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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第四章 兄との決別

   第四章 兄との決別

 マリーはジョゼと連れ立って、夕暮れの罪の街を十六番通りへ向かって歩いた。

 ホテル・シグロを出た時点では、ただ並んで歩いていた。だが、次第に不安な気持ちが膨らんで、マリーは震える身体をジョゼに寄せた。

 ジョゼはマリーの手をしっかり握ると、自分の腕に絡ませた。

 十六番通りに近づくにつれ、マリーとジョゼを見知った人間とすれ違うようになった。人々は二人が寄り添って歩いているのを見て、立ち止まり、あるいは振り返り、呆気に取られていた。

 マリーは、さすがにまずいと感じ、ジョゼからわずかに身体を離そうとした。だが、ジョゼがマリーの身体を引き戻した。マリーは困ってジョゼに訴えた。

「ジョゼ、目立つのは、まずくない? この通りにいるのは、ルイの息の掛かった男ばかりなのよ」

 ジョゼは前を向いたまま、歩を進めていく。

「新婚の夫婦なんだ。何が悪い。ここでびくついていたら、ルイと対峙できないだろう」

 十三番通りの広場で、ルイの一の子分を自称するホアンがマリーたちを見つけて、目を丸くした。マリーは慌てて目を逸らした。

 ホアンは二人に近づいてきて、行く手に立ち塞がった。

「よう、ジョゼ、マリー。これから店に顔を出すのか?」

 マリーがはらはらしている横で、ジョゼはゆったりした声を発した。

「ああ、そのつもりだ。ルイはもう来ているだろうか?」

 ホアンは、二人がしっかり繋いだ手を凝視していた。

「え、あ? 昼間、グアダルーベで有志と会合を開いていたけど、まだいるかなあ。それより、二人で並んで、まるで恋人同士みたいじゃねえか。いつの間に、そういう関係になったんだ?」

