第三章 暴動発生
第三章 暴動発生
1
「ありがとうございました」
客を見送ったマリーは、テーブルに戻り、飲み残しのグラスや酒瓶を片付け始めた。
すると、エヴァが箒と塵取りを手に、険しい顔でマリーの横を通り過ぎようとした。
「エヴァ、どうしたの、怖い顔して?」
エヴァは箒を持った右手で首の後ろをしきりに掻いた。
「泥酔した客が酒蔵に入って暴れたのよ。酒瓶が壊されて大変なことになっちゃった」
マリーは手にしていたお盆で口を覆った。荒くれ者ばかりと聞いていたが、勝手に酒蔵に入るなんて。ガラスの破片やこぼれた液体で、大変な状態になっているだろう。
「大変。私も手伝うわ」
エヴァはアルミニウムの塵取りを持った左手を大きく振りまわした。
「二人で奥に引っ込んだら、店内がどうなるか皆目わからないわ。皆、酒が入っているし。マリーは給仕を続けてちょうだい」
言われてみれば、その通りだ。マリーはおとなしく頷いた。
「マリーちゃん、こっち、もう一本追加ね」
「おおい、注文したソーセージ、まだか?」
マリーはグラスを洗ったり、チョリソーを切ったり、その上に給仕までこなさなければならなくて、息をつく暇もなかった。
ジョゼは再び席から姿を消していた。また訓練場に行ったのだろう。マリーは心の中で、ぶつぶつ呟いた。
――ジョゼになら手伝いを頼めたのに……でも、当てにしちゃいけないんだわ。
マリーは自分に言い聞かせ、精一杯の早足でカウンターに向かった。
やがて上に白いカーディガンを羽織ったエヴァが近づいてきた。
「マリー、ちょっと買い物に行ってきていいかしら? 客に出せる酒が全然なくなっちゃったの」
酒蔵の被害は想像以上だったようだ。
「まあ、それじゃ、大損害じゃないの。大丈夫なの?」
「壊されたといっても、安酒ばかりだからね、こういうことは、よくあるの。あとでちゃんと支払いはさせるから、心配しないで」
さすがは太っ腹のエヴァである。マリーは温かな気持ちになった。
この店が盛況な理由は、姉御肌のエヴァと話したり、時に叱られたりが楽しみな男どもが多いからだろう。
エヴァには大地の母のような魅力がある。マリー自身もエヴァに魅了されている一人だった。
マリーは鳩時計を見た。
「でも、もう十一時よ。こんな時間にやっている酒屋あるの?」
エヴァはレベカの腕を捲ると、力こぶを作ってみせた。
「鎧戸を開けさせる叩き方ってもんがあるのよ。帰りは酒屋の車で送ってもらうから、楽なもんだしね」
マリーも、そこまで言われると、さすがに送り出さないわけにはいかなかった。
考えてみれば、罪の街でずっと暮らしてきたエヴァなら、どこが危険でどこが安全かぐらい知っているはずだ。マリーが心配することではないのかもしれない。
「わかりました。くれぐれも気をつけてね」
エヴァは心配する相手が違うとばかりに、人差し指でマリーの鼻を軽くつついた。
「赤ずきんちゃんこそ、オオカミに見つからないようにね。ま、ルイもジョゼもいるし、問題ないとは思うんだけど」
「オオカミ?」
エヴァは急に真顔になった。
「グエン・ロランドのことよ」
マリーは「なんだ」と気が抜けた。どうやらエヴァは、まだグエンがマリーを奪いに来ると思っているようだ。マリーはグエンに追いかけてこられるほど執着されているとは思わなかった。
――エヴァの心配性にも困ったものだわ。
「エヴァったら、考えすぎよ。私がここにいることは、誰も知らないんだから」
「楽天家さんね。とにかく、なるべく早く戻ってくるわ」
エヴァは両手をこすり身震いすると、軽く走るようにグアダルーベを出て行った。
2
店の鳩時計が十二時を知らせた。
「エヴァ、どこまで買い物に行ったのかしら」
「確かに遅いな」
ジョゼもとっくに席に戻り、自分で氷を作って四杯目のウォッカをテーブルに置いていた。
「じゃあ、マリーちゃん、お勘定ここに置いておくよ」
マリーは慌ててカウンターの奥から出た。この日の最後の客だった。客は手を上げ、見送ろうとするマリーを制した。
「いいからいいから。エヴァがいなくて、後片付けが大変だろう」
「ありがとうございました」
マリーは客の言葉に甘え、無理して駆け寄ることはせず、その場で頭を下げた。
