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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第五章 堕天の告白

   第五章 堕天の告白

 エリザベスが翌朝五時に、マリーの部屋に現われた。

「マリー様、おはようございます。少し早いですが、朝食を召し上がってください。私はトレイを下げましたら、罪の街へ行って参ります」

 マリーはすでにベッドの上で起き上がり、入念に脚のストレッチをしていた。

「おはよう、エリザベス。本当に今日はよろしくね」

 エリザベスは朝食を載せたトレイを、ベッドの横に据えられたテーブルに置いた。

「朝の運動ですか?」

 マリーは左の膝をゆっくりと曲げながら、深呼吸を繰り返した。

「もともと左足が悪くて、駆け足になると引きずってしまうの。でも、ここから逃げ出すのに、泣き言を言っている場合じゃないわ。以前、整形外科のお医者様から教わった運動をして、少しでも身軽に動けるようになろうと思って」

 エリザベスは緊張に口を引き結び、大きく頷いた。

「そうですね、マリー様のご決心に、もう私は何も口答えいたしません。お身体を万全にするのが一番大事です。朝食もしっかり召し上がってください。お腹に優しくて力がつくものをと用意して参りました」

 マリーは脚を伸ばし、前屈を数回すると、自分の膝をぽんぽんと叩いた。

「トレイをここに載せてちょうだい。残さず食べるわよ」

 マリーは努めて覇気のある声を出した。エリザベスはつられるように背筋を伸ばし、元気のよい声で答えた。

「はい、マリー様」

 マリーはスプーンで粥を口に運びながら、自分に問いかけるように呟いた。

「街まで行って、一日で帰ってこられるかしらね」

 マリーは頭の中でロランド邸から罪の街までの道順を辿った。

かつてのマリーも含め、富裕階級の人間たちはダウンタウンを見下ろす広大な丘の上に屋敷を構えていた。富裕層がダウンタウンに寄りつく機会は少なく、主要な交通手段もない。一度完全に丘を下りてハイウエイにあるバス停まで一時間も歩かなければならない。

エリザベスはベッドの横に立ち、ナプキンを畳みながら答えた。

「丘を下りて高速バスに乗れば、罪の街に近い歓楽街まで、三時間で着くと思います。問題は、そのあとの足がないことです。車で乗り付けると必ず暴徒に襲われ、引きずり出されると聞きますから、歩いていくのが実は一番安全なんです」

 マリーは目線を上げ、自分が向かったときの様子を頭に描いた。

「私は今にして思えば、まるで考えなしに向かってしまったわ。辿り着いたら、すっかり辺りは暗くなっていて、何度も危険な思いをした」

 マリーは神妙に頷いてくれているエリザベスを見て、素直に不安をぶつけた。

「危険な街にあなたを向かわせることになって、本当に申し訳ないわ。あなたに何かあったら私は一生、後悔するでしょう」

 エリザベスは胸を張り、ぽんと右手を当てた。

「お任せください、マリー様。危険だと知っているからこそ対処の方法もあります。私たち底辺の人間は幼い頃から、そうやって生き抜いてきたのです」

 マリーは人の縁に感謝せずにはいられなかった。この少女が自分の身の回りの世話についてくれなければ、今のように道が開けはしなかった。

 興奮に顔を赤らめ、エリザベスは張り切ってくれている。

 しかし危険な任務だ。無事に十六番通りに辿り着いたとして、話がすんなり受け入れられるか、マリーも不安だった。

 街でマリーが疎まれているとすれば、使者であるエリザベスは危機に晒される。マリーは念を押した。

「身の危険を感じたら、私ではなく、兄ルイの名前を出して。私は一日しかいられなかったし、暴動の原因を作ってしまった。けれど兄は、ずっとあの街を取り仕切ってきたから、尋ねれば教えてもらえるはず。そうそう、これを持って行って」

