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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第五章 忠誠の誓い

   第五章 忠誠の誓い

「ジョゼ、嘘でしょう? 私たち結婚したのよ。なぜ部屋が別々になるの?」

 ジョゼとマリーは新婚生活を始めるに当たり、新居に移ることはなかった。引き続きホテル・シグロが二人の住処となる。それはそれで仕方がない。ジョゼは用心棒を急に辞めるわけにいかないし、転居することでジョゼの住所が明らかになる危険もあった。殺し屋という職業柄、新妻のマリーが人質に取られたり、報復で殺されたりするのを避ける必要があった。

 ジョゼは二人で住むに当たり、マリーに他の娼婦たちと同じ二階の一室を使わせることにした。安全を考え、部屋は不定期に変わる。ジョゼは今まで通り、使われていない部屋を移りながら、マリーの部屋に通う形となった。

 宿の周囲にはジョゼを慕う男たちが交代で見張りに当たる。危険が迫れば女将の部屋に駆け込み、マリーとジョゼの部屋に電話をする手筈になっていた。またマリーが一人で出かけるときは、必ずついてきて護衛をする。

「私はあなた専属の娼婦じゃないわ! 両隣で客を取っている中で、私は生活しなければならないの?」

 ジョゼは輝きのない瞳でマリーを見つめ、「そうだ」と頷いた。マリーは重い溜息をついた。夫の瞳に光が宿っていないときは、反論しないほうがいい。

「マリー、おまえは普通の男と結婚したんじゃないんだ。本来なら住所を持たず、根なし草で生きていくのが一番安全だ。同業者で幸せに家庭を構えている人間を、オレは知らない」

 ジョゼは結婚したことでマリーがアキレス腱となった。仕事がやりにくくなるのを承知で、マリーを配偶者に迎えてくれたのだ。マリーも自分に言い聞かせ、納得したつもりだった。

「ジョゼ、ごめんなさい。私はお荷物になってしまったのかしら」

 ジョゼはマリーの頬を両手で挟み、そっと上に持ち上げた。

「根なし草で生きていくほうが楽なのは事実だ。だがマリー、おまえはオレの生きがいとなった」

 マリーは夫の言葉をもっと知りたくて、目を大きく見開いた。

「生きがい? 私が、あなたの?」

 ジョゼの瞳にようやく光が宿り、薄い唇が甘く囁いた。

「おまえだけじゃない。お腹の子も、オレの生きがいだ。マリー、これからもオレに生きていると実感させてくれ。守るものができて、オレはこれまでになく生きていたいと思うようになった」

 マリーは目を潤ませ、うなずいた。

 ジョゼの仕事は特別なものだ。危機に陥った時、マリーのもとへ帰ろうと強く思うことで、生き延びる力が沸く瞬間もあるかもしれない。

 この男との生活で、幸せな未来予想図は描けない。一日一日を、いや、触れ合っている一瞬一瞬を大事にしていくのが、ジョゼとの暮らしなのだ。

 ジョゼがゆっくりと唇を重ねてきた。マリーは首にすがりつき、夫のぬくもりを味わった。それでもマリーの心にざわざわとした思いがこみ上げる。マリーは唇を離すと、夫の目を強い思いを込めて見つめた。

