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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第二章 マリアの使命

   第二章 マリアの使命

「おはようございます、ポール先生。エヴァ、今日もお店を貸してくれてありがとう」

「はい、よく来たね。前からつめて座っておくれ」

 ポールは店にやって来る子供たち一人一人に挨拶し、招き入れた。

 グアダルーベのテーブルは、教壇として使う一つを除いて、後ろに片付けられた。子供たちはポールを囲むように椅子を並べた。その日の参加者は、マリーを含めて七人だった。

 子供たちが入ってくる様子を見ながら、マリーが小声で横に立つエヴァに尋ねた。

「義務教育の年齢の子もいるじゃないの。学校には行かなくていいの?」

「どの子も、家では働き手なの。物乞いをしたり、通いのメイドとして働いたりで、朝のこの一時間ぐらいしか勉強する暇がないのよ。ポールは簡単な算数や綴り字なども教えてくれるから、親にも人気なの」

 学校の授業を受けられない子が多い現実に、マリーは衝撃を受けた。子供が持つ当り前の権利すら、この街には存在しないらしい。ポールのおかげで少しでも勉強ができるのなら、歓迎すべき事態なのではないか。

 ポールが特別参加のマリーを前に呼び、子供たちに紹介した。

「マリーお姉さんは、旦那さんが留守の間だけの特別参加です。お姉さんの名前は、セイント・マリー、英語読みで「聖マリア」という素晴らしい名前の持ち主なんです」

 さっそく、九歳ぐらいの少女が手を上げた。ポールが少女を指した。

「聖マリアお姉さんは、お腹が大きいです。それは無原罪の御宿りなのですか?」

 他の子供たちが感心して「ほーっ」っと溜息を漏らした。ポールは慌てて首を横に振った。

「違いますよ。本物の聖マリアは、人間が犯した原罪の与り知らない妊娠をしました。でも、ここにいるマリーは、旦那様と愛し合い、子を宿しているので、無原罪の御宿りとは言いません。そうですね、マリー?」

 マリーは一瞬どきりとしたが、すぐ笑顔を作った。

「そうです。お腹の子は、夫との間にできた、普通の人間の子です」

 ポールは少女に向かって。真顔で告げた。

「聖マリアはキリストの母である聖人です。マリーのことを、そのように呼んではいけませんよ」

 マリーは苦笑した。子供たちが戸惑う説明をしたのは、ポール当人なのに。こういうところは、やはり正式な教師のようにはいかない。

 別の少女が手を上げ、ポールが指さす間もなく立ち上がった。

「どうすれば、マリアのように神の子を生めるのですか? 私は原罪を持った汚い人間の子なんて、宿したくないです」

 話は、さっそく宗教色の強いものになっていた。ポールは昨日も配っていたチラシを、手で掲げた。

「マリアは神に選ばれた人なのです。僕たちも二十一世紀にマリアが来臨すると信じています。この絵の女性は、我々に約束しました。「私は必ず戻ってくるから、そのときは探し出してください」と。これが、マリアの再臨です。もうじき黒髪のマリアが現れ、私たちの世界に神の子を授けてくれるでしょう」

 十歳ぐらいの少年が、やおら立ち上がった。

「その絵の女性はマリーだよ。黒髪じゃないけど、そっくりじゃないか!」

 マリーは、慌てて手を胸の前で振って、否定した。

「全然、似てないわ。私は目も漆黒ではないし。何より神様の子なんて宿していません」

 少年は負けていなかった。

「そんなの、わかるもんか。マリアにだって夫のホセがいたんだ。それなのに、神の子を宿したんだもの。マリーだって、そうかもしれない」

 もう一人別の少年が、大変な事態に気づいたと声を上げた。

「マリーの旦那さんは、ジョゼっていうんだ。ポルトガル語読みでホセの意味だって、母ちゃんが言ってた。つまり、マリアとホセの夫婦で、今お腹に子供がいるんだよ!」

「静かに、静かに!」

 ポールが声を上げたが、もう子供たちは大騒ぎだった。マリーは「ああ」と額に手を当てた。その後の授業はポールが強引に算数の課題を作り、子供たちは、しぶしぶ問題を解いて終わった。

