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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第四章 地獄の概念

   第四章 地獄の概念

 マリーは、ぼんやりと天井を見上げた。目の焦点が合わず、シャンデリアのガラスが何重にも見えた。

 まるで雲の上のようにふわふわのベッドに仰向けに転がされていたが、心地よさとは無縁だった。

 両の足首には枷を填められ、ベッドの脚に括りつけられていた。両手は自由だったが、痺れが残って、うまく動かすことができない。上半身は鉛のように重い。

 つまり、マリーはベッドに全身を縛り付けられているも同然だった。

 部屋の扉が開く音がして、男二人の低い声がした。一人はマリーを縛り付けた、この屋敷の使用人、もう一人は、グエン・ロランドのようだった。

 グエンが履く室内履きの音が近づいてきた。

「気分はいかがか、セイント・マリー?」

 目の前に影ができ、グエンがシャンデリアを背に立ったことがわかった。マリーは声を出そうとしたが、呂律が回らなかった。

「わたしを、どうするつもり、なの?」

「喋れるようになったか、何よりだ」

「枷を……外してください」

 グエンは「下らない」とばかりに鼻を鳴らした。

「駄目だ。おまえは馬鹿だから、抵抗するだろう?」

「抵抗……って、グエン、何を……?」

 グエンは纏っていた薄絹の上着を脱ぎ始めた。

「セイント・マリー、何故おまえがあんな汚い街に逃げたか、考えてみたんだ。結果わかったのは、我々に絆がなかったことだ」

「き……ずな?」

「おとなしく、わたしの胸に抱かれるのだ。わたしたちは正式な婚約者、そして、今どきの若者だ。こういうことを結婚式前に済ませてしまう男女は多いらしいのだよ。私たちも、愛を確かめ合うのに、早すぎることはない」

