8 雪舞草
ウォーレスの領地は、ステラが生まれ育ったクレイトン領よりも北にある。国境に位置する辺境領に次ぐ領地面積と人口を持ち、北部でも重要な領地のひとつだ。
先の大きな戦からは短くない年月が過ぎ、終戦時に協定が結ばれた旧敵国とは表向き平穏な関係が続いている。
いつ、どうなるか分からないのが世の常だが、とりあえずは平和な時代をステラたちは生きていた。
気候が変わればそこに住む人の生活も、生える草木も、森に住む動物も異なる。
そんなことの一つをケリーが口にしたのは、ステラが伯爵家に来てからひと月ほど経った晴れた日の朝だった。
「雪舞草?」
「ええ。なんでもこの時期のウォーレス領でしか見られないのだそうです」
この地では別名「春告草」とも呼ばれる、冬の終わりに咲く花だという。
ようやく根雪がなくなり凍った土が緩む頃に他の草に先駆けて、ほんの僅かな期間生まれて咲いて、消えていく白い花。その花期の儚さと、花の色形が雪に似ているところから、この名前がつけられたそうだ。
難しい生育条件のため他の領地で見られることはまず滅多になく、ここでも根付くのは限られた場所のみという、希少な植物だ。
「東にある伯爵家所有の森で、ちょうどここ数日が見ごろだそうです。ミスター・ノックスがご案内して下さるそうですので、お出かけになってみては」
「あら」
嫁いでからのステラの毎日は、することは多いが単調だ。領地の内政や伯爵家についての多岐に渡る勉強と、この頃は比較的簡単な決裁。屋敷の管理や家事についての承認関係。そして、『旦那様へのお手紙』を書く。
さらに最近は、旦那様へお手紙を書いていることを知ったミスター・ノックスに勧められて、王都に滞在中のレディ・ベアトリクスにも手紙を書いている。
こちらは週に一、二通ほどの頻度で、最初は学んだことの進捗状況をメインにした「報告書」のようなものだった。
旦那様と違ってレディ・ベアトリクスからは毎回返事が届く。
きっちりと美しく整った文字は独特な深紫色のインクでしたためられており、厳格な人だと聞いていた通り礼法の教科書にでも載っていておかしくないような四角四面なものだった。
感情のこもらない文面だが返事があることが嬉しくて、最近は勉強に関係のない色々なことも書いてしまっているが、それに対する咎めはない。
むしろ、その無機質な手紙の行間に、ステラからの手紙を心待ちにしている気持ちが滲んでいるように読めてしまうのは、そうあって欲しいという願望の表れかもしれない。
殆ど社交をしていない伯爵家なので、来客の世話や茶会、夜会の類は今のところない。ステラの喪が明けるまで、結婚の披露目も延期するという話だった。
「勉強の方も順調なようですし、息抜きがてら如何でしょうか」
「もしかして私、心配されてる?」
「ご自覚がおありでしたらお話が早い」
苦笑するステラにケリーは肩をすくめてみせた。
伯爵家の屋敷は広く、敷地はさらに広い。門から邸まで馬車を使うほどの距離がある。息抜きの為にわざわざ馬車を用意させるのも気が引けたし、敷地の一部分は林のようになっていて、大きめの池も小川も塔もある。外に出なくても気晴らしの散歩には十分だった。
そのため、こちらに来てからまだ一度も伯爵家の外に出ていなかったことに、ステラはようやく気がついた。
特に不満はなかったが、周囲に気を揉ませてしまっていたと、ステラは反省する。
新しい生活に慣れることに必死で、自分のことを考える余裕がなかったのも確かだった。
「そうね。本で読んだり話を聞くばかりじゃなくて、やっぱり実際に見ないとね」
「朝食の後に出て、昼食は向こうでの予定です。さあ、そうしたら今日は少し色のある服にしましょうか」
『奥様』に用意されていた服の中から、祖父を亡くしたばかりのステラはずっと黒色ばかりを選んで着ていた。喪に服する期間は正式に決められているわけではないが、まだ明るい色の服を身につける気になれなかったのだ。
それを分かってケリーが持ってきたのは濃紺色の街着。フリルなどの装飾は控えめで襟元も詰まったシンプルなデザインだが、たっぷりと使った布地に施された織模様と、同色の細いレースで編んだカラーが上品だ。
「上からコートも羽織りますし」
