第三章 教祖の花嫁
第三章 教祖の花嫁
1
伝承する宗教を持たないこの国に、教会堂の存在自体が少ない。十三番通りに建つ教会は、アブリル市の名誉市民となったカトリック信者の男が建立したものだった。
男が亡くなり、家族が市を離れてからは、教会を利用する者が現れず、廃墟となっていた。ステンドグラスの一部は欠け、聖母子像は厚く埃を被っていた。
マリーは教会の礼拝堂に入ると、天井の高さに圧倒された。人々から見向きもされなかった廃墟はマリア信教の信者の手で修復され、過去の美しさが蘇っていた。
ステンドグラスは修復され、汚れた聖母子像は輝きを取り戻していた。
ポールたち五十七名はマリア信教の信者ではあったが、金権体質の教団上層部と反りが合わず、新たな活動拠点として罪の街を選んだ。カルトから弾き飛ばされた残党だった。
きっとポールたちは礼拝堂を磨きながら、マリアの再臨を祈っていたのだろう。祈りは届いたのか。
マリーは警官に守られながら礼拝堂に入り、祭壇へ続く通路を歩いた。両脇の席で祈りを捧げていた信者たちが振り向き、感嘆の声を上げた。
「やはり、マリア様は再臨された!」
「私たちの教義は間違っていなかったのね」
高揚する信者たちは皆、同じ目をしていた。ぎらぎらと異様に光る瞳は、まさに狂人の集まりにマリーには思えた。
――これが、カルトの信者たち。こんな人間たちが街に住み着いていたなんて。
多勢と呼べる人数ではなかったが、狂気が生み出す武力は計り知れない。突入するルイたちは想像以上の危険に晒されるのではないだろうか。甘く見ていないといいのだが。
最前列に座っていたポールが立ち上がった。マリーを誘き出すことに成功し、まるで勝利したような笑みを浮かべた。
マリーは足を止めると、一斉に立ち上がって陶然とする信者たちを睨みつけた。
「お約束の通り、街の人間は連れてきませんでした。警官を連れてきたのは申し訳ないけれど、外では騒ぎになっていて、こうするしかなかったの」
「その警官は、わたしの手のものだから、気にせずともよい、セイント・マリー」
ステンドグラスの下にある祭壇から、聞き覚えのある声がした。マリーは目を凝らし、薄暗い聖堂の先にいる男の顔を見た。瞬間、身体が凍りついた。
「グエン・ロランド……! あ、あなた、なぜここに!」
グエンは色鮮やかなステンドグラスを背景に、まるで祭られた神のように手を広げてみせた。
「この教会が、わたしのものだからだよ、セイント・マリー」
マリーは一歩、二歩と後ずさった。次の瞬間、背中に銃口がぴたりと押しつけられ、前方に押し出された。
愕然と息を呑んだ。てっきり護衛だと思っていた警官は、グエンと通じていたのだ。
マリーの耳元で、喜びに弾んだ声がした。
「警官だって、信仰の自由はあるでしょう? マリア信教の信者が警官をやっている、ってだけの話なのです。あなたをここに招き入れる役目は重大でした」
マリーは頭が混乱した。グエンがこの場にいる状況など、想像してもみなかった。この教会はグエンのもの……意味が全然わからない。ロランド家は敬虔なカトリック教信仰のはずだ。
警官はマリーに拳銃を突きつけたまま、前方のグエンに声を掛けた。
「教祖様、ルイたちは二階の窓から突入する算段を立てています。今すぐ武装した信者を二階に配置する必要があるかと」
グエンがポールに大きく頷いて見せた。ポールは向きを変え、後ろにいる信者たちを見やると、声高らかに言った。
「聖マリアを我々の手でお守りするのだ。男たちは武器を持って二階の窓で待ち構えろ。罪の街のヘッドなど、恐れるな。死をもってしてマリアを助ければ、その者の魂は救われる」
礼拝堂の席の半数を占めていた男たちが一斉に立ち上がった。既に鉄の棒や壊れた窓枠の一部など手にし、武器を引きずる音をさせながら、不気味な整列で通路を歩き始める。
一同はマリーと警官の横を通って、扉の向こうに姿を消した。
ポールはマリーの目の前で立ち止まった。狂気の眼差しで、うっとりとマリーを見つめた。
