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罪の町十六番ストリート  作者: 霧島勇馬
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第一部・罪深いマリア 第一章 罪人が集う町

    第一部・罪深いマリア


    第一章 罪人が集う街

 宵闇が夜の街を呑み込んだ。

 セイント・マリーは疲れた足を止め、夜空を見上げた。

「とうとうやって来たわ。兄さんのいる『罪の街』に」

 街灯はほとんど壊されているため、月と星の灯りを頼りに歩くしかなかった。

 幸い、空気が澄んでいて、星は綺麗に輝いていた。だが、地上に目を下ろすと、舗道には犬のフンやパスタの食べ残しが落ちていて、マリーの上等の靴を汚した。

 あちこちの路肩に、暴徒によって壊された乗用車が捨ててあった。車道に往来する車が全くないのは、ドライバーが襲撃を恐れて、この通称『罪の街』を通り抜けしないからだ。

 街の人間は皆いずれも貧しく、自家用車を所有していなかった。雨風を凌げる家があればいいほうで、路上には暴れる気力もない男たちが坐りこみ、石で作ったゲームの駒を打つ光景が広がっていた。

 マリーは生まれつき左足が悪かった。歩けないわけではないのだが、ずっと歩き続けで、左足は悲鳴を上げていた。痛みを庇いながら歩くため、歩を進めるたびに靴を道路に擦る音が響いた。

 十六歳になったばかりのセイント・マリーは、荘厳で神々しい美の持ち主だった。長い金色の髪をまっすぐに下ろし、ゆったりした丈の長いワンピースを着た姿は、宗教画から現れた聖母マリアそのものだった。

『罪の街』を内包する国家アルメシアは南米の内陸に位置する小国で、第二次世界大戦後に独立した。移民に支えられたこの国は、他の南米の国々と違い、伝承する宗教というものを持たない。

 だが、心の支えとなるべき宗教がない人々も、神々しいものには惹かれる。隣接する国々で聖母と呼ばれる女性が崇められている実情は、この街に住む底辺の男たちにも知られていた。

 あまりに罪の街にそぐわないマリーに対して、路上の男たちが目を見張り、口笛を吹いてくる。

 マリーは小さく身を震わせた。いつ立ち上がって、掴みかかってこられるかと思うと、生きた心地がしなかった。

罪の街では、法律などあってないようなものだった。

 他の街で罪を犯した男たち、家族を捨てて逃げてきた女たちが辿り着くのが罪の街なのだ。現実に目を背けた男たちが毎晩のように、勢力争いを繰り広げている。

 罪の街と呼ばれているのはアブリル市の十番通りから三十番通りを指す。アルメシアの首都ラザから西へ四百キロ。ココナツ畑を中心とした広大な農村地帯を望むハイウエイを越えると、アルメシア第三の都ケチレノに着く。アブリル市はその一角にあるブルーカラーの人口が多い町だった。

だが市に住民登録している人間はほとんどいない。戸籍のない輩も多いし、過去に罪を犯した先の住所のまま暮していても特に不便はなかった。街の住民となる前から、人々は行政に何かしてもらったりしていない。欲しいものがあるなら他人を血まみれにしても手に入れるしかなかった。この世の地獄のような無法地帯をマリーは歩いていた。

 ――でも私は、ここより他に行く場所がない。家を出た兄さんが根城にしている『罪の街』十六番通りに。

 マリーが九歳のとき、貿易会社を経営していた両親が飛行機事故で亡くなった。幼いマリーは六つ年上の兄ルイと共に叔父ヒューズに引き取られ、何不自由ない暮らしをしてきた。

 だが、ルイは叔父家族とそりが合わず、高校在学中から罪の街に入り浸るようになった。今ではヘッドとして頂点に立ち、悪人だらけの罪の街を統括している。

 マリーが角を曲がり、人気のない路地に入った時、目の前に黒い人影が現れた。

「ちょっと、お嬢ちゃん。人の縄張りに入ってくるには、それなりの覚悟があるんでしょうね?」

 女は銀色の長い髪をなびかせ、しなやかに伸びた肢体を黒革のキャットスーツに包んでいた。手には髑髏モチーフの付いたナイフを持っている。ペルシャ猫を思わせる青灰色の瞳が、夜闇にいたずらっぽく輝いた。

「痛い目に遭いたくなかったら、有り金そっくり置いて、出ていきな」

 マリーは胸を撫でおろした。何時間も歩いてきて、本当に目的の場所に到着するか、果たして自分は正しい道を歩いているのかさえ不安だった。

 ――月明かりに光る銀色の髪。原罪を持つ女と同じ名前だと兄さんは言っていた。ああ、こんなにも美しい人だったなんて。

 マリーは唾を呑み込み、元気な声で言った。

「あなたがエヴァね? 銀色の髪をした罪の街の伝説のひと。初めまして、私、ルイの妹のマリーです。兄さんに会いに、ここまで来てしまったの」

「ルイの妹?」

 エヴァの細い眉が、ぴくりと吊り上がった。

「はい。兄さんが、何かあったらグアダルーベのエヴァさんを訪ねるようにと言っていたので」

 十六番通りにあるグアダルーベという酒場は、ルイがアジトとしている店だった。主のエヴァはルイの側近として、また世話係として、街では名が知られている。

「ふうん。ま、話にはよく聞いてたけど、まさか、本当に来るとはね」

 エヴァが品定めするように、じっとマリーを見つめてきた。

「え、えっと……ごめんなさい」

 本当に来るとは、などと突き放したように言われ、マリーは足が竦んでしまった。やはり歓迎されていないのだ。謝るのも変な話だったが、マリーは他に適当な言葉が見つからなかった。

 エヴァも、道路に座り込んでいた連中と同様の目をしている。

「ほんと、まるで聖母マリアね」

 エヴァがぽつりと呟いた。

 ルイは周囲の人間に「自分の妹は聖母マリアに似ている」と自慢していた。実際に暗がりに立つ自分の金色の髪が月に照らされ、神々しい光を放っていることはマリーも自覚していた。

