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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第四章 贖罪の兄妹

   第四章 贖罪の兄妹

 その夜、ベッドの上でジョゼに抱かれたマリーは、夫が人を殺してきた事実に気づいた。ジョゼはいつになく荒々しくマリーを求めた。マリーは息を継ぐのも大変なほど激しい口付けを懸命に受けた。

 途中、ベッドの横からマリオが二度、泣いて母を呼んだ。だが、ジョゼはマリーを息子に譲りはしなかった。

 ようやく一眠りし、目を開けると、壁の時計が二時を指していた。マリーは夫が目覚めないように用心して起き上がり、寝巻を頭から被ると、床に足を下した。

 マリーが眠るベッドの右側に、赤ん坊用の柵のついた寝床が置いてあった。金色の巻き毛と、透き通る白い肌を持った三か月になる息子は、すやすやと眠っていた。

 人の屍の上に成り立つ夫との夫婦生活には、いつまで経っても慣れそうにない。だが申し訳ないと思うなら、ジョゼとの生活は成立しない。

 マリーは白い人差し指でマリオの頬をつついた。マリオは顔を顰め、丸く握った右手を動かした。

 マリオが生まれた日、罪の街の教会を占拠していた五十八人の信者が殺された。ヘッド、ルイの命で強行突入に参加した男たちは、抵抗した男性信者も隠れていた女性信者も、例外なく頭を撃ち抜いたという。

 凄惨な事件に、街に現れていた警察官は援軍を呼び、ルイたちは殺人容疑で追われた。ルイ以外の突入班は逮捕されたが、ルイは今も消息不明で捕まっていない。いっぽう、暗殺のプロであるジョゼに殺されたロランド帝国の御曹司グエンは、遺体を上手に隠されたことで、公的には行方不明のままだ。

「でも、マリオ、あなたには関係のない話よ。父が殺し屋で、伯父が殺人鬼でも、あなたに罪はない。どうか贖罪の道など歩まず、自分の幸せのためだけに生きてちょうだい」

 マリオは日々、兄のルイに似てくる。金色の巻き毛も、青く澄んだ瞳も、凛々しい眉毛も、全て兄の血を強く受け継いでいた。ジョゼは自分に全く似ていない息子でも、愛しく感じてくれて、「ミ・イホ(我が息子)」と頬にキスしてくれる。マリーは有難くてたまらなかった。

 教会堂の凄惨な事件が街の人々の頭の中から忘れられようとしているこの頃、マリーの生活も、ようやく落ち着きを取り戻してきていた。

 出産のときに受けたストレスが強かったせいか、母乳はほとんど出なかった。だが、マリオにもマリーにも、目立った後遺症はなかった。

 マリオを守るため、ホテル・シグロの警備が厳重になった。マリオが泣いても気づかれないよう、防音のしっかりした部屋にマリーの住処は限られた。洗濯物で赤ん坊がいる事実を悟られないよう、神経質にはなった。とはいえ、マリーの頭痛の種になるほどの重大事ではない。

 平穏な日々が戻って、膨らむのは兄ルイへの思いだけだった。兄はマリーだけを思い、不器用に追い求めた。愛する妹を危機に陥れた信者を、誰一人として許そうとしなかった。もし、マリーがジョゼの胸に走らず、ルイのものであり続けたら、狂って兇暴に信者を殺しはしなかったのではないか。

 ――私は兄さんの運命を大きく変えてしまった。神を冒涜した私たちへの報いなのかしら。

 不意に窓枠が風で大きく揺れた。マリーはびくりと肩を聳やかした。マリーは目を閉じ、マリオを抱き上げると、胸にしっかりと押し当てた。

「マリオを連れていかないで。神も悪魔も憎むなら、私を憎んで、罰してください。マリオだけは、助けて……」

 神を信じないと言い続けたマリーは今や、誰より神と悪魔の概念を畏怖し、眠れぬ夜を過ごしていた。

 朝、マリーが哺乳瓶をコンロで煮沸していると、ジョゼ特有の短く早く扉を叩く音がした。マリーは火を止め、扉に近づき、覗き窓を確認した。鍵を開けると、ジョゼは部屋に滑り込み、マリーを強く抱き締めた。

