と母がつけてくれた愛らしい名前、それで十分ではないか。

 父と母にも信仰心はなかった。聖人のように清い生き方をしろと名付けられたわけでもなかろう。

 ――お父様、お母様、私は私の道を行きます。見ていてください。

 マリーはベールを被った頭を下げ、祈りの姿勢で“その時”を待った。

 司祭がヨハネ伝三章を読み上げていた。これが終わると、いよいよ信仰宣言となる。

 司祭は大仰な動作で聖書を閉じた。額に皺を作って眉を上げ、マリーを見下げたまま、数秒ほど無言でいた。ミカエルの大げさな咳払いが聞こえた。

 ついに司祭は、マリーに問い掛けた。

「セイント・マリー・ヒューズ、主と会衆の前で尋ねます。あなたは悪魔と、その力と、その空しい約束を、ことごとく退けますか?」

 ――悪魔と、その力と、その約束……。なんと甘く私を誘うのかしら。

 マリーは魅惑の言葉にうっとりした。司祭が怪訝な顔でマリーを見つめてきた。

「退けますか?」

 マリーは司祭の目を見ると、大きく首を横に振った。

「……退けません」

 司祭の顔から血の気が引いた。洗礼式の準備の学びのため、マリーと何度も会い、神の道へ導いたと自惚れた男は、両手を広げ、マリーの前に一歩ぐっと踏み出した。

「セイント・マリー・ヒューズ。あなたは言い間違えをしました。もう一度ゆっくりと言いますから、今度はきちんと答えてください。あなたは――」

 マリーは一度目を閉じ、心を落ち着けると、再び司祭を見据えた。

「司祭さま、その質問は無意味です。私は神を信じませんから」

「なんと!」

 脇に控えた代母は助けを求めるように、後ろのミカエル・ロランドを見やった。

 ミカエルにはマリーの声が聞きとれなかったようだ。祭壇前の人々の異変にようやく気づき、身を乗り出した。

「何事だ?」

 司祭が聖書を抱きしめたまま、怒りに身体を震わせ、足を踏み出してマリーの横に立った。

「これは、どういうことなのです、ミカエル・ロランド? 我が教会を冒涜にいらしたのか!」

「はて、何のことやら」

 司祭は横に立つマリーを指差し、震える声で叫んだ。

「この娘は、神を信じないと言ったのです! 無知から出た言葉とは思えない。準備の学びは、完璧でした」

 マリーは視線の先にある、科刑されたキリストに向かって叫んだ。

「私は、父の独り子と呼ばれるイエス・キリストを信じません!」

 マリーが振り仰ぐと、ミカエルが黒い目を剥き、席から立ち上がっていた。グエンは怒り狂った父と、突然、気が触れた婚約者を、代わる代わる見た。

 マリーはグエンに微笑んで見せた。「これでご満足?」と――。

 グエンの白い顔が、怒りで火のように赤くなった。

「止めんか、馬鹿者!」

 グエンが通路に出て、マリーに走り寄ると、腕を掴んだ。

 マリーは心臓が飛び出しそうな思いでいたが、口を引き結び、グエンを見上げた。

「私の心に信心は芽生えませんでした。キリストの身体に連なるものにもならないし、教えを守ることも一切しません」

 グエンは握っていたマリーの手をねじり上げた。マリーは激しい痛みに耐え、自由な手で、科刑されたキリスト像を指示した。

「グエン、あなたにとっての神の御前よ。いくら私が不信心でも、祭壇の前で婦女に暴力を揮ってよいのですか?」

 グエンは低く唸ると、マリーの腕を放した。グエンは歯をがたがたと鳴らし、震える声でマリーを恫喝した。

「お、おまえ、最初から、その腹だったか! 洗礼式をぶち壊されたら……わたしは、わたしは……」

 マリーは手を腰に当てて、興奮する胸を深呼吸で落ち着けた。

「あなたの婚約者として、私は不適格なのです」

 ミカエル・ロランドが唇をわななかせ、椅子から起き上がれないまま、叫んだ。

「なんとおぞましい女だ、セイント・マリー! おまえは、我々と教会に対し、許されない罪を犯した。どう責任を取るつもりだ!」

 マリーは口の端を歪め、愉快に笑った。

「今すぐ、ここから出ていくことだと思います」

「ははははは、ははははは」

 聖堂の入口から大きな笑い声がした。聞き覚えのある声を聞いて安心したマリーは、全身の力が抜けた。