「わかったわ、ジョゼ。身の回りのものは常にトランクに入れて、部屋を移動しながらの生活。私はあなたに従いていきます。ただ一つ、約束して欲しいことがあるの」

 ジョゼは「なんだ?」と軽く首を横に傾けた。マリーは左手でジョゼの右手を掴み、胸の位置まで上げ、誓いのポーズを取らせた。

「私以外の女のベッドへ行かないで。金輪際、私以外の女を抱かないでちょうだい」

 ジョゼは戸惑いの表情で、マリーの前で右手を上げた。過去の事実は消えないが、今後はマリーだけを大事に生きていく宣言だけは、しておいてもらいたかった。

「普通はこういうとき、聖書に手を添えるんだが、どうしたもんかな」

 マリーは一瞬、目線を上げて考え込んだが、すぐ笑顔を作った。

「じゃあ、左の手は私のお腹に当てて。この子が誓いの証人よ」

 ジョゼが愉快そうに目を細めて「なるほどな」と微笑んだ。ジョゼは大袈裟な咳払いをすると、左手をマリーの腹に当てた。

「私、ジョゼ・クレメールは生まれてくる我が子に誓う。妻マリー以外の女が寝るベッドには生涯、断固として乗らない、と」

「よろしい」

 マリーはにんまりと笑うと、爪先立ってジョゼの額に口付けた。ジョゼはうっとりと眼を閉じ、マリーの肩を抱えた。その手を身体の側面をなぞるように降ろすと、ジョゼは膝をついた。マリーの腹の位置にちょうど顔が来た。ジョゼはそっと腹に口付けると、まだ細い身体に腕を回した。

「夕方まで、ちっと出かけてくる。実は昨日エヴァから電話があって、結婚祝いを持ってきたいと言ってくれたんだ。女将にだけ伝えておいたから、まっすぐこの部屋に来ると思う。必ず覗き窓を確認して開けるんだぞ」

 エヴァから電話があった……。エヴァはジョゼに何を話したのだろうか。電話で自分の正直な思いを伝えるとも思えないが、こうして夫婦別々に暮らすとジョゼに起きる全ての事情を理解するのは不可能だ。マリーは目を閉じ、自分に言い聞かせた。

 ――心さえ繋がっていれば、信頼し合えていれば大丈夫。私がぐらぐらしちゃ駄目。

 ジョゼは立ち上がり、再びマリーの唇を味わうと、連れ込み宿の一室に妻を残し、部屋を出て行った。

 マリーはしばらくベッドの上に座り、テレビのカナル(チャンネル)を替えていたが、面白い番組もなかった。

 どうせ夜までジョゼは戻って来ないだろうし、エヴァはいつ来るかわからない。昼間で暇にしている娼婦のところに遊びに行こうか。確か結婚式で証人になってもらったニタが一階にいるはずだ。

 マリーは薄暗い廊下に出て、階段を降りた。ニタの部屋の前に立ったとき、ホテルの入口から聞き慣れた声がした。

「マリー、元気そうね。新婚のお祝いに来たわ」

 エヴァが小さな包みを抱え、入口の光を背景に立っていた。マリーはそろそろと近づき、エヴァの表情を窺おうと目を細めた。エヴァはいつもの明るい声を出しながら、マリーに近づいてきた。

「何を警戒してんのよ。私の顔を忘れたの?」

 マリーは内心を言い当てられ、どぎまぎした。

「え、えっと、いらっしゃい。ジョゼなら、今さっき出かけちゃって――」

 エヴァの声は明るかった。

「いいのいいの。ジョゼになんて、いつでも会えるんだし。今日はあんたに会いに来たのよ」

 ――ジョゼとは、いつでも会える、か。

 マリーは思わずむっとした。でもどうにか、表情に出さないように、意識して口角を上げた。

「このホテルも、あんたが住むようになって入口付近にジョゼの息の掛かった男が必ず一人は張り付いているから、少しは安心かな。でも、あんたが退屈がって動き回ったら、ジョゼに迷惑が掛かるのよ。電話でジョゼも、それを気にしててね。それで今日は、とりあえず私が、あんたがちょこまか動かないよう、相手をしようと思って来たわけ」

 マリーは「まあ」と言ったきり、その場に立ち尽くした。

 ジョゼはエヴァの気持ちを相変わらず気づいていないようだ。二人が結婚したと告げた夜、エヴァの声の棘棘しさをマリーは忘れられないというのに。

 エヴァは荷物を肩に載せ、マリーを舐めるように見つめていた。マリーは次第に目が慣れてきたが、入口の光を背景にしたエヴァの表情を知るには不十分だった。マリーはなんとか会話を続けようと、話題を探した。