「さあ、マリア、こちらへ。ヘッドの乱入を信者が阻止している間、お休みいただく場所を用意しております」
「子供たちは、どこにいるの? 子供たちに会わせて!」
ポールは聞こえなかったかのようにマリーの右手を取ろうとした。マリーは手を振って拒否した。前方からグエンの声がした。
「手錠をされたいか? おまえの質問にはおいおい答えていくから、とりあえずは、わたしに従いて来い」
グエンの両脇に赤い制服の屈強な親衛隊員の姿が現れた。今まで隅に控えていたらしい。
マリーの背に銃口が強く押しつけられた。マリーは混乱しながら、反抗だけはしないほうがいいと、ポールにかしずかれ、グエンの背に従いていった。
2
マリーは地下へ続く階段を降り、本来は貯蔵庫であったであろう部屋に連れていかれた。裸電球が天井の五か所に吊るされ、粗末な椅子が六脚、乱雑に置かれていた。
グエンは一番背もたれの高い椅子を選び、部屋の中央に顔を向けて座り、脚を組んだ。親衛隊員は一人が部屋の外で待機し、もう一人がグエンの右横に立った。グエンはぶっきら棒にポールに命じた。
「マリアを座らせろ。無理させて、ここで産気づかれても困る」
ポールはグエンに一礼すると即座に、グエンに向かい合うよう椅子を置いた。マリーは警官に背中を押され、おとなしく椅子に座った。警官はそのまま一歩退き、ポールとマリーの背後に立った。
「質問に答えてちょうだい。子供たちはどこ?」
マリーの右横に立ったポールが恭しく腰を曲げた。
「御心配には及びません。教師の資格を持つ女性信者が算数の勉強をさせています。皆、学ぶことが嬉しいらしく、おとなしく授業を受けています」
「私が来たら解放する約束だったはずよ」
ポールの翠の瞳が陰り、マリーを静かに見下ろした。
「約束を破ったのはあなたも同じだ。ヘッドが突入するなら、子供たちには殉教の盾になってもらうしかない」
マリーは「そんな……!」と絶句した。グエンがくぐもった笑い声を洩らしたので、マリーは思わず横目で見た。グエンはこほん、と小さく咳ばらいした。
「わたしがここで待っていたのは驚きではなかったのかね、セイント・マリー?」
マリーはグエンに身体を向け、真の敵を睨みつけた。
「驚かないわけないじゃない。でも、マリアの絵はセナ・タニグチのものだった。セナを聖マリアと崇め、セナと姿形の似た私を身代りに仕立てる。首謀者があなたなら、納得もいくわ。敬虔なカトリック信者であったはずのあなたが新興宗教の主宰に趣旨替えしたのは意外だったけど」
グエンは不満そうに鼻に皺を寄せた。
「この教団は、そもそもロランド帝国の税金対策のため作られた新興団体だ。この街に逃げ込んだ信者たちは上層部と問題を起こした不届き者だがな。おまえを捕える協力をするなら許してやると、教祖となったわたしが確約したのだ」
「この団体は、ローマ法王が認めるカトリック教とは違うわね。マリアの再臨を説いてるし」
「おまえがカトリックの女になろうとしなかったからだ。わたしは狙った獲物は逃がさない。おまえを得るため、カトリック教による婚姻を諦めた。わたしはマリア信教の教祖として、再臨した聖マリアと結合し、生まれてくる神の子の父となる」
マリーは目眩がしそうになるのをこらえ、深呼吸した。馬鹿げてる! なんと馬鹿げた妄想を抱えた男に執着されたのか!
「私は、ジョゼとすでに結婚してます。アルメシアで重婚は許されないわ」
グエンは片眉と口の端を上げ、狂気の笑みを浮かべた。
「変わらず馬鹿だな、セイント・マリー。カトリック教において、おまえは未婚だ。ローマ法王が認めた婚姻のみ数えられるからだ。つまりマリア信教において、教祖の私が認めないジョゼとの婚姻も無効だ。おまえは未婚であり、わたしと結婚する資格を有している。洗礼式でのおまえの無礼は許してやる。大人しくわたしのものになるがいい」
まるで情けをかけて結婚してやるという物言いに、マリーはグエンの狂気が本物であると知った。
――この男に何を言っても無駄だ。だからといって、言うなりになるものですか!
