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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第二章 『グアダルーベ』の聖母

   第二章 『グアダルーベ』の聖母

 マリーはエヴァの好意でグアダルーベの女給として働くことになった。

 とはいえ、マリーの酒に関する知識は、ゼロに等しかった。昼間の内からカウンターの上に並べられた酒の名前を必死に覚えた。だが、似た色の瓶は、つい間違えてしまう。

 夜になりグアダルーベは客で溢れた。店内にはこれ以上の座る席がない。扉の外にも行列ができた。そういう混雑が、余計にマリーの間違いを加速した。

「ジンフィズを頼んだんだが、これウォッカじゃないか!」

「ごめんなさい。今すぐ取り替えます」

 マリーが慌てているところにジョゼが現れ、厨房近くのテーブルに着いた。マリーがエプロンをして店内にいるのを見て、少し驚いた様子だった。

「ウォッカをロックで頼む」

「すぐにお持ちします」

 昼間の特訓の成果が芳しくないマリーを前に、エヴァは額に手を当て困ったように表情を歪めた。

「マリーはグラスを運ぶのとビール専門にしましょう。栓を抜くだけでいいから」

 マリーはエヴァの前で、しゅんと項垂れた。

 お世話になっているお礼に少しでもエヴァの力になりたいのに。マリーは自分の不甲斐無さに唇を噛んだ。

 ――せっかくだから、カクテルも作ってみたかったな。

 だが、店に押し寄せたマリー目当ての男たちに、マリーの粗相が気にされている様子は一切なかった。

 ビールを頼めば、直接マリーが運んでくる。その事実を知った客たちから次々に注文が入り、ビールは瞬く間に売り切れてしまった。

「マリーちゃんがいると、店内の照明が明るくなったかのようだよ」

「未成年だなんて気にしないで、一口こっちで飲んでけよ」

 マリーは客たちの声一つ一つに笑顔を作って、通路を行ったり来たりした。目の回る忙しさに、マリーは息をつく暇もなかった。

 ――普段はエヴァが一人で仕切ってるなんて信じられないわ。

 マリーがカウンターで注文を聞いていると、客の一人が呟く声がした。

「まるで、掃き溜めに鶴だなあ。セイント・マリーっていえば、聖なるマリアって意味だろ? 神々しい金髪の頭上に光の輪が見えるぜ」

 もう一人がぼやいた。

「あーあ、なんで選りに選って、ルイの妹なんだ。さすがに手は出せないな」

「掃き溜めで悪かったわね」

 その声に男は振り向き、仰天した。

「うわぁ、エヴァ!」

 背後にいつのまにかエヴァが立っていた。この女主人は先程から、大切な従業員に変な虫がつかないよう目を光らせていた。

「他の仲間にも言っておきな。あの子に手出しをしたら、私とルイに二度、ぶっすり殺される、ってね」

 エヴァは髑髏ナイフを出し、自分の白い首筋にピタピタと当ててみせた。

「冗談、冗談だってば!」

 男はばつが悪そうにグラスを空け、皿に盛られたトルティーヤに手を伸ばした。

「三番、グラス追加です」

 マリーが声を掛けると、エヴァが無言で手を上げ、了解の仕草をした。マリーは次の注文の伝票を見た。

「そうそう、ジョゼの注文はオン・ザ・ロックだったわ」

 マリーは薄青い瓶のラベルを何度も確認した。ウォッカに間違いない。ビールだけ運べと言われていたが、ジョゼの注文だけはなんとかこなしたかった。

 マリーはウォッカの瓶と氷入れとグラスをお盆に載せ、ジョゼがいる厨房近くのテーブルに行こうとした。

 水のグラスが置いてあるだけで、ジョゼの姿はなかった。

 ――どうしよう。待ちくたびれて帰ってしまったのだわ。私がぐずぐずしてるから。

 マリーは空っぽの席の前で立ち尽くした。初めての給仕で慣れないことも多いが、頑張っているつもりだった。いちばんサービスをしたいと思っていたジョゼに愛想を尽かされたなんて。