 子供たちが帰り、テーブルと椅子を元の位置に戻すと、エヴァは三人分のコーラの栓を抜いた。

「お疲れ様。なんか今朝の授業は大混乱だったわね。子供たちはずいぶん聖書のこと詳しくなっちゃって、傍観者の私は全然わからなかったわ」

 ポールは額に掛かった赤毛を掻きあげ、神妙な顔でコーラの瓶を受け取った。

「僕も大変、戸惑いました。子供たちが純粋である分、僕は常識に凝り固まった人間のような気がしてしまいました。マリー、あなたの旦那様は本当にジョゼと言うのですか?」

 マリーは意識的に困った顔を作って頷いた。

「偶然そういう名前だったってだけなの。私もジョゼも何も信心はしていないから、どんな名前であろうと、関係ないのよ」

 ポールはマリーの言葉に、明らかに落胆の色を示した。

「あなたのような女性が信心をしていないのですか。神の心を知れば、今以上に日々に幸せが訪れるでしょうに」

 エヴァが真顔でポールに釘を刺した。

「マリーに信仰を強要しないでちょうだい。旦那様が宗教大嫌い人間なの。下手に神々しいものだから、第二のマリアとか担ぎ上げられそうで、怖いわ」

 マリーは自分が言うより早くエヴァに牽制してもらって、ホッとした。だが、ポールは眉間に皺を作り、考え込んだままだった。

「聖マリアだって、最初から自分の使命に気づいていたわけではない。使命ある人は、自分の思い通りに生きるなんて、許されないんです」

 ポールは興奮に顔を赤らめ、澄んだ碧の瞳で宙を見つめていた。言ったところで、ポールは我に返った。

「別に、マリーに使命があるという意味ではありません。そうだ、お腹の子の性別は、もうわかってるんですか?」

 マリーは小さく微笑んだ。

「いいえ。アブリル市のお医者様は、超音波で見られる機器を持っていなくて。生まれてからのお楽しみなの」

 エヴァがコーラの瓶を頬に当て、うっとりと目を閉じた。

「マリーの子は、罪の街の子よ。この街で生まれ、育まれていくの。大きくなる頃には、この街もいい方向に変わってるといいわね」

 マリーもエヴァにつられて微笑んだ。

「この街に来て八か月しか経ってないけど、私の故郷はこの街よ。エヴァがいて、ジョゼがいて、兄さんがいるこの街が、私は大好きなの」

 ふと妙な沈黙に、マリーはポールを見た。ポールは碧の瞳をぎらつかせ、険しい顔でマリーを見ていた。

 だが、すぐに笑顔を作り、瓶を掲げてみせた。マリーは作り笑いを浮かべたものの、ポールの顔をまともに見られなかった。

 グエンはマリーを、セナの生まれ変わりと言った。偶然とはいえ、セナの再来を待ち望んでいるポールたちが、マリーを要らぬ厄災に巻き込みはしないだろうか?

 しばらく夫はいない。エヴァは手放しにポールを信頼している。心細さが募る。

 ポールとは距離を置き、詳しい事情を知られないようにしなければ。

 翌朝、マリーが目覚めると、もうエヴァは階下へ降りていた。

 マリーは勉強会の内容が、どうしても気になった。神様の話を聞いたついでに勉学ができるのなら、歓迎すべきかもしれない。だが、その教えがカルトであれば、子供たちは利用され、信者として育成されてしまう。