 マリーは理解してもらえたか不安になり、親愛の情を見せるために微笑んだ。

 ――わかってもらうためには、まず私が親愛の情を示さなくちゃ。

 エヴァは一瞬、言葉を失った様子だったが、やがて小さく呟いた。

「でも、聖母というよりは、この世の悪を何ひとつ知らない天使、ってところね」

「え?」

 マリーは意味がわからず問い返したが、笑顔を作るのをすっかり忘れてしまった。

 エヴァもマリーの不安は察知したらしい。やれやれと首を横に振ると、マリーに向かって微笑みかけてきた。

「わかった。私のことも知っているようだし、信じるわ。ルイは今お仕事中。戻ってくるまで、私の店で待ってなさいな」

 マリーはそのままエヴァに連れられ、十六番通りの酒場グアダルーベの裏口へと回った。

 暗い石壁でできた店の奥は、子供たちがフットサルでもできそうなぐらいの空地になっていた。奥に据えられた台に青い瓶や空き缶が一列に並べられている。

 マリーが不思議そうに見ていると、エヴァがにやりと笑った。

「うちの専属狙撃手」の練習場所よ。不用意に近づくと頭を吹き飛ばされるから、気をつけな」

 マリーは身震いし、両手で上着の襟を合わせた。

 粗末なベニヤ板でできた裏口のドアを開けると、生ゴミの臭いが鼻をついた。マリーは顔をしかめないでいるのに苦労した。

 火を落とされた暗くて狭い厨房を抜けると、赤茶にペイントされた壁と、窓を飾る黄色いカーテンが目に入った。

 三、四人で食事できそうな木のテーブルが、中央の通路を挟んで、窓辺と反対の壁側に三つずつ並んでいた。テーブルクロスは掛けられておらず、剥き出しのまま、水を入れたコップに黄色い花が一輪ずつ生けてあった。

 背もたれのない椅子が雑然とテーブルを取り巻き、その夜も男たちが憂さを晴らした名残が残っていた。

 床材はあちこち剥がれてはいたが、掃除は行き届いていた。主エヴァの明るく、さばさばした雰囲気が店からも漂ってきて、マリーは心が温かくなった。

 怖い思いをしてようやく辿り着いたら、なんとか迎え入れてもらえた。マリーは嬉しさがこみ上げてきた。黒革に身を包んだエヴァはスパイ映画に出てくるヒロインのようだし、大地の母のような安心感があった。

 ――私もこの街で暮らしたら、エヴァのようなカッコいい女性になれるかしら。

 マリーは浮き浮きしながら、後ろにいるはずのエヴァを振り返った。

「素敵なお店ね」

 厨房近くの席についていた男が不意に立ち上がった。

「エヴァ、どこに行ってた。鍵も掛けずに店を放っておくなと、いつも言ってるだろう」

 驚きでマリーの肩が跳ねた。エヴァの店には、まだ客が残っていた。

 二十歳を越えたぐらいの、艶のない白茶けた髪をした青年だった。どうやら、かなり馴染みのようだ。

 薄汚れた革のジャケットを着た姿は、いかにもワルといった感じで、灰色の瞳は光を映したことがないように淀んでいた。路上で行き倒れのように座り込んでいた男たちと同じ目をしていた。マリーは急に気が重くなった。