 マリーはカウンターで氷を砕いていたエヴァに謝った。

「エヴァ、ジョゼが注文したウォッカを出さないうちに、急にいなくなってしまったの。どうしましょう、私、とんだ粗相を……」

 エヴァは一瞬、目を丸くしたが、すぐに明るく笑った。

「ジョゼなら。裏の空き地にいるわ。ほら、来た日に話した、専属狙撃手の訓練場所。ジョゼはいつも飲んだり撃ったりの繰り返し。気にすることないわ」

 緊張と客の喧騒で気づかなかったが、先ほどからパンパンと、軽い金属音がしていた。

「見てらっしゃいよ」

 エヴァの囁きに、思わずマリーの肩が跳ねた。

 実は、ずっと気になっていた。射撃と言えば、マリーの頭の中には射的競技のようなイメージしかなかった。本物の拳銃で的に命中させているなんて、ドキドキするではないか。

「いいの? 訓練の邪魔にならない?」

 エヴァは、にやにやしながらマリーの耳元に顔を近づけた。

「暗がりでもないし、裏口から出てきた人間をジョゼが撃つことはないわ。最近あいつも、いろいろあって、辛いところあんのよ。話し相手になってきてくれると嬉しいんだけどな」

「ジョゼの話し相手? 私なんかでいいの?」

 エヴァは笑顔で頷くと、あとは話をしている暇はないとばかりに、せっせと氷を砕く作業を続けた。

 マリーは厨房を通り、裏口から外に出た。

 酒を飲んだわけでもないのに、客たちの呼気やグラスから立ち上るアルコールを吸ってしまったのか、頭がくらくらしていた。

 裏口を出た途端、冷たい夜気がマリーの熱った頬を冷やした。マリーはあまりの気持ちよさに、うっとりと眼を閉じた。

 空には、たくさんの星が瞬いていた。マリーが暮らしていた高級住宅街では周囲の建物が放つ光と車の排気ガスの影響で、ここまで見事な星空にはならない。

 治安の悪いこの街に、夜のネオンが輝くことはない。人々を守っていた夕陽が落ちる頃にはどこの店も鎧戸を下ろし、扉は厳重に施錠する。

 家族の団欒や夕食を奪い合う子供たちの声がすることもない。人々は家に籠り、カーテンの上から部屋の灯が見えないよう遮光幕を下ろす。

 灯が見えるのは人がいる証拠で、強盗に狙われやすい。また、この世に絶望した男が一家団欒を激しく嫉んで襲撃することすらある。

 夜も営業しているのは、街のヘッド、ルイのアジトであるグアダルーベぐらいだった。

 美しい星空は、街が抱える殺伐とした心の代償だった。

 半月が雲間から顔を覗かせた。マリーが顔を上げた刹那、ばんばんと低い金属音が響き、ほぼ同時に缶が転がり落ちる音がした。

 マリーは前方を見つめた。ジョゼが左手に拳銃を持ち、背を向けた状態で立っていた。

 ――発砲音って、こんな音なのね。

 物見高い浮き浮きした思いは消えてしまっていた。

 マリーは初めて銃声というものを聞いた。焦げ臭いのは、銃口から漂う硝煙のものだろうか。罪の街では、きっとあちこちで漂う匂いなのだ。マリーは今更ながら危険な街にいる現実を思い知った。

 ジョゼが背後に人の気配を感じ、素早く振り返った。マリーがいる距離からでは暗くてジョゼの表情は見えなかった。だが相手が拳銃を持っているとわかっているせいか、マリーは緊張し、身を固くした。

 ジョゼが殺し屋である事実に、この夜マリーは初めて直面した。

 引き金一つで人の命を奪う凶器。ジョゼの左手はたくさんの命が放った血で汚れている。マリーの脳裏に血だらけの両手に拳銃を握り、不気味に微笑むジョゼの顔が浮かんだ。

 ジョゼはゆっくりマリーに近づいてくる。マリーは小さく悲鳴を上げ、後ずさった。

「どうした?」

 ジョゼの声で、初めてマリーは、幻と現実のジョゼを重ねていたことに気づいた。

 マリーは引きつった笑みを作った。失礼なことを考えてしまった。

 ――私は何もわかっちゃいないのに。それぞれの事情があるのだから。

 マリーは手を後ろに回し、もじもじしながら言い訳した。

「あの、注文したウォッカと氷、置いておいたんだけど」

 ジョゼは「はて」と目線を上げたが、途中で席を立ってしまっていたことにようやく気づいたようだった。

「ああ、ありがとうな」

 ジョゼはひょうひょうとした顔で応えると、左手に持った拳銃をすばやくホルダーにしまった。

 まるで危険物など何も持っていないといった穏やかな顔で、ジョゼはマリーを見つめた。殺しを生業にしているにしては、ジョゼは穏やかな表情を持つ優男だった。灰色の瞳も普段はどんよりとして、人の命を奪う仕事をしているとは、とても思えない。

