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我に自由を

 思えば私の人生というものは波瀾万丈というより、計画通りというべきものであるように思う。言い換えれば、人生における私の身に降りかかる不不幸や災難は不慮如何を問わず全て自業自得である。少なくとも私は今までそう思って生きてきた。

 だが、最近は変化がちらほら出てきたように思う。開き直ったと言えばそうなのかもしれないが、あえて人間らしくなったとこれまた陳腐なセリフを吐かせて欲しい。何故今、私が筆をとったか。少しばかりの、自分自身に抗う勇気と自信を持てたからである。

 長くなるが、聞いて欲しい。1人の人間の独白を。


 まず、私の幼少について話そうと思う。私は出生から今までの記憶は全てある。両親が何を思い、何を望みながら私を産んだのか。それは、幸せになるためであろう。両親が結婚し子供を産んだのも幸せになりたくて行ったことに違いないはずだ。だが、人生において不確定要素や諍いはつきものだ。これらに対し対処するにあたり重要となるのは、月並みだが家族であるように思う。有事の際には、家族や友人、誰でもいいから相談できる人に相談することだ。

 この言葉にすれば単純なことが、少なくとも以前の私と私の両親は出来ていなかった。私に限ってはその程度が酷く、何故他人に自分の弱みを曝け出してさらには頼らなければならないのか。1人で十分だ。結果的に死ぬことになっても他人に迷惑をかけるよりましであり、寧ろ本望で美徳だと教えらた。他人を傷つけたり迷惑をかけるな、借りを作るな、それなら自分が傷つけばいいと。被害者ほど強いものはない、世の中はそういうことなのだと。

 話を戻そう。私は23年前、瀬戸内に浮かぶとある島で生まれた。両親やその家族は幸せであったのだと思う。両親がつけた私の名前からもその様子が伺える。周囲に祝福され、望まれて生まれてくる子供は幸せだという。当時の私はこれに該当し、極めて順調に育った。夜泣きもしない、成長は早い、食欲は旺盛、無用なワガママもいわない、頭と見た目の出来はいい、さらに礼儀正しく分をわきまえており、その他特に問題はない。両親、特に母親からすれば私は理想の娘だったようだ。それは違うと声を大にして言いたいが、そこは割愛しよう。後に私はそれを行動で示すことになる。最も、それは母親からすれば行動と呼べるほど可愛らしいものではなかったかも知れないが。

 母は教育、というものを異常なまでに重視した。勉学は勿論のこと、一般常識やマナー、といった様々なことを私に叩きこんだ。祖母からも茶道・華道の指導を受けた。ただ本当に辛かった。嫌だと言った日には、暴言を吐かれながら夜中に玄関の外に叩き出されたり、壁に向かって何時間も座らされたり、こなす課題が増やされたりした。そうするうちに私は母に合わせて生きるようになった。母の機嫌を損ねない範囲で自分の道を見つければいい、そう思ったら少し気が楽になった気がした。母は、私の言動が母の思い通りの範疇であれば、子を守り愛する親だったように思う。重要な点は、何をするにしても母の思い通りでなければならないという絶対的なルールが存在したことだ。

 それに反した場合はどうなるか。食事は作らない、無視する、すれ違いざまに嫌味や暴言を吐く、懇談や参観日などの学校行事に参加しない、といったことを子供が謝るまでそれを続けるのだ。

 私も成長するにつれ知性や自我が芽生えてきて、謝るのも嫌で謝らずに自分で自分の身の回りのことをこなそうものなら、母自身の傷心や自分の存在意義を強調し、罪悪感を感じざるを得ないのように泣き落としや逆上が始まる。勿論、私が悪かった場合もあった。その点に関しては素直に反省できた。母は母が気にくわない私の言動に対して思いやりがない、冷たい、そういうところは父親そっくりだと言っていたが、当時の私には実の母親に言われた言葉はどんな名言や教訓よりも深く突き刺さり、自分は父のように冷徹で最低な人間だと思っていた。そして毎回母の機嫌を損ねてしまった埋め合わせを必死にしていた。