「ジョゼ? どうしたの?」

「ルイが夜、街に来る。おまえと二人で会いたいという話だが、どうする?」

 マリーはハッと目を見開き、ジョゼの胸から顔を離した。

「逃亡中の兄さんから、連絡があったの?」

 ジョゼはマリーの首を手で支えたまま、耳元で囁いた。

「街の中も落ち着いて、警官の巡回も滅多にないが、グアダルーベと妹のおまえの住所であるホテルには近づけない。密会できる場所を別に設定しなければならない」

 ルイが姿を消してから、街を統括する人間がいなくなった。街の男たちは義理の兄弟であるジョゼに代りを熱望していた。だがジョゼは、マリーと子供への危機が更に深まるという理由で、引き受けるに至っていなかった。

「もし兄さんが捕まったら、希望は一欠片も、ない?」

「ルイは捕まったら死刑だろう。あれだけの人数を殺したんだからな。仮に死刑にならないとしても、ロランド帝国の差し向ける殺し屋の手に落ちてグエンの行方について拷問されるだろう。そっちのほうが、むしろ酷いことになる。だから、おまえとルイの会談は、誰にも知られずに行わなければいけない」

 マリーは一瞬びくっと口籠ったが、思い切って声を発した。

「マリオを兄さんに……抱かせることは、無理?」

 ジョゼの灰色の瞳が戸惑いに揺れた。

「マリオは、まだ三か月だ、できれば連れていかないほうがいい。万が一の時には、どうにもならない足枷になるし、マリオの無事も保証できない」

 マリーは夫の胸にすがり、懇願した。

「エヴァにも助けてもらって、なんとかマリオを連れていきたい。兄さんに……一度は抱かせてやりたいの」

「マリー、それは――」

「父親はあなたよ、ジョゼ。その事実は変わらない。でも逃亡中の兄さんは孤独でたまらないはず。生きることに疲れてしまうかもしれない。マリオを抱かせてやれれば、兄さんにも未来への希望が持てるかもしれない。あんな惨劇を起こした兄さんが絶望して野垂れ死にしようが、どうでもいいのかもしれない。でも私には、ただ一人の兄さんなの。どんな境遇でも生きていて欲しい」

 夫の瞳が不意に黒く翳った。マリーは反射的に夫の腕の中で緊張に身体を硬直させた。

「マリー。ルイと会うだけでも、オレたちは相当な危険に身を晒す。マリオを連れていくなんて無茶を言うのなら、ルイとの会合自体、なしにする」

 マリーは目線で最後に縋ったが、マリーの願いにジョゼは頭を縦には振らなかった。マリーもしぶしぶ、ルイ、ジョゼ、マリーの大人三人で会う計画を承知した。その間マリオはエヴァに見ていてもらう。

「夜八時に迎えに来る。会合場所は十五番通りにあるカフェテリアの地下だ」

 マリーは壁の時計を見上げた。今日一日は長くなりそうだ。

 ――エヴァも……兄さんに会いたいわよね。

 エヴァがマリオを連れてきてくれるなら、少しは安心かもしれない。ジョゼが感じる危機をエヴァも同じように感じているのなら、頼んでも無駄かもしれないが。

 ――兄さんとは今度いつ会えるかわからない。やっぱり、エヴァに頼むだけ頼んでみよう。

 マリーはジョゼに口付けると、頬笑みを作って身を剥がし、哺乳瓶を指で示しながらコンロに戻った。

 鎧戸が固く閉まったショーウィンドウの前を通り過ぎ、路地側に回る。

 壁伝いに進むと、目立たない黒い戸口があった。マリーは戸を開いたジョゼに従って、暗い地下へ降りていった。

 三十席ほどある広い店内は灯を落とされたままだった。椅子は白いテーブルクロスが掛かったテーブルの上に載せられ、閉店後に掃除をされたままの状態だった。

 ルイはトレンチコート姿のまま、カウンターの奥に着いていた。横に鐔広の帽子を置き、褐色の液体をオン・ザ・ロックで飲んでいた。

 マリーが入口の壁を探り、天井の灯りを点けようとすると、ルイが背中から声を掛けた。

「点けないでくれ」

 マリーはジョゼの一歩前に踏み出した。

「兄さん……元気でしたか?」

 ルイは、ゆっくりと振り返った。金色の無精髭が顎全体に伸び、前髪も目に掛かって、鬱陶しげだった。鈍く光る青い瞳がマリーを捉えると、ルイはおもむろに立ち上がり、近づいてきた。