 ――この街に住んでいると、みんな覇気がなくなってしまうのかしら。

 青年は見慣れない少女を前にして、目を見開いた。マリーが微笑みを返すと、青年はばつが悪そうに視線を逸らした。

 マリーは一瞬、嫌われたのかと思った。だが、青年は頬をわずかに赤く染め、ちらちらと横目でマリーを見ていた。どうやら嫌われているわけでもないらしい。

 エヴァは二人の様子に気づかないのか、呑気な声で答えた。

「わるいわるい、ルイの妹を迎えに行っていたのよ」

「妹? ルイの?」

 青年は今度は無遠慮にマリーを見つめた。逆にマリーは唇を噛み、うつむいた。ルイと血縁関係にある事実は、どこへ行っても恥ずかしいことだった。

 青年は腕組みをし、マリーにではなく、エヴァに問いかけた。

「ルイの妹が、なんでこんなところに?」

 いかにも迷惑顔で言われたので、マリーは緊張した顔を上げた。

「すみません、急に訪ねてきたりして。ルイの妹のセイント・マリーといいます。兄がいつも、お世話になっています」

 エヴァがマリーの横に立ち、からからと笑った。

「そんな言い方したらマリーが脅えちゃうでしょ。いいところのお嬢様なんだから、あまり怖がらせないで」

 エヴァは早足で厨房に姿を消した。

 マリーは青い上着を脱いだ。中に着ていた小花柄のワンピースの裾はすっかり汚れてしまっていた。マリーは恥ずかしさに顔が赤くなるのが、自分でもわかった。

 そのまま椅子の背に上着を掛けようと足を踏み出した時、ずっと庇って歩いていた左足に激しい痛みが走った。

 マリーは左足を庇おうとして倒れかけた。青年がマリーの肩をしっかりと掴み、胸元に引き寄せた。兄とは違うコロンの香りが青年の胸元から鼻をついた。

「大丈夫か?」

 青年が低い声で問いかけてきた。マリーは青年の肩を掴んで、辛うじてバランスを取り戻した。すかさず青年が椅子をマリーのために引いてくれた。

 マリーは胸の鼓動が聞かれやしないかと、ひやひやしながら、青年に尋ねた。

「ありがとうございます。あの、お名前を聞いてもいいかしら」

 青年は、そんなことに興味があるのかと呆れた顔をした。

「オレはジョゼ」

「兄さんとは、その、お友達ですか?」

 ジョゼは斜め上を向き、しばし考えたあと、答えた。

「知り合いってところだ」

「じゃあ、あまり仲良くはないのね」

 マリーには、ジョゼが兄と親しいことが、直感的にわかった。

 ――兄さんと同じ。素直じゃなくて、子供みたい。

 マリーはくくっと声を立てて笑った。ジョゼは口を尖らせ、マリーの横に座ると、灰色の髪をしきりに掻いた。

「そんなにおかしいか」

 マリーは笑いながら、答えた。

「うん、おかしい」

 厨房からカチカチとグラスを重ねる音とともにエヴァの声が聞こえてきた。

「ジョゼは街で一番の狙撃手よ。職業は殺し屋なんだけど、仕事はしてるのか、してないのか、私も全然わからないの」

 ジョゼが軽くテーブルの脚を蹴った。

「うるせえよ。これから人を殺しに行くなんて、吹聴して回ることか? 無用の人間を、最初からいなかったかのように掃除するのが、オレの仕事だ」

 エヴァが明るく返す。

「ま、口べたには向いてる職業よね」

 マリーは黙って二人のやり取りを聞いていた。

 殺し屋という職業が実際に存在する事実をマリーは初めて聞かされた。エヴァが仕事をしているかわからないと笑うのもマリーを怖がらせないためだろう。マリーは兄の住む街の殺伐とした雰囲気を肌で感じ、身震いした。

 それにしてもエヴァとジョゼのやり取りは夫婦の会話のようだった。恋人ではなさそうだが、友人以上の関係に感じられた。

 エヴァが厨房から大きな声でジョゼに問い掛けた。

「マリーって聖母マリアに似ていると思わない? クリスチャンの目から見てどうよ、ジョゼ?」

 マリーは驚いてジョゼを仰ぎ見た。ジョゼはマリーの無言の問いに答えた。

「両親がカトリック教徒なんだ。オレは赤ん坊の時に洗礼式を受けたが、今は信心していない」

「あんたの名前も聖人と同じだって言うじゃない。ほら、マリアの夫だった……誰だっけ?」

 マリーが思わず口を開いた。

「確か、聖ヨセフ。ジョゼはポルトガル語読みね」

 聖マリアと聖ヨセフの意外な対面だった。マリー自身、普段から神々しいと言われ慣れているが、罪の街の聖ヨセフも不思議な力強いオーラを放っていた。

 兄より先にマリアの夫と同じ名前の人と出会うなんて、運命めいたものを感じる。

 ――カトリック信者って教会でお祈りしたり、神様の話をいろいろ知っているのよね。

「この国は名前だけは皆いろいろね。英語読み、ドイツ語読み、スペイン語読み。いろんな人種の寄せ集めだから仕方がないけど、アルファベトだけ見ると戸惑うことが多いわ」

 エヴァはしきりに口を動かしながら、マリーが座った席に安酒とグラスを持ってきた。

「さっきのお詫び。だからルイには、カツアゲしかけたことは内緒にしといて」

 マリーは目の前の酒瓶とグラスを交互に見つめた。エヴァがマリーを成人と間違えたとは思えない。

 だが、悪意は全く感じられない。エヴァなりに精一杯、歓迎の意を表わしているようだ。マリーは勧められるまま、グラスに口をつけた。

 鼻から熱い息が出て、マリーは思わず顔をしかめた。エヴァはにこにこして見ている。マリーは無理して微笑んだ。

「ありがとう。実はここに来るまでも、何回もお金を盗られそうになったわ。怖かった」

「よく無事に辿り着けたな」

 ジョゼは、まじまじとマリーを見つめた。

「ルイの妹だって言ったら、みんな通してくれたわ」

 エヴァがまず吹き出し、マリーは釣られて笑った。ジョゼもしばらく我慢していたが、小さく声を立てて笑った。

 マリーはそれ以上は酒に手をつけず、グラスの水を見つめながら呟いた。

「兄さんはハイスクールを中退してからは、めったに帰ることはなくなってしまった。不良で怖い人だと、みんな言ってる。でも、私に対しては、いつも優しくて、いい兄さんなの。私の前での兄さん、この街での兄さん、まるで、ジキルとハイドのよう」