マリーは頭を抱えた。
3
ポールが突然、マリーの一歩前に出た。手を強く握りしめ、怒りに身体を震わせていた。
「教祖様、聖マリアを馬鹿だなどと仰らないでください。私たちがずっと待ち望んでいた方なのです。あなたは聖マリアが御産みになる神の子の洗礼者の位置なはずです。聖マリアに無礼な言葉を掛けるのは、おやめください!」
グエンの蟀谷がぴくりとひくついた。
「なんだと? 教祖に楯突くとはおまえ、どういう指導を受けてきた?」
「腐った上層部に導かれたから、私はここにいるのではありません。私たちは純粋に世界の平和を願い、祈り続けた。聖マリアがマリア信教総本部に現れず、純粋に活動を続けてきた我々の前に降臨したのは、我々の祈りが通じたからです。聖マリアは、あなただけのものではありません!」
グエンが軽く右手を上げ、人差し指をポールに向けた。横にいた親衛隊員はまっすぐポールに歩み寄り、いきなり首を締め上げた。グエンが低く唸った。
「背信の使徒が何をほざく。おまえたちが罪の街を根城にさえしなければ、密かに全員を惨殺するのも簡単だった。腐った我々に守られてきながら、恩義も感じず反抗するか!」
二十センチも身長差のある大男に胸倉を掴まれ、ポールの足が床から浮いた。マリーは悲鳴を上げた。
「やめて! こんなところで危険なことしないで!」
マリーは立ち上がり、親衛隊員の背中に大きなお腹を押し付けた。その温かさ柔らかさに却って驚いたのか、親衛隊員は腕の力を緩めた。
ポールは胸元から床に落ち、顎をしたたかに打ちつけ、うめいた。マリーは床に膝をつき、ポールの身体を背中から抱き上げた。ポールは口から血を流しながら、感動に声を震わせた。
「聖マリア、なんと温かい身体なんだ……。聖なるあなたを、この身に懸けてもお守り申し上げます」
マリーは背中に人の気配を感じ、怒りの顔を作って振り返った。信徒だという警官が、当惑した顔でマリーの身体に手を掛けようとしていた。
――神を信じている人たちは、どうしてこんなに汚いの! 誰もが私と同じ、汚れた身体じゃないの!
マリーは警官の手を振りほどき、渾身の力で叫んだ。
「神の国に、卑怯なあなたの住まう場所などないわ。地獄に堕ちるがいい!」
警官の手が止まり、恐怖に震えるように小さく痙攣した。
低い震動が二度、部屋を揺らした。天井から砂埃のようなものが落ちてきて、マリーは顔を顰め、天井を仰いだ。グエンは眉をわずかに上げただけだった。
「始まったようだな」
4
ルイが二階から突入を開始したらしい。天井が揺れ、女性信者の悲鳴と暴れまわる足音が、微かに聞こえてきた。マリーは思わず立ち上がろうとした。
「動くな、セイント・マリー。わたしの指示に従わなければ撃ち殺すぞ」
親衛隊員が身を屈め、マリーの耳元に銃口を突き付けた。マリーは恐怖に悲鳴を上げ、目をきつく瞑った。マリーは身体を震わせながら薄く目を開き、懸命に声を発した。
「兄さんは必ずここに辿り着くわ。立て篭もっていても無駄よ、おとなしく投降して!」
グエンは愉快そうに眉を吊り上げ、声を出して笑い出した。
「ルイは馬鹿だから、ここまで辿り着くか、大いに疑問だ。何しろ、おまえの兄だからな。さてと、そろそろ我々も行くとするか」
親衛隊員がマリーの上腕を掴んで立ち上がらせようとした。マリーは腕に力を入れ、抵抗した。
「離して! あなたとなんか行かない! 私とお腹の子は、あなたのものじゃない!」
親衛隊員は問答無用にマリーを引きずり起こした。マリーの手首を握りしめたまま、左手で腰を探り、懐中電灯を取り出した。
グエンは親衛隊員の手からもぎ取るようにマリーの腕を掴んだ。
親衛隊員が懐中電灯を小脇に抱えなおし、部屋の奥に置かれた洋服箪笥を横にずらした。背後の壁材が壊され、黒い土が露出していた。
ポールはなんとか上半身を起こし、グエンの背に叫んだ。
「マリアをどこに連れていくつもりだ! マリアから手を放せ!」
グエンはポールの言葉を無視し、マリーの身体を引きずった。
「おまえは、わたしのものだ。わたしだけのものだ。なぜ、わたしを嫌う? 運命に導かれ、再びこの世で会えたのが、その証拠だ」
マリーは倒れないよう必死に足を踏ん張った。
「私はセナじゃない! セナだって、あなたのものになんか絶対なりたくなかったはずだわ」