「グエン、これでおまえは、マリーと結婚したくてもできなくなったぞ」

 勝ち誇ったようにルイが笑い、横でジョゼが腰に手を当て、珍しそうに聖堂の天井を見上げていた。

「ルイ……おまえ、どこから入ってきた!」

 グエンは驚愕に目を見開いた。ルイは空とぼけて首を傾げた。

「この入口からさ。神様ってのは、全ての人間の前に平等じゃなかったのか?」

 ジョゼの落ち着いた声がした。

「こんなダイヤモンドのような教会が、オレたちに扉を開いているわけがない、か」

 ミカエルの両脇を固めている男たちが反射的に、スーツの下に装備した拳銃に手を掛けた。ミカエルが二人を叱責した。

「おまえたち、やめろ。ここは神聖な教会だ」

 ミカエルは席から立たずに腰だけ回して、通路の先にいるルイを見た。

「君たちは何者だね? 息子とは知り合いのようだが」

 マリーは次に兄が何を言うか気が気でなく、拳を握り締めて自分の足元を見つめた。

 ルイは耳に引っかけていたボールペンを手に取ると、カチカチと鳴らしながら通路を歩いてきた。

 ジョゼは入口すぐ横のステンドグラスに気を取られたのか、ルイと並んで歩いてくることはなかった。ルイはボリグラフォを手の中で回しながら、ミカエルの問いに答えた。

「俺はルイ・トッド・ジュニア、ヒューズ叔父の兄ルイ・トッドの息子にして、セイント・マリー・ヒューズの実の兄だ。本日は妹を迎えに来た」

 ――兄さんは、どうやら余計なことを言うつもりではないようだわ。

 マリーは息を呑んで、ルイとミカエルの会話を聞いていた。

 ミカエルは席を跨ぐように座り、両腕を背もたれに回し 顎を乗せた。

「セニョール・ヒューズから君の話は特になかったが」

 ルイはボリグラフォを高く放り投げ、両手で挟んで受け止めると、ヒューズ叔父に頷いてみせた。

「高校を中退したときに勘当された。以来ずーっと別の道を歩んでいる、というわけさ」

 ミカエルは目を剥いてヒューズを見上げた。ヒューズは席からゆっくり立ち上がった。

「今この場を持って、セイント・マリーも勘当します。セイント・マリーは、ヒューズ家とロランド家の架け橋になる価値もない娘です」

 ヒューズはグエンの横に立っているマリーに視線を投げ、大きな声で告げた。

「よくもヒューズ家の名に泥を塗ってくれたな。おまえとは金輪際、すっぱり縁を切る。今すぐ、わたしの目の前から消え失せろ!」

 ヒューズは頷く代わりに目だけを閉じた。マリーは目を潤ませ、黙って通路に足を踏み出した。

 ――叔父様、どうかお元気で。

 マリーがミカエルの席まで来たとき、大きな足が通路に投げ出され、マリーの道を塞いだ。ミカエルが席についたまま、マリーを憎々しげに睨んでいた。

「あの兄上の入れ知恵か? 堕落した女、セイント・マリー。ここが教会でなかったら、わたしの手の者にハチの巣にされていたぞ」

 マリーはドレスの裾を摘み、ミカエルにお辞儀をした。

「通して下さい、セニョール・ロランド。私を引き止める、どんな意味がおありでしょう」

 ミカエルは歯をすり合わせ、がちがちと音を立てて悔しがった。

「まさか、教会という場が選ばれるとは思わなかった。貴様らにとっては、ただの講堂だろうが、我々は信じる神の前で恥ずかしい真似をするわけにはいかん」

 マリーは小さく頭を下げると、ミカエルの足を避けて一歩を踏み出した。ミカエルはマリーと共に足元で動く灰色のドレスを、目を凝らして見ていた。

 その時、グエンがたまらずマリーに駆け寄ろうとした。

「待て、セイント・マリー! 今のは嘘だと宣言しろ! 今なら、まだ間に合う、神も許してくださるに違いな――」

 グエンの声を打ち消すように、ルイの声が聖堂に響き渡った。

「見苦しいぞ、グエン・ロランド。そもそも俺たちは、神ってものを信じてないんだ」

 マリーは通路の途中まで来ていたが、不安になってグエンを振り返った。グエンは青い目を血走らせ、すがるように手を伸ばし、マリーに近づいてきた。マリーは咄嗟に肘を胸の前で合わせ、身構えた。