 話をするうちマリーは心が重くなった。マリーは首を横に振り、目を伏せた。

 隣の席に座っていたジョゼは、ほとんど瞬きもせず、マリーの話を聞いていた。灰色の瞳に小さな光が灯り、小さく頷きながら見つめている。

 ジョゼの温かな眼差しに見守られ、マリーは見知らぬ街にいる不安がほんの少しだけ軽くなった。

 ――私の思った通りだった。こちらが誠意を見せれば、罪の街の人でも応えてくれる。

 特にジョゼが自分に好意を寄せてくれているのは嬉しかった。

 見かけは強面だが、時々見せる子犬のような人懐っこい眼差しが、素直で誠実な人間性を表している。

 ルイが太陽なら、ジョゼは月。兄とは対照的な魅力を持ったジョゼを見ていると、マリーはゆったりと安らいだ気分になれた。

 マリーは小さく息を吸い込み、思い切ってジョゼに尋ねてみた。

「兄さんからエヴァのことは聞いていたけれど、ジョゼの名前が出たことはなかったわ。でも、ジョゼにも世話になっているのでしょう?」

 ジョゼが答えるより先に、エヴァが目を丸くして甲高い声を立てた。

「まあ、ルイったら、何を考えているのかしら。ジョゼはルイの右腕よ。自分は拳銃が下手くそなもんだから、危ない場所には必ず連れていくってのに」

 ジョゼは顔をしかめ、マリーではなくエヴァを見た。

「別に、どうでもいい話だろ。街でのことを妹に話しても、どうせわかりゃしねえ」

 マリーはジョゼから話を聞くのは諦め、エヴァに向き直った。

「エヴァとジョゼは仲がいいのね。もしかして、恋人?」

「恋人ぉ?」

 エヴァが素っ頓狂な声を上げた。ジョゼは「やれやれ」と首を横に振った。エヴァが真赤になって椅子から立ち上がった。

「マリー、勘違いしないでよ。ジョゼとは、私が十三でワルの道に入った時から一緒にいるだけよ。私はジョゼなんか眼中にないからね!」

 ジョゼは顎を引き、くっくと笑った。

「何を勘ぐってるか知らねえが、エヴァはルイしか興味ないぜ」

 すかさずエヴァが髑髏ナイフを腰から抜いた。

「殺されたい?」

 マリーは声を立てて笑った。

「まるで夫婦漫才ね」

 エヴァとジョゼは顔を見合わせ、ぽかんとしていた。

 一瞬、妙な沈黙ができた。その直後、マリーの胃がくーと、鳩の鳴き声のように鳴った。

 エヴァはお腹を抱えて笑いだした。

「マリー、あんた何も食べてないんじゃないの?」

 マリーの空っぽの胃は、さっきから小さく音を立てていた。叔父の屋敷を逃げるように出てから何も口に入れていなかった。

 エヴァがマリーの肩にそっと手を置いた。

「何か温かいものでも作りましょうか。ありあわせのものだけどね」

 ジョゼも少し頬を緩め、愉快そうに笑った。

「小さく絶え間なく、くーくーって、オレにも小鳥の囀りみたいに聞こえたぞ。笑いを堪えるのに苦労したぜ」

 マリーは顔から火が出そうになった。うつむいて胃の辺りを押さえながら、自分でも笑いを抑えられず、小さな声を上げて笑った。

 不意に表の扉が大きな音を立てて開いた。

 百八十センチ余の体格のいい青年が、腰のポケットに手を入れたまま入って来た。マリーの兄、ルイの登場だった。

「畜生!」

 外で面白くないことがあったのだろう。ルイは扉横の柱を右足で思いっきり蹴った。鈍い音がし、靴底についていた泥で、柱は真黒に汚れた。

「俺の通り道に犬の糞を置いておくとは、ふてえ野郎だ」

 店の外から何やら声がするところを見ると、他にも連れがいるらしい。

 エヴァがマリーに耳打ちした。

「ルイの子分っていうか、いつもくっついて回るホアンとダニエルって男がいるの。ダニエルは強面だし、ホアンなんてイカレる一歩手前ってとこ。灯りの落ちた店には入ってこないから安心して」

 ルイは店を汚したことなど気にも止めず、またマリーたちがいる席など見向きもせず、靴の底を交互に上げて確認していた。諦めたのか不意にルイは扉の外の男たちを恫喝した。

「いつまでもひっついているな! 店も閉まったんだ、とっとと帰れ!」

 男たちの恐縮する声がし、足音が遠ざかった。ルイは鼻から勢いよく息を放ち、扉を閉めた。

 全員に緊張感が走った。

 店全体の照明が落とされていたが、外から入って来たルイなら、人影ぐらいは見えるはずだ。

 だが、よもや自分の妹が訪ねてきているとは思いもしなかったようで、ろくに視線も向けないまま、靴底の泥落としに専念している。

 背を向けていたマリーは、一瞬さっと後ろを振り向き、ルイの姿を見つけると、顔を合わせないよう、テーブルに向きなおった。

 念願の兄との再会だというのに、マリーは苦渋の思いで、とっさに俯いてしまった。

 今は、あまりに違う環境で生きている兄妹だ。

 ――兄さんを頼って、本当に正しかったのかしら?

 兄が最後に叔父の家に帰ってきたのは、ひと月前のことだった。泥酔し、マリーの寝室の窓から入り込んできた兄を、マリーはどれほど愛しく、同時に憎々しい思いで見たことか。

 ――堕ちるところまで堕ちたとは、兄さんのことを言うのだわ! どれほど心配しても素知らぬ顔で。愛するのも憎むのも、もう疲れてしまった……。

 ルイはマリーと同じ金髪を短く刈り込み、美しい顔には今日も切り傷を作っていた。

 上から下まで黒づくめ。素肌に黒革のジャケットをはおり、同じ革のパンツには、鋲がいくつもついている。歩くたびにロングブーツについた滑車が軽い金属音を立てた。

 歳はジョゼとさほど変わらない。妹と同じ青い目は、マリーよりも世の中の汚いものを多く見てきたせいか、薄汚れた川のように濁っていた。

 だが、生き生きと動く表情は、ルイの明るく情熱的な性格をよく表していた。

 実業家ルイ・トッドの長男にして遺児。出自の良さはやはり見かけに現れていて、高貴で堂々とした雰囲気はジョゼとは比べ物にならなかった。今は叔父の姓を名乗っているマリーと違い、将来はトッド家を再建するのだと大人たちは期待を掛けてきた。親族たちは今のルイを惨めに堕ちたととるだろうが、ルイはアルメシアの小さな無法地帯の長として存在することを誇らしく思っているようだった。