 最後の台詞を、ホアンは冗談で言ったようだった。だが、ジョゼは真顔のままだった。

「朝に二人で話し合って、昼に届を出した。これから、ルイに報告に行くところだ」

 ホアンは一瞬、口を開けたまま、固まった。

「な、なんだって? それって、ジョゼ! おまえ、マリーと、け、結婚したのか?」

「結婚した」

 ジョゼは、わずかに頬笑みながら、マリーを見下ろした。マリーはホアンをからかえて、少し気分がよくなった。

 マリーは見せつけるようにジョゼに頬を寄せ、横目でホアンを見た。

「兄さんには、私たちの口から直接いきなり知らせたいから、黙っていてね」

 ホアンは「ううっ」と口ごもり、やがて独り言のように呟いた。

「ダニエルの目も確かだったってことか。こうしちゃいられねえや」

 ホアンは挙動不審に辺りを見回し、後ずさりするように、あたふたと二人の前から去って行った。

 ジョゼが、ぼそりと呟いた。

「ホアンに吹聴される前に、ルイの耳に入れたいな」

 いつの間にか、夕陽は空の向こうへ消えていこうとしていた。ジョゼはマリーの手を掴みなおした。

「開店前に行こう。ゆっくり話をするには、臨時休業にしてくれたほうがありがたいからな」

 グアダルーベは『本日休業』の札が掛かっていた。

 朝早くに何も告げずに出てきてしまった事実を思い出し、マリーは心が沈んだ。

「エヴァに心配かけてしまったわ。私の居所を探して、走り回ったのかもしれない」

 項垂れるマリーの肩を、ジョゼは優しく掴んだ。

「何があっても、おまえを守る。エヴァにも、わかってもらえるように話をする」

 ――まただわ。エヴァが私たちを祝福してくれないとジョゼは思っている。何故なのかしら……。

 ジョゼが店の扉のノブに手を掛けた。鍵は掛かっていなかった。

 扉を開け、マリーは背を押され、中に導き入れられた。店内の灯りは、煌々と点いていた。

 中央のテーブルにマリーたちから背を向けて、エヴァが腰を下していた。

 人の気配にエヴァは振り返った。黒革の衣服に着替えてはいたが、化粧も一切せず、疲れた顔は朝のままだった。

 エヴァはマリーを見るや、立ち上がった。

「マリー、どこへ行ってたのよ?」

 そこでマリーの後ろにジョゼが控えているのに気づき、戸惑いと苛立ちが顔に現れた。急にエヴァは、棘のある声になった。

「ジョゼのところへ行ったの? よく会えたわね」

「え、ええ。まさか、あんな場所だと思わないでいたものだから。でも、会えたの」

「私より、ジョゼのほうが頼りになるってこと?」

「そ、そうじゃなくて……」

 しどろもどろになるマリーの横で、ジョゼが口を開いた。

「おまえ、マリーに中絶しろと言ったんだろ? マリーは子供を殺したくなかったんだ」

 エヴァは怖い顔をして立ち上がると、腰に手を当て、半ば憤然とジョゼに向かった。

「で? 殺したくないってジョゼに頼んで、いったい何が変わるのよ? 誰も神様じゃないんだから、できることなんて、たかが知れてるでしょ」

 ジョゼはここで、さらりと言った。

「実は、結婚した」

「はぁ?」

「マリーと結婚した。お腹の子供には父親が必要だ。マリーも幸せになる権利がある。オレが全て引き受けることにした」

 エヴァは、しばらく呆けたような顔をしていた。が、やがて、けたたましい声で笑い出した。

「馬鹿じゃないの? 子供には父親が必要だから結婚した、ですって? 結婚は、おままごとじゃないのよ。お父さん役が足りません、誰かやってください、でいいわけ?」

 信じられない事実を聞かされて僅かに動揺の色を見せるエヴァに比べ、ジョゼの声は落ち着いていた。

「マリーを愛している。お腹の子もマリーも、全力で守りたかったんだ」

 エヴァは目を大きく開き、信じられないといった顔でジョゼを見ていた。まるでその場にマリーはいないかのように、ジョゼだけを凝視した。

「そんな。そんなことって!」

 エヴァは、近くにあったテーブルの脚を蹴り、大きな音を立てて椅子を引くと、どっかと腰を落とした。

「なんで、そんなことで、ジョゼが犠牲にならなきゃいけないの?」

「犠牲だなんて思っていない」

 エヴァは振り向き、ジョゼに向かって低くうなった。

「お腹の子は誰の子か、知ってるの? 知った上で、それでもいいって言える?」

 ジョゼは灰色の瞳でエヴァをしっかりと見据えた。

「わかってる、エヴァ。マリーから事情は全て聞いた。その上での結論だ」

 エヴァは呆れたとばかりに一度、天井を見上げ、ジョゼに厳しい視線を戻した。

「わかった上での結論? ジョゼ、あんた、もっと冷静になるべきだったわ。マリーの妊娠は、望んだものではなかったの。カトリック教は堕胎を禁止してるというけど、あんたはもう違うでしょ。私と一緒にマリーを説得するべきだったわ。それを……結婚なんて!」

 顔を背けるエヴァに、ジョゼは辛抱強く声を掛けた。

「エヴァ、マリーも悩んだんだ。その上で生みたいと思った。その気持ちは尊重してやろう」

 エヴァはまるで独り言のようにつぶやいた。

「だからって……なんで選りに選って、あんたが引き受けるのよ」

 エヴァはテーブルに拳を叩きつけた。

「なんで、あんたなの? あんたがマリーのものになっちゃうの?」

 マリーは何も言えず、エヴァを見ていた。エヴァの声が棘々しい分だけ、悲しみが伝わって来た。

 どうして気付かなかったのだろう。エヴァはジョゼを愛していたのだ。マリーはこれまで、エヴァが好きなのはルイだと思っていた。ジョゼも冗談めかして言っていたし、エヴァも否定はしなかった。エヴァとジョゼは男女を超えた親友で、互いに頼りにしてきただけだと思っていた。

 きっとエヴァは、マリーに奪われて初めて、ジョゼへの愛を自覚したのだろう。

 怒りに震える背中に、マリーは声を掛けることなどできなかった。

 エヴァの横に立つジョゼが、エヴァの思いに気付いているかは疑問だった。マリーとの結婚が歓迎されないとまでは思っていたようだが、エヴァの示す想定外の苛立ちと怒りに戸惑っていた。