 ここで父の話を少ししようと思う。正直、父親に対してあまり良い思い出はないのだが、きっと彼は彼なりに家族を愛していたのではないかと思う。私の父は良くも悪くも堅物だった。融通がきかない、複数のことを同時に出来ない、女子供を自分の所有物としてしかみれない、典型的な亭主関白で自己中心的な男だった。夫としては最悪、父親としても最低だった。父の口癖は、「女の癖に偉そう、「誰のおかげで飯が食えていると思っているんだ」、「俺にどうしろというんだ」、「お前に払う金はない」、「お前もお前の母親も最低の女」だった。母からは父に似て冷たくて最低な人間、父からは母に似て金しか言わない最低の女と言われ、私は自分は最低なのだと思っていた。最低と言われても育ててくれている母はともかく、自分自身の体に父の血が半分流れていることにすら虫唾が走った。何故自分の父親はここまで屑なのか、何故自分はそんな屑に売女のように猫なで声で養育費をせがまなければならないのか、何故自分は両親それぞれの理想の娘として生きなければならないのか、と己の境遇を恨んで憎んで悲しんだものだった。だが、今思えば彼は彼なりに必死だったのだと思える。愛も憎しみもやがて全ては海へ流れ着く。と、誰かが唄っていたのを聞いたことがあるが、今では恨みも憎しみも何もない。あるのはただ、哀れみである。私の母と離婚後すぐに再婚するも、良い伴侶、良い子供に恵まれず、残ったのは紙切れ一枚の国家資格保持証明書だけだった。

  私の母は父が持つその紙切れ一枚と学歴、そして彼が思い描いていた夢に女としての人生をかけた。だが、その夢に夢をみて終わった。離婚する理由の多くは、性格の不一致と聞く。離婚する理由は、一方が絶対的に悪いということはまずないように思う。お互いが互いを伴侶として選んだ時点で、どちらも悪いのだ。少なくとも、子供だった私の目にはそう映った。

 私の母は、父が精神的・経済的DVをした、嫁姑問題があったとき父が庇ってくれなかった、父が自分の気持ちをわかってくれない、だから離婚した。自分はもう限界だった。と、父の話題になりヒステリーを起こした時に虚ろな目で自分自身に暗示をかけるようによくぼやいていた。そんな母をみてきたからこそ、私も母は被害者で父が絶対的な加害者だと思っていた。だが、ヒステリーを起こす度に、私や弟に当たり散らし、泣き叫ぶ母に私自身辟易するようになり、母が望む言動をすることで母を宥めていたものの、正直に言えば、彼らの子供だった私からすれば親が何故離婚したかという理由はどうでも良いことだった。その結果として私には、母のために、生きるために、父を最低と蔑み見下し、学歴や資格だけは立派だった父より輝かしい将来が約束されたようにトップクラスの成績を維持することが主な私の義務となり、要は常に母の自尊心を満たす義務が課されただけだった。少しでも成績が下がると、手のつけられないほどのヒステリーを起こし、泣きわめき、暴れ、頰や頭を叩かれた。


 母が望むままに、老舗名門中間一貫校に進学し、学科成績は一番上のクラス、その中でも上位をキープし続けた。その際に決して努力、友情、勝利のような泥臭さは出さず、それがさも当然のように振舞わなければならなかった。一番下のクラスだとしても全国的にみればかなりレベルが高いような学校で、成績がその者の階級に直結するような場所だった。加えて、女ばかりで女同士の諍いも絶えなかった。

 そんな中でも友達の存在は本当に救いだった。個性的で独特な人達だったが、彼女達のおかげで私は生きていられた。今でも本当に感謝している。 いつかまた会うことがあれば、昔のように沢山話して笑い合いたい。