これで、店にいるのはマリー、ジョゼ、ルイの三人になった。
ジョゼが厨房近くの定位置から全く動かないのと対照的に、ルイはグラスを手にして店の中を歩き回り、席を立ったり座ったりしていた。
どうも、この三人でいるとマリーは居心地が悪かった。マリーの立ち位置がはっきりしないせいだとわかっているのだが。
兄のルイが自分を女として愛している事実を知られるわけにいかなかった。それはルイも承知しているはずで、ジョゼがいるときは普通の兄と妹を演じてくれていた。
かと言って、ジョゼに少しでも好意的な態度をとってしまうと、ルイの機嫌はきっと悪くなる。ジョゼの前で何を言い出すか、わかったものではない。だから三人のとき、ジョゼにどう接したららいいか、マリーは頭を悩ませるのだった。
ここは仲良くお引き取り願うのが、一番マリーの心を平安にする。
マリーは二人を交互に見て、微笑みかけた。
「二人も、もういいのよ。エヴァが帰ってきたら、店じまいするから」
ルイがテーブルをグラスの底で叩いた。
「そんなこと言うな、マリー。俺はおまえの初仕事を見届けてから帰りたい」
ルイは薮睨みの目でジョゼを見た。おまえは邪魔者だから帰れ、と言わんばかりに。
ジョゼは慣れたものでルイの視線を軽くいなし、グラスの氷を指で揺らした。
ルイは、ふん、と鼻を鳴らし、マリーに指示した。
「マリー、閂を掛けておけ。エヴァなら裏口の鍵で入って来られる」
「はい、兄さん」
マリーは素直に頷くと、店の扉に近づいた。
すると、扉を激しく叩く音がした。マリーはぎょっとして一歩、反射的に後ずさった。
ジョゼが拳銃に手を掛け、立ち上がった。ルイは素早い動きでマリーの傍に走り寄ると、自分が前に立ち、盾となった。
「誰だ?」
ルイの低い問いかけに、扉の向こうの声が答えた。
「ヘッド、大変なんだ、開けてくれ!」
「その声は、ルボックか?」
ルイはマリーに「下がっていろ」と手で制した。マリーがおとなしく店の中央まで下がると、ジョゼがすぐそばに来て、肩を支えた。
3
ルイが扉を開けると、ルボックと呼ばれた赤毛の男が息を切らして飛び込んできた。
「ヘッド、三十番通りで暴動が起きている。すぐに来てくれ!」
ルイは驚いた様子で後ろを向き、ジョゼと顔を見合わせた。ルイがジョゼに確認した。
「エヴァは大丈夫だと言っていたよな?」
ジョゼは大きく頷いた。
次の瞬間、何かが弾け飛ぶ音がし、カーテン越しに窓の外がオレンジ色に光った。
「ひぃ、何?」
マリーが思わず声を上げ、耳を塞いだ。
「何事だ?」
ルイが窓に駆け寄り、カーテンを開いた。マリーは後ろからそっと覗き見た。
暗いはずの空があちこち炎で赤く染まっていた。街の男たちが火炎瓶を手に走り回っている。通りの先にある金物屋が襲撃され、店主の男が頭を抱え、道端に坐り込んでいた。
これは、暴動だろうか? 何かが爆発する音や鋼がぶつかり合う音が、あちこちから聞こえてくる。テレビのニュース画面で時々見る光景が現実に展開されている。
マリーは歯ががちがちと音を立て、全身の震えが止まらなかった。
ルイは店が標的にならないよう、黄色いカーテンに更に遮光幕を引いた。ルイの目配せを受けて、ジョゼもスイッチに手を伸ばし、店内の明かりを落とした。
「これは三十番通りだけの問題じゃないな。この近辺も危ない」
ルボックは必死の形相でルイに訴えた。
「誰かが路上の男たちに薬を与えたとしか思えねえ。らりった男どもが嬌声を上げながら火炎瓶を手に暴れまくっているんだ。このままじゃ、朝までには、あの地区は燃え尽きてしまう!」
ジョゼがマリーの肩を強く抱えた。ジョゼの大きな手のぬくもりが、ほんの少しだけ気持ちを静めてくれていた。震えもだいぶ収まってきた。
このまま、こうして抱きしめていて欲しかった。ジョゼの胸の中にいられたら、どんな暴徒が目の前に来ても怖くない気がした。
だが、ジョゼはマリーの耳元で囁いた。
「ここに座ってろ。ルイの話を聞いてくる」
マリーは震える手を合わせ、心を落ち着けようとした。心の中でマリーは叫んだ。
――ジョゼ、ここにいて! 私を抱きしめて離さないで!