 マリーが怯むより先に肩を掴まれ、強い力で抱き寄せられた。マリーは目を閉じ、うっとりと兄の胸の温もりを味わった。自然と手が背中に回り、二人はしばし抱き合ったまま、立ち尽くした。ルイがゆっくりと胸を剥がし、ジョゼに顔を向けた。

「マリーと二人きりになりたい。少しの時間でいい。席を外してくれ」

 ジョゼはルイとマリーの顔を交互に見た。腕の時計に目をやると、しばし考えてから、マリーに視線を戻した。

「では、十五分だけ待つ。オレは隣の控え室にいる」

 ジョゼは目を伏せたまま、隣の部屋に消えた。扉が閉まった瞬間、ルイはマリーの頬を掴み、激しく口付けた。

 ある程度まで予期していたとはいえ、瞬間のことにマリーは顔を顰め、小さくもがいた。だが、懐かしい、苦しいほどの愛情表現に、ふっとマリーの抵抗する力も萎えた。

 ルイはゆっくりと唇を剥がし、マリーの瞳を見つめてきた。マリーの頬に、どちらのものともわからない涙が伝った。

「今、どこにいるの? 毎日、どうしているの?」

「毎日おまえを見ている。そして、祈っている」

 マリーは意味がわからず、目線で問い掛けた。

 ルイはマリーから完全に身を剥がし、ゆっくりカウンターに戻った。回転椅子に座り、くるりと回してマリーに向き合った。

「丸二日かけてボリビア国境沿いのアナヤという村に辿り着いた。隣国からの移民が多いせいで、カトリック教の教会があった。そこで俺は、倒れてしまった。修道士が見つけて、介抱してくれた。熱も下がり、初めて礼拝堂に足を踏み入れると、祭壇の横に聖マリアの昇天を描いた絵画が飾られていた。俺はそのとき、おまえに救われたのだと思った。絵の中のマリアは……おまえにそっくりだった」

「まあ……では今も教会にいるの?」

「離れ難くてな。何しろ、おまえに瓜二つのマリアを毎日拝めるんだ」

 ルイは横に手を伸ばし、カウンターに置かれた琥珀色の液体のグラスに触れた。

「難産だったと聞いたが、産後の体調は悪くないか」

 マリーは無理して笑みを作った。

「破水してしまったけど、私もマリオも何の後遺症もなく済んで」

 ルイはぴくりと顔を硬直させた。

「……マリオという名か。もう三か月になるな。どっちに似てる?」

「日に日に兄さんに似てくるわ。金色の巻き毛に目は青よ。マリオの寝顔を見るたび、兄さんに見守ってもらっているようで、力が湧いてくるの」

 ルイは「そうか」と頷き、グラスを口に付けた。マリオと会える幸運など、端から諦めた様子だった。マリーはじれったく地上に通じる階段を仰ぎ見た。

 ――エヴァは、やっぱり来てくれないのかしら。

「人質になった子供たちの現状は、どうだ? 妙な恐怖を植え付けられて、不安定になってる話は、聞かないか?」

「確かに衝撃だったろうし、眠れないと訴える子の話は聞いたけれど、目立った神経症を発症した子供はいないわ。兄さんとエヴァが的確に誘導してくれたおかげね」

 ――信者を殺した事実を別にすれば、兄さんには感謝してもしきれない。

 街の子供たちはマリーのせいで人質となった。一人でも怪我人が出れば、マリーを恨む親が生まれたはずだからだ。今マリーが罪の街で生きていけるのは、ルイのおかげだった。

「マリー、俺がなぜ信者全員を殺したか、聞かないのか?」

 マリーはカウンターに近づき、兄の位置近くのテーブルに着いた。

「私を聖マリアの再臨と崇めて、軟禁しようとしたからじゃないの?」

「それもあるが、それだけじゃない」

 ルイは立ち上がり、目の前に座るマリーの横に膝をついた。

「信者たちは、教祖とおまえの肉体的結合を望んでいた。神の子である腹の子を、教祖グエン・ロランドの息子にするために。俺は許せなかった。おまえがグエンの毒牙に掛かるなんて、考えただけで発狂しそうだった。おまえの平穏な日々がグエンの邪な思いで壊されると思うと、我慢ができなかった」