 マリーは目を閉じ、俯いた。

 ――エヴァ、ごめんなさい。あなたの大事なジョゼを取ってしまって。でも私、あなたにジョゼを返せない。私は兄さんの腕を逃れ、ようやく運命の人を手に入れたのだから。

 店内に重苦しい沈黙が流れた。ときどき店の外で、グアダルーベの臨時休業を怪訝に思う男たちの声が聞こえてきた。

 エヴァは力任せに、テーブルを押し退けるように立ち上がった。

「扉の閂、掛けておかなきゃね。今夜はとても接客できる気分じゃないわ」

 エヴァが閂に手を掛けようとしたまさにその瞬間、激しく扉が開け放たれた。

 エヴァは薄目を開けて、睨むように来客を見上げた。

「あら、ルイ。いらっしゃい。今夜は店を開ける気は一切ないんだけど」

 ルイは扉を開け放つと、入口に両手をついて立ち塞がった。

「マリーとジョゼは? ここに来てるのか?」

「ええ、今ちょうど来たところよ。とんでもない知らせを持ってね」

 マリーはルイの声を聞き、思わずジョゼの背に身を隠した。ルイは腰に手を当て、大股で店内に入って来た。

 眉間に皺を寄せ、目を血走らせ、まさに鬼の形相だった。

「よお、ジョゼ。おまえ、とんでもない真似してくれたな。そんなに早死にしてえか」

 ルイの背後から、ホアンが指の関節を鳴らしながら、ダニエルが腕を回しながら、入って来た。ルイが顎をしゃくって二人に命じた。

「ジョゼを店の外に引きずり出せ! 制裁を加えてやる!」

 ホアンとダニエルは待ってましたと、ジョゼを羽交い締めにするべく、飛びかかってきた。

 ジョゼは右腕でマリーを自分の背に隠しながら、先に飛んできたダニエルの顎めがけて左の掌底突きを喰らわせた。ダニエルは「ぐわっ」と声を上げ、背中からテーブルと椅子に突っ込んだ。