 だが、さっきまで殺しの道具を扱っていた緊張感のようなものは漂っていた。

「呼びに来てくれたのか?」

 聞こえてくる抑揚のない声は、昨夜より他人行儀な感じがした。射撃をしている姿を見られて、気分を害しているのかもしれない。

「呼びに来たんじゃなくて、その、エヴァがジョゼの練習を見て来ていいって言ってくれたから。邪魔してごめんなさい」

 マリーは手を前で合わせ、頭を下げた。

 ジョゼは「ふうん」と興味なさそうに鼻から息を吐いた。

「ま、見世物としちゃどうかと思うが、見ていくか?」

 マリーは意味がわからず、ぽかんと口を開けてしまった。その間にジョゼは地面に落ちた缶を拾い集め、奥に設置された木製の台に並べた。

 つぶれて穴の空いた缶を立たせるのに苦労だったようだが、六個目を立て終わると、大股で十歩進み、ホルダーから再び拳銃を取り出した。

「耳、塞いでろ」

 ジョゼの低くはっきりした声がした。マリーは頷くと、耳を手で覆った。

 次の瞬間、立て続けに六発の銃声がした。マリーはひぃと小さく悲鳴を上げ、目をつぶった。

「終わったぜ」

 再びジョゼの声で目を開けると、台の上に置いてあった空き缶は、すべて消えてなくなっていた。

 ジョゼは、マリーが射撃の訓練を見に来たので、実演をしてくれたのだ。それは、すごく有難いことなのだが。

 ――一度に六人の頭を撃ち抜けるってことなのよね……。

 マリーは、からからの喉に唾を呑み込んで潤すと、呟いた。

「すごい……全部、命中したのね」

「実戦のとき、銃声は少ないほうがいいんだ」

 ジョゼは、まるで料理のレシピを説明するかのように、さらりと言った。

 マリーはジョゼの裏の一面を見て、心が重くなった。

 ジョゼは胸のポケットからキャメルを取り出し、マッチで器用に火を点けた。

「給仕の仕事なんてして、足は大丈夫なのか?」

 マリーは昨夜ジョゼの前で足をふらつかせてしまったことを思い出した。マリーの足が悪いことに気づいてくれたのは、ジョゼだけだった。重く沈んでいたマリーの心に、ほんの少しだけ爽やかな風が吹いた。

「ありがとう。昨日は長い距離を歩いて痛くなってしまったけど、もう大丈夫。ここの給仕をするぐらいなら。問題ないわ」

 ジョゼは目を細め、気持ち良さそうに紫煙をふかした。

「事故で怪我した、とか?」

 ジョゼは何気なく問い掛けたようだった。少なくともマリーの気分が沈む質問になるなど知るわけがない。マリーは真実を言おうか迷った。

 ――長い距離を歩き続けて疲れただけだと言えば、心配を掛けずにすむ。

 だが、せっかく打ち明けられるいい機会でもあった。今後もジョゼにはいろいろ世話になるだろう。街にこのままいるつもりなら、隠し事はよくない。

 マリーは星空に向かって大きく伸びをし、姿勢を正した。なるべく明るい声を出そうと努めた。ただ表情を読み取られるのが怖くて、さり気なく背中を向けた。

「まだ両親が生きていた頃に、私の左足に腫瘍が見つかったの。ちょうど成長期だったものだから、何度も手術をして、添え木もすぐに小さくなって。両親が生きていたら完治もしたかもしれないけれど、叔父様の家では、私もなかなか言い出せなかったの。それで、今のように引きずるようになってしまったの」

 マリーは用意していた笑顔でジョゼに振り返った。

 ジョゼは眉根を寄せ、難しい顔をしていた。心配しているようでもあり、余計なことを聞いたと後悔しているようでもあった。

 後悔しているのはマリーも同じだった。

 ――やっぱり余計なこと言っちゃたかもしれない。

 ジョゼは気まずい雰囲気にしきりに頭をかいた。灰ばかりになったキャメルを地面に落とし、火を消した。

「子供の頃から、そんな苦しみを抱えていたのか」

 マリーはジョゼの言葉が不思議だった。

 苦しみ? 苦しかっただろうか。足の手術を繰り返していた頃、父と母はまだ生きていた。

 兄も含めて、家族仲は良く、誕生日や季節の行事は笑い声が絶えなかった。心細くなったら抱きしめてもらえたし、嬉しいことを報告すると一緒に喜んでくれた。

 マリーは目を伏せ、胸に手を当てた。

「ううん、苦しみなんて知らなかった。私の足が悪かったから、両親は私にかかりっきりだったの。兄さんは嫉妬したりせず、自分のことのように心配してくれた。あんなに深い愛情で育んでもらって、私は幸せだったわ」