 マリーはジョゼほど宗教の現実に詳しくはなかったが、心配する気持ちは同じだった。

 マリーは身体を起こし、ゆったりした茶色のワンピースに着替えた。髪を櫛で整え、軽く化粧を済ますと、階下へ降りた。

 店内に子供たちの声はしなかった。代わりにダニエルとエヴァの言い争う声がした。

「宵っ張りの大人が寝ている朝のうちに、子供たちを集めて何が悪いの?」

「ヘッドの許可を取っていないなら、何の会合であろうと禁止なんだ」

 マリーは一瞬、階下に降りたことを後悔した。しかし、ダニエルに即座に見つかってしまった。

「よお、聖母様。大事なアジトを、知らない間にあんたを祭る教会にする気だったか?」

「マリーには関係ないわ。私が勝手にしたんだから、責めないで」

 エヴァは階段を降りたマリーを守るように傍に寄った。背中に手を添えて、いつもジョゼが座るテーブルに着かせる。

 マリーは嫌味な笑みを浮かべているダニエルを無視し、エヴァに問い掛けた。

「子供たちは、どうなったの? 追い出されてしまったの?」

「ダニエルが怒鳴り込んできたとき、ポールと私でテーブルを片づけていたところだったの。ポールは追い出されたんだけど、店の前に立って、やって来る子たち一人一人に、丁寧に説明をして。いったい何がいけないっていうのよ。勉強の場を奪うなんて!」

 エヴァは怒りに顔を赤くしていた。マリーは複雑な気持ちだった。ホッとしたと言えば、その通りなのだ。

 マリーはダニエルに向き合った。

「勉強会が駄目だというのは、ここがアジトだから? それとも、教義が怪しいから?」

 ダニエルは眉間に皺を寄せ、大きく首を横に振った。

「ただビラを配るだけならともかく、集会をして妙な教えを広めるのは、禁止だ。ヘッドの名の下に治安を守ってきたこの街に変な思想が入り込んだら、乱れの元となる」

 その言い分は、マリーも理解できた。たった一日、出席したたけだが、子供たちはマリーが舌を巻くほど、教えを理解していた。

 マリーはエヴァに提案した。

「エヴァ、子供たちに勉強をさせるだけなら、大人たちが交代で教えればいいことだわ。私も小学校の算数と綴りぐらいなら、教えられる。兄さんの許可を取って、私や他の大人が勉強会をする、というのはどう?」

 エヴァは頬に手を当て、考え込んだ。

「私は教義とかじゃなく、子供たちに勉強をさせたかっただけだから、ありがたい話だわ。でも、ポールに申し訳なくて」

 マリーは、これを機会にエヴァにも注意して欲しいと思った。

「エヴァ。どんな宗教でも、教えはただの道徳ではないわ。信じる神を敬う心は、一見すると美しいけれど、正式なカトリック教でない以上、どこかに宗教家に都合の良い落とし穴があるのよ。ポールがいい人だからって、彼が信じる宗教まで良いものだと考えないほうがいいわ」