 一歩遅れたホアンは、ジョゼの先制攻撃に一瞬、怯んだ。ジョゼはホアンの脚を引っ掛け、前のめりに倒した。ホアンはジョゼの足元に四つん這いになった。ホアンが呻いた。

「ジョゼ、抵抗する気か!」

 ジョゼは緊迫した声で答えた。

「ルイへの話が先だ。おまえら雑魚は、店を出てろ」

「なんだとぉ?」

 ホアンが起き上がろうとした瞬間、エヴァが髑髏ナイフを首に突き付けた。

「ふざけんじゃないよ、ホアン! 店を荒らして、ただで済むと思う?」

 ダニエルは殴られた頬を右手で抑えながら、起き上った。

「ジョゼがおとなしく外に出ないのが悪いんだ」

 エヴァがダニエルを恫喝した。

「店の外も喧嘩禁止よ。私の言うことを聞けないなら、二度と店に入ることを許さないわ、今すぐ出て行きなさい!」

 ダニエルも押し黙るしかない。おとなしくテーブルから降り、倒れているホアンの横に屈みこんだ。

 ジョゼが身を躱したのでホッとしたマリーだったが、次の瞬間、息が止まった。

 ルイがジョゼの額に拳銃の銃口を向けていたのだ。ルイの低い声がした。

「マリー、ジョゼから離れろ。俺は、こいつほど銃は上手くない。間違っておまえの頭をブチ抜くかもしれん」

 マリーは震えながら銃口を見つめた。引き金を引かれるとどうなるかは、ジョゼの射撃訓練を見てよく知っているつもりだった。だがマリーは、ジョゼから離れなかった。

「嫌です、兄さん。ジョゼを殺すなら私も死にます」

 ルイの拳銃が、かちり、と鳴った。

「マリー。もう一度はっきり言うぞ。ジョゼから離れろ!」

 マリーは、ジョゼの背にしがみついた。

「嫌です! 私のジョゼを殺さないで。殺さないで!」

 ジョゼが腕を回して、背中にしがみつくマリーの手をしっかりと握った。目線はルイから逸らさず、感情の起伏を抑えた様子で言った。

「ルイ、話がある。おまえにとっても、マリーにとっても、大事な話だ。余計な雑魚二匹を外に出してくれ」

 ルイとジョゼは見合ったまま、動かなかった。マリーは銃口を見ていることができず、ジョゼの背に顔をうずめた。

 エヴァが立ち上がりながら、ルイに声を掛けた。

「私からも頼むわ、ルイ。店を目茶目茶にされたら、もうアジトとして使わせないわよ」

 ルイはジョゼを睨みつけたまま、銃口を下ろすと、倒れているホアンの尻を蹴った。

「もういい。おまえらは外に出てろ」

 ホアンとダニエルは戸惑いながら立ち上がった。ルイの顔を見ると、後ずさりながら扉の向こうに消えていった。エヴァはすかさず扉に閂を掛けた。

 外の喧噪が小さくなり、四人はそれぞれの位置で押し黙った。

 まず、ルイが口を開いた。

「ではジョゼ、弁解を聞こう。万が一にも納得できる理由など、ないだろうがな」

 マリーはジョゼだけが糾弾されそうな状況に焦った。

 ――悪いのは、みんな私なのに!

「実は――」

 ジョゼが口を開くと同時に、マリーはありったけの声で叫んだ。

「皆、ごめんなさい。ジョゼに結婚してくれと頼んだのは、私なの。兄さん、だから、ジョゼを怒るのは、筋違いなんです」

 ルイがぎろりと眼を剥いて、マリーを見た。

「おまえから頼んだ? マリー、気でも狂ったか!」

 マリーは、ぎゅっと目を瞑った。ずっと前から気が狂っていたのだ。兄に愛され、受け入れていたなど、狂気の沙汰ではないか。

「狂いたくなかったから、ジョゼにすがったんです。たとえ私が神を信じていなくとも、人の道に外れた行いは、絶対してはいけないと気づかされたの」

 ジョゼは必死に説明するマリーを、眉間に皺を寄せて見ていた。肝心のことを自分が言うべきか、マリーの口から言わせるほうがいいのか、迷っている表情だった。

 だが、マリーを守るという一点でジョゼに迷いはなかった。いつ再び銃口を抜き撃ちにジョゼに向けるかわからないルイからマリーを守るため、しっかり盾となって立ち塞がっていた。

 しかしマリーの必死の訴えも、ルイには届いていないようだった。

「誰の入れ知恵だ? おまえは俺だけを信じて従いてくればいいんだ。今すぐ離婚しろ。明日、離婚届を提出したら、おまえもジョゼも許してやる」

 エヴァの冷たい声が聞こえた。

「結婚は遊びじゃないのよ。ルイの言う通り、一度ここで白紙に戻して、じっくり考え直す必要があるわね」

 ――何もわかっちゃいない。二人とも、何もわかっちゃいない!