 振り返ると、ジョゼがマリーに小さく微笑みかけた。

「娘に幸せだったなんて言われて、星空の上で親御さんも喜んでいるだろう。今はルイも傍にいてくれるし」

 ジョゼの言葉にマリーは空を見上げた。

 星になってしまった両親は、兄とマリーの関係を、どんな思いで見ているだろう。近親相姦という人の道に外れた二人を見て、嘆き悲しんでいるだろうか。

 ――ごめんなさい、お父様、お母様。でも私たちは、二人で寄り添って生きていくしか道がないんです。

 ジョゼはマリーが物思いに耽っているのを違う意味に受け取ったようだった。

「親御さんの話なんか出て、寂しがらせちまったかな」

 マリーは頬を両手で挟み、小さく息を吐いた。

「確かに、両親のことを思うと、切なくて胸が潰れてしまいそうになるわ。叔父様の家から兄さんが出て行ってしまってから、余計に。でも、今は兄さんが傍にいてくれるし、ジョゼやエヴァと友達になれた。星空の綺麗な街だから、いつも両親には見守っていてもらえる。私、この街に来て本当によかった」

 ジョゼはキャメルを灰ごと地面に落とし、靴の踵で火を消した。

「罪の街に来て幸せだなんて、変わってるな」

「兄さんは、最後に帰って来たのは一か月前なの。ときどきは帰ってきてくれるんだけど、私の顔を見たらすぐ帰ってしまって。私は会えなかった時間、話したいことが一杯あるのに。私が幸せであるかどうか、それだけを心配してくれる兄さんなの。グエンとの縁談の話があったのはその後で、私ずっと相談したくて帰りを待っていたんだけれど、全然、帰って来てくれないから、ここに来ることになって」

 マリーは心に沸き起こった近親相姦の罪悪感を打ち消そうと、努めて饒舌に語った。

「足が悪いことにしても、不幸に感じてはいないの。思いっきり走れないから、周りの景色をじっくり見ることができる。早足で過ぎ去る人よりも、たくさんの幸せを見つけることができるでしょう」

 ジョゼはマリーが高揚しまくっているのに気押されてはいたが、楽しい思いを共有してくれているようだった。

 ジョゼの頬がゆるみ、心持ち目尻も下がった。

「前向きなんだな。不満ばかり見つける人間に聞かせてやりたい台詞だ」

 今度はマリーが軽い気持ちで尋ねた。

「ジョゼの身近に、そんな人がいるの?」

 ジョゼはマリーから視線を外した。

「いるっていうか、いた。オレの親父とお袋だ」

「この街では、暮らしていないの?」

 ジョゼはキャメルをもう一本ひょいと口に咥えたが、気が変わったのか、人差し指と親指で挟むと、小さな箱に戻した。

「罪の街は、歳取った人間が住める場所ではない。生き抜くのにエネルギーが要るからな」

「それは……わかる気がするわ」

「お袋は毎日毎日、何百回と溜息ついて、日々の生き難さを嘆いてた。親父は仕事がうまくいかない憂さを、酒で晴らしていた。オレは重いため息が充満した家を早く出たくて、たまらなかった。末の弟が小学校に通えると決まった日にオレは家を出た」

「それから、ご家族のもとには?」

「帰っていない」

「ご家族は寂しい思いをしているのではない?」

 ジョゼは威圧するようにマリーを睨んだ。

「家族なんて糞くらえだ! あっちもオレが出て行ってホッとしてるはずだ。捨てちまった過去を振り返るなんてしたくない」

「そう……」

「弟妹たちは可愛いし、できることは何でも、してやりたかった。けど、やり切れないことが多かった。家族の人数が幸せの数に比例するってもんじゃないんだ」

 ジョゼは興奮を隠さず、両手を大きく振りまわした。

「結局、人間は一人でなんとかやっていかなきゃならないんだ。弟妹たちも自活できるようになったら出ていくといいんだ。両親はこの国では珍しいカトリック教徒でね。中絶は教義に反するってんで、子供をぼこぼこ作りやがった。神のいないこの国で信心しているなんて、変わり者と思われるだけだ」

 ジョゼは昔も今も底辺の暮らしをしているようだった。

 ――神様なんて本当にいるのかしら?