「肩に載せている箱は何?」

 エヴァの軽やかな笑い声が返って来た。

「二人分の食器セットよ。このぐらいなら、持ってて荷物にならないでしょう。ホテルの一室って、台所仕事とかできるようになっているの?」

「ここの女たちが共同で使う台所が奥にあるの。部屋にはコンロが一つあって、お湯を沸かすぐらいなら、できるわ」

 マリーが微笑んで受け取ろうとすると、エヴァが大きく首を横に振った。

「駄目駄目、意外と重たいんだから。それより、あんたの部屋に案内してよ。どんな部屋で二人が過ごすことになるか、知りたいわ」

「え、ええ。こっちなの、どうぞ」

 マリーは戸惑いを押し隠し、口だけ笑顔に歪めると、廊下の奥にある階段へエヴァを導いた。

「まあ、一応ソファとテーブルがあるのね。やること一つしかないから、でっかいベッドがあるきりだと思ったわ」

 マリーは恥ずかしさに俯いた。連れ込み宿の一室を新居として紹介しなければならないなんて。

 ――エヴァが来るとわかっていたんだもの。少し掃除をしておけばよかったわ。

 姑根性を出されてアラ探りをされないかと、マリーはびくびくしていた。

 何しろ、ずっと信頼し、密かに愛してもいたジョゼをマリーはエヴァから奪ったのだ。今までのような姉と妹のような関係には戻れないかもしれない。

 エヴァはテーブルに荷物を置き、ベッドの横にある革のソファに勢いよく腰を落とした。背もたれに指を這わせながら、さりげない調子で尋ねてくる。

「新婚生活は、どう? あれから身体の調子は悪いことない?」

 マリーはエヴァの向かいに静かに座った。

「おかげさまで、吐き気のほうは、だいぶいいわ。我慢する必要がなくなって、ストレスが減ったせいかも、ってジョゼが言ってて。もう少ししたら、つわりの時期も終わるって、病院の先生が確約してくれたわ」

「結局、結婚式はしないと聞いたけど?」

 マリーはエヴァの土産に伸ばした手を止めた。ジョゼはマリーには警戒しろと言いながら、エヴァにはなんでも話してしまうようだ。エヴァにまで警戒していたら、この街では暮らしていけないのは確かにわかっているのだが。

 マリーは、だんだん笑顔でいるのが辛くなってきた。それでも、なるべく明るく聞こえるよう声を発した。

「やっぱり、ジョゼの職業のこともあって、結婚式をして家庭を構えた宣伝はできないって」

 エヴァは脚を組むと、マリーをじっと見つめた。

「女としては辛いところよね。普通なら互いに初婚なんだし、あんたはお姫様みたいな恰好が一番似合う時期だもの。花嫁衣装を着たかったんじゃないの?」

 憐れんでもらう筋合いはない。マリーは笑顔を引っ込め、立ち上がった。

「ジョゼを選んだのは私だもの。そういう人だって、覚悟しなきゃならないのよ。今、お湯を沸かしてお茶でも入れるわ」

 コンロが設置された部屋の奥に向かおうとすると、背中に向かってエヴァが声を発した。

「ジョゼは、そういう温かい飲み物は飲まないわよ。もっぱら、コーラかウォッカ。時間をかけてゆっくりお茶を楽しむのは、安全で贅沢な環境に育った人間しかしないわ」

 マリーは立ち止まり、両手をぎゅっと握りしめた。無性に怒りが込み上げる。

 ――何が言いたいのよ! いったい何しに来たのよ!

 マリーは振り返り、大きな声を発した。

「エヴァのほうがジョゼを知っているのは、当然じゃない! なんで、そんな意地悪を言うの?」

 エヴァは、マリーが開きかけにした包みから陶製のグラスを取り出したところだった。マリーの大声に目を大きく開き、口をぽかんと開けていた。

「どうしたの、何か気に障ること言った?」

「私がジョゼに相応しくないって言いたいんでしょ? 私はこの街のことも、ジョゼのことも、何も知らないのに、強引に結婚してしまったんだもの!」

 マリーはその場で足を踏み鳴らした。自分でも、なぜこんなに興奮しているのか、不意にわからなくなった。

「確かに、ジョゼの思いに甘えたのは認めるわ! ジョゼが私を好きでいてくれると思ったから、頼めたことだもの。でも、エヴァもジョゼが欲しかったら、私より早く言えばよかったのよ、「あなたが好きです」って。私は言えたわ! だから、こうして妻の座にいるの!」