 グエンは上半身裸になると、ベッドの上に乗ってきた。足を振って室内履きを床に振り落とすと、マリーの身体に跨った。

「ひぃ……い!」

 マリーは声にならない叫びを上げた。

 グエンは胸元で合わせていたマリーの手首を掴み、大きく広げてベッドの両サイドに押しつけた。

「痛い! いたぁい!」

 マリーは、あらん限りの声で叫んだ。

 グエンの青白い顔の中央がぱっくりと赤く裂けた。笑っているつもりなのか。

 マリーは必死に肩を動かそうとした。だが、ものすごい力で手首を押えられているため、身動きが取れない。

 グエンは気味の悪く微笑んだまま、顔をマリーの首筋に近づけた。

 マリーは顔をのけぞらせ、グエンの唇を避けようとした。だが、全ては無駄なことだった。グエンがマリーの肌を噛んだ。あまりの痛みに、マリーは泣きながら首を振った。

「兄さん! 兄さん……! 助け、て」

 グエンは唇を首から胸元に移動させながら、呟いた。

「ずいぶん仲がよいのだね。おまえの白馬の王子様は、未だに血の繋がった兄上か」

 ――この男、私がどんなに穢れた女か知らないのだわ。

 この薄ら笑いも、真実を知れば消えるだろう。不潔なものに触った後悔で唇を拭うだろう。

 教えてやればいい。実は自分が、どんな女なのか。

 マリーは唇を震わせ、必死に言葉を発した。

「私は、兄ルイの、もの……! 兄さんと、結ばれたの。あなたのものには、なれません!」

 グエンの肩がびくりと撥ね、マリーの首筋から顔を上げた。

「兄さんと、結ばれただと?」

 グエンは驚きのあまり目を見開き、マリーを見下ろしていた。マリーは少し安堵した。

 潔癖症のグエン・ロランドは汚らわしいものに触れたと後悔して、すぐにベッドから降りるだろう。

 だが、マリーの予想に反して、グエンは一向に身体の上から降りようとしなかった。

 青白かった顔が、見るみる赤くなった。それが興奮によるものだと気づいたときには、遅かった。

「そうだったのか、セイント・マリー、おまえは神をも恐れぬ禁断の愛に絡め取られていたんだね。だから、わたしを避けたというわけか」

 違う、兄との関係が何もなくても、グエンのもとへ行くつもりはなかった。

 だが声が出ない。麻痺はだいぶ収まってきたというのに。

 グエンは興奮に目をぎらつかせ、いびつに顔を歪めて、ヒヒヒと笑った。

「セイント・マリー、なんて罪な女なんだ。このわたしを虜にしておいて、実の兄に、この白い身体を捧げたというのか」

 マリーは恐怖と後悔のあまり、気が遠くなりそうだった。マリーの発言は逆効果で、グエンの色欲をそそってしまった。それでもマリーは、必死に叫んだ。

「だから、離して! あなたのものにはなれません!」

 だがグエンは、その間にもマリーの股の間に脚を入れ、徐々に広げていった。

「天国へ連れていって上げるよ、セイント・マリー。一度行くと癖になるというぞ」

 マリーがもがけばもがくほど、ワンピースは乱れ、胸がはだけた。

 グエンは微笑を引っ込めたかと思うと、マリーのワンピースの胸元を引き裂いた。

「あああ!」

 マリーの叫び声はグエンの嗜虐心を刺激するばかりのようだった。

「いいぞ、マリー。いくらでも喚くがいい。わたしはこれから、おまえを救ってやるのだ。おまえがわたしのものになれば、ルイも地獄へ行かずにすむ。わたしがおまえの身体からルイの影を消してやろう」

「兄さん! 兄さーん!」

 マリーの声が虚しく広い部屋に響いた。やがて叫びは、小さなすすり泣きに変わった。

 マリーはグエンのベッドに突っ伏したまま、声を殺して泣いていた。

 ――許せない。絶対に許しはしないから!

 兄だけでなく、グエンの毒牙にも掛かってしまった。ぼろぼろになった身体を抱え、これからどこに行けばいいのだろう。

 グエンはベッドの近くにある籐椅子に座り、タバコの煙を吐いていた。いつの間にか部屋着に着替え、上から上質のガウンを羽織っていた。

 グエンは吸い殻を灰皿に押し付けるや立ち上がり、ベッドの上に座った。マリーの耳元で、怪しい囁きが聞こえた。

「素敵だったよ、セイント・マリー。私たちは夫婦として最高の相性だ。結婚前に確かめ合うというのは、重要だな。我々の親の世代も、もう少し理解を示してくれたらよいのだが」

 マリーは反論する気力もなかった。

「叔父様たちは、何も知らないのね……」

 叔父が知ったところで、何をしてくれるとも思えなかった。

 事業不振で毎日毎日あくせく金策に走っている叔父にしてみれば、マリーがロランド家の息子に気に入られた事実は、願ってもない幸運だったはずだ。すでに借金をしているとなれば、マリーが受けた恥辱に対して訴えを起こしてくれるとは考えられない。

 グエンは立ち上がり、キャビネットまで歩いていくと、中から高級そうなコニャックを取り出した。

「どうだね、マリー、君も。もう大人になったということで」

 マリーはうつぶせたまま無言でいた。グエンは不愉快そうに顔をしかめると、コパ(脚付きグラス)を一つだけ用意し、黄金色の液体を注いだ。

 グエンはコパを天に向かって掲げ、奇妙な乾杯の音頭をとった。

「セナ、ああ、セナ。我々はついに結ばれたのだ。さあ、乾杯しよう、二人の第二の人生の始まりとして」

 グエンは黄金色の液体の香りを嗅ぐようにコパを鼻に近づけると、ひと口、含んだ。

 マリーが意味がわからずにいるのに気づいたのだろう、グエンは中空を向いたまま、勝手に説明を始めた。

「私が高校一年生のとき、セナ・タニグチは転入してきた。わたしは一目で恋に落ちてしまった。美しい黒髪と群青色の瞳の持ち主で、この世のものとは思えないほど美しかった」

 ――セナ・タニグチ? 聞いたことのある名前……。

 もうだいぶ前に、カリニ肺炎で亡くなったはずだ。確か叔父の知り合いの家族だとかで、一時は兄と一緒の学校に向かっていた。

 マリーは幼かったので、うろ覚えだ。でも、今の自分の金色の髪と青い瞳を黒くすれば、セナと似ているかもしれない。

「日本では、血友病患者の治療に、非加熱製剤が使われていた時期があった。セナは幼い頃に、命を繋ぐべき血液製剤によってエイズのキャリアになってしまったのだ。日本人はセナを黴菌扱いし、学校へ行けなくなってしまった!」

 グエンが声を荒げるのも、マリーにはどうでもよかった。

 ――同情でもしろと言うの? 私をこんな目に遭わせたくせに!