壁が剥げた一角は、斧か何かで刳り貫かれていた。奥にちょうど人一人が通過できる程度の空洞ができていた。
マリーの抵抗も空しく、グエンによって真っ暗な地下の空洞に連れ込まれていった。
「運命に逆らうか、セナ! わたしから逃げた上に、勝手に別の男のものになどなりおって! お腹の子は、わたしの子だろう。わたしの手が伸びるのを恐れ、他の男を誘惑し、父親役を務めさせた。今更、受胎告知を受けたなどと、ほざくまいな!」
マリーの頭の中に、いつかの狂人ガブリエルの顔が浮かんだ。
「私はガブリエルから告げられたわ。この十三番通りの広場で、夕暮れの赤い光に包まれていた。白百合を抱えたガブリエルは言ったわ。私のお腹に神の子が宿ったと。恐れることはない、生まれた子にイエスと名付けよと。これは紛れもない事実! あなたのような妄想とは違うの!」
「マリア、マリアを返せ!」
ポールの叫びとほぼ同時に、地下室の扉が開く音がした。
「マリー、マリー、どこだ!」
兄ルイの声だった。
「兄さん、兄さん!」
だが、マリーの視界は後から来た親衛隊員の身体に塞がれ、マリーの叫びは黒い空間に呑み込まれた。
前を進むグエンに親衛隊員が懐中電灯を手渡した。グエンは前方を照らしながら、早足で進んだ。
信者の手で掘られたと思われる道を五メートルほど歩くと、天井まで三メートル程度の大きな地下水道に出た。泥水の流れる、ごぼりという音がした。
グエンがマリーを引きずりながら、地下水道に足を踏み出した。次の瞬間、暗がりからマリーの聞き覚えのある声が、低く響いた。
「身を屈め、耳を押えろ」
マリーは考えるより先に身体が動いた。言われた通り、両手で耳を押さえ、目を瞑ってしゃがみ込んだ。
ジョゼは間髪を置かず、二十メートル程先からグエンの頭部を目がけ、拳銃弾を発射した。
地下水道に銃声が響き渡った。グエンの身体は宙を飛び、空洞の中央を流れる濁った水に落ちた。
続いて炸裂音が響き、後ろに続いていた親衛隊員も頭をぶち射抜かれた。
脳漿を撒き散らし、大の字に背中から倒れた。あまりの凄惨さに、マリーの意識が遠のき、その場に倒れ込んだ。
5
耳のすぐ傍で泥水が流れる鈍い音がした。マリーは顔を起こし、頬についた湿った黒い土を払った。お腹を庇って横向きに倒れたマリーは、上半身を腕だけで起こした。
背後を見ると、ジョゼが二人の男と屈みこんで何やら作業をしていた。ジョゼは見られている気配にすぐ、振り向いた。
「マリー、気づいたか」
マリーは呻きながら「はい……」と辛うじて応えたが、上半身を完全には起こせず、また寝ころんだ。
本能的に大きな腹を触れた。脚の位置をずらそうとしたとき、異変に気づいた。下着からワンピースまで下半身がぐっしょり濡れていた。
「ジョゼ……ジョゼ、どうしよう、破水してしまったみたい」
「なんだって? いいから動くな」
ジョゼは屈みこんで作業を続けている男二人に低い声で何やら指示をすると、マリーの傍に早足で近づいた。マリーの負担にならないよう腰を抱いて身体を起こすと、ワンピースの汚れにすぐ気付いた。
「まずいな。一刻も早く医師に診てもらわないと」
マリーは不安になり、ジョゼの胸にしがみついた。ジョゼが帰ってくるのは明日ではなかったろうか。ともかく、ずっと心細くて、胸が恋しかった。
「私、このまま死んでしまうの?」
「何を言ってる。おまえは、いよいよ母になるんだ。グエンが逃走用に残していたボートがあるから、それを使おう」
マリーは素直に頷いた。夫に不可能なんてない。今もこうして助けてくれた。ジョゼから離れさえしなければ、マリーは何も問題ないはずなのだ。
ジョゼはマリーの身体を横抱きにして抱き上げた。マリーは甘えるようにジョゼの首に腕を回した。
ジョゼは一歩一歩しっかり確かめるように歩き、泥水の上に係留してあった黄色いゴムボートに乗った。ボートは一度ぐらりと大きく揺れたが、ジョゼが踏ん張り、バランスをとった。そのままマリーを仰向けに寝かせた。
ジョゼはマリーと向かい合う形で乗り込むと、オールを使ってボートを動かし始めた。
「ジョゼ……来てくれたのね。一人で心細かった」
ジョゼの表情は暗がりで全然わからなかった。でも、その分だけ逆に温かで穏やかな声が聞こえてきた。