 エヴァは座ったまま、脚を組み替えた。腕を胸の前で組み、マリーを睨みつけた。

「言えたわけ、ないじゃないのさ。私は、あんたに奪われて初めて、ジョゼを愛していたと知ったんだから」

 エヴァの声は落ち着いたまま、さらに低く響いた。マリーは何かにつけ声を荒げてしまう自分の幼さに気づき、大きく息を吐いた。

 4

 エヴァはしばらく怖い顔でマリーを見つめていた。が、急にふっと気が抜けたように、肩の力を抜いた。

「ヨセフの名を持つジョゼの前に、聖マリアが現れた。これこそ、人知を超えた神のお導きとでも言うんじゃない? 私の相手役は、創世記のアダム。もともと配役が違ってたのよ」

 マリーは顔に血が上るのを感じた。エヴァから先に負けを認めるなんて、ずるい気がした。マリーは小さな声で言い返した。

「別に私は、ジョゼの名前が好きで、結婚したんじゃないわ」

 エヴァは呆れたように眉尻を下げて失笑した。

「わかってるわよ。いちいち面倒くさいね」

 エヴァは組んでいた腕をほどき、手を頭の後ろに当てた。

「あんたたちが結婚を知らせに来たあの夜、みっともなくも感情を露わにしてしまったわ。女の気持ちに鈍感なジョゼには知られずに済んだけれど、マリー、あんたには私の気持ち、バレバレだったわね。私としたことが、大失態よ」

「失態だなんて、そんな。私はエヴァを本当の姉さん以上に思っていたの。私の決断があなたを悲しみの底に落としてしまい、申し訳なくてたまらない」

 エヴァは目を細め、口の端をいびつに上げた。

「どこまでも、いい娘ちゃんね、マリー。そこまで優しい言葉を掛けてくれるなら、ジョゼを私に譲ってくれない?」

 マリーは、はっと顔を上げた。

 なんて無茶を言うのだろう! マリーはエヴァの前で頭を下げた。

「エヴァ、あなたのこれまでの優しさに報いるのなら、どんなことでもする。ただ、ジョゼだけは譲れない! ジョゼは私の全てなの。どうか、それだけは勘弁して!」

 部屋を沈黙が支配した。マリーはエヴァが何も言わないので、怪訝に顔をそっと上げた。

 エヴァは慈愛に満ちた笑みでマリーを見つめていた。

「よく言ったわ、マリー。何があっても、ジョゼと離れちゃ駄目よ。幸せなときも、苦しい時も、ジョゼを支えて愛し続けてちょうだい。それがジョゼをずっと愛してきた私が、あんたに言えるお願いよ」

 マリーは目を見開いたまま、動けなかった。目の奥が熱くなり、喉が詰まった。見るとエヴァの目もわずかに潤んでいた。

「エヴァ……ありがとう。本当に……ありがとう」

 マリーは懸命に声を発した。

 どこまで大きな女性なのだろう。初めてエヴァを見たときから、同じ女性として強く憧れた。罪の街に住めばエヴァのようにカッコいい女性になれるかも、などと、子供っぽい思いを抱きもした。

 ――もともと、人間の器が違うんだわ。私はエヴァのようには、一生かかっても金輪際なれっこない。

 エヴァは鼻から息を大きく吐き、ソファから立ち上がった。部屋の中をゆっくり歩きながら、目線をわずかに上げ、思い出すように言葉を発した。

「ジョゼと知り合って、もう何年が経ったのかしら。忘れちゃうくらい、ずーっと一緒だった。この街にも、二人で来たのよ。私は店を出すのが、ささやかな夢で。でも、グアダルーベを開くまでも、いろんな問題が起きた。買い取ったはずの店に酔っぱらいが住み込んでいて、初めて来た夜は野宿したのよ。ジョゼはずっと起きていてくれて、疲れてた私を寝かせてくれた。どんなときも私、ジョゼに守られてばかりいたのよ」