 ルイはマリーの手を取り、爛々と光る瞳でマリーを見つめた。

「おまえが苦しみ抜いてようやく得た幸せを、壊す人間は許さねえ。誰一人もだ。おまえを聖マリアと崇める事実自体、許せるものではなかった」

 信者たちはグエンに洗脳され、グエンの意のままに行動していた。信者たちのどれだけがグエンによるマリーの凌辱を望んでいたのかは、もはや知りようがない。だが、ルイの兇暴な怒りは誰も止められなかったのだろう。

「兄さん、ごめんなさい。あなたの運命を狂わせてしまった。兄さんは平穏な思いを味わう瞬間すら許されず、逃げ回っているというのに」

 するとルイは、さも当たり前のように声を発した。

「おまえの幸せが俺の幸せだ」

 マリーは「兄さん……」と言ったきり、声が詰まった。

「逃走の日々は、いろいろ面倒ではある。だが、俺は不幸ではない。おまえが幸せでいるからだ。これからもジョゼと共に幸せでいるんだ、マリー。俺を幸せにするために、絶対に今の幸せを手放すな」

 マリーは声を殺して泣き出した。マリーはずっと、兄の愛で自分が苦しんできたと思い込んでいた。

 だが話は、そう単純ではなかった。実の妹を愛してしまったルイこそ、ずっと苦しみの只中にいたのではなかったか。マリーがどこまでも拒んでいれば、ルイはマリーを諦め、別の真実の愛を掴んだかもしれない。

 ――兄さん……私があなたに甘えてしまったのかもしれない。原因は私だった。

「兄さん、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 マリーは椅子から腰を床に落とし、ルイの胸に飛び込んだ。ルイはマリーの背を抱き締め、赤ん坊のように泣くマリーを優しく抱き寄せた。

 控え室の扉が開く静かな音がした。

「時間だ。ルイ、マリーとの時間は終わりだ。街のことで、少し相談がある」

 マリーは慌てて鼻を拭いた。ルイは「おう」と立ち上がり、ジョゼに近づいていった。

 ルイと向かい合うジョゼの前にも同じ琥珀色したオン・ザ・ロックが置かれた。マリーは兄が飲んでいた安物のウィスキーの瓶を手にし、カウンターの元あったと思われる位置に戻した。

 そういえば、兄がのんびりと酒を飲んでいる場面を目にする時間は短かった。グアダルーベでは、いつも冷静に指示を与えるため、水と氷を入れたグラスにだけ口をつけていた。

 ――兄さんは立派なヘッドだった。代わりとなる人は、なかなか現れそうにないわ。

 ジョゼの相談は街の長となる人間の不在に関するものだった。自分が推薦されている事実、マリーとマリオを抱えて荷が重いという本音をルイにぶつけていた。

 ルイはジョゼの静かな声を、ときどき眼を閉じ、噛みしめるように聞いていた。

 不意に二人は話を止め、緊張した顔を入口へ続く階段へ向けた。慎重な足取りでエヴァが階段を降りてきた。

 エヴァが大きな籠を両手に提げているのを見て、ジョゼは顔を赤くし、立ち上がった。

「エヴァ、マリオを連れてくるなんて、何を考えてんだ!」

 エヴァは階段を最後まで降りると、真顔でジョゼに向かった。

「怒られるのは覚悟して来たわ、ジョゼ。あんたが家族を守らなければならないのはわかる。でもマリオの家族は、あんたとマリーだけではないわ。そうでしょう?」

 ジョゼが怒りに瞼をひくつかせ、一歩前に足を踏み出すのを見て、マリーはその背にしがみついた。

「エヴァを責めないで。私がマリオを連れてきて欲しいと頼んだの」

「マリー、おまえは、ちっともわかっていない。オレの仕事は、マリオを盾にされたら終わりなんだ。こうして会っているルイだって、警察だけではない、信者の家族からも命を狙われているんだぞ」