「わたしとセナは、心を通わせ合った。プラトニックな恋だったが、わたしたちはそれでよかった。だが、父のミカエルが、わたしに感染の危機があると引き離したのだ。普通に生きていけるのに、手をつないでも耳元で囁いても、感染などするわけがないのに!」

 マリーはグエンの話を聞いて、幼い頃の記憶の断片を引き出してみた。

 ――そういえば、兄さんが怒り狂っていたときがあったわ。グエンの父親の圧力でタニグチ一家はアルメシアすら追われた、と。

 グエンは、もはや自分の演説に酔っていた。目にはうっすら涙さえ浮かべ、悲劇の青年になりきっていた。

「わたしたちは引き離された。直前にセナが、こう言った。『必ず戻ってくるから、その時は、私を探して。生まれ変わった私は、必ずあなたの傍にいます』と」

 マリーは何の感情もわかなかった。可哀そうとも悲惨だとも憎いとも、今は思わなかった。

 要するに、グエンに目を付けられたためにセナは住む場所を失った。金持ち息子の真摯な愛など、マリーには信じられなかった。

 大方相手の気持ちも考えず付きまとい、勝手に恋人同士になったつもりだったろう。マリーは少なくともグエンが真にセナを愛していたとは思えなかった。

 マリーは小さく呟いた。

「セナとは思いを遂げられなかったから、私の身体で満足しようとしたの……。いい迷惑だわ」

 するとグエンは眉を八の字に下げ、憐れむようにマリーを見た。

「セイント・マリー、おまえは、まだ自分にセナの魂が宿ったことに気付いていないのだろう。仕方のないことだ。だが私は、セナとの約束を果たした。わたしたちが結ばれるのは運命だったのだ」

 マリーは顔を枕にうずめ、グエンのぎらぎらする視線から逃れた。

 馬鹿げてる、馬鹿げてる!

 マリーは生まれたときから意識をしっかり持っているつもりだ。マリーはマリー以外の何者でもない。それなのに、生きている途中でセナの魂が宿ったなど、マリーの人格を冒涜している。

 マリーは枕に突っぷした顔を上げた。

「あなたは狂ってるわ! 平気で街を火の海にしたり、私に魂が宿ったと信じたり。第一、私を生まれ変わりと思うなら、枷をつけて身動きを取れなくするなんて、あり得ない! あなたは欲望を満足させたかっただけ、あなたは正真正銘の狂人よ!」

「セイント・マリー、紳士的でなかったことは、ご容赦願いたい。多少は強引でなければ、君は兄上にたぶらかされたまま、私を避け続けるからね。荒療治と言っておこう」

 マリーの唇が怒りにわなないた。

 ――多少は強引? 多少ですって? 反吐が出そうだわ!

 マリーがさらに声を出そうとすると、グエンが口を開いた。

「セイント・マリー、君はまだ、地獄の真の恐ろしさを知らない。堕ちたら最後、こうして息をすることも話をすることもできず、永遠の苦しみに置かれる場所なのだよ」

 マリーが顔を上げ、憮然とする中、グエンはマリーの手首を強く掴むと、ベッドの外に引きずり下ろした。

「来い、おまえに本当の地獄を見せてやる。この背徳の聖女が! わたしがおまえを救ってやった事実を教えてやる!」

 マリーは裸のまま、部屋の一角に引きずられていった。ぺたんと床に座り込むマリーの右手首を引き上げ、グエンは顎をしゃくった。

「これを見ろ」

 マリーの頭上に丈三メートル近い縦長の絵画が飾られてあった。

 まずマリーの目に入ったのは、目玉を一つ抜かれた男の生首だった。

「ひぃい!」

 マリーは思わず目をつぶり、顔を背けた。グエンはマリーの横にしゃがみ込み、生首を指差した。

「この首は、生きているんだ。身体をもぎ取られ、傷口から血を流し、痛みに気が狂いそうになりながら、ヘドロと血の沼に放置されてるんだ」

「やめて!」

「やめないよ、セイント・マリー。だって、おまえは、ちっとも分かっちゃいない」

 グエンはマリーの長い髪の毛を掴み、顔を上に向かせた。

「マリー、目を開けたまえ。これは地獄を描いたものだ。このままでは、おまえもルイも堕ちてしまう、恐ろしい場所だよ」

 マリーは恐る恐る目を開けた。黒々とした血の海に、人間の首がいくつも浮いていた。

「宗派や国によって考え方はいろいろあるが、現在に至るまで地獄の概念が消えたことはない。つまり、人は本能のうちに知っているのだ、人の道に反した行いをした者がどういう運命を辿るか。この生首は、まだ生きているんだよ。首を切られた痛みはそのまま、永遠に血を流しながら苦しみ続けるのだ。よく見てごらん、この顔、ルイにそっくりじゃないか?」