 マリーはどう相槌を打ったらいいか皆目わからず、エヴァの姿をじっと追っていた。エヴァはベッドの上に手を乗せ、ぽんぽんと叩いた。

「一緒のベッドで寝たこともあるの。出かけた先の間違いで、部屋が一つしかとってなくて。私はさすがに意識したんだけど、ジョゼったら、目を瞑ったまま朝までぴくりとも動かなかった。つくづく、女として見られていないんだなあと思ったわ」

「そんな。エヴァはとても綺麗だし、なんていうか、傍にいると男は安らぐんだと思うわ」

 エヴァはベッドに腰を下ろし、シーツに人差し指を這わせた。

「いつだって、男は私に甘えるの。私の前では子供になっちゃって、私は母になるしかなかった。男は私の胸にすがり、赤ん坊のように泣くの。私だって泣きたい夜があった。心細さに抱きしめて欲しいときもあったのに」

 マリーも以前から思っていた。エヴァは大地の母なのだと。人に弱さを見せず、胸を叩いて「任せてちょうだい」という心の奥に、強い男に甘えたい気持ちがずっとあったのは、理解できる気がした。

 ジョゼならエヴァの欲求を満たしてくれたのかもしれない。明るい光りのようなエヴァを、影となって見守り、優しく甘えさせてくれただろう。マリーと結婚さえしなければ……。

 マリーは小さく呟いた。

「兄さんが私のこと、甘え上手だと言ったときがあるの。まだ両親が生きていた頃なんだけど。兄さんは私のせいで、ときどき辛い思いをしていたみたい」

 エヴァはホッとしたような笑顔をマリーに向けた。

「私やルイから言わせれば、あんたには絶対に敵わないの。あんたはジョゼを夫として得て、ヘッドの兄に助けられ、友人の私に見守られる、この街で最強の女性かもしれないわね」

 マリーはエヴァの言葉に驚いた。自分を守る術がろくにない自分にエヴァが敵わないなんて、冗談にもほどがある。三人には迷惑をかけるばかりではないか。

「何を言うの? 私と結婚したせいでジョゼは仕事がやり難くなったし、エヴァの大事な人を奪って、傷つけたわ。兄さんとは絶縁を覚悟している……」

 エヴァは「ちっちっ」と口の中で音を出すと、人差し指を立て、振ってみせた。

「あんたと結婚したおかげで、ジョゼは生きる張りができた。私はこれからは、自分にもっと正直になって、新しい恋を見つける決心をしたわ。ルイはあんたと仲直りしたくて、必死にチャンスを探している」

 マリーは言うべき言葉が見つからず、大きく見開いた目から涙をこぼし続けた。

「ね、マリー、もうこだわるのはよしましょう。過去を振り返っている暇があなたにある? 元気な赤ちゃんを生むんでしょ? しっかりした母親にならないと、赤ちゃんが可哀そうよ」

「エヴァ……許してくれるの?」

 エヴァはベッドから立ち上がり、マリーの前まで歩いてきた。マリーと面と向かうと、肩にそっと手を載せた。

「それどころか、お願いに来たのよ。つわりがなくなって、安定期に入ったら、ときどきはグアダルーベに顔を出して欲しいの。あんたが店からいなくなって、寂しい思いをしている男たちが大勢いるんだから。これはジョゼにも了解を取らなきゃならない話だけれどね」

 マリーは嗚咽を必死に呑み込み、声を出そうとした。

「……エヴァ、嬉しいわ、本当に……」

 エヴァは人差し指でマリーの頬の涙をぬぐった。

「こんな泣き虫が、お母さんになれるのかしら。ほらほら、笑顔、笑顔よ」

 マリーはエヴァのようになりたいと、つくづく心底から思った。これから母になる自分にとって、エヴァは今後も目指すべき大きな目標だ。

 マリーは涙をこらえ、エヴァの手を取った。

「泣き虫を卒業して、大地の母にならなきゃね。ジョゼにも心配を掛けないよう、いつも幸せでいてもらえるよう、私これから頑張るわ」

 エヴァはマリーの額に軽く唇を押し当てた。

「それでこそ、罪の街の聖母ね」

 不意に部屋に設置された電話が鳴った。マリーはベッドの横にあるテーブルに手を伸ばし、受話器を持った。

「マリーか? 今、ヘッドがホテルに入って来ようとしている」

 受話器の向こうの声は緊迫していた。マリーを守る男はジョゼから、ルイだけは警戒するよう厳しく伝えられていたらしい。かといって、この街に住む以上、ルイに楯突くわけにもいかないだろう。