今、手を放されたら、永遠に触れてはもらえないような気がした。
しかし、我儘を言ってはいけない。今は非常事態だ。マリー一人を守るよりも重要なのは、暴動の沈静化だ。
マリーは歯を食いしばり、ジョゼに強く頷いた。ジョゼはマリーに微笑みかけ、肩を最後にポンと叩くと、ルイの傍に寄った。
「ルイ、どうする? 電話線は、あちこち寸断されているだろう。他の連中とは外に出て、直接連絡を取り合うしかない」
アルメシアにも携帯電話は存在するが、底辺の人間たちには無縁の機器だった。ネット環境も携帯電話も恵まれた階級の人間だけのものだった。罪の街では、せいぜい家の電話が素早い伝達の手段だった。
4
ルイは、いつになく頼もしげにジョゼを見ていた。
「そうだな。俺とおまえで、二手に分かれよう。ホアンとダニエルが戻ってこないところを見ると、暴動に巻き込まれて手が離せないと考えていいだろう。俺たちは、いくつか有志と合流できる場所がある。だから、そこを当たって――」
ジョゼがルイの説明を遮った。
「マリーは? 独りでここに置いていくのか?」
ルイは一瞬、言葉を呑んだ。だが、すぐに口を開いた。
「明かりを消して、きちんと施錠しておけば大丈夫だ。俺のアジトを襲撃しようする馬鹿者はいないさ」
ジョゼは、ちらりとマリーを見ながら言った。
「だといいが」
ジョゼは納得のいかない顔をしていた。マリーは再び心細くなった。ジョゼが危ないと判断しているのなら、本当に危ないのかもしれない。せめて、ルイとジョゼのどちらかが残ってくれれば、不安も消えるのだが。
――でも私は、一人で耐えなければいけない。このままじゃ、街が火の海になってしまう。
ルイが緊迫した顔でマリーに近づいてきた。ルイはマリーが座っている椅子の前に膝を立て、手を強く握った。
「マリー、鍵は絶対に開けるな。人がいる気配も感じさせないほうがいいから、遮光幕を掛けておく。電気も上の一つで我慢してくれ」
マリーは不安な気持ちを必死に押し隠した。
――私を置いていく兄さんたちのほうが、どれだけ苦しいかしれないわ。
「兄さん、私は大丈夫です。言いつけを守って、しっかり店を守っているわ」
「エヴァが帰ってきたら、指示に従ってくれ。きっと、もっと安全な場所にいられるよう、知恵を授けてくれるはずだ」
マリーは何度も大きく頷いた。エヴァが帰ってくるまで、頼まれた店番をしっかりしなければという思いも強くなった。
マリーはルイの手を強く握り返した。
「私のことは心配しないで。兄さんこそ、気をつけて。兄さんに万が一のことがあったら、私、生きていけないわ」
ルイはマリーの言葉に大変満足した様子だった。目をうるませてマリーを見ると、唇に素早く口付けた。マリーは不意のことで、逃げることができなかった。
「ルイ、行くぞ」
ジョゼが背を向けたまま、ジャケットに袖を通していた。ルイとのキスシーンを見られてはいないようだ。マリーは、ほっと胸を撫で下ろした。
「わかった」
ルイはジョゼに応え、あえて振り返らせた。ジョゼの見ている前で、ルイはマリーの顔を押さえ、今度は額にキスをした。
ジョゼは無表情でマリーたちを見つめていた。額へのキスなら兄妹の親愛の情と理解もされよう。