 エヴァは目を細め、ゆっくりした声で尋ねてきた。

「それが、洗礼式の準備の学びをした、あなたの結論?」

 マリーは大きくうなずいてみせた。

「ポールが教えようとしていた宗教は、非科学的なマリアの再臨を説いていたわ。やっぱり、どこかおかしいわよ」

 ダニエルが不満そうに鼻に皺を寄せ、マリーに顔を近づけた。

「マリーも反対なら、話は決まりだな。これからヘッドに会って、教会からマリア信教の信者を追い出そう。俺たちは、ヘッドの下で統一されていればいいんだからな」

 店の電話が鳴り出した。エヴァは面倒くさそうに頭を掻きながら、歩いて行き、受話器を取った。

「あら、ポール? 今どこにいるの? 教会?」

 マリーとダニエルは顔を見合わせた。ダニエルが何か言おうとするのをマリーが唇に指を当て、制した。エヴァの声が戸惑いに変わった。

「子供たちもそこにいるって、どういう意味? 親たちの許可は取ったの?」

 マリーは思わず立ち上がり、エヴァの傍に近寄った。エヴァが受話器を少し離し、マリーにも聞こえるよう耳に当ててくれた。

「もちろんです。みんな初めての教会堂に興味津々です。それより、セイント・マリーに代わってください。子供たちが会いたがっているんです」

 エヴァは目を大きく開き、マリーを見た。マリーはうなずくと、エヴァから受話器を受け取った。

「マリーです。子供たちが教会にいるんですって?」

 ポールの低く穏やかな声が返ってきた。

「聖マリア、これからミサをするんです。あなたにも是非、ここに来ていただきたい」

 マリーは不快さを隠さず、ポールに訴えた。

「私は聖マリアでも何でもないし、あなたたちの教団とも関係ないわ」

 マリーの険しい声を聞いても、ポールの穏やかな声は、不気味なほど変わらなかった。

「マリア、こちらに子供たちがいる事実をお忘れなく。エヴァに聞かれてもまずくないように「はい」だけ言ってください」

 マリーは身体が凍りつく思いだった。子供たちが人質に取られている!

 温和な声な分だけ余計に、ポールの仮面の下の邪悪さが感じられた。

 ――よくも今までエヴァたちを騙してきたわね!

 マリーはエヴァを手で招き、受話器からの声が聞こえるよう耳を近づけさせた。

「マリア? 「はい」です。言えるでしょう?」

 マリーは湧き上がる怒りを抑え、なんとか声を発した。

「……はい」

「あなたのことを教祖に話したら、新世紀のマリアに間違いないと言うんです。他の信者も、あなたに是非とも会いたいと言っているんです」

 マリーは絶句した。

「マリア? 「はい」はどうしました? みんな、あなたの到着を待っているんです。子供たちも、退屈してしまいます。教会の備品を壊したりしたら、相応の処罰はしないといけませんね」