 マリーは両手に拳を作り、大声で叫んだ。

「私もう、兄さんの愛を受け入れない! やっぱり、兄妹で愛するなんて、許されないのよ! 私はお腹の子とジョゼと、三人で生きていく。もう決めたことなの!」

 ルイとエヴァが同時に固まり、唖然とした。

 エヴァとルイがそれぞれ知らなかった事実が、マリーの口から告げられた。

 エヴァは、ルイとマリーが愛し合っていた事実を知らなかった。ルイは、お腹に子供がいるなど、何も聞いてはいなかった。

 エヴァが掠れた声で呟いた。

「まさか、そんな。兄と妹で愛し合っていたってこと? あんたたち、義理の兄妹かなんかだったの?」

 マリーは首を大きく横に振った。

「いいえ、エヴァ。私たちは血の繋がった兄と妹です。兄さんは私にとって最も恐れ、敬うべき神のような存在だったの」

 エヴァは怒りと興奮の入り混じった表情で顔を赤く染め、マリーに問い掛けた。

「それじゃあ、お腹の中の子は……」

 マリーは、ゆっくりとルイに視線を投げた。ルイは受け入れ難い事実に困惑し、まだ声にならないようだった。マリーは、こくん、と頷いた。

「兄さんとの子です。兄さんが最後に叔父様の邸に帰って来た時、間違いが起きてしまったの」

 ルイの全身が怒りと衝撃からか、びくんと跳ねた。それでも、まだ口を開かなかった。

 ルイは大きく息を吐くと拳銃を左手に持ち替え、横にあるテーブルに銃口を壁に向けて置いた。凶器を持つには興奮しすぎていると、必死に自分を律しているように見えた。

 ジョゼがエヴァに諭すように告げた。

「お腹の子は、三か月を過ぎた。もう立派な命なんだ。普通の家族の中で、普通にこの世に迎え入れてやりたい」

 エヴァは身体の力が抜けたかのように、再び近くの椅子に腰を下ろした。

 ジョゼは一歩、ルイに歩み寄り、正面に立った。

「マリーの話だと、その夜は酔っていたそうだな。無防備な愛を交わした。そうなんだろう?」

 ルイは目を血走らせ、動揺のあまり下を向いたまま、言葉を吐いた。

「まさか……そんな。たった一度のことじゃないか。どうして、こんな事態に――」

「馬鹿野郎!」

 ジョゼがルイの頬を殴りつけた。不意のことでルイは避けられなかった。鉄拳をまともに食らい、ルイは衝撃に一歩、よろっと後ずさった。

 マリーは声にならない悲鳴を上げた。だがもう、ルイの傍に駆け寄ることはしなかった。

 ――ジョゼに従いていこうと、私は決めた。ここで兄さんに優しくしちゃ駄目なんだわ。

 ジョゼは淀んだ目で、ルイを凝視していた。

「今のは、マリーの分だ。マリーは、この程度の痛みじゃなかったはずだ。苦しみ、もがき、気が狂いそうになるのを堪え、毎日を必死に生きていた」

 ルイは口の中が切れたらしい。右の手の拳で血を拭った。ジョゼはさらに続けた。

「おまえ、ここまで苦しめて、マリーを愛しているなどと、よくも言えるな。オレはマリーを誰より愛している。おまえと一緒にされたくはない。ずっと、マリーの幸せを願っていた。おまえは、オレにマリーを奪われたと思うだろう。だが違う。オレはマリーをおまえの手から救ったんだ」

 ルイが横目でジョゼを睨んだ。怒りに顔が火のように赤くなっていた。

「こちらがおとなしくしていれば、好き勝手ばかり言いやがって。俺とマリーの愛を侮辱する気か!」

 ルイは、テーブルに置いた拳銃に再び手を掛け、両手で構えると銃口をジョゼに向けた。

 マリーは考えるより先に足が動き、ジョゼの前に立ち塞がった。

「兄さん、やめて!」

 ルイは呆然とマリーを見た。ジョゼの前でマリーは大きく手を横に広げた。ルイは今度は素直に銃を下ろした。

 エヴァは真剣な顔でルイを見ると、腰に手を当て、小さく首を横に振った。

「ルイ、こればっかりは、あんたの理屈は通らないわ。獣じゃあるまいし、兄と妹で愛し合うなんて、絶対いけないことよ。神を信じていなくても、法律を無視すると言っても、どうしようもないことなのよ」

 ルイは「くそっ!」と、既に倒れた椅子の脚を思い切り蹴飛ばした。椅子はサッカーボールのように床を転がって行った。

 ルイは近くの壁に背を預け、頭をがしがし掻きながら、虚空を見上げた。

 エヴァは今度は、ゆっくりと大きく眼を開け、マリーの決心を探るように見つめてきた。

「マリー、そういう素性の子なら尚更、堕胎しようと考えるのが普通だわ。なぜ産みたいと思うの? 生まれてくる赤ん坊にも、リスクを負わせることになるのよ」

 マリーはエヴァの顔をまじまじと見た。

 もうエヴァの表情からは、怒りは消えていた。戸惑いと同情のようなものを、マリーは感じ取った。マリーはエヴァの目を見つめた。

「それは、兄さんの子だからとしか言いようがないわ。私が兄さんを受け入れたのは、やはり、愛していたから。兄さんにずっと守られ、私は他に愛を知らなかった。兄さんが全てだったの。……愛しいとも、憎いとも思う人の子だから、産みたいの」