 グエンはマリーの両手首を掴み、上半身を吊り上げた。

「おまえは私に抱かれ、気持ちがよかったはずだ。おまえの恍惚とした表情を、わたしは忘れてはいないよ」

 マリーの胸に激しい怒りが沸き上がった。今ここにナイフでもあれば、この男の胸を一突きにしてやるのに。

 グエンは低く笑いながら続けた。

「このまま地獄に堕とされたら、どうなるかな? おまえの下半身は、尻尾のついた悪の使者たちに喜ばれるだろう。奴らの快楽の道具として、永遠に使われるだろう。だが、胸を鷲掴みにされても、わたしとの時のように気持ちよくはないぞ。牙のついた尖った口でキスされたらどれほど痛いか、わかるか?」

 マリーは、たまらずぎゅっと目を閉じた。

 ――誰が信じるものですか! この男は私を洗脳しようとしている。新興宗教の教祖様さながら、私を神の道へ導こうというのだわ。神なんて……どこにもいないのに!

「信じる宗教がないというのは、つくづく恐ろしい。いたいけな少女を罪の道に走らせ、愛する兄を灼熱の地獄に落とす真似をさせる。神が人をお作りになったのは、清廉な暮らしをし、幸せになるためなのに。おお、神よ、この少女に代わって、わたしが謝ります。どうか御慈悲を、この娘にあなたの情けを!」

 グエンは膝をついたまま天を仰ぎ、大げさに手を掲げてみせた。マリーはその横に尻をついたまま、険しい顔で地獄の絵を見つめた。

 もはや怖いとは思わなかった。この絵が地獄なら、暴動が起きたときの罪の街も同じではなかったか?

 ――どこまでも汚いグエン・ロランド。狂人のあなたなんかに救ってもらうくらいなら、この血の海に首を投げ出し、鳥や獣に目を突かれるほうがマシよ。

 罪の街で投降を決めた時、扉の外でなされたであろう展開は、あまりにこの地獄絵に似ていた。幸いマリーは、まだ生きている。

 恥辱にまみれた身体だけれど、もう死にたいとは思わない。

 兄はともかく、エヴァとジョゼは、マリーを許してくれるかどうかわからない。街の人間として火の海にされかけた原因、マリーとは関わり合いになりたくないかもしれない。

 それでも謝りたい。友情は取り戻せなくても、せめて一日でも厄介になったお礼を言いたい。

 それには、まずどんな手を使っても、この邸から逃げ出すことだ。

 不意に扉を叩く音がした。グエンはベッドからシーツを引き抜くと、マリーの身体に巻いた。

「下がっていろ」

 グエンは険しい顔で扉に向かい、扉のノブを回した。地味な黒いワンピースを着たショートカットの黒髪の女が頭を下げた。義務教育を終えたばかりのような幼さを残す顔だった。