 エヴァが立ち上がり、ルイに見えるよう手を挙げた。

「お帰り、ルイ。可愛いお姫様がお待ちかねよ」

 椅子を引く音がして、マリーはジョゼのほうを見た。ジョゼはマリーから少し離れた位置に椅子をずらしていた。

 マリーは眉を寄せ、俯いた。やはり、ジョゼは知っていた。ルイの前でマリーと親しくしては危険だ、と。

 ――私はこの街にいる限り、同じ思いを味わい続けなければならないのかしら。

 ルイの能天気な声が聞こえてきた。

「お姫様?」

「セイント・マリー。あんたの妹が来てるのよ」

「なんだって! ああ、マリー! 俺のエンジェル! 地獄の酒場が天国になったぞ!」

 ルイはマリーの姿を見つけるや、大股で近づき、不意に身体を抱きすくめた。

「マリー、俺の運命の女!」

 なんとルイは、実の妹の顎に手をやり、上に向けると、唇に激しく口付けた。

 酒の匂いのする呼気がマリーの口内に入り、マリーは顔をしかめた。さらに角度をつけて唇を合わせながら、ルイはマリーの口の周囲を唾液だらけにした。

「やめ……て、む、んん!」

 マリーは、塞がれた唇を、なんとかルイから剥がした。

 エヴァとジョゼが見ている前でキスをするなんて。しかも、こんなに激しく。

 兄の思慮に欠けた行動に、マリーは怒りで身体が震えた。この拳に男の力があったなら、殴ってやりたかった。

 マリーは冷静な声が出せるよう、二度どうにか大きく深呼吸した。ここで下手に思いをぶちまけてしまったら、取り返しのつかない事態を招く。

「また飲んでいるのね」

 ルイはマリーを抱きしめたまま囁いた。

「そもそも、俺がこうなってしまったのは、お前が俺を受け入れなくなったからじゃないか」

 そばで見ていたジョゼが顔を背け、小さく咳払いした。

 兄と妹の再会にしては、あまりに激しいシーン。マリーは身をよじり、やっと兄の腕から逃れた。

 エヴァは椅子から立ち上がったまま二人を見ていたが、すぐに我に返った。それでも動揺の色は隠せなかった。

「ルイの女好きは有名だけれど、妹にまで、そんなキスするとは、驚きね」

 ジョゼがエヴァを睨み、たしなめた。

「いいじゃないか、そんなこと。家族には家族のやり方ってのがある」

 だが、ルイは見下げるようにエヴァを見て、さらりと答えた。

「妹だって、女だろ」

 マリーは身体中から血の気が引いた。身体の震えを止めるため、必死に拳を作って耐えた。

 ――兄さん、なんてこと言うのよ。二人の前でまで私を奴隷扱いする気?

 マリーは今のシーンをジョゼに見られたことが、何よりショックだった。

 マリーは兄に向って叫んだ。

「兄さんの馬鹿! 来るんじゃなかった! やっぱり来るんじゃなかったわ!」

 マリーはグラスに突っ伏して泣き出した。

 頭の上からエヴァの声がした。

「ルイ、あんたいい加減にしなさいよ。マリーはさっきから神経が張り詰めていたんだから」

「悪かったよ。……マリー、機嫌直せよ」

 マリーはエヴァに肩を叩かれても、嫌々と首を横に振るばかりだった。

 エヴァは、これ以上は誰も店を訪れないよう、閉店の看板を掛け、扉を施錠した。

 マリーもようやく泣きやみ、心を落ち着けようと、口にハンカチを当てた。

 店内にいるのはマリーの他にルイ、エヴァ、ジョゼの三人になった。

 マリーを中央に右にエヴァ、左にジョゼが椅子を並べた。テーブルを挟んで、向かいの席にルイが座った。

 マリーはさっそく、この街に来た理由を話し始めた。

「実は、育ててくれているヒューズ叔父様が私に縁談を持ってきたの。私、どうしても、その人のところへ嫁ぎたくないんです」

 ルイの顔が、見るみる赤くなった。

「どこのどいつに嫁げってんだ?」

「叔父様が仕事でお世話になっているロランド家の息子で、グエンという人です」

 エヴァはきょとんとしていたが、ジョゼは深刻な顔をした。

「ロランド家といえば『ロランド帝国』とも呼ばれる企業体だろう。死の商人との関係も取りざたされている、この国じゃあ、一番の大金持ちだ」

「ジョゼ、あんたよく知ってるわね」

 ひゅうと口笛を吹いて感心するエヴァを、ジョゼは真顔で見た。

「新聞を読んでれば、名前が出てこない日はない」

 エヴァは鼻に皺を寄せた。どうやらこの二人はルイより昔馴染みで、いつもぽんぽん言い合いをしているようだった。

 ロランド帝国とはグエンの祖父ロジャー・ロランドが一代にして築いた企業グループだった。敗戦直後のイタリアから独立国家となったアルメシアに亡命し、陸軍や政府に莫大な資金援助をした見返りに、様々な優遇措置を受けて発展した。

 裏では武器商人の噂もあり、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争と、いつ果てるとも知れない世界中の国々の争いに加担していると言われている。現在は、ロジャーの長子ミカエルが総帥として帝国を動かし、グエンは大学卒業後、帝王学を叩き込まれているらしい。

「どうせ私は、ボクシングの勝ち負けしか興味ないわよ」

 ボクシングに限らず、賭けの対象となる競技は貧しい人々の間で人気だった。夜になると酒場に集う客も、飲みながら新聞を広げては、なけなしの金を賭けて楽しんでいた。特に底辺の生活から拳一つでのし上がれるボクシングというスポーツは、アルメシアの庶民の間ではサッカーに並んで人々の関心を集めていた。

 ジョゼが、ぼそりと呟いた。

「あと、死亡欄な」

 エヴァはマリーの背中ごしにジョゼの頭をはたいた。

「痛えな」

 エヴァは、つんと顔を背け、脚を組んだ。

「アメリカと仲良くやっちゃあ、自分の身に届かない場所で戦争させる家系だなんて、最低ね」

だが、縁談相手の名を聞いて全身をぶるぶる震わせていたルイは、やおら椅子を蹴り、立ち上がった。

「冗談じゃないぞ! ロランド帝国はどうでもいい、問題は相手がグエンだってことだ。あいつは、女たらしで有名じゃないか! あんな男にマリーを嫁がせるなんて、俺は絶対に許さない!」