 だが、ここまでだった。グエンは父の足を跨ぐことは、ついにしなかった。歯を食いしばり、爪が食込まんばかりに拳を握り、うつむいた。

 マリーはグエンが追ってこないことを確かめると、再び前方を向き、歩きだした。7

 マリーの行く道の先に、光に包まれて兄が待っていた。

 勝ち誇った笑みを浮かべ、マリーの身体を受けとめようと手を広げている。

 ――私の手を取り、未来へ導いてくれるのは、神ではなく兄さんなのだわ。

「ルイ……」

 マリーは初めて兄を名前で呼んだ。ルイの青い瞳がわずかに揺れた。

「ルイ、連れて行って。あなたの住む街へ。この世の地獄へ」

 足が縺れそうになり、マリーは小さく声を上げた。前のめりになった身体を、ルイがしっかり抱きとめた。

「マリー、もう離さない。おまえは俺と罪の街に帰るんだ」

 抱きしめられたまま、マリーはルイを見上げた。ルイの髪がステンドガラスから降り注ぐ光で金色に光った。まるで聖なる人の頭上に輝く光の輪のように。

 ――ついていこう、どこまでも。この青い瞳を信じて……。

 ルイはマリーを抱きしめ、長い金色の髪を優しく撫でた。

 ジョゼが背後から緊張した声を出した。

「ルイ、急いだほうがいい」

 ルイは首だけジョゼに振り向き、頷いてみせた。

「さあ、マリー、立てるな。この聖堂を出るぞ」

 マリーはルイに抱きしめられたまま、首を縦に振った。ルイはマリーの腰に手を回し、聖堂の扉を開け放し、外に出た。

 マリーが背後を気にするように何度も見た。

「ルイ、ジョゼは?」

「心配するな。すぐに追手が来ないよう威嚇をしているだけだ」

 ――ジョゼ、ジョゼも早く来て!

 間もなく扉が閉まる音がし、ジョゼがマリーたちに追いついてきた。

 ガラスの輝く聖堂から走り出ると、車寄せに四台の車が停まっていた。

 黒光りする大型車三台の先に駐められたオープンカーの後部座席には、エヴァが寝ころんでいた。

 三人が聖堂から出て行くと、がばっと起き上がり、運転席に飛び移った。

「ほんとに何も起こらなかったわね。絶対ドンパチが聞こえるって緊張していたのに」

 助手席にジョゼが滑り込んだ。

「そんなに聞きたきゃ、あと一分ここにいろ。いつまでも大人しい輩じゃなさそうだぜ」

 ルイはマリーを後部座席に押し込み、自分が横に乗ると、ドアを閉めた。

「エヴァ、早くしろ。やつら、それほど信心深くない」

「エンティエンド(おーらい)」

 エヴァはキーを回すと同時に、アクセルを強く踏んだ。

「マリー、シートベルトを締めなさい。私が運転する車に乗るのは、あんただけが初めてだから」

 マリーは心の内からわくわくした思いが沸き上がった。

「まあ、大変。事態が事態だから、安全運転を頼むわけにいかないものね」

 ジョゼが後ろを向き、ぼそりと言った。

「エヴァはいつだって危険分子さ。信号は守らないし、メーターは振り切れっぱなしだ。理由はいつも「瞬きしてたから」と来たもんだ」

 エヴァがハンドルを切りながら反論した。

「信号を守るなんて、アルメシアの法律にあったかしらね。誰も守っちゃいないわよ」

 マリーたちを乗せた車は、開け放たれた大きな鉄の門を抜け、公道に飛び出した。エヴァは速度を落とさず、山なりの道を下っていった。

 車体ががくんと揺れ、マリーは背中を後部座席に打ちつけた。

 慌ててベルトをさぐると、手を兄に掴まれ、身体を引き寄せられた。マリーは必死にもがいた。

「兄さん、ふざけないで。シートベルトを締めないと――」

「おまえを守るのは、そんな革紐じゃない。この俺だ。おまえは俺にしがみついていればいいんだ」

 マリーは仕方なしに、兄にしがみついた。ルイもジョゼも器用に身体を浮かしながら、エヴァの乱暴な運転に耐えていた。

 マリーは頬に、高台の冷んやりした空気を感じた。上を向くと、大きなパームツリーの緑の葉が並んだ先に青い空があった。

 マリーはふと思った。この空の上に神と呼ばれる人がいたとして、私の罪を怒っているとしたら、こんなに晴れやかな空だろうか?

 マリーは前屈みになって、前のエヴァの座席に手を回した。

「よくここまで来る道を見つけたわね、エヴァ。高級住宅地からしか来られない仕組みみたいだったけど」

 見下ろすと、大きな庭のある邸宅がぽつんぽつんと見える。眼下の公道に降りようとしても、邸宅の私有地か庭に阻まれてしまうはずだ。

 エヴァは、からからと笑った。

「道はいつの時代も、作るものよ」

 四人を乗せた車は低い生垣に突っ込み、プールのある庭を横切っていった。

 芝生を刈っていた庭師が驚きに声も出ない様子で、マリーたちが不作法に通り過ぎるのを見つめた。

 エヴァが勝手に作った道にマリーは呆れながら、庭師に向かって「ごめんなさい」と笑いかけた。

 マリーは再び空を見上げた。余計な建物の少ない高台を、車は風を切って走る。

 このまま空の向こうに飛んでいきそうだ。

 四人が今、力を合わせたら、空も飛べるのではないか。住宅地の庭を突っ切ることなく、罪の街までひとっ飛びなのではないか。

「ま、いいか」とマリーは首をすくめた。どんな道を通っても、今度こそ罪の街に帰ることができるのだから。かけがえのない仲間と一緒に。


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