 マリーの両親は無神論者だったが、貧乏とは無縁の暮らしをしていた。一方、この国では、珍しく宗教を信仰しているジョゼの家が恵まれていなかったとは、神様はどこを見ているのだろう。

「でも家族を愛せないのは悲しいことだわ。自分の原点だもの」

「そうかもしれない。だがそれを不幸と嘆いたら、お袋と同じになっちまう。オレが将来築く家庭は絶対に明るいものにしたいと思ってるんだ」

「そうね。それがいいわね」

 マリーは陳腐な言葉しか返せない自分が情けなかった。

 ジョゼは気まずい雰囲気を打ち消すかのように、空を見上げた。

「星が綺麗だ」

 マリーもジョゼの視線の先を見た。

「本当に、綺麗ね」

 ジョゼは空を見上げたまま、呟いた。

「いろいろあって別々に暮らしているが、同じ星空を見上げてるんだ。生きていれば、そのうち、許せるときが来るのかもしれないが」

 そうであって欲しいと、マリーは心から思った。

「氷、溶けちまったな」

 ジョゼの声があまりに抑揚がなかったので、マリーは一瞬ぽかんとした。

「いけない!」

 マリーは胸の前でパンと手を叩いた。ウォッカの氷のことなど、すっかり忘れていた。

「別々にしておいてよかったわ。氷は新しいのを出せばいいし」

 ジョゼは半ば呆れた顔でマリーを見下ろした。

「エヴァが新しい氷をくれるわけがないだろう」

 マリーはジョゼに続いて裏口へと歩いた。

 並んで歩きながら、ジョゼのそばにいると、何故か心が落ち着いた。

 マリーに対して見せる優しさはどこか不器用で、かえって裏表のなさを感じさせる。普段も他の仲間とつるむことはなく、店の隅で静かに飲む。ぼんやりしているように見えるだけで店内の雰囲気を常に把握し、問題が起きないよう目を光らせてくれている。他の客たちもジョゼには一目を置いている様子だった。

 ルイは、ジョゼがマリーに色目でも使ったら殺すと言った。まさか本気とも思えないが、出会って最初から、絶対に友達以上に発展できない関係というのも辛かった。

 接して心地良い人だと思うからこそ、二人一緒の場面をルイには見られたくなかった。

「どうした?」

 裏口を開き、ジョゼが不思議そうに振り返った。マリーがすぐ後ろをついてきていないのに気づいたらしい。マリーは慌ててジョゼの背に走り寄った。

 厨房を抜ける狭い通路で二人は自然、寄り添うように身体を密着させた。店内に出た時、マリーは心の中で「しまった」と思った。

 兄のルイが子分のホアン、ダニエルと共にグアダルーベに戻って来たところだった。

 ルイは毎晩、夜の九時から十時までの間、有志を募って罪の街の見回りをしていた。

 ルイの一番弟子を自称するホアンの大きな声がした。

「ヘッドのお帰りだぞ。おら、腰を浮かせるぐらいのことしねえか!」

 褐色の肌の精悍な顔のホアンは、ルイがいつも着く席に別の常連が座っているのに激怒していた。男は椅子の足を蹴られ、前のめりに倒れたところ、尻に靴跡を付けられた。

 ダニエルは淡い紫の瞳でホアンをちらりと見ただけで、壁にかかった鏡に顔を映し、額にかかった黒髪を手で後ろになでつけていた。

 ――つい、長話をしちゃったわ。兄さんの機嫌をとらないと。

 マリーは意識的に目を大きく見開き、顔に満面の笑みを浮かべ、ルイのそばに駆け寄った。

「兄さん、おかえりなさい」

 マリーはルイに飛びつき、視界からジョゼの姿を隠した。

「マリー、どこへ行ってたんだ? いくらエヴァに頼まれても、夜に買い物なんか行ったりするなよ」

 マリーは白い手をルイの胸に添えたり腰に当てたりして、兄が満足する肌の触れ合いを続けた。

 ルイの横に立ったまま、ダニエルが皮肉っぽく言った。

「ヘッドもマリーの前では、でれでれですね。外じゃ皆が震えあがってるってのに」

 マリーがそっと横目で見ると、ジョゼは無事に元いた席に着き、すっかり溶けて水ばかりになった氷入れを摘み上げていた。マリーは、ほっと胸を撫で下ろした。

「買い物に行っていたわけではないの。厨房の外にゴミを出してきただけ」

 ルイは眉を八の字に曲げ、嘆きの声を上げた。

「ああ、俺の聖マリアが生ゴミを扱っているのか。おまえには本当は皿洗いもやらせたくないのに。疲れていないか? 無理しては駄目だぞ。そうだ、足の具合はどうだ? ちょっかいかけてきた不届き者はいないか?」