 マリーは右手の中指からプラチナの指輪を抜いた。

「グアダルーベで、兄のルイ、エヴァ、ジョゼの内の誰かに会ったら、この指輪を見せて私の使者であることを示して。裏に「セイント・マリー」の刻印があるから」

 エリザベスはマリーから手渡された指輪をしっかり握りしめると、大きく頷いた。

 マリーは皿を全て空にすると、口元をナプキンで拭いた。

「三人の内の誰が来てくれるか全然わからないけれど、どうやってこの部屋まで来てもらうかが問題ね」

 すると、エリザベスの声のトーンが上がった。

「それなら、私に考えがございます」

「まあ、どんな?」

「洗濯物を入れて運ぶワゴンの袋に入ってもらうのです。人一人が隠れるには十分の大きさがあります。女一人で廊下を引いていても、怪しまれません」

 映画か何かで、洗濯物袋に隠れて潜入する場面はマリーも何度か見た覚えがある。絵空事で冗談のような作戦だが、エリザベスは自信を持っているようだった。

 エリザベスは声を顰め、付け加えた。

「実は、他のお邸に仕えていた頃、奥様の逢引のお相手を同じ方法で招き入れたことがあります。マリー様から恩人を連れて来て欲しいと頼まれたとき、すぐにこの方法を思い出したんです」

 深刻な事態だというのに、マリーは思わず口の端を緩めた。エリザベスは今度は真顔になりマリーを安心させるように伝えた。

「邸では私以外は男ばかりなので、バスルームや洗濯場など男の目に触れずに済む通り道を、まず最初に覚えたんです。だいぶお待たせすることになりますが、必ず恩人の方を連れて戻ってまいります。マリー様はどうか心穏やかに過ごしていてください」