 ルイの怒声にマリーを含め皆、身体を堅くした。マリーは顔を上げ、強い決意を胸に、兄を見つめた。

「私も、家には戻らない覚悟でここに来ました。叔父様の仕事の道具になんか絶対されたくない。本当に愛している人に、この身を捧げたいから」

 沈黙が四人を支配した。二十一世紀に入って七年も経つというのに、好きでもない男と結婚させられる少女がいるとは。

 罪の街に住む限り、エヴァもジョゼもルイも、自分の思いを曲げてまで生きる必要はない。

 静寂の中、店の鳩時計が午前一時を告げた。ジョゼは時計を見ながら目をこすると、話を進めようと大げさに咳払いした。

「金持ちの娘ってのも、けっこう大変なんだな。好きでもない男の許に嫁がされるとは」

 エヴァが悪戯っぽく笑った。

「映画とか小説では、よく聞く話だけどね。ルイって、つくづく特別な階級の出なのね。普段は、接してても高貴な雰囲気なんて、あまりないけど」

 エヴァの冗談めかした言葉を聞いても、ルイは深刻な顔のままだった。

 マリーは必死に気を張っていた。優しい人々に囲まれ、ともすれば涙が込み上げてくる。マリーは、か細い声で訴えた。

「兄さん、罪の街で暮らす我が儘を許してください。ヘッドである兄さんの許可を得たら、ここに住んでも構わないでしょう?」

 マリーの決意表明に、ルイは勢いづいた。

「よし、わかった。おまえの身柄は俺が引き受けるから、安心しろ。今夜から俺のアパートで一緒に暮らそう」

「ちょっと待った」

 エヴァがルイの言葉を遮った。ルイはぎろりとエヴァを睨んだ。だがエヴァは、その視線に気づかない振りをしていた。

「ルイのアパートは、街でも物騒で有名な場所だわ。ルイはなにかと忙しくて、アパートには深夜に、寝に帰るだけじゃないの。マリーのような若い女が一人のとき、誰かに押し入られて何かあったら、お終いよ」

 ルイは「むう」と唸った。エヴァの言葉に何も反論できない様子だった。

 エヴァはそれ見たことかと顎を上げ、ルイを見下げた。

 エヴァは人差し指で天井を指差すと、得意げな声で続けた。

「グアダルーべの二階が私の住居だから、マリーはここにいなさいな。少なくとも、安全は保障するわ」

 マリーは暗闇に光が見えた思いだった。物騒なアパートで兄の帰りを待つのは、さすがに不安だった。エヴァの優しさに涙が出そうだった。

「いいんですか?」

「二人は優に眠れるベッドだから、しばらく一緒に寝るといいわ。そのうち、もう一つ買えばいいし」

 ルイは、しぶしぶといった顔でエヴァの提案を受け入れた。

「確かにグアダルーベには、いつも誰か必ず人がいてくれる。物騒が逃げてく場であることは確かだ」

 マリーは兄がいつ爆弾発言をするか冷や冷やしていた。今のところ聞いている限り、単に妹を思う兄の優しさから出た言葉ばかりだった。

 マリーは横目でちらりとジョゼを見た。ジョゼはエヴァの店でマリーが世話になると聞いた時点で、安心したように目を伏せ、腕組みをしていた。

 マリーは、ほっと胸を撫でおろした。

 兄と自分の関係を、特にジョゼには知られたくなかった。理由は自分でもよくわからない。だが、今ここでジョゼに蔑みの目で見られると、ショックで立ち直れない気がした。

「じゃあ、お世話になります」

 マリーは横にいたエヴァに向きなおり、深くお辞儀をした。

「ちょっと頭を上げて、マリー。ここでは遠慮は一切なしだからね」

「はい」

 マリーは顔を上げ、今度は笑顔で頷いた。

 マリーはエヴァのあとに続いて、グアダルーベの奥にある階段を上がっていった。

 二階は店内とは雰囲気が大きく変わっていた。酒飲みの呼気とチョリソーの脂の匂いが染み付いた店内と違い、白檀の香りが漂っていた。

 寝室の中央には紫の布に覆われたベッドが鎮座していた。その横にある揺り椅子は、夜の読書のためのものだろうか。窓以外の壁は、隣国のペルーかボリビアの街で買ってきたのだろう、色鮮やかなタペストリーがごてごてと飾られている。

 絵画や彫刻のような美術品は一切なかった。床に土産物屋で買ってきたと思われる巨大な桃色フラミンゴの置物と、聖母マリア像が並べてあった。

 アルメシア以外の南米のほとんどの国では、キリスト教が信仰されている。国境沿いの路上では、観光客を目当てに三賢人の訪問やキリストの科刑を再現した、程度の悪い彫像が売られている。魂の欠片も入っていそうにない安値で、観光客はほとんど見向きもしないで通り過ぎていく。

 桃色フラミンゴの置物も南米の安っぽい名物のようなもので、メキシコ国境沿いに遊びに来たアメリカ人が話のネタに買っていく。

 キリスト教徒でないエヴァにしてみれば、思いはアメリカの観光客と同じだったろう。ペルーあたりを旅したときに冗談かネタに買ったものの、置き場所に困って放置しているといった感じだった。

 窓にはベッドと同じ紫のカーテンが天井から垂れ下がり、少しでも部屋を大きく見せようとしているらしかった。これで、シャンデリアでも吊るされていたらエセ王女様の部屋として完璧だ。だが、電灯までは気が回らなかったと思われる。蛍光灯が青く人工的な光を部屋に注いでいた。

 色の洪水に、マリーは軽く目眩がしたが、余計な感想は言わないことにした。

 ――沈黙は金、と言うわよね。沈黙、沈黙。

 結局、沈黙の代わりにマリーは、おざなりの社交辞令を述べた。

「素敵なお部屋ね」

 マリーは中央のベッドに腰かけた。マリーの重みにスプリングが軋み、エヴァは顔を赤らめた。

「あんたの金持ち叔父さんとこみたいな生活は無理だけど、我慢してね」

「とんでもないわ。私もやっと叔父のところを逃げ出して、自由になれたんですもの」

 エヴァが小さく鼻で笑った。

「自由、か」

 マリーはエヴァが初めて見せた、優しさ以外の言葉に、むっとした。

 ――な、何なの? 鼻で笑うようなこと?