それでもマリーは、不安な気持ちでジョゼの視線を捉えた。結果的に二人は、一瞬、見つめ合うことになった。
マリーは口だけ動かしてジョゼに伝えた。気をつけて、と――。
ジョゼは静かに目を閉じ、頷いたような表情をした。
ルイはマリーの肩を叩くと、ジョゼに走り寄った。
二人はそのまま振り返らず、店の扉から外に走り出ていった。
5
マリーは片付ける手を止め、窓から暗い戸外を見つめた。店に人気がなくなり、静かになったせいで、外の物音がより鮮明に聞こえるようになった。
酔った男たちの怒号や火炎瓶の壊れる音は、止みそうにない。ときどき空が妙に明るくなり、直後に爆音が起きる。そのたびにマリーは手で耳を覆い、きつく目を閉じて耐えた。
マリーはまだ街に来たばかりで、このような暴動がしょっちゅう起きるものなのか、今夜たまたま起こったものなのか、全然わからずにいた。
ルイとジョゼの様子を見た限り、毎晩のように起きているとは思えない。エヴァの言葉が思い出された。
――「縁談相手のグエンがどう出てくるか、よ」
――こんな暴動が起きる街に、グエンが訪れるわけがないわ。
街の治安が悪いなら、グエンを遠ざける結果にもなるだろう。そういう意味では、この騒ぎもマリーには有り難いことに思えた。
自分が安全だと思うと、今度は急に他の三人が心配になった。店の中にいるマリーと違って、三人とも乱闘騒ぎの起きている戸外に出たままなのだ。
特に兄の身は心配だった。
「兄さん、大丈夫かしら。兄さんに万が一のことがあったら、私はもう頼る人がいない」
鍵はちゃんと掛かっているだろうか。ルイたちを送り出したときに施錠したはずだが、不安な心は、自分の記憶に関してすら自信を喪失させる。
マリーはもう一度しっかり確かめようと、店の扉に近づいた。
「よかった。閂はちゃんと掛けてあったわ」
マリーが安堵したその時、外から扉を激しく叩く音がした。マリーは驚いて一歩ぎょっと反射的に後ずさった。
「エヴァ、ああエヴァ、助けてくれ! 暴徒に追われているんだ、ここに匿ってくれ!」
扉の外から男が救いを求める声がした。エヴァがいると思い、助けを求めている。
――どうしよう。エヴァの知り合いなら、助けてやらないといけない。
でも、この日、店の給仕をするにあたり、エヴァに強く注意されたことがある。
「いい、マリー、この店は街のヘッド、ルイのアジトでもあるの。敵対する人間がスパイとして潜り込もうとすることもある。まだ誰が我々の仲間なのかわからないうちは、私の許可が下りたものしか入店させないでちょうだい。これは、どんな非常事態であっても言えることよ」
今は、まさに非常事態だ。エヴァの確認が取れない以上、店に入れるわけにいかない。
マリーは扉の前に顔を寄せ、外にいる人間に大声で呼びかけた。
「ごめんなさい。今、エヴァはいないの。エヴァの許可が取れないと、中には入れられません」
「なんだって? エヴァがいないって、じゃあ、あんたは……」
「だから、入れるわけにはいかないの。どうか他に逃げ場所を探してください」
扉を叩く音が一瞬止んだ。わかってくれたのだろうか?