「……そうね。ええ、いいわ」
そうして、初めての外出と相成った。
初めて喪服以外の装いをしたステラを嬉しそうに見送るミセス・マイヤーに留守を頼み、馬車に乗り込む。クレイトンからこちらへ来たときに使ったのより、少し小さな紋無しの馬車で、領内を回るときには、小回りのきくこちらを使っているのだという。
同乗するミスター・ノックスはステラとケリーの前でにこにこと嬉しそうにしている。
小窓のカーテンを開け、見える景色を案内されながらの道中は飽きることもなく、馬車は街を抜けてしばらく走るとやがて大きな森で停まった。
「雪解け水で多少ぬかるんでいます。お足元にお気を付けを」
「ええ、ありがとう。この先なのね」
街着は歩きやすく汚れにくいようにと、裾が少し短くできているし、足首の上まであるブーツは踵もあるから問題ない。
それにクレイトン領では毎日のように外に出ていたステラは特に森を歩くのが好きだった。
ミスター・ノックスに先導されて小道に入り、しばらくぶりの森を楽しんでいると、まず何か花の香りが、ついで水の流れる音が聞こえてきた。
その方向に目をやれば小さな湧き水の池の周りに、そこだけ鮮やかに緑と白の一帯が広がっている。
「ああ、ちょうどいい頃でしたな」
「……まあ」
森の中、常緑の樹はあるが下草はほぼ冬枯れしていた。そんな中ぽっかりとそこだけ敷き詰められた絨毯のように一面、青々と草が茂っている。
そして塊になって咲く、白い花。
細い剣のような淡い緑色の葉、大きな雪の結晶を思わせる真っ白な六枚の花弁。
コポコポ、チョロチョロと湧き水に雪解け水が加わる音の中、雪舞草は静かに咲き誇っていた。
「これは見事ですね、ステラ様」
「本当ね、ケリー……とても綺麗」
誰か置いたのか、それとも元からなのか分からない平らな飛び石の上を渡りながら、ステラたちは雪舞草の中をゆっくり歩いた。
足首の高さほどしかない雪舞草だが、時折吹く風に揺られてふわりと花の香りが濃く漂ってくる。ミセス・フロストが好んでつける香水のような、甘い中にも少しスパイスを感じる香りだった。
「……この花は摘んでもいいのかしら?」
「香りは飛びますが、花を愛でるだけなら数日は楽しめましょう。実際、領内ではこの花を集めて蒸留して、香水にもしております」
ミスター・ノックスの話に頷く。花は摘んで半刻持たず香りが消えるため扱いが難しく、収穫量も僅かなので市場に出ることはまずない。他の花と混ぜて作った香水も、その希少さから王宮への献上品などにばかり用いられるという。
朝と夕方が一番香りが良いとされ、ここの花も今日明日には専門の者たちが収穫に来るそうだ。その前に一目お見せしたかったと言われて、ステラは胸が暖かくなった。
十分に花と香りを楽しんで、来た道を戻る。領内の洒落たレストランで美味しい食事をいただいた後は、少し街を見て回ることにした。
ご婦人の店などご覧になりますか、などと気を回したミスター・ノックスは護衛のように少し離れて従い、ステラはケリーと並ぶ。初めて歩く領内は活気に満ちていて、ステラの気分も朗らかだった。
「ケリー、すごいわ。人も店も多いわねえ。小さい王都みたいよ」
「クレイトンは町というより村ですものね」
「……あれ、美味しそうね。屋敷のみんなのお土産にどうかしら」
「お好きですねえ。いいんじゃないですか」
振り返りミスター・ノックスにも尋ねると笑顔で頷いてくれたので、あちこちの店でステラは少しずつたくさんの種類の食べ物を買った。
ステラたちに続いて店内に入って来るミスター・ノックスに気が付くと、それまでの賑わいが一瞬にして静まるのが常だった。彼自身はステラの父親ほどの年齢で、秘書というより学校の先生という雰囲気なのだが『例の噂の伯爵』の関係者として認識されているのだろう。
街の人たちはそうして彼と同行しているステラとケリーを代わる代わる見て、最終的にステラを哀れっぽい目で眺めるのだった。
そのステラがにっこり笑って品物を受け取り明るい顔で店を出ると、一呼吸置いて疑問と動揺のざわめきが店内に戻る。
お約束のように毎回繰り返されるそれに、なんだか面白くなってステラはケリーと顔を見合わせて小さく吹き出すのだった。