 そうだ。しばらく一人きりになるが、エリザベスを心配させるような素振りを見せては絶対いけない。マリーは不安に震える声を必死に落ち着けた。

「エリザベス、くれぐれも気をつけて。あなたに余計な心配を掛けないよう、心を落ち着けて待っているわ」

 エリザベスは指輪を握った手でマリーの右手を取ると、恭しく口付けた。そのまま頭を下げ、静かに部屋を出て行った。

 一夜が明け、マリーの部屋の扉に食事の用意を知らせる扉を叩く音がした。百九十センチはあるかと思われる大男が銀のトレイを捧げ持って、入ってきた。

「朝食をお持ちしました。未だ食堂でのお食事は無理とのお話でしたので」

 マリーは親衛隊員の顔を見ることもせず、そっけなく言った。

「そのテーブルにでも置いておいて」

 男は背中を丸め、マリーの機嫌を伺うように問い掛けた。

「私でよければ、給仕をしま――」

「結構よ。下がってちょうだい」

 マリーは顔を背けたまま、即座に断った。

 横目で見ていると、男は途方に暮れた様子で部屋を見回し、ベッドの横にあるテーブルにトレイを置いた。

 マリーは寝返りを打って顔をテーブルに寄せ、トレイに載った料理を眺めた。美食家の主君が食べるものと同じ献立らしかった。

 朝から脂の浮いた煮込みやバターを贅沢に使ったパンなど、どれも胃にもたれそうで、食欲は湧かなかった。

 でも、無理してでも腹に入れなければ。これからは体力勝負になる。一時の憂鬱な思いのせいで肝心な時に力が入らなくては困る。

 マリーは腰をずらしてトレイに両手を伸ばした。

 ふと見ると、扉の近くに大男が仁王立ちしたままでいた。

 マリーは何気ない素振りでベッドの横にある時計を見た。八時五分前。マリーは焦りの表情を見られないよう顔を背けた。エリザベスが出かけて丸一日が過ぎていた。

 マリーはなるべく冷たく聞こえるよう声を発した。

「まだ何か、用?」

 男は手を後ろに組み、中空を見据えたまま答えた。

「お食事が終わるまでここにいます。トレイを片づけなければなりませんから」

 マリーは、こめかみが痙攣するのを指で押さえた。

 エリザベスが邸に戻ったら、すぐこの部屋に来る手筈になっていた。姿を消していたメイドが現れる分には、さして問題はない。

 問題なのは、エリザベスが一人ではない点だった。

「いただきます」

 マリーはトレイを膝の上に載せると、ナプキンの端で口元を押さえた。

 赤い制服の男と二人きりの部屋で、マリーはせっかちにスプーンを口に運んだ。男はマリーをちらちら盗み見る以外は、斜め上から視線を下げることはなかった。

 マリーはあっという間にトレイの上に載った四つの皿を空にした。慌てている素振りを見せないよう、意識してゆっくりと言葉を発した。

「ごちそうさま。片づけてちょうだい」

 マリーはトレイを両手に持ち、男に向かって差し出した。

「わかりました」

 男はロボットのように無表情のまま、マリーからトレイを受け取った。

 ――間に合った。これで、この男も消えてくれる。

 そのとき、扉をたたく音がした。マリーは手首がびくんと跳ね、あやうく食べ残しの汁でワンピースを汚すところだった。

 マリーは、わざとらしく甲高い声音で尋ねた。

「どなた? 食事中なんだけれど、急ぎの用事?」

「いいえ、マリー様。シーツの取り換えに参っただけでございます」

 やはりエリザベスの声だった。芝居がかった口調に、部屋の中の状況を把握してくれたらしい。確証はなかったが、ここはエリザベスの機転を信じるしかない。

「失礼いたします」

 エリザベスは扉を開け、手ぶらで入ってきた。マリーの位置から洗濯用ワゴンは見えなかった。マリーは、わざと不満げな声を出した。

「シーツだけじゃ嫌だわ。この枕は高くて気に入らないし、寝巻きは大き過ぎて、着ていて気持ちが悪いの。下着の替えも欲しいわ」

 エリザベスは目を丸くし、ことさらに恐縮してみせた。

「それは大変、失礼をいたしました。清潔な下着を持って参りましたから、すぐお召替えください」

 マリーとエリザベスは一斉に、トレイを持って立ち尽くしている親衛隊員を睨んだ。

 エリザベスが低い声で駄目を押した。

「マリー様がお召替えになります。席を外してください」

 親衛隊員は文句を言いたげに、ぶつぶつ何事か呟やいていた。

 が、ほどなく一礼すると、トレイを掲げたまま、部屋を出て行った。

 マリーとエリザベスは無言で、足音が遠ざかっていくのを待った。

 足音が消えると、二人は頷き合った。マリーが先に口を開いた。

「ワゴンは、どこに隠したの?」

「念のためにシャワールームに隠して、使用中の札を下げておきました。すぐに戻って参りますので、このままお待ちください」

 エリザベスは扉を開けると、廊下の左右を見て、人気のないのを確かめた。そのまま無言で扉を閉めた。

 マリーはベッドから降り、横にあるドレッサーに顔を近づけ、髪を手櫛で整えた。胸が高鳴り、唇の震えが止まらない。

 ――誰が来てくれたのだろう? 来てくれたということは、私は許してもらえたのかしら。

 再び控え目に扉をたたく音がした。マリーは待ち切れずに足を引きずりながら駆け寄り、ノブを回した。

「失礼いたします」

 エリザベスは額に汗を浮かべながら、重たいワゴンを部屋に押し込んだ。

 マリーが固く扉を閉め、エリザベスに頷いてみせた。エリザベスは袋の上に掛かった白いタオルを、そっと捲った。

「もう大丈夫です。お疲れ様でした」

 手と足が袋の中でもがくように動き、銀色の長い髪が現われた。

「私でこんなに狭苦しいんだから、ジョゼやルイじゃ無理だったわね」

「エヴァ! ああ、エヴァ!」

 マリーはそれ以上、声にならなかった。エヴァは振り仰いでマリーを見ると、顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。

「マリー、よかった。また会えたわね」

 エヴァは頭から転がり落ちるように袋から抜け出した。床にぺたんと座り込み、マリーに向かって両手を広げた。

 マリーはエヴァの胸に飛び込み、声を押し殺して泣いた。

 マリーは、ようやく落ち着きを取り戻し、ワンピースの裾で鼻をかんだ。

「エヴァ、心配を掛けて、ごめんなさい。兄さんとジョゼは無事? 街の状態はどうなの?」

「ルイもジョゼも無事よ。暴動もようやく沈静化して、人々も落ち着きを取り戻してきたところ。ルイとジョゼは十六番通りを中心に、街の有志たちと暴動の後始末に走り回っているわ」

 エリザベスが脇から言葉を添えた。

「でも三人と店内でお話をすることができたんですよ。私を含め四人で、マリー様の奪還作戦を相談しました」

 マリーは、込み上げてくる熱い思いを喉の奥に抑え込んだ。感傷にふけり、時間を無駄に使ってはいけない。グエンが部屋にいつ入ってくるか、わかったものではないのだ。

 エリザベスがテーブルの上の時計を見ると、マリーとエヴァに向き直った。

「廊下ですれ違った親衛隊員に探りを入れてみたのですが、グエン様は大旦那さまに呼び出されて、今は留守にしておられます。それでも油断はできません。親衛隊員に怪しまれないように、私はシーツの取り換え、お召替えの手伝いを終えたぐらいの時間に部屋を下がったほうがいいと思います」