 エヴァは、しばらく無言でマリーを見つめていた。マリーは目を逸らしたら決意を疑われそうで、必死に厳しい視線に耐えた。

 やがてエヴァは、機械のような無感動な声を発した。

「わかったわ。私はもう二人の結婚を反対しない。反対したって、どうしようもないことだものね」

 エヴァの表情には感情の欠片もなかった。仮面が張り付いたように、眉一つ動かさなかった。

 エヴァはそのまま店の奥に進むと、階段を上って行った。店は灯りが点いたままだったが、三人の内の誰かが消すと思っているのだろう。

 エヴァにとっても、いろんなことがあり過ぎた一日だったはずだ。マリーはぼんやりと、エヴァが消えた階段に目をやった。

 ルイは壁に凭れたまま、怖い顔でマリーを凝視していた。

 目の前で愛するマリーが奪われ、黙って見ているしかない。どれほどの苦しみだろう。ルイは目を血走らせ、マリーの身体を射抜かんばかりに見つめた。

 マリーは全身の震えをなんとか抑え、ルイに近づいた。

「兄さん、私はジョゼと生きていきます。兄さんが反対しても、この思いは貫きます」

 そのときマリーを見つめるルイの瞳が大きく揺れた。

「マリー……愛し合っていたと思うのは、俺の独りよがりな勘違いか? おまえは、俺に服従していただけだったのか?」

 違う、断じて違う。マリーは必死の思いでルイを見つめた。尊敬もしていたし、恐れてもいた。愛しても、いたと思う。

 マリーは思いを伝えるため、ルイの前で膝をついた。畏怖すべき神に最後の別れを言うべく、最大の敬意を表した。

 マリーはルイの右手を取り、恭しく口付けた。ルイを見上げ、一呼吸を置いて、告げた。

「ルイ、愛していました。この気持ちだけは本当だった。私は、あなたしか知らなかった。無知だったの。ジョゼのような男性がいることを、あなたの腕の中にいる間は気付けなかった」

 ルイが掠れた声で絞り出すように、「そうか」と言った。

「兄さん、ジョゼとの結婚を、認めてくれますか? 私が兄さんのもとから去ることを、許してくれますか?」

 頭上からルイの無機質な低い声がした。

「おまえが俺を振り、ジョゼに走ったことを理解はしよう。だが、今は認める気にはなれん」

「それなら一つだけ、約束して。ジョゼを殺さない、と」

 ルイの瞼が小さく痙攣した。マリーはさらに食い下がった。

「この約束だけでいいから。兄さん、お願いです」

 マリーは目を閉じ、ルイの手を自分の頬に当てた。目からこぼれ落ちた涙が、ルイの手に伝って落ちた。

 ルイは、遂に答えた。

「わかった。殺さないと約束しよう」

「ありがとう、兄さん」

 今日ようやく、初めて真実を聞いたルイにできるのは、ここまでだろう。今はこれ以上の何も望むまい。

 ジョゼが背後から肩を抱いた。

「マリー、今夜はこれで帰ろう。一度に認めてもらうのは、やはり無理だった」

 ここに兄を残したままでいいのだろうか。衝撃と怒りに身を震わせる凶暴な兄は、自暴自棄にならないだろうか。

 まるでマリーの心を読んだかのように、ルイが声を発した。

「俺は、おまえみたいなガキとは違う。このまま店は休みでも、いつもの時間に巡回には行くし、街を守る仕事を疎かにするつもりはない」

 兄は強がっているのではない。今の言葉が精一杯のマリーへの愛なのだ。

 ――私はもう新しい家庭を持ったんだわ。これから先は、ジョゼだけを思い、生きて、私と子供を受け入れてくれた報いとしなければ。

 マリーはジョゼに頷くと、肩を抱かれたまま、ルイの横を通り過ぎた。マリーは兄の様子を横目で見た。ルイはマリーを凝視していた。

 マリーは目を閉じて、ルイの視線に頷きで応えた。

 ――ルイ……私の全てだった人。さようなら……。

 マリーはジョゼに連れられ、野次馬が群がっているグアダルーベの外に出た。


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