 ポールは暗に、子供たちの身の危険を示唆してきた。マリーの恐ろしい予感は当たってしまった。

 エヴァが顔を赤くしていったんマリーから離れた。怪訝な顔つきのダニエルに、事情を説明するべく、近づいた。

「信者の男は、さっきからなんて言ってるんだ?」

 エヴァがダニエルの耳元で、今、電話の向こうで起きている事態を伝えた。ダニエルの顔が見る見る蒼白になった。

「子供たちが人質に?」

「しっ! 声が大きいわ。マリーは誰にも言わない振りをしてなきゃならないの」

 ポールの低い声がマリーの耳元に響いた。

「エヴァには巧いこと言って、ごまかしてください。あなたなら、できますよね。子供たちのためなんです。「はい、わかりました」と言ってください」

 受話器の向こうから、子供たちが騒ぐ声が小さく聞こえてきた。まだ自分たちの身に起きている危機を理解していないようだ。

「マリア、誰にも事情を言わずに来てくださったら、子供たちは無事に返します」

 ダニエルは「ルイに報告して、教会から信者を追い出す」と言っている。乗り込んだときに子供たちを盾にされては危険だ。子供たちを教会から解放しなくては。

 ここは、ともかくポールを怒らせたり刺激しないほうがいい。マリーは低く、唸るように告げた。

「……はい、わかりました」

 5

 マリーは受話器を置くと、がっくりと椅子に腰を落とした。ダニエルは直ちにルイに事態を知らせるべく、店を出て行った。

「私のせいで子供たちが……でも、なぜ私が新世紀のマリアにされなきゃならないの? お腹の子は、およそ神聖とは程遠い、罪の子なのに」

 エヴァはマリーの肩に、そっと手を掛けた。

「じきに十三番通りの教会堂は、街の男たちで取り囲まれる。信者がもし抵抗したら、武力で押し入るでしょう。子供たちを安全に避難誘導する役目は、私が引き受けるわ」

「武力って、怪我人が出てしまうかもしれないわ。警察に連絡したらどうかしら。警察なら、立てこもり事件の解決に実績があるでしょう?」

 エヴァは諦めたように首を横に振った。

「街の人間を警察が守ってくれるわけないじゃないわ。みんな、叩けば埃が出てくる素性なのよ。街で起きた事件は、街の人間で解決するしか手がないの」

 急に店の外が騒がしくなった。何の前触れもなく、ルイが数人の男を連れて、店の中に入ってきた。

 ルイはマリーの存在を確認すると、小さく安堵の息を吐いた。すぐにエヴァに向かって命じた。

「救出にあたり、狙撃手を探せ。まったく、こんな時にジョゼが不在だとは!」

 マリーは落ち着かなくルイに近づいた。

「兄さん、皆を無事に取り返してくるわよね? 信者たちも殺したりしないわよね?」

 ルイは一瞬むっと黙り込んだが、すぐに真顔でマリーに告げた。

「逆恨みして、おまえに危害を加えようとする親がいないとも限らない。店に一人でいないほうがいい。エヴァの傍から離れずに、俺たちの救出を見守っていろ」

 マリーは納得がいかず、再度しつこく問い掛けた。

「信者を殺したりしないわよね、兄さん!」

 ルイはイライラと背中越しにマリーを見やった。

「時と場合による」

 ルイは手下に教会の見取り図を広げさせ、突入の場所を検討し始めた。

 ルイたちから数分の遅れで、エヴァとマリー、護衛のフリオが店を出た。

 朝早い十三番通りの広場には、子供たちの親の他に野次馬ざっと百人程が集まっていた。

 ただ、予想に反して、群衆を三人の警官が抑え込めていた。エヴァが「信じられない!」と、口を開けた。

「街が廃墟になろうが何とも思わない連中なのに。なんだって今日に限って、仕切ってるのよ」

 確かに、罪の街にそぐわない光景だった。街の人間は警官に顔を見られるのを恐れ、互いの背に隠れ、教会に面した広場前方はガラ空きだった。

 マリーも信者から顔を見られないよう用心し、野次馬に紛れて様子を窺った。

 この事態を、果たしてルイが予測していたかどうか。ルイが今、警官の傍に行けば、いくつかの罪で逃走中の犯人として捕まってしまう。

 護衛のフリオですら、警官と目を合わせないように、野次馬に隠れた。確か逃走中の身だ。護衛よりも己が身の危険を優先しても、マリーは文句は言えなかった。

 マリーは背伸びして兄を探したが、見つからない。ルイの子分がうまく隠してやってくれているといいのだが。

 エヴァは教会の周りの高い建物を見やった。

「ルイたちは、二階から忍び込む算段なの。もう準備はできているはずだわ。この際、警官は無視して強行突破するでしょう。狙撃手がジョゼじゃないのが、ちょっと不安だけれど」

 やがて十三番通りの角から一名の若い警官が走ってきて、仲間と合流した。若い警官は上司に敬礼すると、野次馬にも聞こえる大声を出した。

「今回の騒動は、廃墟だった教会堂に住み着いた信者が、この街の女性を新世紀のマリアと崇めたのが原因です。マリアとされる女は電話でミサに来ると言った。約束を反故にされないよう、共にミサを行うため集められていた子供たちが人質となっております」

 野次馬がざわめき出した。ひそひそとマリーの名前を出す者もいた。

「マリアと引き換えに子供たちを返すというなら、そうさせればいい」

 中年の警官は、ためらいを見せた。

「マリアとされる女性とて、民間人だ。危険に晒すことはできん」

 横で聞いていた先輩格の警官が声を上げた。

「子供たちと違い、崇められているんだ、危害を加えられはしないだろう」

 若い警官は先輩警官の言葉に勢い込んだ。

「聖マリアと崇める女が、馬鹿なことはやめろ、と一言きっぱり言えば、こんな事件、あっという間に解決します」

 マリーは拳に力を込め、怒りに震えた。

 ――それでも国民を守る警察官のつもり? エヴァの言った通り、この街の人間は人として数えてもらっていない。

 若い警官が、野次馬に向かって叫んだ。

「セイント・マリー・クレメール。協力していただきたい。あなたの身の安全は、警察が保証する。ここにいないのなら、誰か案内してくれ」

 警察が保証する? いったい何をしてくれるというのか。真剣にこの街を守ろうという気概が、まるで警官たちからは感じられなかった。それどころか、カルトとも呼べるマリア信教に関し、甘い考えばかり述べている。