 マリーは次々に飛び出す質問に、目が回りそうだった。答える隙も与えられず、最初の質問など忘れてしまった。

「兄さんったら、質問攻め。でも、安心して。皆、とてもよくしてくれるから。兄さんも、いつもここで一緒にいてくれればいいのに」

 半分本音、半分は嘘だった。ルイは腰に手を当て、胸を張った。

「俺は、この街を取り仕切っているんだ。犯罪者だらけの街をここまで纏めてきたのも、俺だ。俺が目を光らせていなければ、毎晩のように暴動が起き、店頭の品物など、すぐなくなってしまうさ」

 ホアンがマリーの横から声を掛けてきた。

「そうさ、ヘッドの力なくしてこの街の治安なんてあったもんじゃねえ。ヘッド、今日も乾杯しましょうぜ、街の平和を願って」

「うるせえ、黙ってろ」

 ルイはホアンを恫喝した。ホアンは首を亀のように引っ込め、おとなしくグラスに口をつけた。

「おまえは女みたいにお喋りだからなあ」

 ダニエルが向かいの席で頬杖をついて、嫌みな笑みを浮かべていた。

 ルイはマリーが寂しがっているのを見て満足した様子だった。この店に集うのは、ルイの息の掛かった男たちばかりだ。まさか自分の目を盗んでマリーに粉を掛ける命知らずはいないと判断しているようだ。

 それでも気をつけて観察していると、ルイはジョゼを盗み見ていた。

 マリーが横目で見ると、ジョゼは厨房近くの暗いテーブルで相変わらず一人で飲んでいた。こちらを見ている様子はなかった。

 ルイは小さく頷くと、マリーに問いかけた。

「エヴァは? 忙しくなさそうだったら、呼んできてくれ」

 エヴァは数人の客と談笑していた。マリーが無言で手を挙げ、エヴァを呼んだ。エヴァはすぐに気づき、ルイとマリーのそばにやって来た。

 ルイがマリー以外の他人に聞かれないよう声を落として尋ねた。

「どうだ、外の連中の様子は?」

 マリーは意味がわからずルイとエヴァの顔を交互に見た。エヴァがマリーの疑問に答えるように話し始めた。

「街には日々、新たな住人が増えている。マリー、あんたみたいにね。アブリル市の十番通りから三十番通りまでを通称で『罪の街』と呼ぶんだけど、全てをおとなしくさせているのって大変なの。私とジョゼも手伝っているし、下の子分たちはホアンとダニエルで統括してくれているわ。それでもルイに取って代わろうと隙を窺っている男は多いの。私はここで客の相手をしながら、街の情勢を窺ってるってわけ」

 マリーは神妙に頷いた。兄が仲間に見守られ生きている事実は、マリーを安心させた。

 ルイが付け足すように言った。

「罪の街には警官がいないとよく言われる。アブリル市は警官を雇ってはいるんだが、ほぼ俺の自治区となった罪の街に、官憲がいても意味がないんだ。だから派出所はあっても無人だ。ここ何年も警官が赴任した話は聞かないな」

「だから兄さんが頑張らなければならないのね」

 マリーはこれまで以上に兄を頼もしく思った。

 エヴァはルイに顔を向け、真顔で言った。

「三十番通りの連中は、大丈夫。この前のような騒ぎは、もう起こさないと思うわ。問題なのは……」

 エヴァは言い淀み、マリーを盗み見た。ルイが苛々とエヴァに先を促した。

「何か問題があるのか?」

 エヴァは、あからさまに眉間に皺を寄せた。

「問題は、マリーの縁談相手グエンがどう出てくるか、よ」

 話が突然、自分の問題となって、マリーは驚いた。

 この街に来たことで自分に訪れた危機は消えたと思い込んでいた。大事に思ってくれるのは有難いが、いつまでもお客様扱いはされたくなかった。マリーはすっかり罪の街の住人になったつもりでいた。

「エヴァ、大丈夫よ。グエンは、こんな所まで来ないわ」

 エヴァは「やれやれ」と額に手を当てた。

「根拠のないその自信は、どこから湧いてくるのかしら?」

 まんざら根拠がないわけではなかった。

「グエンはロランド家でとても大事に育てられたらしいわ。罪の街は人間の住むところじゃないと思っているはず。罪の街の住人になった私には触れたくもないと思うわ」

 マリーはすぐ、自分がとんでもないことを言っていると気づいた。マリーは慌てて言い直した。

「べ、別にここが汚いなんて私は思わないけど」

 マリーはエヴァの機嫌を損ねたかと、びくついた。

 エヴァは特段これといって気を悪くしている様子はなかった。マリーの付け足した言葉など聞いていない様子で、頬に手を当て考え込んでいた。マリーは目を閉じ、胸を撫で下ろした。