「おまえと子供を守ると、オレは誓った。新婚早々誓いを破れるか。グエンはオレの不在中に事を起こそうとしたらしいが、早く気がついてよかった」
ぎい、ぎい、とオールを漕ぐ音が子守唄のように聞こえた。マリーは当たり前のように尋ねた。
「子供たちは皆、無事よね? 信者も怪我なく全員、投降してくれたわよね?」
ジョゼは一瞬だけ沈黙した。ようやく発した答は、およそマリーを満足させるものではなかった。
「おまえは何も心配するな」
「さっき、兄さんの声が聞こえたわ。兄さんは、なぜここにいないの?」
あれほど自分を愛してきた兄ならば、倒れたマリーをジョゼにだけ任せない気がした。まだマリーは女として一番に愛されている確信があった。ジョゼは落ち着いた声で、決めつけるように言っただけだった。
「今は自分の身体のことだけ考え、楽な姿勢でいるんだ。いいな?」
マリーの頭の中に黒い疑惑が湧きあがった。
6
マリーはジョゼの胸に抱えられ、ホテル・シグロの部屋に運ばれた。エヴァはすでに到着しており、マリーの枕もとに寄り添い、額の汗を拭ってくれた。
すでに破水しているため、医師の措置が必至だった。
だが、教会の占拠事件で街は暴徒が溢れていると噂が流れ、何軒か電話しても、医師は街に来るのを拒絶した。
ジョゼは上着を羽織りながら、緊迫した声を出した。
「直接オレが行って、医者を連れてくる。いざとなれば、拳銃で脅してでも連れてきてみせる」
エヴァと娼婦たちは無言でうなずき、ジョゼの背を見送った。
女将の苛々した早口が聞こえてきた。
「かつて十番通りでお産があったときに産婆をした女性がいただろう。確か、アンヌと言った。アンヌを探しておくれ」
女将の指示を受け、男たちが部屋を出ていく足音がした。
マリーは部屋の中央に置かれたベッドに寝かされ、苦しみにのたうちまわっていた。
意識がなくなったら、どれほど楽になれるだろう。マリーの耳の奥に今もジョゼの発砲音が木霊していた。すでに始った激痛ともいえる陣痛は感覚が短くなり、木霊する発砲音と重なる。
このまま、死んでしまうのかもしれない。もしかしたら、お腹の子は本当に神が遣わした子で、父なる神を冒涜したマリーを罰するかもしれない。
神を信じるつもりは、死ぬ最後の瞬間までない。けれども、人知を超えた存在を畏怖するほど、マリーは弱気になっていた。
エヴァがマリーの頬をさすりながら、母のような温かくたくましい声を出した。
「何も心配しないで。破水しているから、ジョゼが医師を呼びに行ってるけど、産婆のアンヌに取り上げてもらう事態になるかもしれない。でも安心して、私たちが絶対にあんたとお腹の子を守るから」
マリーは懸命にうなずいた。そうよ、そうよね。悪夢は終わったの。新しい命が生まれようとしている。喜びの瞬間は、もうすぐなのだわ。
だが、同じ部屋にいるエヴァと娼婦たちは青い顔をし、ひそひそとマリーに聞こえないよう話をしていた。
「警察は……ルイは見つかってないの?」
「……ヘッドの命で行われた……おぞましい」
「そのぐらいマリーを危機に陥れた人々が許せなかったのね」
兄の話をしているようだが、マリーに聞かれては困るのだろうか。マリーは自然と耳を峙てた。
だが、察しのいいエヴァが、マリーが見詰めているのに気づき、娼婦たちを黙らせた。エヴァは腕まくりして、笑顔をマリーに向け、明るく笑った。
「男は、いざとなったらビビっちゃって、まるで頼りにならない。最後は私たち女が立ち上がらないと、人類は滅亡するわね」
ルイは何をしたのだろう? 他の男たちと共に廊下にいる様子もない。マリーの出産を誰より大事に考え、傍にいてくれるはずなのに。
するとマリーの耳に、まるでマイクを通したようなエコーと共に鮮明な声がした。
「共贖者マリアの振りをした、罪深きマリー。おまえを守るためにどれだけ多くの血が流れたか知らないのか?」
マリーはうっすら目を開け、虚空を見た。誰の声だろう。マリーは声に反発した。
「私は自分を聖マリアだと言ってないわ。周りが勝手に言ったのよ」
マリーの目線の先に、端正な顔をしたブロンドの男の顔が浮かんだ。死んだはずのグエンだった。
――グエン・ロランド! どこまでも付きまとい、私を苦しめるのね!