「兄さんが、私の部屋に来るというの?」

「ああ、女将が今、何とか時間稼ぎをしている。会いたくないなら、他の娼婦の部屋に匿ってもらってくれ。そうだ、まだエヴァはいるだろう? もし会う場合には、エヴァに傍にいてもらってくれ。そのほうが安心だ」

 マリーはどうしたものか困り果て、エヴァを振り返って見た。エヴァが小声で尋ねてきた。

「ルイがここに来るって?」

 マリーは送話口に手を当て、エヴァに頼んだ。

「エヴァ、このまま残ってくれない? 兄さんと、こんな部屋で二人きりになるわけにいかないわ」

 エヴァは真顔で頷いた。マリーは口の端だけ上げて微笑むと、受話器の向こうの男に告げた。

「わかりました。エヴァに立ち会ってもらって、兄さんと会います。連絡ありがとう」

 マリーは受話器を置いた両手に重心を掛けた。

 ――兄さん、何しに来たのだろう。私たちの結婚を、まだ認めてくれていないのに。

 エヴァが背後から、マリーの震える肩を抱いた。

「大丈夫よ、マリー。ルイは自棄になることなく、日々ずっと街をまとめる仕事を疎かにしていないわ。あんたを失ったせいなのか、ぼんやりしているときは間々あるけれど、怒り狂ってはいない。どちらかというと、塞いでいる感じね」

 あの活力に満ちた兄が塞いでいるとは。マリーが兄に突き付けた厳しい事実は理解してもらえたのだろうか。

 妊娠が原因で別れる羽目になった二人だが、どの道、許される関係ではなかった。別れをいいきっかけとし、互いの道を歩いていくのが一番なのだ。

 エヴァが扉の前で、覗き窓に顔をくっつけ、廊下の様子を見ていた。

「来たようよ。マリー、入れてもいいわね?」

 マリーは歯を食いしばり、両の手を握りしめると、エヴァに大きく頷いた。

 エヴァは覗き窓を再び確認すると、ゆっくりと部屋の扉を開いた。

 ルイは一人でやって来た。ホアンとダニエルがついて来ないわけはないから、宿の入口で待っているのだろう。

 マリーは掌を握りしめ、ルイを見た。その場に立ったまま動かずにいるつもりだった。なのに、兄の顔を見た途端、思わず一歩びくっと後ずさった。

 ルイはマリーの狼狽を見て、顔をいびつに歪めた。

「マリー、元気にしてたか?」

 マリーは喉の奥から絞り出すように声を発した。

「私は元気です。兄さんも、元気そうで何よりだわ」

 ルイはマリーに小さく頷くと、部屋の様子を見廻した。

「ひでえもんだ。聖母が住まう部屋が、これとはな。マリー、おまえは堕ちるところまで堕ちたんだな」

 マリーは瞼を落とし、細い目で兄を睨んだ。

「兄さんの妹だから、血は争えないということね」

 ルイは顔を上げ、愉快そうに笑った。

「どうせ俺は、親族連中から見れば、おまえ以上に堕ちた男だからな。だが、神々しいおまえがこんな淫靡な部屋で、いつ帰るかわからない夫を待つなんて、情けないったらないぞ」