だが、次の瞬間、低く威嚇するような声が返ってきた。
「おまえ、ヒューズ家のセイント・マリーだろう。おまえのせいで街は火の海になってるんだぞ」
マリーは見知らぬ声に自分の名前を呼ばれ、驚いた。
「あなた、私を知っているんですか? 私のせいって、どういう意味?」
扉の向こうの声はさらに低く、うなった。
「やはり、マリーか。独り安全な場所に隠れやがって。やい、出て来い!」
男はさらに激しく扉を叩き出した。マリーは意味がわからず、当惑した。
「止めて、止めてください、早く別の所に逃げてください」
「ふざけるな! 俺は知ってるんだ、この騒ぎを起こしたのは、おまえの婚約者だ! 路上にたむろしていた男どもに薬と火炎瓶をばら撒いて、憂さを晴らして来いと言ったんだ! おまえを炙り出すためだ。おまえ一人を外に出すために、街が炎と煙に包まれているんだ! どう責任とってくれるんだ!」
男は扉を足で蹴り始めた。マリーは耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
「やめて! 早く逃げてください!」
「出て来い、セイント・マリー! 街に災いをもたらす悪の華が! おまえら金持ちの痴話喧嘩に、街を巻き込むな!」
婚約者が薬と火炎瓶をばら撒いた? マリーを炙り出すために?
「静かに暮していたのに! 罪を悔いてはいないけれど、こんな人生も仕方がないと受け入れて生きているのに! 全てを持ったおまえたちは、こんな俺たちをいたぶるのか!」
マリーは耳を塞ぎ、叫んだ。
「やめて! やめてください!」
男の気配が一瞬、遠ざかった。
マリーは顔を上げ、大きく息をついた。
混乱していた頭の中で、男の声がパズルの欠片のように徐々に合わさった。
――グエン・ロランドが……私を炙り出すために街を火の海にしようとしている。
マリーは手で顔を覆った。
マリーは自分の甘さに呆然とした。罪の街に逃げ込めば追いかけてなど来ないと思っていた。汚い街に染まった婚約者に興味もなくすと思っていた。
こんなにも執着されていたなんて!
――グエン、私のことを何も知らないくせに! 愛してもいない女と、そんなに結婚をしたいの?
外で寝るしかない男たちに「憂さを晴らして来い」と焚きつけるなんて、やり方が汚すぎる。
扉の向こうが再び騒がしくなり、マリーは、はっと顔を上げた。
「ここだ、ここにマリーはいるぞ」
「鍵を掛けているのか? 叩き壊せ!」
「聖なる仮面を被った悪女、出て来い!」
「この街に魔女がいるぞ! この女のせいなんだぞ!」
先刻、扉を叩いていた男が助っ人を呼んできたらしい。少なくとも四人の男の声がマリーを呼び、激しく扉を蹴り、ノブを回した。
閂ががたがたと揺れ、マリーは恐怖に凍りついた。
このまま放っておけば暴れている人間たちもこの扉の前に集まってくるだろう。こんな扉はたちまち壊され、マリーは暴徒の前に引きずり出され、嬲り殺しにされるだろう。
――ああ、私は浅はかだった。てっきり、荒くれ者の街が、私を守ってくれると思っていたんだから。
「出て来い、魔女め!」
「誰か、丈夫な斧を持ってこい、扉を叩き割ってやる!」
マリーは思わず叫んだ。
「やめて!」
扉の向こうが一瞬、静まった。
先ほど扉を叩いて助けを呼んでいた男らしい声が、低く響いてきた。
「セイント・マリー、今すぐ出てきたら見逃してやる。おとなしくこの街から出て行け」
マリーは震える足で立ち上がろうと、扉に手を掛けた。
――今すぐ出てきたら見逃す? 私はとんだ間抜けに思われているのね。
マリーが表に出たからといって暴動が沈静化するわけがない。
このまま出て行けば、暴徒に取り巻かれ、馬鹿な女だと舌舐めずりして見下ろされるだろう。
だが、ここにマリーがいる事実は知られてしまった。店を抜け出し、万に一つの僥倖で街を抜け出すことに成功しても、その後どこに行けばいいのか?