 ルイが音を立てて椅子から立ち上がった。

「マリオは……? 起きているのか?」

 エヴァは残念そうに額に皺を寄せ、首を横に振った。

「ここまで歩いてくる間に、寝ちゃったわ。歩く震動が気持ちいいのか、抱っこして歩いていると、いつも眠ってしまうの」

 エヴァはルイの傍にあったテーブルの上に籠を置いた。ジョゼを横目で睨みつけると、低い声を発した。

「ジョゼ、私もマリオの家族だと思っている。ここまで運命を共に生きた私たちは、家族には絶対なれない? ルイは今度いつ、マリオに会えるかわからないの。生まれてから一度も家族を抱き上げていないのは、ルイだけなのよ」

 ジョゼは何も言い返せず、マリオに視線を移した。

 ルイは既にマリオに近づき、小さな赤い顔を覗き込んでいた。

「マリオ・クレメール、か。いい名前じゃないか。誰に似たのか、ずいぶん男前だ」

 マリーがジョゼから身体を離し、ゆっくりとルイに近づいた。

「聖書に出てこない名前にしたくて、ずいぶん考えたの。宿の女たちは私たちの事情を知らないから、天使のようだとか言われると、私が急に怒り出して、ジョゼに迷惑かけてしまったわ」

 ジョゼが目線を外したまま、さりげない調子で口を開いた。

「知っての通り、マタニティ・ブルーは全くなかったんだが、生まれてしばらくは精神の調子が悪かったな。塞ぎ込んでぼんやりしていたかと思うと、ちょっとした事実にも、火がついたように怒った」

 エヴァがマリーを庇うように肩を寄せ、口角を緩めた。

「女は、命を懸けて子供を産むの。男はその点に関しては指を銜えているしかないのだから、精神面での手助けは、もっともっと熱心にするべきなのよ。私も心の調子というものに理解ある夫を持ちたいと思っているのよ」

 ルイがエヴァに向かって、大袈裟に目を開いて見せた。

「おまえに結婚をする気があったとはな。もう少し可愛げのある部分を見せないと、本当に行き遅れてしまうぞ」

 エヴァがルイの挑発に乗り、顔を顰め、唇を尖らせた。

「グアダルーベをあんたのアジトになんてしていたものだから、私の周りには、あんたやジョゼを含め、ろくな人間が集まらなかったわ。あんたも別の土地で新しく始めるなら、店を畳むのもいい機会かもしれない」

 マリーが驚いて顔を上げた。

「エヴァ、店を畳むなんて聞いてないわ。冗談でしょう?」

 エヴァの言った理由付けが嘘である事実は、マリーが一番よく知っていた。エヴァはジョゼを今も愛しいと思っているはずだ。

 エヴァはマリーを見ると、何を深刻に考えているのか、と明るく笑ってみせた。

「なんか、これもいい機会だと思わない、マリー? ルイがこの街で生きていけないのは、もうはっきりした現実なのよ。私にしても、ルイのいない罪の街は考えられない。こんなワルの溜まり場がそれなりの秩序を保って、平和的に営まれていたのは奇跡に近いわ。そういう意味ではもう、この街は一つの終わりを迎えているのよ」

「エヴァは言ってくれたわ。私にこの街を照らす灯りになってくれ、と。私はこの街に骨を埋めるつもりで暮らしているの。私を引き止めておいて、あなたはどこかへ行ってしまうというの?」

 エヴァは「余計な話をしてしまった」という表情をちらっと覗かせ、小さく舌打ちした。でも、マリーに対しては笑顔を向け続けた。

「マリー、あんたには、もう少ししたらゆっくり話そうと思ったんだけど、ま、こういう機会に言うのも悪くないかもね。私はルイがいなくなったこの数カ月、真剣に街を離れようと考えてきたわ」

 ジョゼも、初めて聞かされるエヴァの決意に、真顔になって見つめていた。エヴァはジョゼの顔をちらちらと見ながら、平静に見えるよう意識している様子だった。

「新しいヘッドが決まったら、ジョゼにならない限り、グアダルーベをアジトとして使用はしなくなる。頼まれても、私は断るわ。ルイだったから、引き受けてきたの。そうなると街の色も変わるでしょう。私は新しいおさにとっては、鬱陶しい存在になってしまう」