話を戻そう。留まる事を知らない母の期待に応えるのは本当に血を吐く程に大変なものだった。母の期待とは、成績だけではない。母の心情を読み取り、常に母の望む言動をする。少しでも言動を間違えば、母の琴線に触れかねない。かといって完璧すぎても不自然に受けとられ、逆に母自身が自らが至らないせいで気を遣わせてしまってヨヨヨ・・・といった悲劇のか弱い母劇場が始まってしまう。

 その為、常に神経を張り詰めていなければならず、心よりも先に体が悲鳴をあげ学校を休みがちだった。それでも彼女達は友達でいてくれた。彼女達に本当に感謝しながら中高生時代を過ごした。

 高校三年生は第一の人生の分岐点であるように思う。多くは大学に進学する。私もそのつもりだった。その分岐はセンター試験で殆ど決まる。そういう時代だった。私もセンター試験に向けて勉強していた。当初の希望進学先は母の希望通り地元の国立大学だった。国立大学を受験することを伝えたら、母は高揚し、ルンルンとして夕飯をつくり始めた。その日の夕飯は、春巻きとグラタンだった。母が最も得意とする料理だった。特にこの2つは、母を超える味に出会ったことはない。自分で作っても超えることができない。母自身が調理師資格を持つだけあって、母の料理はとても美味しかった。食材も産地や状態にこだわり、早朝から祖母とともに市場へ行ったりしていた。ただ、1つだけ厄介なルールがあった。それは、母の料理以外を褒めてはいけないということである。絶対的な自信と誇りを持っているからである。母の料理に対して美味しいというのは勿論のこと、具体的な感想を求められる。例えば、テレビで料理番組が流れ始めたときだ。色とりどりの食材が美味しそうな料理に変わって行くのだが、ここで美味しいそうと言っては地獄の門が開く。無言で立ち上がり、キッチンの前にだった母から返ってくる言葉は、「私が作った方が美味しい」である。その数時間後には、その番組で紹介されていた料理が出てくる。そして、決め台詞は「あの番組よりは、普通よりは美味しいと思うよ?」である。また、それを弟と2人で完食しなければならなかった。何方がテレビの番組を美味しそうだとかいいねと呟いたかの責任をなすりつけ合いながら、完食したものだった。実際の味は可もなく不可もなく普通で、特別美味しいわけでもなかった。

 母と子供の間に諍いがあった際、その日の深夜に必ずと言っていいほどホットサンドを持って来た。私の家では母が深夜に作るホットサンド=免罪符なのだ。これが出された時にはもう遅い。「謝ったのだから文句を言うな」だからである。これに反論したり、無視したり、食べなかったりするとまた逆上し、ヒステリーが満載の悲劇のヒロイン母劇場が始まる

 母の思い通りにしておけば、その範囲内で自分の道を見つければよい、寝床と食料があるのだからありがたいと思わなければ、そう心にいい聞かせながら、日々を過ごしていた。


 真冬のある日の深夜だった。いつものように課題と明日の準備を終え、私は布団に横になった。息苦しい、喉の辺りが痛い。目を覚ますと私の両手は私の首を締め上げていた。特段、驚きはしなかった、ただ遂にこの時が来たかと妙に納得してしまった。潮時、まさにそうであった。潮が満ちたのだ。海の洞穴に足を踏み入れたものの、目先の宝に目がくらみ潮の満ち引きを無視した結果、潮に入り口を閉ざされ全ては海へ還る。母の期待に応え、彼女の自尊心や欲求を満たす理想の娘は、人間が細胞の塊であるが故なのか、身も心も内側から腐っていたということだ。

 真夜中の3時に起き上がり、机の電気をつけ昨日返却されてきた合格判定とかかれた模試結果を見つめ直した。判定はどれもA以上だ。地元の国立大学からはじまり、数合わせのために適当に書いた都会の有名大学がずらっと並んでいた。学部だが、当時は法学部、教育学部どちらかで迷っていた。そもそも理系に進み薬剤師か理科の教師になりたかったのだが、文理選択の際に当時の担任の熱弁ともとれる説得に負けてしまった。「貴方は法学部に行きなさい」たったそれだけの一言が、私にとって初めての私自身への評価だったのだ。堪らなく嬉しかった。成績や容姿、表面上に映る私ではなくて、自分の中身を見てその上で導いてくれる。あの先生ほど、先生と呼べる先生はこの先いないのではないかと思う。