「グエン様。マリー様のお部屋の準備が整いました」

 グエンは扉の開きを少し狭め、裸のままのマリーを黒髪のメイドから見られないように仁王立ちした。

「誰がここに来てよいと言った?」

 メイドは扉の向こうで、しどろもどろに弁解を始めた。

「申し訳ありません、その、親衛隊員の一人に言いつけられまして。マリー様も、汚い街から着のみ着のままで来られたとのことで、着替えを……」

 グエンは不機嫌な声でメイドに問いかけた。

「おまえ、名前は?」

「はい、エリザベス・ムーアと申します」

「ふむ。マリーの世話をするために急遽、雇われたのが、おまえか」

「はい、そうでございます」

 グエンは後ろを振り向き、哀れっぽい目でマリーを見つめた。

「ちょうど汚いワンピースを脱がしたところだ。上質の寝巻きとガウンを着せてやれ。わたしは、父の邸に顔を出してくる」

 エリザベスの緊張した甲高い声が響いた。

「いってらっしゃいませ!」

 グエンは、顔を顰めたまま、部屋を出て行った。エリザベスがワゴンを引いて中に入ってきた。扉を閉めて振り向き、ようやくマリーが裸で座り込んでいるのを見つけた。

「マ、マリー様! 大丈夫ですか? いったい何が……」

 エリザベスは問いかけた途中で、とんでもない詮索をしている事実に気付いたのか、はっと口に手を当てた。

「差し出た口を利き、申し訳ありません! すぐに、お召替えを」

 マリーは靴の先から頭まで舐めるようにエリザベスを見た。先ほどからびくついてばかりで、仕事に慣れているようには見えない。マリーはエリザベスを見上げながら尋ねた。

「この邸には、いつから?」

「はい、一週間前です。マリー様のお世話をするのに女の使用人が必要だということで、雇っていただきました」

 エリザベスが寝巻きとガウンを両手に持って振り向いたとき、マリーはすっくと立ち上がり、シーツを床に落とした。

 マリーが足枷の傷跡が見えるようにシーツを蹴り上げると、エリザベスが息を呑む声がした。マリーは取りあえず満足し、エリザベスを横目で見た。

「こういうことする男って、どう思う? 決して私の趣味じゃないのよ」

 エリザベスはしどろもどろになりながら、ワゴンから真新しい下着を新たに取り出した。唇が震えているのは、やはり衝撃が激しかったのか。

「とにかく、こちらを。お召替えが終わりましたら、すぐに救急箱を探して参ります」

 マリーは下着を身につけながら鼻をすすった。この少女は、まだ何もわかっちゃいない。マリーは白い寝巻きに袖を通しながら尋ねた。

「あなた、歳はいくつ?」

「十六です。十三のときから、あちこちのお邸でお世話をして参りました。でも、こんな大きなお邸は初めてで、恥ずかしい話、まだ廊下でも道に迷う状態です」

「大変ね」

 マリーは疲れた顔で頬を歪めると、ガウンを羽織った。惨めに俯いたまま、横目でエリザベスを観察し続けた。

「このお邸に仕えるのは、グエン様の親衛隊員と呼ばれる男たちばかりなのです。赤いスーツを着た屈強な男性だらけで、正直とても心細かったんです」

 マリーは確信した。エリザベスはまだロランド帝国の色に染まっていない。

 ――この娘を味方にできれば道は開けるかもしれない。

 マリーは無理して口の端を上げ、作り笑いを浮かべた。まだ心から笑える心境ではなかった。

「ここに来たばかりの者同士、仲良くやっていきましょう」

 エリザベスは頬から瞼に至るまで桃色に染め、緊張した顔で頷いた。

「はい、マリー様、どうぞよろしくお願いいたします」

 マリーのために用意された寝室は、グエンから辱めを受けた部屋と大した変りはなかった。中央に鎮座したベッドの上に寝転び、マリーは西欧風の壁紙や家具調度類を眺めていた。

 控え目な扉を叩く音の後、恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、エリザベスが入ってきた。

「マリー様、お夜食を用意いたしました。少しお腹に入れてください」

 ワゴンの上には救急箱と思われる白い籠が乗っていた。マリーはエリザベスが醸し出す優しい雰囲気に心が少しだけ軽くなった。

「お豆を煮込んだものと、ミルクとお米の甘煮なんですが、お嫌いなものはありませんか?」

「有難う、エリザベス。どちらも大好きだわ」

 エリザベスはマリーの身体を起こすのを手伝ってくれた。手首の痣に指を添えたとき、エリザベスは小さく呟いた。

「マリー様、お可哀そうに……私、グエン様がこんな非道いことをするなんて、知りませんでした」

 マリーは枕を背にベッドに座ると、膝の上にトレイを載せた。マリーはスプーンを手に、なるべくさりげなく尋ねた。

「もしかしたら、グエンのファンだった?」

 図星だったらしく、エリザベスは直立したまま顔を火照らせた。恥ずかしさと怒りが混じった顔だった。

「グエン様の写真や記事は、よく集めていました。ハンサムで聡明で、通っていた学校でも、タレントや俳優みたいに人気がありました。そんなグエン様のお邸で働けるなんて夢のようで、採用されて、とても嬉しかったんです」