マリーには、もう戻る場所はない。マリーは大きく息を吐いた。胸に渦巻くのは、もはや恐怖ではなく怒りと自棄な思いだった。
兄に半ば強引に身体を奪われ、グエンからは人身御供のように、この身を差し出せと言われている。もはや愛をもって己の肉体を守る意味を感じなくなった。
酒を飲み、興奮した男どもの前に若い女が無防備な状態で現れればどうなるか、予想はついた。
男どもはマリーの若い身体を貪ろうとするだろう。一つしかない身体に何十人と群がる。首がもげ、転がり落ちても、残った肉体に精を吐き続けるだろう。首はサッカーボールのように蹴られ、顔は潰され、眼球をほじくり出されるだろう。
――暴徒たち、馬鹿で間抜けな女と罵るがいいわ。笑いながら、この身を引き裂くがいい! おまえたちこそ馬鹿なのだと、私は嘲笑いながら死んでいきましょう。
マリーは覚悟を決めた。もはや自分が出ていかなければ、事態の収拾は無理だろう。街を取り仕切る兄のためにも、自分にできる最低限の行動はしなければならない。
今のマリーにできるのは自らこの身を投げ出し、死ぬことだ。暴動の原因が自分だというのもあるが、ここで死ねば、足手まといにもならずに済む。
神に祈るとき、信心する人は生け贄を差し出すのだと聞いた記憶がある。
神のいないこの街で、マリーは悪魔の贄となり、暴徒を満足させる決意をした。
――罪の街に来たのが、そもそも間違いだった。
マリーは天を仰ぎ、目を閉じた。
――お父様、お母様、こんな死に方しかできないけれど、待っていてください。哀れな私の魂を抱きしめてください。
マリーはごくりと唾を呑み込み、声を発した。
「わかりました。今、閂を外します」
扉の向こうでも息を呑むような無気味な沈黙が流れた。
マリーはエプロンを外して近くにあった椅子の背に掛け、ワンピースの皺を伸ばした。扉の前に再び歩み寄り、閂に手を掛け、ぎゅっと目を閉じた。
カチリと大きな金属音がした。
マリーは歯を食いしばり、ノブを回した。
戸外に出ると、むっとする熱い湯気がマリーを包んだ。路上のあちこちから水蒸気が立ち上り、暗い夜空に吸い込まれていく。
四人の男が呆然と立っていたが、互いを見合うと、左右に別れてマリーのために道を作った。
路上に引きずり出されると思っていたマリーは、当惑した。
――この男たちは、私を魔女裁判のように火炙りに処するつもりではなかったの? 手足を掴み、辱めを与えるつもりではなかったの?
道の先に、白い毛皮のコートを着た人影があった。長い髪をした青白い顔のブロンドの男が薄青の瞳をぎらつかせていた。
マリーは一瞬はっと息を呑んだが、すぐに事態を察知した。四人の男は金か何かを掴まされ、ロランド帝国の犬になり下がったのだ。
マリーは憤怒のあまり拳を握り締めた。喉の奥から炎のように熱い塊が込み上げ、なかなか声が出てこない。マリーは、ようやく口を開いた。
「これで満足ですか、グエン・ロランド?」
グエンは薄い眉を大げさに吊り上げ、にんまりと歪な笑みを浮かべた。
「ああ、セイント・マリー。街の掃除もできたし、おおむね満足しているよ」
マリーは一定の距離を保ったまま、グエンに低く唸った。
「兄さんに万が一のことがあったら……許さないから!」
グエンは後ろに組んでいた手をゆっくりと前に出した。右手には黒い鉋のような物体が握られていた。
マリーは当惑し、黒い物体をじっと見つめた。グエンはゆっくりと近づいてきた。
「おとなしく従いてきてくれるとは思うが、念のためだ」
黒い物体の先端に二つの突起があり、白く光った。
「な、何?」
「そんなに痛くはない。さあ、目を閉じて」
マリーは魔法にかかったように動けなくなった。恐怖に身を震わせながら、無意識に来る激痛に備えた。
もし神がこの世にいるのなら、祈るべきなのだろうか……。
――私に祈る資格は……ない。
グエンは薄笑いを浮かべ、マリーの左肩にゆっくりと護身用具の先端を当てた。激しい電気の衝撃でマリーは一瞬、目を見開いたが、静かに崩れる身体をグエンの胸に預けるしかなかった。