第三部・原罪の果てに 第一章 黒い髪の聖母
第三部・原罪の果てに
第一章 黒い髪の聖母
1
午後四時、マリーは臨月の大きなお腹を抱え、グアダルーベへ向かっていた。西に傾いた太陽が、マリーと護衛のフリオの影を長く伸ばした。
「この道もだいぶ歩きやすくなったわね。昔は路上に食べ残しが平気で捨ててあったけれど」
本日の護衛フリオは、マリーの横を歩きながら「確かに」と頷いた。
「最近、空っぽだった教会堂に住み着いた信者たちが、道の清掃をしているんだよ」
「まあ、教会が勝手に使われているの?」
マリー自身、信心していないから教会が浮浪者に荒されようが大した問題ではない。だが、新しい住人ならば話は違った。今や兄のルイと共に街の治安を守る夫の頭痛の種は、増やしたくない。
フリオが道の少し先に何かを見つけ、指を指した。
「噂をすれば、あそこでチラシを撒いている青年が、その新興宗教の信者さ。今のところ害を与えていないから、ルイもジョゼも静観している」
青年は何やら人物の絵が入ったチラシを行き交う人に差し出していた。手に取る者、手渡された途端に道に捨てる者、いろいろだった。
青年は腐らず笑顔でチラシ配りを続けていた。カルトの如何わしさは感じられない、見たところ、好青年だった。
マリーは無視して通り過ぎようとした。宗教はどんな類も拘わりを持ちたくなかった。
すぐ横を通り過ぎると、青年は大口を開け、驚いたようにマリーを見つめた。マリーはうんざりした。どうせまた、崇拝する聖母マリアそっくりだ、とでも言われるのだろう。
案の定、青年はマリーの背を追ってきた。
フリオが即座にマリーとの間に割って入った。フリオはマリーを背に隠し、威嚇するように声を発した。
「坊主、何か用か?」
青年はびくりと肩をひくつかせ、おどおどとマリーに向けて言った。
「奥さん、髪飾りが落ちました」
マリーが振り返ると、青年は顔を赤らめ、掌に青い薔薇の髪飾りを載せていた。
「まあ……ありがとう。気がつかなかったわ」
マリーが手を伸ばすと、青年は髪飾りをチラシにとめて、渡してきた。
「健やかなお子様が生まれますよう、お祈りしています」
青年はすぐにマリーから目を離し、チラシ配りを再開した。マリーは恥ずかしさに下を向いた。親切にされた手前、チラシを捨てるわけにもいかず、四つ折りにして手に持ったまま、再び歩き出した。
フリオは言い訳のように声を発した。
「ま、悪い奴じゃないとは思ってたんだが」
2
グアダルーベを訪れるのは、産休に入って二か月ぶりだった。
マリー自身は至って元気で、臨月まで勤めたいぐらいだった。でも、お腹が大きくなると、狭い店内で動き回るのも迷惑をかけた。
七か月になると、ホテルの一室に籠り、編み物などして日々を過ごしてきたが、ジョゼと常に一緒にいられない理由からも、退屈でストレスも溜まっていた。
そんなとき、エヴァから晩餐の誘いを受けた。兄のルイ、夫のジョゼ、友人のエヴァと四人で水入らずで店を締め切って豪勢な食事をしよう、と言ってくれたのだ。
たぶん、マリーの不満がジョゼを通して伝わったのだろう。マリーは朝から浮き浮きと、何を着ていくか鏡の前でワンピースを取っかえ引っかえした。
「ねえ、フリオ、今夜は店でジョゼと一緒になるから、店の前まででいいのよ」
フリオはマリーの横を並んで歩きながら、答えた。
「一応、お開きになるまで、外にいる。ジョゼは明日から仕事で四日ほど出かけるはずだから、マリーはグアダルーベに残ることになるだろう」
マリーは「そうだったわね」と声を落とした。ジョゼは仕事の事情をマリーに何も言わない。護衛の人間から聞かされて初めて知る事実も多い。マリーはジョゼ不在の四日間、エヴァが眠るグアダルーベの二階に里帰りする。
そうこうするうち、二人は十六番通りに到着した。マリーは大きく息を吸い込んで、元気よく扉を開けた。羊の肉が焼けるいい匂いが漂ってきた。
「エヴァ、こんにちは、今日は呼んでくれてありがとう」
長い髪を後ろに縛り、エプロンをしたエヴァが厨房から出てきた。エヴァはマリーの顔を見るなり、顔を輝かせ、両手を広げた。