 確かに普段の日常と同じ行動をしていれば、より疑いを持たれにくいだろう。エリザベスは実際に真新しいシーツを袋から出し、ベッドの上に広げ始めた。

 マリーは絨毯に座り込んだまま、エリザベスに「了解した」と頷いてみせた。

 エヴァはマリーに向かってしゃがみ込んだまま、顔を覗き込んだ。

「じゃあ、手短に話すわね。エリザベスがグアダルーベに来てくれたとき、運のいいことに、ルイとジョゼは店内の片づけをしていたの。それで、四人で今の事態を冷静に分析し、なんとかあんたを奪還できる道を考えたんだけど……」

 マリーは爪を立てんばかりにエヴァの手を掴んでいた。そうでもしないと、声を上げて泣き出してしまいそうだったのだ。

 エヴァは手首をそっと剥がし、マリーの膝の上に置いた。

 マリーの手首を見たエヴァの顔が一瞬ぎくっと硬直し、赤く染まった。マリーは思わずうつむいた。頭の上からエヴァの震える声がした。

「マリー、辛かったね。……よく頑張って生きててくれたわ」

 声にならなかった。エヴァは手首の痣を見ただけで、ある程度の事態は把握したようだった。マリーは目に涙を溜め、何度も頷いた。エヴァの声がマリーの体内に入って、身体中を洗い流してくれるような気持ちがした。

「エヴァ、私は、グエンに――」

「言わないでいい、マリー。あんたは、何も変わっちゃいない。初めて会ったときのままのマリーよ。あんたが望むなら、別の機会にグエンの息の根を止めてやる。でも今は、ともかく聞いて」

 マリーは深呼吸して興奮を抑えた。エヴァを安心させるよう、なるべくゆっくりと大きく頷いた。

 エヴァはマリーの手を取ったまま、語り始めた。

「ルイは、この邸に押し入ってあんたを奪還する、と言ったわ。気持ちはわかるけれど、無謀な話よ。相手は、軍の覚えめでたきロランド帝国。警察やマスコミに知られても、最悪の結果を招くわ。それに、奪還に成功しても、再び街を火の海にされ、連れ戻されたら? どこかでロランドと決別しなければ、あんたが心穏やかに眠れる日は来ないでしょう」

 マリーはエヴァの話に何度も頷いた。確かに、グエンの執着を断ち切らなければ、街もマリーも危険なままだ。

 マリーはエヴァから視線を外し、思いを吐き出した。

「グエンは、狂っている。私を、かつて愛した女性の生まれ変わりだ、などと信じて。そのくせ、女への尊厳は欠片も示さない。あの男は未だかつて人を真摯に愛するということを知らないのだわ」

 エヴァは眉間に皺を寄せ、人差し指を当てると、しきりに頷いた。

「そんな思い込みをされていたわけか。このままでは、あんたが逃げ帰っても何度でも街に来るでしょうね。これはジョゼの考えなんだけど、聞いてくれる?」

        6

 マリーの心臓が、びくんと跳ねた。ジョゼの名前を聞いただけで、顔が赤くなりそうで、マリーは両頬に手を当てた。

「え、えっと、ジョゼは何と言っているの?」

「実は、ジョゼ自身は違うんだけど、両親がカトリック信者だったの。ロランド家と同じ宗教を信仰していたのよ。それで、よく習慣を知っていたわけなんだけど」

 そういえば星空の下でジョゼが言っていた。自分の両親が、この国では珍しく神を信仰していた、と――。

 マリーはあのとき、神なんて存在しないと強く思ってしまった。

「信者の日々の暮らしに、神様ってものは、深く入り込んでいる。食事の前にお祈りしたり、日曜日にミサに行ったり、献金をしたり。ロランド家はイタリア移民、厳格な信仰で知られているわ。私たちのようにいい加減な手続きでは結婚式を挙げることができない。息子が結婚するには、同じカトリックの女でなければならないの」