 エヴァはマリーの横のルイに尋ねた。

「ルイ、あんたはどう思う? マリーはすっかり安心しているみたいだけど、そう簡単に諦めてくれるかしらね?」

 ルイは、顎に手を当て、顔を顰めた。

「マリーがグエンの好みかどうかなんて関係ない。何しろ、女であれば誰でも手をつける男だからな」

「知り合いか何か?」とエヴァが不思議そうに尋ね、ルイは「ふん」と鼻を鳴らした。

「知り合いも何も、高校の同級生さ。俺が中途退学するまでの話だが」

 マリーにも初耳だった。エヴァは今度はマリーに問いかけた。

「じゃあ、マリーもグエンと同じ学校で顔を合わせてたわけ?」

「いいえ。私と兄さんは六年も違うから、同じ学校ですれ違うようなことはなかったの。グエンが兄さんの同級生だったなんて、今、初めて知ったことよ」

 ルイは吐き捨てるように語り出した。

「俺が二年で退学するまでの付き合いだったが、ろくな思い出がない。当時から俺は札付きのワルってことで停学、謹慎処分の常習者だった。いっぽう、グエンは優等生さ。父親のミカエル・ロランドが学園長と友人だとかで、教師の覚えもめでたかった。おまけに美形ときたものだから、女子にも人気があった」

 エヴァが何度も頷き、不思議そうな顔をした。

「いいことばかりね。縁談相手の条件には最高じゃない?」

 ルイは右手を上げ、首を横に振った。

「裏の顔ってのがあるんだよ。俺がこんなだから、余計に知ってるわけなんだ。節操なく女に手を着けて、妊娠させられた生徒も一人や二人じゃないんだぜ。テストの答案を裏で入手したりもしていた。学園一番も当然さ。なのに、何も知らない女生徒は奴に夢中だし、親たちにとっては理想の息子と来た」

 マリーは背筋が寒くなった。マリーも悪い噂を知らないわけではなかったが、ルイの口から高校時代を知らされるとますます嫌悪感が増した。

 裏表があり、女を蔑視する男の妻になどなったら一生ずっと自分を殺し、苦しい思いを抱えて生きなければならない。マリーは罪の街という逃げ場があったことに感謝した。

「そういえば、ヒューズ叔父様の家にいた頃も、兄さんはグエンと比較されて辛そうだったわ。そのときは、まさか私の縁談相手になるなんて思いもしなかったけれど」

 ルイが首の後ろに手を回し、遠い目をした。

「なんだかんだ、器用な男なのさ」

 エヴァがそんなルイを見てにやりと笑った。

「ルイは不器用だから、うらやましいでしょ」

 ルイは「ああ?」と小さく声を発してエヴァを見ると、拗ねたように唇を尖らせた。

「別に、うらやましいわけじゃない。ただ、あいつみたいな生き方ができれば、俺にも別の人生があったと思うがな」

 エヴァがしきりに頷いた。

「なるほどね」

 ルイは真顔になって話を本筋に戻した。

「マリーが言うほど安心してもいられない。誰かしらがマリーについていること、とりあえずは、それで様子を見よう」

「そうね、グアダルーベ全体でマリーを守っていれば大丈夫ね」

 ルイとエヴァは頷き合い、マリーは二人を頼もしく見つめていた。

 マリーはルイを取り巻く全ての男が好きというわけではなかった。ルイの一番弟子を気取るホアンは先程からジンの瓶を空にしかけていたが、褐色の肌は赤くなったか、わかりにくかった。

 ホアンが不意に席を立ち、ジョゼが飲んでいるテーブルに近づいた。

「よう、ホセ、元気でやってるか?」

 ジョゼはホアンを見上げ、座ったまま答えた。

「オレはジョゼだ。同じ綴りでもホセとは読まん」

 ホアンはテーブルの上に腰掛け、空っぽのジンの瓶で叩いた。

「外国語読みで格好つけやがってよお! あんた、親がカトリック信者だから聖人の名前付けられたんだろう? その聖人、気の毒になあ。この世の地獄に住む殺し屋に名前を使われてよ」

 マリーはホアンのいちゃもんに激しい不快感がこみ上げた。

 ――静かにダニエルと飲んでいればいいのに。兄さんがジョゼに頼るのを嫉妬しているのね。

 聞き耳を立てていると、ジョゼは静かに答えた。

「もし両親が「ホセ」としたかったのなら、ホセと読ませる。だが親父とお袋はジョゼと名付けてくれた。かけがえのない名前だ。だから、ジョゼでいいんだ」

 少しも荒れることなくジョゼは淡々と語った。

 ――両親とは気が合わないと言っていたけれど、尊敬はしているのだわ。

「はっ! パパとママがつけてくれた大事な名前ってか。ゴミ溜めの中から一生ずーっと抜け出せない貧乏クリスチャンが! おまえは拳銃より、哺乳瓶を携帯しているほうが合ってるぜ」