 マリーは豆を掬う手を止めた。グエンの西欧風な外見に惹かれる少女は多い。就職早々、王子の裏の顔を見るとは不運なことだ。

「知らないままならよかった?」

「どうなんでしょう。自分でもよくわかりません。今はマリー様のお心とお身体のために何ができるか、考えるだけですから」

 マリーはじっとエリザベスを見つめた。この機会を逃してはならない。

 マリーはスプーンを置いて、うつむいた。

「私も、ここまで酷い人と思っていなかったわ。私はどうしても、グエンのものになりたくなくて、兄のいる罪の街に逃げ込んだの」

 エリザベスは小さく口を開け、両手で覆った。

「あんな危険な街へ? マリー様のような御育ちの方が暮らす場所ではありません」

 マリーは小さく首を横に振った。

「どこにいようと、危険は危険なのよ。少なくとも私はあの街で、こんな痣のできるような仕打ちはされなかったわ。あの街が優しいとは思わないけれど、私は帰りたい。私はもう、誰を頼っても地獄に行くしかないの。叔父は資金援助と引き換えに私を手放してしまったし、婚約者のグエンは私に、こんな仕打ちをする」

 マリーは手首の痣を目の前に持って行った。

「兄のいる罪の街も、この世の地獄。どこへ行っても私にとっては地獄のような場所なの。それなら私は、どの地獄で生きるかを選びたい。私はどの道、死んだら地獄に行くしかないのだから」

 エリザベスは目を丸くした。

「マリー様のような神々しい美しさを持ったお方が、地獄へ行くわけがありません。私、初めてマリー様を見たとき、聖母マリアのようだと思ったんです」

 またしても聖母マリア。マリーは今更ながら自分が聖人の一人に見られることを皮肉に思った。

 ――だって私は、神というものが一番嫌う行いをした女なのだから。

 マリーは、なるべくさりげなく、エリザベスに問いかけた。

「私がこの邸を逃げ出したいと言ったら、あなたは協力してくれる?」

「マリー様、それは……」

 マリーは今度は、真っすぐエリザベスの目を見た。

「私は罪の街へ帰りたい。どんなに厳しい生活が待っているとしても、あそこで生きていきたいの。エリザベス、お願い、協力してちょうだい」

 エリザベスはうつむき、首を横に振った。

「できません。マリー様がみすみす不幸になる手伝いなんて」

 マリーは拳を握りしめ、トレイを強く叩いた。

「今のいったいどこが幸せなのか教えてちょうだい!」

「マリー様……」

「ここを抜け出す手助けができないというのなら、私が会いたい人を連れてきて。私、あの街が暴動になってから、親切にしてくれた人の安否もわからない状態なの」

 エリザベスは、しぶしぶといった様子で頷いた。

「マリー様の恩人との再会……それなら、お手伝いできると思います。なんとかいたします」

 次にマリーが目覚めたのは、日も高く上った昼過ぎだった。重厚な灰色のカーテンが一気に引かれ、マリーは眩しさに目をしばたたいた。

 大きな窓を背にグエンが立っていた。逆光で黒く翳って表情はわからなかったが、マリーを見下ろしていた。

 マリーはシーツを顔の位置まで引き上げた。

「……何か用ですか?」

 すると、グエンの口だけが赤く割れて動いたように見えた。

「花瓶を用意させている。エリザベスに命じようと思ったのだが、朝から見当たらん。おまえは知らんか?」

 マリーはぷいと横を向いた。

「存じません」

 マリーは横目でグエンを睨んだ。グエンは白い花束を手にしていた。

「白いアマリリスが温室で花をつけたので、持ってきた」

 それが何だというのだろう? マリーは無言でグエンを見つめ返した。

「北欧が原産の花でな、自然の状態ではなかなか花をつけてくれない」

 マリーは返事をするのも鬱陶しく、寝返りを打った。背中でグエンの声がした。

「セナが……好きな花だった」

 マリーは、かっと頭に血が上った。

 ――それが私と、どういう関係があるの?

 グエンが一歩、足を踏み出して、マリーに近づこうとした。マリーはシーツを両手で引き寄せると同時に、身体を半分起こした。

「だから、何なんです?」

 グエンは太陽を背にし、顔は黒く翳ったままだった。だが、声に当惑の色が現われていた。

「おまえは嫌いか?」

 マリーは呆れ果て、怒る気力もなかった。再び身体をベッドに預け、シーツを顔の上まで被った。

 この狂人は、まだマリーをセナの生まれ変わりだと思い込んでいるらしい。枷を填め、尊厳をずたずたにした女に、花を贈り、感謝の言葉を貰いたいのか!

