6 伯爵家の『執務室』
ステラたち三人が伯爵邸へ到着した日。
奥方様と侍女が自室へと案内されたのを確認すると、アランはくるりと向きを変え、この屋敷の主人の執務室へ向かった。
ノックはするものの応答はなく、扉には鍵がかかっている。
ごく自然に周囲に視線を走らすと、胸元から取り出した鍵で中へ入る。後ろ手で扉を音もなく閉じると同時に、また施錠することも忘れない。
落ち着いた色彩でまとめられた室内は華美な装飾もなく、どっしりとした雰囲気だ。敷き詰められた絨毯も、模様は細かいが毛足は短い。必要最小限のものがあるべき場所に納められた効率重視の部屋だ。
マホガニーの執務机には手元灯と、領内から上がってきた報告書がこれ見よがしに置かれている。誰に見られても問題のない内容だと確認すると、アランはつまらなさそうに書類を机上に落とし、代わりに手元灯に火を入れた。
暖炉と反対側の壁の一面は、床から天井までの造り付け書棚になっている。
アランはその前へ立つと、上下に走る仕切りの一つに指を当てる。手探りで側面に隠されたつまみを引きながら肩で書棚を押すと、重く厚みのある書棚の一部が音もなく回転し、奥には窓一つない真っ暗な隠し部屋が現れた。
物置ほどの広さのそこに身を滑り込ませ、また元どおりに書棚を戻す。アランは手元灯を頼りに床のある部分に手を掛け、今度は跳ね扉を引き上げた。
足元に現れた、更に暗い穴の中。下へと降りる階段へ足を進める――彼の持つ明かりが隠し部屋から見えなくなるのに、そう時間はかからなかった。
狭く長い螺旋階段がようやく終わると、平らな地面へとたどり着く。しかしその先の道も真っ直ぐではない上、途中で枝分かれもしている。石造りのトンネルは捨てられた炭鉱のようでもあり、うっかり迷えば生きては出られなさそうな造りだ。
明かりも目印も何もないこの道を一度で覚えろと、無茶なことを命じられたがそれが必要だということも理解している。
自分の足音だけを聞きながら今はすっかり慣れた道を歩き、行く手を塞ぐ扉の前へ出る。ノブの形をしたダイヤルをカチリカチリと迷いなく合わせると、鍵穴が現れた。
アランは懐から少し大きめの懐中時計を取り出す。細かな意匠が施された時計は竜頭にも石がはめ込んである。時間を合わせるように指でつまんで引き抜いた竜頭は、細い鍵になっていた。
重たい扉は、抜けたアランの背後で勝手に閉じて錠が下りる。
その先の部屋が本当の『ウォーレス伯爵家の執務室』なのであった。
「……アラン。戻ったか」
「ええ、先ほど――っていうかさ、なぁんで向こうに居ないのさ。まあ、予想通りっちゃ予想通りだけど」
軽口をきいて、アランはこの部屋の主人――ネイサン・カーライルの方へ歩み寄る。
毛先まで真っ直ぐなブルネットの髪。散髪を面倒がったために襟足で結ぶ長さになっているが、父親譲りのきつめの顔立ちと、鍛錬を欠かさない身体のせいで、細いながらも決して軟弱には見えない。当主を継いだ頃から殆ど陽に当たっていないくせに健康的な肌色は、生来ものだろう。
自分と違ういかにも硬派な容姿と性格は、本当に血を分けた従兄弟なのか疑問に思う。
そして、今日この家に迎えた奥方様とは容姿も雰囲気も、まるで陽の光と夜の闇くらい正反対だとも。
天井の高さこそはないが、大人が二十人は余裕で入れる広さの空間。窓は一切なく、光源は壁と机上に灯した明かりのみ。奥の壁には階段が沿っていて、上階に上がることができる。
部屋には大きな机が数卓置かれていて、そのどれもに書類や何かの器具や薬品のような雑多な物が所狭しと積まれている。一応整頓はされているようだし、それぞれに作業スペースらしきものは確保されているが、慣れぬ者には何が重要で何がゴミなのか区別はつかないだろう。
浅いガラスの器に置いた紙片の上に透明に見える液体を入れていたネイサンは、手を休めると小さく嘆息した。
「対応はお前に任せていたはずだ。私がいる必要はない」
「そうは言っても、奥方様なんだし」
「知らん」
「向こうもそうだってよ」
綺麗な顔立ちをしているのに、表情には常に険があり、出てくる言葉には愛想がない。しかし、予想外のアランの返答にネイサンの表情が僅かに変わった。
アランにしてみても、それこそ生まれた時からの付き合いだから、その程度の表情の変化で何を感じているのか知ることができる。今の心情は『そんなバカな』といったところだろう。