「そんな……誰もがエヴァに頼っているのに、私たちを見捨てるの?」

 エヴァは、困ったという顔で頬笑みながら、マリーの肩を両手でしっかりと支えた。

「マリー、寂しいのは私も同じよ。新しい世界に向かおうとするとき、寂しさは必ず付き纏う。でも、お互い強くなりましょう。あなたは、もうマリオの母親、ジョゼの立派な奥さんよ。しっかり二人を支えてちょうだい。いつまでも泣き虫でいちゃ駄目」

 マリーは話を聞いているだけで、鼻を啜りあげた。エヴァは「あはは」と乾いた声を発した。

「泣き虫が卒業できないなら、泣きながらでもいいわ。生きて、全力で二人の男を支えて。でも、マリオもジョゼも、あんたの笑顔を何より見たいと思うわ」

 ジョゼにも衝撃だったのだろう。喉の奥から絞り出すように声を発した。

「エヴァ、今おまえがいなくなるのは正直、辛い。マリーやマリオのためだけでなく、オレの心にも大きな隙間ができてしまう。考え直してくれないか?」

 エヴァは「ははは」と明るく笑いながら、首を横に振った。

「ジョゼ、あんたに私は止められないよ。理由はわからないだろうけど、私が勝手にわかってることだからいいの。元気で、いて欲しい」

 エヴァがジョゼの視線をやり過ごそうと俯き、「あら」と驚いた声を発した。

「マリオ、起きたの? まあ、目をぱっちり開いて」

 籠の中のマリオは見たこともない場所に自分がいる事実に戸惑っていた。目を動かし、懸命に母の顔を探した。マリーが顔を覗き込むと、ほっとしたのか、火がついたように泣き出した。