 エヴァはマリーの険しい顔に気づいたのか、大げさに目を丸くし、胸の前で手を振った。

「ごめんごめん。嫌味を言ったつもりじゃないの。私は生まれた時から金には縁がなかったけれど、自由だけはあったから」

 気まずい沈黙が流れた。エヴァは赤くなった顔を手でしきりに扇いだ。

「いつの時代もそうだけどさ、いいように利用されるのは、いつも女。だから私は、男ってものが大嫌いなのよ」

 マリーも、つまらないことに突っかかって言い合いをしたくはなかった。

 ――こんなところで腹を立ててもいいことないわ。深呼吸よ。

 何より、今は疲れた身体を休めたい。マリーは笑顔を作り、エヴァの言葉に賛同した。

「えっと、クローゼットは、ここね」

 ベッドを挟んで、奥の壁が一面クローゼットになっていた。唯一タペストリーと紫の布に侵食されていない場所だった。

 エヴァはクローゼットを全開し、思案するように腰に手を当てた。マリーはベッドに座ったまま、クローゼットの中を覗き見た。

 吊下がった服は女性らしい丈の長いドレスが多かった。パーティーなどに着ていくものではなく、部屋でくつろぐためのものばかりだ。それでも、男勝りな黒革に身を包んでいる今のエヴァとは落差が感じられた。

 もしかしたら、エヴァは見かけより、お伽話の好きな夢見る乙女なのかもしれない。マリーは小さく声を漏らして笑った。

 幸い、エヴァには聞こえなかったらしい。突然やって来たもう一人のお姫様に何を着せたものか、ハンガーを取っかえ引っかえ出し入れしていた。

「どうしようかなあ。どれも寸法は合うと思うんだけど、質が悪いものばかりで。下着のまま寝ても、誰が見てるわけじゃないし」

 エヴァは小さく頷くと、紫の寝間着とガウンが掛かったハンガーを取り出した。

「なんだかんだで、汗かいて気持ち悪いでしょ。今日は寝間着がないから、私のを使って。私はこっちの部屋着で休むから」

 エヴァはベッドに紫の透けた寝間着を広げた。マリーはセクシーな寝間着を見て、胸を弾ませた。叔父の家では、ワンピースから下着まで、清楚なものしか身に着けられなかった。

「ありがとう。こんな色っぽい寝間着を着て寝るなんて、エヴァは素敵。大人の女性なのね」

 エヴァは歯を見せて、明るく笑った。

「普段は男と対等にやりあっていかなきゃ、生きていけないからね。夜のひと時ぐらい、女でいたいの」

マリーはワンピースのファスナーを外し、床にすとんと落とすと、浮き浮きと心弾ませながら透けた寝間着を身体にあてた。

 足から身体を通し、肩紐を合わせると、手を軽く広げて回転してみた。

 エヴァは揺り椅子に腰かけ、マリーが着替えるのを見ているようだった。

 マリーは鏡に自分の姿を映しながら、その奥にあるエヴァの視線が気になった。

 実際、手渡された寝間着よりマリーの下着のほうが何倍も高価だ。引け目を感じさせてしまっていないだろうか。

 今エヴァの機嫌を損ねると、マリーは路上で眠るしかない。高揚する気持ちと同じぐらい、内心びくびくしていた。

 やがて背後からエヴァが声を掛けてきた。

「ねえ、マリー」

 マリーは、弾かれたように振り返った。

「この街で暮らしていくには、相当な覚悟が必要よ。あなたにそれがあるかが心配だわ」

 寝間着の裾を摘んで遊んでいたマリーは、手を放して直立した。

「兄さんがいなかったら、ここには来ていなかったわ」

「あなたも、厄介な兄貴を持ってしまったわね。私も、いつまでもあなたを守れるわけではないわ。この街で生きるなら、覚悟をして」

「エヴァ、ありがとう」

 マリーは胸に熱いものが込み上げてきた。エヴァの率直な物言いは慣れないとびくびく聞いてしまうが、裏表のない性格の表れだ。素直に受け止めさえすれば、こんなに頼りになる女性はいない。

 マリーはつくづくルイを取り巻く人の縁に感謝した。マリーは下を向き、小さく呟いた。

「許婚のグエンは、恐ろしい人だわ。叔父の事業不振を知って、まるで私を人身御供のように差し出せと言ってきたの」

 エヴァはマリーの話に何度も頷いた。

「そうね、本当にあんたが愛する人に全てを捧げないといけないわね」

「本当に愛する人……」

 マリーは思わずエヴァの言葉を反芻した。

 ――愛する人と、愛してくれる人は違うのだろうか。

 エヴァは鼻に皺を寄せ、小鳥のように笑った。

「まだマリーには早いかもね。そのうち、出会いもあるわよ」

 エヴァは鼻歌を歌いながらベッドに枕を二つ並べた。

 9

 空が白々とし始めた午前五時。マリーは窓に小石がぶつかる音で目を覚ました。

 一つのベッドで寝息を立てているエヴァに気づかれないよう、そっと身体を滑らせ、室内履きを履いた。夏場は外履きとして使うこの手の履物は底がしっかりした作りなため、気をつけて歩かないと音を立ててしまう。

 恐る恐る窓辺に近づくと、店の前で兄のルイが手を振っていた。

「兄さん……今頃なんで」

 ルイは手真似で店の鍵を開けろと訴えていた。

 マリーは唇に人差し指を当てルイを牽制すると、次に指先を下に向け、店内に向かう旨を伝えた。

 背後からエヴァの小さないびきが聞こえていた。こっそり階下に降りても気づかれる心配はなかった。マリーは寝間着の裾を持ち上げ、爪先立ちで部屋の出口に向かい、階段を降りた。

 黄色いカーテンの隙間から朝陽がこぼれていた。電気のスイッチがどこにあるかわからなかったが、面と向かって話し合うには十分の明るさがあった。

 扉の向こうから小さく何度も扉を叩く音がしていた。

 マリーは早足で扉に近づき、閂に手をかけた。

「兄さん、今すぐ開けますから、静かにして。エヴァが起きてしまうわ」

 かちりと音がして鍵が外れるのと、ほとんど同時にルイが店内に滑り込んだ。

「マリー、会いたかった」

 ルイはマリーの腕を掴むと、逃がさないとばかりに強く胸に抱き寄せた。呼気からは夜と変わらず酒の匂いがした。

 マリーは思わず顔を背けたが、抵抗も空しく、唇を奪われた。マリーも観念し、身体の力を抜いてルイにされるままになった。

 兄に抱きしめられるたび、マリーの心は死んでいく。人並みの少女の幸せは、マリーには無縁のものに思えた。こうして唇を奪われても、愛しい気持よりも、一層の憎しみが湧き上がる。