 ――たとえ私がセナであっても、受け取るわけがない!

 グエンが近付いたら、花束を叩き落としてやりたかった。だが、グエンは花瓶が来るのを待っているらしく、窓際から動かなかった。重苦しい沈黙が流れた。

 ここでグエンに厭味の一つも言ってやりたかったが、うまい言葉が思いつかない。マリーは自分の頭の悪さを呪った。シーツを鼻の位置まで下げて覗くと、グエンはうっとりと花束の香りを嗅いでいた。

 こんなとき、エヴァなら最大級の厭味を返して、グエンの鼻をへし折ることができるだろう。

 ――エヴァ……無事でいるかしら。私を怒っているかしら。

 マリーの思考は罪の街に飛んだ。たった一日しかいなかったのに、懐かしくてたまらない。まるで何か月も過ごしたような錯覚にとらわれる。

 グアダルーベの店内の喧騒も、二階の紫の洪水のような部屋も、恋しくてならない。自分が帰るべき場所はあそこなのだと、心底から強く思った。

 エリザベスの話によると、罪の街で起きた暴動はテレビでも新聞でも報道されなかった。あの街の存在はアルメシアの恥であり、火で焼かれようが水に沈もうが、国民に知らせる価値もないらしい。

 だが、マリーは知っている。あの街にも人の暮らしがあり、人の心が通い合っていることを。マリーに笑顔を向けてくれた店の客たち一人一人の人生が今日も続いていることを願わずにはいられない。

 マリーの脳裏に、厨房前の暗いテーブルに着いているジョゼの姿が浮かんだ。

 店を出ていく間際まで、マリーの身を心配してくれていた。火の海と化した街を救いに出て行く後姿を、どれだけ辛い思いで見送ったことか。

 マリーの目に熱いものが込み上げ、滴となって睫毛と鼻を濡らした。マリーはシーツを引き上げ、涙を拭いた。

 ――ジョゼ、どうか生きていて。あなたに万が一のことがあったら、私は生きていく気力を無くしてしまう。

 なぜか一緒に出て行った兄のことは頭に浮かばなかった。マリーは声を殺し、泣き出した。

「セイント・マリー、どうかしたか?」

 グエンが怪訝そうな声を出した。マリーは無視して泣き続けた。

 直後に扉を叩く音がし、赤い制服の親衛隊員が緑色の花瓶を持って現れた。グエンは親衛隊員を見るなり、数歩ぬっと近づき、怒鳴り付けた。

「エリザベスは、どこへ行ったのだ! マリーが泣いているではないか、早く探してこい!」

 親衛隊員は花瓶を手にしたまま、戸惑いの声を上げた。

「お花は、いかがいたしましょう?」

 グエンは白いアマリリスの花束を床に叩きつけた。

「うるさい! こんなもの、どうでもいい! マリーが泣いているのだ、エリザベスを早く呼んで来い!」

「は、はい!」

 親衛隊員は一礼すると、回れ右をし、部屋から走り出た。

 マリーは驚いてシーツの端を握りしめ、グエンの声を聞いていた。

「この役立たずが! どいつもこいつも、木偶の坊ばかりだ!」

 グエンは白い花を靴で何度も踏みつけた。花びらが床に散り、踏みつけられた花弁の淡い香りが立ち上った。

 マリーは、そっとグエンを盗み見た。窓から離れたせいで、先ほどより表情がよくわかった。怒りにこめかみをひくつかせるグエンを見て、いい気味に思えた。

 気まぐれの優しさをマリーが受け入れなかったことが、気に障ったようだ。

 ――愚かなグエン。あなたの今の顔を写真に撮って飾っておきたい気分よ。

 マリーはグエンを翻弄する術が少しだけわかった気がした。

 グエンの元から逃げ出すため、もっと賢くならなければ。冷静に観察し、グエンの弱点をよく見極めるのだ。

 グエンはマリーに背を向けたまま、部屋を出て行った。マリーは散り散りになった花をぼんやり眺めた。

 ――セナ、あなただって、こんな花は欲しくなかったでしょう? 天国でせせら笑っているかもしれないわね。

 マリーは長い髪を掻き上げると、エリザベスが戻ってくるまでもう一眠りしようと、シーツを頭まで引き上げた。夢でジョゼと会えることを祈りながら。



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