「いらっしゃい、マリー、それとお腹の赤ちゃん。また大きくなったみたいね」
エヴァは愛おしげにマリーのお腹を撫でた。
「早く出て来い。エヴァおばちゃんは、あんたに早く会いたいんだから」
「エヴァったら、そんなことを言ったら、私が料理にありつく前に出てきちゃうかもしれないじゃないの」
エヴァは手を腰に当て、陽気に笑った。
「そうね。今日は出産のため体力をたっぷりつけてもらおうと、腕に縒りを掛けたのよ。ルイもジョゼももうじき来ると思うから、そこら辺に座っていて」
マリーは「ええ」と微笑むと、改めて店の中を見廻した。相変わらず清潔に掃除が行き届いた店内は見ていて気持ちがよかった。マリーは赤茶色の壁の一角に目を留めた。
見覚えのあるチラシが鋲で留めてある。マリーは目の前まで近づいた。
長い黒髪の少女が両手を広げ、頭上に後光が差している。ここへ来る途中で青年が配っていたものだ。少女の絵の下には「私はあなたの元に戻ってきます」と意味深な文言と、「マリア信教教会」の名が記されていた。
「エヴァ、これって、どうしたの?」
エヴァがカウンターから顔を上げた。
「ああ、ポールがここに貼って宣伝してくれって。最近この店によく来るの。正式なカトリック信者ではないらしいんだけど、まともなこと言ってるし、街の平和のために、いろいろ考えてくれてるのよ。でも、ジョゼに見つかったら、剥がさないとならないかも」
「あら、どうして?」
マリーは不思議だった。ジョゼは信心はしていないが、宗教を批判してはいない。エヴァが鼻に皺を寄せ、大げさに顔を顰めてみせた。
「詳しくは知らないわ。新興宗教ってのは、世界は終わるとか恐怖を植え付けて、信者を募る特有のやり方があるっていうのよ。詳しい話を聞きたかったら、食事のとき話題に出してみたら?」
マリーはぼんやりと黒髪の少女の絵を見ていた。聖マリアが黒髪なのは、珍しい。それより、誰かに似てはいないだろうか?
3
新興宗教についてマリーがジョゼに尋ねたばかりに、せっかくの晩餐が台無しの、重苦しい空気に包まれてしまった。
「どんな教義を謳っていようと、新興宗教は感心しないな。エヴァ、そのチラシは、剥がしておけ」
チラシに関してはエヴァの予想通りだった。マリーはさりげなく問い掛けたつもりだったが、ジョゼはあからさまに不快感を表した。
「キリスト教に黙示録がついている限り、人為的に大きな事件を起こし、自分たちの教義の正しさを実証しようとする下劣な輩は減らない。カルトの悲劇は、世界中でいつの時代も起きうる」
「あら、ポールはただ、己を律した日々に幸せは訪れると説いているだけよ」
エヴァは信者ポールの人柄によっぽど惹かれているらしい。
マリア信教教会の是非論争は二人に任せ、マリーは兄にチラシを指差した。
「黒髪のマリア、誰かに似てると思わない? その……私たちがよく知っていた人に……」
マリーはよく見えるようにと、ポールから貰ったチラシを兄の前で開いた。ルイは難しい顔で、黒髪のマリアを凝視した。
「……写真を加工したものだな。それも、だいぶ前の。おまえは、セナ・タニグチを覚えているか? 俺が高校一年のとき、日本から叔父貴を頼ってやって来た娘なんだが」
マリーは嫌な予感が当たり、不気味さに肩を震わせた。
「ずいぶん前に亡くなったのよね。彼女の写真が使われたのは、偶然かしら」
「そりゃあ、そうだろう。おまえに似て神々しい雰囲気を持っていた。新興宗教の偶像にされたんじゃ、セナも堪ったもんではないな」
マリーは「そうね」と同意して呟いた。兄が知る以上の事情を、わざわざ告げる必要もないだろう。
ロランド邸に浚われた夜、グエンからセナとの約束の話を聞いていた。グエンは悲劇の主人公になり切って、マリーに告げた。
――「セナが言った。『必ず戻ってくるから、その時は、私を探して。生まれ変わった私は、必ずあなたの傍にいます』と」
チラシに記されている「私はあなたのもとに戻ってきます」の文言は、グエンが告げられたという台詞と、よく似ている。