 マリーは兄から距離を置こうと、もといたソファに腰を下ろした。

「いちゃもんをつけに来たのなら、帰って。この部屋はいろいろ案内できるほど広くはないのよ」

 ルイはイライラと、扉に凭れて立っているエヴァを見やった。

「二人きりで話はできないのか?」

「できないわ。あんたはマリーに邪な思いを持ったままでしょ」

 エヴァは即答した。腕を組んだまま、牽制するように睨んでいた。マリーは心の底からホッとした。エヴァが偶然こうして来てくれて、つくづく助かったと思った。

「俺をそこまで獣扱いするとはな。俺にだって理性はあるし、自分の身だけが可愛いわけではない」

 ルイは急に肩の力を抜き、目を閉じて小さく笑った。

「まあ、いいか。どの道、エヴァにも用事はあったんだ」

 エヴァが「何かしら?」と小首を傾げた。

「先程、ジョゼが俺に連絡を取って来た。マリーの夫となり、義理の弟となった事実を改めて受け止めて欲しいと。俺への忠誠を改めて誓うから、とな」

 マリーは思わず、ソファから腰を浮かした。

「ジョゼが……兄さんに、そんな言葉を?」

 ルイは顎をわずかに上げ、不遜な顔でマリーを見下ろした。

「俺にとっても、悪い話じゃない。おまえを妻にして、ジョゼに求心力が生まれる可能性だって大いにあるわけだ。この街は、たかだか二十本の通りと、貧乏な悪党ばかりを抱える、言わばチンピラの街だ。俺とジョゼで勢力を二分してしまうと、街全体が弱体化するだけでなく、要らぬ火種が起きる」

 エヴァが「確かにね」と首を縦に振った。ルイはマリーを見ながら続けた。

「軍隊や警察が介入し、この街を廃墟にされる危険が増す。それを避けるためにも、俺とジョゼが手を組むと広く知らせるのは、大きな意味がある」

 ルイはマリーに背を向け、エヴァに向かって声を上げた。

「今日の夕方からグアダルーベに有志を集めて、忠誠の誓いの儀式を行いたい。今夜の店の営業は、なしだ」

 エヴァは胡散臭そうに目を細め、ルイを見つめた。

「忠誠の誓いの儀式? どこから持って来たのよ、そんなアイデア」

 ルイは目を細めて笑い、ゆっくりとマリーに視線を移した。

「義兄弟の契りを交わす、神聖な儀式さ。考え付いたのはアメリカの坊さんらしいが、なかなか良い文言なんで、使わせてもらうことにしたわけさ。マリー、おまえもジョゼの横で誓うんだ」

 エヴァが片目を瞑り、にやりと笑った。

「神々しい聖母様がジョゼと共にあんたに跪くのは、権威を見せつけるには確かに良い方法よね」

 ルイは、ふん、と口を尖らせたが、否定はしなかった。

 ジョゼもルイも、共に街の未来を思って行動している。

 ルイの息の掛かった者どもの間で、忠誠を誓えば街とジョゼの安全になる。神妙な顔で頭を下げるぐらいで、何が減るわけでもないし。

 マリーは目を閉じ、一瞬の沈黙の後、声を発した。

「わかりました。その儀式に私も参加します」

「これで俺とおまえは街の人間が認める、あるべき状態の兄妹に戻る。おまえへの思いを俺は墓場まで持って行き、二度とおまえを苦しめないと約束する」

 ルイにとって、この結論は辛いものだったはずだ。

 ――兄さんは努力しようとしてくれている。私も理解しないといけないんだわ。

 ルイは安堵の顔をして、エヴァに有志を集める細かい指示していた。

 マリーは二人のやり取りを聞きながら、早く夫の無事な姿を見たくてたまらなかった。

 グアダルーベの外には、儀式に参加できない男たちが群がっていた。興奮に顔を赤らめる男たちが、歩いてくるルイのために自然と道を作った。

 ルイはエヴァとマリーを従え、悠然と店内に入って行った。

 店内ではテーブルと椅子が片付けられ、中央に大きな空間ができていた。カウンター前に祭壇のようにテーブルと椅子が置かれ、ルイはそのまま躊躇いもせず、席に着いた。

 ルイに忠誠を誓うには、カトリック教の神に誓うのと同じ形態をとるらしい。

 ――兄さんったら、新興宗教の教祖にでもなったつもりかしら。

 両脇に揃った有志一同の中にジョゼの姿を見つけ、マリーは安堵した。ジョゼは片腕を広げ、マリーを傍に導いた。

 マリーは夫に話しかけようとした。だが、ジョゼは唇に指を当て、難しい顔をして見せた。儀式が荘厳であるためには、雰囲気作りも大事らしい。マリーはこくりと頷いた。

 ルイはテーブルに両手をつき、もったいぶって声を発した。

「ジョゼ・クレメールと、その妻セイント・マリー、前へ出ろ」

 ジョゼは柔和な笑みをマリーに投げ、背中に手を添え、二人でルイの前に立った。

 ルイは椅子にふんぞり返ったまま、顎をしゃくってジョゼを見やった。

「ジョゼ、おまえには俺の血の繋がった大事な妹マリーをくれてやった。それだけ、おまえを見込んでいる。これから先は、兄と弟として、この街の平和と繁栄のために尽力してくれると期待している」