 なぜ兄と妹として生まれたのだろう。兄が自分を見る目に気づき始めたのは、両親が飛行機事故で亡くなって、二人きりになってからだった。

 ルイはマリーを誰にも取られることを嫌った。マリーを守るために、血だらけになって喧嘩してくれた。マリーのためなら、兄はためらわずに何人もの人間を殺すだろう。

 ――血が繋がってさえいなければ、こんなに苦しまずに済むのに。兄さんの思いを憎く感じずに済むのに。

 ルイはマリーの唇を味わいつくすと、ようやく身体を離した。マリーは胸元を押さえ、ルイから一メートルほど距離を置いた。

 こちこちと鳩時計の秒針の音が響いた。マリーは落ち着かなく背中にルイの気配を強く感じていた。近づいてこられたら逃げたほうがいいのか、自分でもわからなかった。

 やがてルイが近づくことなく、沈黙を破った。

「マリー、俺はおまえに嫌われたと思っていた。だが、こうして俺を頼ってこの街に来てくれたことは、とても嬉しいよ」

 マリーはルイの目がまともに見られず、ちらちらと横眼で見ながら、からからの喉から声を出した。

「私は、兄さんを嫌いに思ったことは、一度もありません」

 正確に言うなら……嫌いだと言う資格はない、だった。どこかで抵抗するのを諦めてしまっていた。マリーにとってルイは畏怖すべき神にも近い存在だった。

 ルイには意外な言葉だったらしい。いつもの勝ち誇った表情は影を潜め、口をぽかんと開けて、マリーを見ていた。

「兄さんがしたことは、確かに許されないことだけど。でも私、兄さんに愛されていたことは、ずいぶん前から知っていました」

 ルイは口の端を緩め、ゆっくりとマリーに歩み寄った。後ろから抱き締められても、もうマリーは抵抗しなかった。

「そうだな、マリー。俺はおまえ以外の女には、昔も今も関心はない」

 不意にマリーの脳裏にエヴァの顔が浮かんだ。

 ずっと罪の街で生活をして、マリーに操を誓っていたとも思えない。マリーは首をかしげ、背後のルイを覗き見た。

「エヴァはとても魅力的な人よね。兄さんの恋人ではないの?」

 ルイはマリーの腰を抱く手を胸に移動させ、軽い愛撫を加えた。

「マリー、俺がおまえを、自分の恋人に世話させるとでも思っているのか?」

 マリーは兄の手を軽くはたき、腰の位置に戻した。

「エヴァは兄さんのこと、好きだと思うわ」

 ルイは今度は、ふっとマリーの耳に息を吹きかけた。

「それが、どうした?」

「……兄さん」

 マリーは怒りと諦めの入り混じった溜息を洩らした。

「エヴァには十分な友情を感じているし、友人として裏切ったことは、一度もない。あいつも、男だ女だと大騒ぎするタイプでもないしな。この店がアジトになったのも、この街を少しでも暮らしやすくしたいという俺に共鳴してのことなんだ。俺とエヴァとジョゼの三人が中心になって始めた活動がこうして成果を収めているんだよ。手足となって動いてくれるホアンとダニエルもいるしな」

 ジョゼの名前を聞き、マリーは心臓が跳ねた。

「ジョゼ……あの人も、兄さんの大事なお友達?」

 ルイは背中を向けているマリーの表情までは気づかなかったようだ。能天気にマリーの腰をまさぐっていた。

「ははは、お友達、か。ま、そういうことだ。もっとも、あいつが昨日のように熱くおまえを見続けるんだったら、殺しておとなしくさせるだけだがな」

「殺すなんて、ひどいこと言うのね」

 マリーの声に不快の色を感じたルイは、なだめようと肩を抱き、面と向かわせた。マリーは一瞬びくっと身体を固くしたが、抵抗はしなかった。ルイは満足げにマリーの長い髪をなでた。

「そのぐらいおまえを愛しているということだ。兄としてではなく、男として」

 マリーはおとなしく、ルイの胸に顔をうずめた。二人きりで育った兄妹、これまで幾度となくルイに助けられてきたし、頼りにもしてきた。

 ――兄さんは私を誰よりも愛してくれている。気持ちには応えるべきなのだわ。

「兄さんに抱かれたとき、私、どうしたらいいのか全然わからなかった。もっと抵抗すべきだったのかもしれない。私は結局、兄さんを受け入れてしまった」

「そうだな」

 兄に抱かれた事実は、女であるマリーにとって敗北であり、傷であった。悔しい気持ちは、認めたくない思いの上でも共通だった。

 ――負けたんじゃない。私は兄さんに屈したわけじゃない。きっと私の中の兄さんへの愛が、自然と受け入れたことなんだわ。

「私、後悔していません。地獄に堕ちても、兄さんと一緒なら、怖くない」

 九歳の頃から兄はマリーを守ってくれた。これから先も共に生き、共に堕ちていくことが運命なのだ。

 不快感も、いずれ愛に代わる。初めて受け入れるとき、苦しみばかりだと言うではないか。マリーは自分の気持ちのどこかにある、兄への愛を必死に探した。

「地獄、か。罪を犯した人間たちが永遠に炎に焼かれるとも、悪魔が住むとも言われている。神々しいおまえには不釣合いな場所だが、堕ちた天使がいるとも言う。おまえは、そいつらにかしずかれる運命なのかも知れない。だが、おまえを独りで突き落としはしない。俺が抱きしめ、灼熱の炎から守ってやる」

 ルイはしっかりマリーを抱きしめた。マリーは兄の胸の中で静かに目を閉じた。

「兄さんたら、そんなこと信じていないくせに」

 ルイは口の端をいびつに曲げ、微笑んだ。

「ああ、俺は神なんて信じていない。もし神がいるのなら、この世にこれほど、人間なんて代物が栄え続けるわけがない」


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