「ああ、マリオ、よしよし、ママはここにいるわよ」

 マリーが籠の隙間に両手を差し入れ、柔らかいマリオの身体を抱き上げた。マリオは涙とよだれで顔をべとべとにしながら、マリーの胸に抱きついた。

 マリーがルイに顔が見えるよう、指で頬を撫でながら横を向かせた。ルイは目尻を下げ、マリオに顔を近づけた。

「元気な泣き声だ。それだけ腹から声を出せれば大丈夫だ。マリー、抱かせてくれないか?」

「はい、兄さん」

 マリーはルイにマリオの身体を手渡した。ルイは初めての割には、しっかりと赤ん坊のマリオを抱き上げ、頬に口付けを繰り返した。

 ――やっと兄さんに抱いてもらえた。兄さん、嬉しそうな顔をして。

 マリーは感無量だった。父とは永遠に名乗れない、本当の父親にマリオは抱かれているのだ。

 マリオは、すぐに忘れてしまうだろう。明日になれば、初めて見た髭のおじちゃんの顔など思い出しもしないで、泣いたり笑ったりして暮らしていく。

 だが、ルイは違う。マリオの温もりを伝えられた。どれだけ強いエネルギーになるか計り知れない。それは、親となったマリーが一番よくわかる事実だった。

 マリーは心の中で、ルイに訴えた。

 ――兄さん、これからも生きて。生き延びて、いつかまたマリオの顔を見に来てちょうだい。あなたの……子供だから、私は産む決心をしたの。

 ひとしきりじゃれ合うようにマリオとの接触を楽しんだルイは、顔を上げ、真剣な表情でジョゼを見た。

「もう時間だな。別なルートで帰るにしても、危険だ」

 ジョゼも深刻な顔で頷いた。

「今の泣き声を、地上の人間が聞きつけたら、少し厄介な事態になる」

 壁に掛かった楕円形の時計は、十時半を告げていた。

「マリオが無事に家まで帰りつけるよう、俺が先に出て、通りを歩く人間の注意を引く。おまえたちはその間に夜の闇に身を隠して、なんとか帰り着いてくれ」

 ルイは最後にマリオの鼻に口付けると、重たい身体を慎重にマリーに渡した。マリーは、しっかりとマリオを抱き寄せながら、怪訝に思ってルイを見た。

「注意を引くって、……。兄さんは誰かに見つかったらいけない素性なのよ」

 ルイはマリーを見ると片目をつぶり、口の端を軽く上げた。

「つい最近、ロランド帝国がグエン殺害犯として、俺の首に賞金をつけてくれた。俺を捕まえたいと思う奴らは多いぞ。囮にはぴったりだ」

 マリーが顔から血の気が引く思いで「兄さん!」とルイに縋りつこうとした。その肩を、ジョゼが抱き止めた。

「ジョゼ、兄さんを止めて。危険だわ」

 ジョゼは静かに首を横に振った。

「ルイの言葉に甘えよう。ちょっとした騒ぎが起きれば、オレはおまえとマリオを、なんとかホテルまで連れて帰ることができる」

「兄さんを危険に晒すなんてできない! 殺されるわ!」

「マリー、今は他に道がない。ルイは簡単に死ぬ男ではない」

 ジョゼがどうしても首を縦に振らないので、マリーはエヴァに助けを求めた。エヴァの表情を見て、マリーは頼んでも無駄であると知った。

 マリーは唇をわななかせ、つぶやいた。

「私が……兄さんにマリオを会わせようとしたせいで、こんな――」

「マリー、それは違うぞ。おまえには感謝している」

「感謝って、兄さん、何を言うの」

 ルイは青い瞳をわずかに光らせ、マリーの顔を見つめた。

「おまえは俺に希望をくれた。これから先の人生、マリオの肌の温もりを思い出しながら、生きていく」

 マリーは喉の奥に熱いものがこみ上げた。堪えよう、堪えよう、と、何度も自分に言い聞かせ、熱い息を呑み込んだ。

「兄さん……また会える?」

「ロ・フロ!(誓うよ!)」

 ルイは最後にマリーを見て、強く頷いた。

 エヴァがルイに続いて階段を上ろうとした。マリーは驚いて、呼び止めた。

「エヴァ、エヴァまで、どこへ行くの?」

 エヴァは首だけ振り向き、青灰色の瞳でウィンクを返した。

「ルイの逃走の手助けぐらいできる。あんたたちも、油断しちゃ駄目よ」

「兄さん、エヴァ!」

 ジョゼが背中からマリーの肩を強く掴んだ。

「オレたちも、いつでも出られるよう準備するぞ。何があっても、マリオを落とすな」

 マリーは震える声で、しかし、今度ははっきりと夫に「はい」と告げた。

 ルイ、ジョゼ、エヴァの三人は目線で合図をし、エヴァを先頭に階段を上って行った。マリーはマリオをしっかりと抱え直し、ジョゼの後に続いた。

 一番上の段までマリーが上ると、エヴァが黒い扉を細めに開いた。ジョゼがマリーの身体を暗い壁に寄せ、息を殺した。

 ルイがエヴァに最後に声を掛けた。

「行くぞ」

「エンティエンド!(おーらい)」

 二人は扉を静かに開けると、水蒸気が立ち上る黒い路面を走り出した。

 数秒して、ジョゼの手がマリーの肩に触れたと同時に、二人は反対方向へ走り出した。

 マリーは涙を堪え、懸命に歯を食いしばり、悪い左足を引きずりながら走った。

 ――もう泣かない。絶対に泣かない。泣いてなんか、いないんだから!

 兄は死なない。マリオを残して絶対に死んだりしない。だからマリーも死んではいけないのだ。どんなに苦しくても、心細さに震えても、妻として、母として、生き抜いてみせる!

 ルイが走り出た通りが、にわかに騒がしくなった。人々の嬌声、取っ組み合う音がした。ジョゼの声が耳元で、はっきりと聞こえた。

「マリー、走れ! 振り向くな!」

 マリーは走った。歯を食い縛り、こぼれる涙も拭かず、走った。

 ――兄さん! 兄さん!

 道を曲がろうとしたとき、遠くで銃声がした。

「構うな、走れ!」

 ――兄さんは流れ弾になんて当たらない。どこまでも強いんだから。私が一度は愛し、畏怖し続けた神なのだから!

 更に二発、銃声がした。闇をつんざく絶叫が聞こえた、気がした。

 ――マリー、マリーー!

 マリーは立ち止まらなかった。顔を涙でぐしょぐしょにし、夜の罪の街を走り抜けた。


                          完


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