「懺悔しろ、セイント・マリー。わたしに許しを請うのだ。おまえの腹の子の洗礼者として、洗礼を施してやろう。おまえの子は贖罪の人生を歩み、そう遠くないうちに神の国に帰る」
「私の子は、そんな使命は持たないわ。平凡だけど、長く幸せな人生を歩むの。人間の原罪を償う必要なんてないのよ」
エヴァが声を潜め、マリーの耳元で囁いた、気がした。
「まさか、ルイが信者全員を殺してしまうとは。ルイは騒動の首謀犯として追われる事態になってしまった。神の子の父は、歪んだ思想を持つ新興宗教を許さなかったのね」
ジョゼの囁く声が、左の耳から聞こえた気がした。
「生まれてくる子はオレと全く似ていない。神の子だから、仕方がないか。義父として、贖罪の道を歩む息子を見守っていくとしよう」
マリーは涙を流し、首を横に振りながら叫んだ。
「なんでそんな意地悪を言うの? 神の子でない事実はみな知っているのに。やっとこの世に生まれようとしている子を、なぜ誰も祝福してくれないの?」
グエンは目をぎらつかせ、マリーを糾弾するように指差した。
「おまえが神を思う心を弄んだからだ。神など信じないと言いながら、おまえは神の概念を持ち出し、利用し続けた。神はおまえを許さない。罰を受けるのは当然の運命だ」
「助けて、助けて!」
「そのまま信じなければいいのだ。神などいないのだろう? いないものが、おまえに何をする? おまえは神の存在を確信している。だから怖いのだ」
マリーはグエンの幻影を振り払おうと手を前に出した。
「信じない、神なんて信じない! あなたのような偽物の殉教者も、私の子を神の子だという信者も、私を惑わす全ての声を信じない!」
グエンは耳まで裂けそうなほど口をぱっくり開き、笑った。
「おまえを聖マリアと信じた信者たちは、ルイによって殺された。おまえの子は多くの屍を踏み越え、血まみれの身体でこの世に現れるのだ。生まれながらに大きな罪を持った子よ、贖罪の人生を送るしかないのだ!」
「やめて! 聞きたくない、やめてぇええ!」
マリーの絶叫に周囲にいたエヴァと娼婦たちが振り返った。マリーは腕を天井に伸ばし、必死に何かと言い争うように顔を歪めていた。
エヴァが慌ててマリーの枕元に来た。
「マリー、しっかりして! 幻でも見たの? 私たちはここにいるわ」
エヴァに強く手を握られ、マリーは我に返った。マリーはエヴァに向って叫んだ。
「この子を無事に産ませて! 罪は私が全て背負うから! 兄さんの罪を、この子に被せないで!」
「マリー、あんたが背負う必要なんか全然ない。ルイだって、あんたを苦しめるつもりはなかったはず。無事に子供を産むことだけ考えて」
マリーは絶望した。エヴァはマリーの言葉を否定してくれなかった。
――やはり、兄さんは大きな罪を犯した……。私を愛するあまりに。
緊迫したエヴァの声の調子が、急に上がった。
「アンヌ、アンヌ、来てくれたのね。こっちよ、早く!」
「医師も今、ジョゼに連れられて、こちらへ向かっているって。マリー、あと少しよ、がんばって」
エヴァが声高らかに部屋にいる人間に告げた。
「手伝いのできない者は、外に出て! マリーが出産するわ」
マリーは痛みと安堵で気が遠くなりそうになる中、つぶやいた。
「主よ、助けてください。私はあなたの……はしためです」
マリーは神に敗北し、意識を失った。