 マリーは戸惑いの声を上げた。

「私は、どの宗教も信じてはいないわ。カトリックの女と結婚しなければならないなら、私は婚約者として不適格のはずよ」

「結婚前にカトリック教の洗礼式を受けることが、あんたがロランド家に嫁ぐ条件になるわけ」

「せんれいしき?」

 エヴァは頭をぼりぼりと掻いた。うまく説明しようとして何度も目線を上げ、ジョゼの言葉を思い出しているようだった。

「カトリックの教義を信じ、信仰の元に日々の行いをする、って宣言する儀式よ。大人になってから信仰を持ちたい場合には、洗礼式をしてもらって、教会の一員となることができるの。結婚相手のどちらかがカトリック信者の場合、もう片方が洗礼式を受けて結婚の準備を整えるのは、国際結婚に多い話で、珍しくはないそうよ」

 マリーはエヴァの説明に、しきりに頷いた。

 昔からマリーの周囲に特定の宗教を信じる友達はいなかった。なんとなくだが、赤ん坊のうちから教会へ通い続けなければ、キリスト教徒にはなれないと思い込んでいた。

「大人になってから「なります」と言えば、ならせてもらえるということ?」

 マリーの問いに、エヴァは大きく頷いた。

「逆に言えば、そこで信仰しないと宣言すれば、断固カトリックにはならない意志の証となるのよ。本来は頼み込んで教徒にさせてもらう儀式なわけだから、そんな宣言をする人間は、絶対いやしない。荒療治だけれど、グエンはあんたと結婚したくても永遠にできなくなるわ。教会を冒涜する行為だからね」

 マリーは、目の前が開けた思いだった。マリーは神様なんていないと信じている。自分の信念をそのまま教会に伝えることで、つまり自分を偽ることなく、グエンとの婚姻ができない身になれるのだ。

「マリー、洗礼式の信仰宣言で、神の存在を否定して。洗礼式にはグエンだけでなく、身内が出席するはず。ロランド家の総帥と教会の司祭の前で、神を否定する。そうすれば、総帥ミカエルは金輪際、あんたを家族にしようとは思わないわ。グエンがあんたに固執しても、一族の長として許しはしないはず。グエンには、このぐらい駄目を押す必要がある。あんたが自分の思いを貫き、罪の街で生きるためよ」

「思いを貫く」という台詞に、マリーはどきりとした。

 ――私は流されるように兄さんのものになったけれど、これが私の道なのだろうか。思いを貫くとは……私にとって、どういう意味なのだろうか……。

 マリーはぎゅっと目をつぶり、邪念を振り払おうと首を横に振った。今は余計な考えに振り回されてはいけない。罪の街へ脱出するために。

 マリーは恐る恐るエヴァに問い掛けた。

「街の人々は、私を許してくれるかしら? 暴動の起きた原因が縁談相手のグエンだと、皆、知っているのでしょう?」

 エヴァは、まるで初めて聞く話であるかのように、不思議そうな顔をした。次の瞬間「ああ」と思い出したように声を発した。

「何が原因で暴動が起きたかなんて、今更、街の人間は気にしないわ。言い方が悪いかな。死んだように路上で生きる人間たちにとって、きっかけは何だってよかったの。あんたが原因じゃなくても暴動は起きたし、私たち街の住人は、そのたびに必死に自分の命と暮らしを守る。つまり、大事なのは原因ではなく結果であり、どう対処するかなの」

「でも……申し訳なくて」

 エヴァはマリーの手を強く握った。

「街を思ってくれるなら、戻ってきて、あの街の光となってくれないかな? あんな街でも人は寄り添い、影響を受け合って生きている。マリー、あんたのような娘が街に生きるのは、他の住人にとってもいいことだと私は思う。いつか『聖マリア』という名前の少女が来たおかげで罪の街は変わったと、私たちが思い出話をできるようにしてほしい。聖なる光なんて要らない。人間らしい温かい灯となって、街を照らして欲しいのよ」

 マリーは涙声で答えた。

「エヴァ……ありがとう。無事帰り着いたなら、街を照らす灯となれるよう一生懸命に生きていきます。この身をあの街の人々のために捧げます」

 エヴァは黙って頷くと、マリーの手を放し、立ち上がった。

「そうと話が決まったら、私はお暇するわ。エリザベス、邸の外までまた連れて行ってくれる? あとは一人で帰るから」

 エリザベスは待っていたかのようにエヴァの前に進み出た。

「はい、エヴァ。乗り心地の悪いタクシーですけど、我慢してくださいね」

 エヴァは素早い動作で再びマリーの前に膝をつくと、頬に手を当て、額に口付けた。そのまま無言でマリーに頷くと、立ち上がり、ワゴンの袋の中に足を入れた。


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