 ジョゼは恭しくルイに頭を垂れた。マリーも横目で夫を見ながら、同じ動作をした。ジョゼが頭を下げたまま、口を開いた。

「ルイ・トッド・イホ、この街の長にして義理の兄であるあなたに、忠誠を誓いたい。許してくれるだろうか?」

 ルイは威厳を感じさせるよう、低い声で告げた。

「許そう、ジョゼ。大事に思うおまえの、たっての願いだ」

 マリーは芝居がかった二人のやり取りを、面白く聞いていた。男たちの世界はよくわからない。とはいえ、互いに成り切って大真面目に儀式をするのは、子供っぽくも微笑ましい。

 ジョゼは顔を上げ直立したまま、右手を左の胸に当てた。ルイを真っすぐ見つめ、声高らかに宣言した。

「私、ジョゼ・クレメールはルイ・トッド・イホの眼前に、そして、そのルイが象徴する罪の街に、ルイの下で一つとして分かたれずに存立し、全ての人に自由と正義が約束されたこの街に忠誠を誓います。」」

 マリーは、ぽかんとして横の夫を見ていた。ジョゼが目くばせしたので、慌てて同じポーズを取った。

 マリーが中学生のときアメリカ人の留学生が同じ組にいた。彼は星条旗の前でジョゼと同じ格好をしていた。

 ジョゼが言った文言も、アメリカで行われる儀式を真似たのかもしれない。何はともあれ、ジョゼとマリーは衆人環視の中で、ようやく夫婦であることを認められた。めでたいではないか。

「よろしい。手を下ろしたまえ」

 ジョゼは静かに直立の姿勢に戻った。ルイが椅子から立ち上がり、ジョゼの前に歩いてきた。やおら右手を出し、ジョゼに握手を求めた。ジョゼは利き手ではない右手で、ルイの手を握った。

 ルイは笑顔だった。ジョゼもわずかに微笑んだ。店内に拍手が沸き起こった。

「ルイとジョゼが今まで以上に力を合わせることで、罪の街は安泰だ」

「おおい、誰かヘッドとジョゼに酒を持ってこい」

「ヘッド、ここに座ってください。今、つまみを作ってきます」

 儀式が終わった途端、店の中を男たちは動き回り、テーブルと椅子を元の位置に戻し始めた。

 エヴァはずっと入口付近で立ち見していた。マリーがそっと近寄ると、エヴァはにやりと笑った。

「今夜は、厨房も男たちに任せて、私は上で休もうかしら」

 マリーはエヴァが参加しないのが意外な気がした。誰よりも中心で騒いでいる印象があった。エヴァはマリーの疑問に答えるように言った。

「男たちが大真面目に儀式を行ったんだもの。茶化しちゃいそうで、悪くって。マリー、あんたも二階に来ない? 女は女同士でやりましょうよ」

 マリーは嬉しくて、わくわくした。

「そうね。男は放っておいて、私たちも好きにやっちゃいましょう」

 エヴァはカウンターからグラスを二つ手にすると、マリーの背から急き立てるように階段を上がった。マリーが途中で下を見ると、ルイとジョゼがグラスを合わせていたところだった。

 マリーの結婚を許してくれた兄に、兄を軟化させてくれた夫に、感謝してもしきれなかった。このまま時が満ち、子供が産まれたら、実の父である伯父と義理の父は共に喜びあってくれるだろうか。

 ――きっと、きっと大丈夫。私たちは皆、家族なんだもの。

 マリーはしみじみと幸せを感じながら、懐かしい紫で溢れた部屋に向かった。


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