「クレイトンの元当主、彼女のお祖父さんは本人にはずっと『婿をとってクレイトンを継がせる』って言ってたんだって。彼が亡くなってから出てきた遺言で初めて知ったそうだよ。急に外に嫁ぐことになって、しかも既に婚姻は成立しているし、さらに会ったこともない相手だし、で随分驚いたそうだ」
「……それは、また――」
「レディからもそんなこと聞いていなかったから、俺だって何と答えていいか困ったよ」
「お祖母様は何と説明を?」
「それがさぁ、聞いてよネイト。レディったら向こうに着くなり『公爵夫人に呼ばれましたから』ってさっさとそっちに行っちゃって、俺一人でクレイトン家に迎えに行くことになってさ。結局、レディはそのまんま王都に残ってステラ様の顔も見てないの」
「……なんて事だ」
ネイサンは額に手を当てて、ぎしりと音を立てて椅子の背もたれに倒れ込んだ。心なしか顔色が悪い。
「それで彼女は、そんな話に黙ってついて来たというのか」
「他に何が出来るのさ。後ろ盾のない十八、九の貴族のお嬢さんが、唯一の身内に追い出されて。残すは修道院か娼館くらいだろ? 進んで行きたいところじゃないよねえ」
喉の奥で唸るような声を漏らしたネイサンに、アランはおどけたように肩をすくめてみせたが、目は笑っていなかった。ろくに話もしていないが十日ほどの道中を共に過ごし、アランなりに思うところがあるのだろう。
「何か要望は、って聞いたら侍女を一人連れて行きたいって言われた。こっちでも奥方様に回す手は足りてないだろう、渡りに船で許可したよ。忠義者そうだったし、作法も一通り伯爵家でも通用するくらいは身についている」
頷くネイサンに、報告を続ける。
「時間なかったから調査はざっとだけど、二人とも紐はついていないね。まあ、レディがそんなヘマをする訳はないと思ったけど。侍女の身元は割れたけどクレイトン家に来た事情が不明瞭だから、そこは追跡中」
「そうか」
「あ、俺は奥方様とは話していないからね。一応そこはちゃんと気にして、馬車に乗り降りの時に手を貸すのと、朝晩の挨拶だけ。話も全部その侍女を通してさ、ケリーっていうんだけど、なかなか気が強くって可愛いんだこれが」
思い出しながら頬を緩ませるアランの前で、ネイサンは渋い顔のままだ――伯爵家の内情を告げていないことは先日の祖母の宣言で承知していたが、自分同様、結婚の事実そのものも知らされていなかったとは。
結局、当の本人二人は置いてけぼりで、双方の祖父母が勝手に話を進めたという事実に頭が痛い。
祖母ならあり得るだろうと頷けるが、クレイトン卿はそんなことを強引に進めるような人間ではなさそうだったが……王宮で会っただけだったが、父を知っている、と言い、家督を継いだばかりのネイサンにそれとなく手を差し伸べてくれた。
各方面の情報からも、出世欲は強くないが足元のしっかりした人物なのだろうと、珍しく好意的に感じていた。見抜けなかった自分はまだまだ甘いということか。
「で、やっぱり追い返すの? 戻る先も行く宛もない子だけど」
それには答えずペンを手に取ると、ネイサンはガラスの器へと視線を戻した。先ほどまで書いてあったはずの紙片の文字は滲んで半分消えかかり、透明だった液体の色は濁っている。
「会うつもりはない。そんなことなら尚更、ウォーレスに関わらない方がいい。行き先を確保して、出来るだけ早く解放してやれ」
「そう言うと思った」
仕方ないな、と苦笑いをするアランは、ネイサンの机から積んであった書類を数枚とりあげ、数字の羅列に目を落とした。
「こっちもなかなか厳しいね。簡単にはいかないか」
「実用にはまだ遠いな」
「なあ、ネイト。ステラ――奥方様に一度会ってみたらどうだ? お前の仕事も立場も理解しているつもりだけど」
「アラン、お喋りはお終いだ」
「……ふう、俺、帰ってきたばっかりなんだけどなー」
言葉を遮られ、やれやれ、と天上を見上げたアランは上着を脱いでその辺の椅子に掛ける。シャツの腕をまくると、棚から銅板や筆記具のようなものをいくつか選び取りながら、ネイサンの顔を見ずに独り言のように呟いた。
「……彼女はメイベルとは違うよ」
従兄弟のその言葉を、ネイサンは聞こえないふりをした。