マリーは首を横に振り、不吉な思いを追い払った。グエンがマリア信教に関わりがあるわけない。ロランド家は代々敬虔なカトリック教徒だ。新たに別の神を作るわけがない。
セナがこの国にいたのは事実だから、写真が残っている場合もあったろう。マリア信教が毛色の変わったマリアを担ぎ出して宣伝をしている。マリーもそれ以上は考えなかった。
せっかくの晩餐なのに、余計な話題を出してしまった。
「ねえ、あなた。そのヒヨコ豆の煮物を取ってくださいな。いくら食べても、お腹が空いちゃう」
「二人分だからな。まだまだ食事はなくならないから、たんと食べろ」
マリーの甘えた声にジョゼは目尻を下げ、スプーンに手を伸ばした。今夜から四日間、会えないのだ。マリーは夫のぬくもりを蓄えておきたくて、その肩に身を寄せた。
4
ジョゼと兄と別れ、気持ちが沈んだマリーだったが、グアダルーベの二階に上がると、浮き浮きした思いが再び込み上げてきた。
全てがここから始まった、あまりに懐かしい部屋だ。マリーはエヴァと並んでベッドに入ってからも、どうしても興奮を抑えることができずにいた。
エヴァは苦笑しながらも、楽しくマリーと過ごしてくれているようだ。
「この部屋に来ると落ち着くわ。いつも両隣は営業中なものだから、夜中もなかなか眠れなくて。ジョゼがいてくれないときは、いつ間違って客が入って来ないか、びくびくしてなきゃならないの」
エヴァは、からからと明るく笑った。
「両隣りに負けないように、あんたたちも頑張ればいいんだろうけど、臨月じゃね。客が間違って戸を叩くってのは、よくあることでしょうね。ジョゼも気が気じゃないでしょう。ジョゼがいないときは、ここに戻ってくるのが正解よ」
マリーは枕を抱え、エヴァの横でじゃれるように寝返りを打った。
「それにしても、十六番通りの雰囲気も、少し変ったわ。清潔になったはいいけど、突然に宗教団体が入って来て、面倒な事態になってない?」
エヴァは鼻に皺を寄せ、小さく首を横に振った。
「みんな、いい人たちよ。中でも一番に布教に熱心なのが、ポールなの」
マリーは「そう……」とゆっくり考えた。ポールたちが、ジョゼを奪われたエヴァの心の隙間に入り込んではいないだろうか。
「ポールは、いつも仲間と一緒に店に来るの?」
エヴァは寝ころびながら肘をついた。
「ううん、いつも一人よ。最初は宗教活動してるとも気づかなくて。でも、客の乱闘には身を呈して仲裁して自分が怪我したり、馬鹿がつくほど御人好し。放っておけない感じなの」
「エヴァがそう思うんなら、平和的な宗教活動だと考えていいのよね」
エヴァは仰向けになり、天井を見上げた。
「ジョゼには、とても言えなかったわ。だけど、朝の一時間程、グアダルーベの店舗を使って、子供たち相手に勉強会をさせてやってるの。人はどう互いを思い合い、生きていくべきか。教会堂は信者が寝泊まりして一杯だし、街の人間にも敷居が高いから。私は場所を提供しているだけだから、参加したことはないんだけどね」
マリーは眉を顰めた。エヴァは無知故に、宗教と道徳を勘違いしている。どの神も信者の生活に影響を及ぼし、時にあらぬ方向に導くとジョゼも注意していたではないか。
グエンがマリーを諦めたのは、カトリック教がロランド家の日々の生活だけでなく、それぞれの人生に強い影響をもたらすからだった。
利用の仕方を間違えると、宗教は命取りになる。
「エヴァ、宗教を簡単に考え過ぎているわ。マリア信教の本来の目的は、道徳を教えることじゃないはずよ。私は、ここを勉強会に貸すのは反対だわ」
エヴァは面倒くさそうに寝返りを打った。自分の考えがマリーに理解されず、気を悪くしたようだ。
「ここは私の住処よ。いつ何をしようが、私の勝手だわ」
マリーはエヴァの背になるべく優しく聞こえるよう声を発した。
「私も、その勉強会に出てみるわ。カトリック教の学びをしているから、怪しいカルトだったら気づくかもしれない」
エヴァは背を向けたまま、答えた。
「御好きにどうぞ。おやすみ」
この程度でご機嫌が治らないのも、しかたがない。マリーは低い声で呟いた。
「おやすみなさい、エヴァ」