 教育学部にも未練はあった。先生になりたい、先生になって誰かに何かいい影響を与えられるような人になりたいと思っていた。

 それを一度母に話したことがある。もしかしたら、母は認めてくれるのではないかと。しかし、母はいい顔をせず、「お前がすることじゃない、似合わない、向かない、ストレスばかりの無駄な職業。なぜ法学部に行かないのか、志はないのか、父に負けてもいいのか」とヒステリーを起こすだけだった。そんな母をみて、期待した私が馬鹿であったと己を戒めながら母に謝り倒した。

 それから数日後の三者面談の際に、母は担任から手渡された成績表だけを満足げに見ながら、「娘は法学部にいきますから」と言い席を立った。担任はそんな母をじっと見つめながら立ちあがり、最後に私を見つめた。まるで私に逆らうのではなく賢く生きなさいと諭すかのように、「法学部でも教員免許はとれる。教員免許がなくても学べば先生にもなれる」と言ってくれた。

 担任が言った言葉を聞く前に母は教室を出ており、恐らく母はこの言葉を聞いてはいない。だが、担任の心から応援していると言わんばかりの強い意思に満ちた目を私は絶対に忘れない。

 最終的に、現在私は色々な先生になっている。家庭教師や塾講師、翻訳家、小説家、などいろいろあるが、家庭教師や塾講師はともかく翻訳家や小説家はまだまだ自称程度ではあるが、ここでだけはそう名乗ることを大目に見て欲しい。先生になって、教え子が志望校に合格したり成績が上がったりして喜ぶ顔が本当に嬉しかった。頑張ったのは教え子本人で私自身は大したことはしていない。でも、自分のことより嬉しかった。何より、彼らをよく頑張ったと褒めてあげたい、その一心だった。過去にどれだけ頑張っても、褒められるのではなく更にハードルを上げられ、その辛さや苦しさをだれにも打ち明ける事も頼る事もできずに窒息しそうだった自分を彼らに投影し、当時の自分と同い年の彼らを労うことで、未だ自身の中に吹く風穴を埋めているのかもしれない。

 また話が逸れてしまった。申し訳ない。自分のことだからか、どうしても回想が多くなってしまう。どうか許してほしい。

 その夜、私は自身の現実を見つめ、過去を振り返り、未来をどうすべきかを考えた。このままでは、このまま実家にいれば私はいずれ自殺か人を殺してしまう。まだ死にたくなかった。それだけは確かだった。では、死なずに済むにはどうすべきか。不思議と簡単に答えは見つかった。それは「母から離れること」だった。

  最も、側から見れば間違った愚かな決断かもしれない。未成年が何をいっているのかと、言われて当然だと思う。私もそう思っていた。しかし、それは少なくとも私にとっては唯一の希望だった。

 早速計画をたてた。まず母が一番重要視するものはなんだろうか。世間体と自身の欲望であった。それから逸脱もしくは結果としてそれらが満たされれば、母は文句は言わないはずだ。寧ろ、このまま母の希望通りにするよりは母の自尊心がより満たされる結果となるだろう。だが、最終的にその結果にならなければならない。つまり、過程は知られてはいけないのだ。重要な点は結果としてである。結果として、その結果が母にとって強制力のあるものでなければならない。

 学部は法学部でなければならなかった。理由は以前述べた通りである。志望校はとある関西の女子大だった。ここを選んだ理由は、女子大であることと法学部が設置されているからである。

 滑り止めとして自身の志望校を受験し、地元国立大学を受験はするがわざと不合格になるというものである。勿論母が私を浪人させてまで地元の大学に行かせようとするかもしれないといったリスクや不測の事態も多々考えられた。だが、私は自身の選択に賭けた。人生で初めての母に対する自己主張、反抗だった。

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