 次の瞬間、ジョゼは椅子を蹴って立ち上がり、ホアンの胸倉を掴んだ。ジョゼは低い声でゆっくりと告げた。

「オレを侮辱するなら、許しもしよう。おまえの考えなしは、今に始まったことではないからな。だが、両親を侮辱するのは許さない」

 マリーは慌てて振り返った。店内で発砲事件など起きたら、大変な事態になる。

 だが、ジョゼは拳銃に手を掛けてはいなかった。右手でホアンの胸元を引きちぎらんばかりに引き寄せると、肌蹴た胸元に左手を拳銃の形につくり、人差し指を押し当てていた。ホアンは情けないぐらいビビっていた。マリーがそっとジョゼの顔を覗き見た。灰色の瞳には光がなかった。マリーは密かに思った。ジョゼが真に怖いのは灰色の瞳に光が宿らなかったときだと。

 マリーにいつも見せてくれる直向きな瞳に戻したい。ホアンが去った後、マリーはジョゼに近づいた。

 ジョゼはマリーがお盆を持って近づくと、気恥かしそうに横目でマリーを見上げた。

「また嫌なところを見られちまったな」

「ごめんなさい」

 ジョゼはグラスにウォッカを注ぎ足した。怒っている様子でもなかったので、マリーはジョゼの横に椅子を持ってきて座った。ジョゼの顔が心なしか赤くなった。

「その……ご両親のこと、ちゃんと思っていたのね」

 ジョゼは真顔でマリーを見た。灰色の瞳がきらりと光った。

「当り前だろう。オレたちは一人で生まれて一人で生きているわけじゃない。一人でなんとかしようとするのとは、別の話だ」

 マリーはうっとりと灰色の瞳を見詰めた。まるで闇を闇で照らすような、不思議な瞳だ。

「私、ジョゼのご両親の話を聞いて、天国のお父様お母様に会いたくなってしまったわ」

 するとジョゼはグラスの縁を指で撫でながら、さりげない声を出した。

「あっちのほうが何倍もあんたに会いたいだろう。あんたが人生を全うできるよう見守ってくれているんだ。人生の全ての幕が下りるまで、我慢だな」

 マリーは思わず微笑んだ。ジョゼは時々、胸に沁みる言葉を発する。兄のルイよりも何倍もいろんなことを考えていて、口数は少ないが的確なことを言ってくれる気がする。

 ――やっぱり幼い頃から聖書を読んでいたから、神の素敵な言葉を覚えていたりするのかも。

 キリストの教えとは「人が生きる道」を示したものだと聞いたことがある。生きていく上で自分に枷を填め、苦しい生き方をしなければならないこともあるが、道を説く教えというものに無神論者のマリーは憧れを抱いていた。

 ジョゼは今でこそ信心を捨てているというが、人の道をマリーに教えてくれそうな気がした。マリーはキリスト教を背景に持っているジョゼに魅力を感じた。

『道徳』と『宗教』は全く違うものであることを、マリーは理解していなかった。

 マリーはジョゼの腕にそっと触れた。ジョゼの肩が跳ね、緊張した表情をした。

「ねえ、もう一度お星さまを見に行かない? ジョゼのご両親も見上げている星空を、私も一緒に見上げたいの」

 ジョゼは戸惑いに瞳を揺らした。

「一緒に見上げて、どうするんだ?」

「お星さまに伝えてもらうの。ジョゼは今もご両親のことを大事に思ってるって。だから家族の絆の復活が一日も早くありますように、って。駄目?」

「駄目だ。客も酒が入ってきたから、気をつけて見ていないと何するか全然わからん。それに……ルイは、あんたの顔が見えなくなったら大騒ぎするだろう」

 マリーは、しゅんとうなだれた。言われてみれば尤もなことばかりだが、浮き浮きした気持ちは風船のように凋んでしまった。

 するとジョゼが独り言のように呟いた。

「明日も晴れるだろう。また訓練、見に来いよ」

 マリーは驚いてジョゼを見た。ジョゼはマリーから目線を外し、グラスのウォッカを一気に飲み干した。

 マリーは興奮と嬉しさで、自分でも顔が赤くなるのがわかった。マリーは元気のいい声で答えた。

「ええ。また見に行くわ」


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