 マリーが単身で乗り込む危険を冒すなど、あり得ない。兄も今、強行突入の準備をしているはずだ。下手に動くと、足手まといになる。それ以上にマリーの身が危険だった。

 母として妻として、自分の身を大事にする義務がある。マリーはそっと群れから離れようとした。そのとき、マリーに駆け寄ろうとした女がいて、エヴァが素早く、身をもって制した。

「マリーに何をしようというの? あ、あなた、確か子供さんが教会堂の中に……」

 人質にされた子供の母が、エヴァの肩越しに必死の形相で訴えた。

「マリー、あんたなら、警察も守ってくれる。崇められているのなら、危害も加えられない。どうか、うちの子を助けて。ちょいと中に入って、信者を説得すりゃいいんだから!」

 エヴァが歯を剥いた。

「簡単に言わないで! マリーに万が一のことがあったら、ジョゼに何と言えばいいのよ」

 傍にいた野次馬たちが振り返ってマリーを見た。

 すぐにマリーが通れるほどの道が人々の間にでき、その先で四人の警官がマリーに視線を集中させていた。

 若い警官が数歩、さっと足早にマリーに近づいた。

「クレメール夫人、事態収拾に協力してください。あなたを聖マリアと崇める信者たちは、あなたの声なら聞くはずです。子供たちの解放を命じ、あとは出てくるだけでよいですから」

 エヴァが声を荒げた。

「マリーは身重なの。子供たちの誘導なら私がするって、さっき決めたのよ!」

「信者が聞くのは、クレメール夫人の言葉だけです。あなたは凶暴なヘッドと共に武力突入を目論んでいるようだが、子供たちの安全が第一です。ほら、親御さんも不安な顔で見ているでしょう」

 野次馬や親たちはたちまち不審の目でエヴァを睨んだ。エヴァもさすがにたじろいだ。

 若い警官がマリーに向かって歩いてきた。手を差し出し、マリーが歩けるよう、脇に寄った。

 とんでもない事態になった。貧乏な街に住み、母となる日を指折り数えていただけなのに、聖マリアの再臨などと言われるなんて。どうしてそっとしておいてくれないのだろう。

 以前から神々しいと言われ慣れているし、ポールの言葉に嫌な予感も感じた。

 こうなったら覚悟を決めよう。

 崇められているせいで事態に巻き込まれているのなら、ここは警察の指示通り、聖マリアの御託言というものを存分に使ってみようか。聖マリアになりきって、信者たちを説得してみよう。

 兄は警察とは別に救出作戦を実行するだろう。教会堂にマリーがいたら、子供たちの誘導をエヴァの代わりにできるかもしれない。それにはルイに、マリーが講堂内にいる事実をエヴァに伝えてもらわなければ。

 マリーは傍に来た若い警官を睨みつけた。

「あなたも中に入ってくれるんですか?」

「私が護衛して中に入る。信者が余計な真似をしたら、すぐ発砲し、あなたの身は守ります」

「では、私の身体に触れないで。信者にとって私は神聖な身体、刺激をしないでください」

 マリーはエヴァの手を取った。

「エヴァ、兄さんと連絡を取って今の状況を伝えて。突入の判断は兄さんに任せます。不測の事態が起こった場合、私が子供たちを誘導します」

 マリーはエヴァがうなずくのを確かめると、警官の後を歩いていった。最後に振り返ったときエヴァは、マリーを勇気づけるように握りしめた拳を胸の前で振った。


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