5 一夜明けて
目覚めたら、朝だった。
広い寝台にはステラ以外の姿はなく、隣に誰か眠った形跡も見当たらない。
目の下に薄っすらと黒いものをつけて起こしにきてくれたケリーは、部屋に入ると一瞬だけ安堵と心配が入り混じったような微妙な表情を浮かべたが、ステラも内心で同じ顔をしていた。
「ゆっくりお休みになられて、ようございました」
「……ええ、そうね」
素晴らしい寝台のおかげか、体調は完璧に回復している。もしかすると、旅の疲れを気遣って一人で休ませてくれたのだろうか……だとしたらお礼と、寝台を独り占めしてしまったお詫びを申し上げなくては。
そう思っていたのに、朝食の席にもお茶の時間も夕食にも、ネイサンは姿を現さなかった。
出かけているのかと家政婦と執事に聞けば、違うと言う。この伯爵家の広い敷地には今ステラがいる本邸の他にも別棟や作業棟などがあり、今日はそこで仕事をしているようだ、と申し訳なさそうに釈明された。
仕事中は決して邪魔をしてはならない、という厳命があるとも。
昨日まで一緒にいたアランも、慌ただしそうにしている後ろ姿を一度見かけただけで、声を掛ける隙もなく出かけて行ってしまった。
仕事の内容についてもやはり言葉を濁されたので、これは本人以外には答えられないのだろうと理解する。確かに、王宮関係の仕事は機密事項を扱ったりするものもあるだろう。しかし、祖父とのお喋りにも噂話にも、ウォーレス伯爵が何かの役職に就いているとは聞いた記憶はない。
もっとも、屋敷で働くメイドなどは元から主人の職種など知らされていないし、興味もないことが多い。待遇や給料が悪くない職場で、明らかに悪事に加担させられることがなければ、上が何をしていようと下々には些末なのだ。
巷に流れる噂に関しても、働いている者たちは特に気にしてはいないようだ、というのが挨拶がてら早速メイドたちから情報収集してきたケリーの所感だった。
「屋敷内は、身元のはっきりした者ばかりの少人数で回していますね。不満といえば忙しいのと、外に出た時の影口程度だそうで」
「そうなのね」
「働きぶりが悪いと判断されれば即解雇、というのは本当だそうですけど。それも当然といえば当然ですしね。円満に辞めた人は紹介状も貰えて、次が決まらないということもないようですし……例の噂の半分くらいは、貴族に対するやっかみじゃないでしょうか。領民たちとの交流がほとんどないようですから」
まあ、本人に会ってみないと何とも言えないですけど、とぼやく侍女に曖昧に頷く。
よくない噂ばかりを耳にしたが、着いてみれば領地も屋敷も落ち着いていて雰囲気は悪くない。噂の原因はそんなに単純なことではないかもしれないが、ステラは自分自身で感じたことをまずは信じることにしていた。
使用人の挨拶を受けたり、邸内の案内をされたりしているうちに今日の日も終わってしまった。伯爵は未だ仕事から戻らず、寝支度を終えたステラは今夜も一人で寝室へ入る。
「そもそも、普段から滅多に使用人の前に姿は見せないそうです。身の回りのお世話や取次は、あのアラン様がされているそうですし。今いる中でちゃんと伯爵様のお顔が分かるのは、執事と家政婦、それに大奥様の秘書の三人くらいじゃないかって、皆が言ってました。一年前に入った子なんか、後ろ姿さえまだ一度も見ていないとか」
「一年? それはすごいわね。このお屋敷の広さでは、あり得ることかもしれないけれど……そんなにお忙しいなんて」
昨日はきっと遅くまで、そして今日も早朝からずっと仕事のはずだ。さすがに食事はとっているだろうが、果たして温かいものをゆっくり食べることができているのだろうか。
税務書類をまとめる時期や、長雨などの天候不良で領内に問題が起こった時など、祖父が連日遅くまで働いていた姿を思い出す。ステラが軽食やお茶を持って執務室を訪れると、疲れた顔でそれでも微笑んでくれた、大好きな祖父。
そんな報告の時期でもなく、来る途中通った領内にも特に問題はなさそうだった。何で忙しいのかは分からないが、寝る間も惜しんで働いているなら手伝えることはないだろうか――仮にも『妻』なのだから。
「……お身体にさわらないといいのだけど」
「伯爵家を継いでから、殆どずっとこの状態らしいです。放っておいていいんじゃないですか。伯爵様みたいなのを『仕事馬鹿』って言うんですよ、きっと」
「それでも、お仕事は大事よ」
「ええ、その通りです。働かない領主なんか犬にでも食わせればいいんです。それでも、自分で迎えた奥方様のお出迎えの時間くらいはあるだろうって話ですよ」
普段から歯に衣着せないが、ケリーの言葉に含まれた険にステラは気が付いた。
「ケリー、怒ってるの?」
「当然です。ステラ様を勝手に嫁がせて、強引に連れてきて、挙げ句の果てに顔も出さないなんて。いくら爵位が上だからって失礼にもほどがあるし、一体何がしたいのかさっぱり分かりません」
「あなた、この結婚に納得していなかったのに」
「それとこれとは別です。ステラ様のことですから、伯爵様がお忙しいと聞いて同情なさっているのでしょうけれども、そんな必要はありませんからね」
結婚も不本意だが、主人が放置されるのは業腹だと。相反する上、勝手な言い分ではあるがケリーの正直な気持ちだろう。
この屋敷に着いてから、ケリーはステラのことを『お嬢様』と呼ばなくなった。しかし『奥方様』とはまだ呼びたくないらしい。そんな小さな抵抗が自分を守ってくれるような気がしていた。
知らない土地の知らない家で、たった一人、変わらず側にいてくれる侍女が何と心強いことか。ステラはくしゃりと笑う。
「私、ケリーにすっかり頼ってしまっているわね」
「どこがです。まあ、さすがに今夜はいらっしゃるでしょうから……何かあればお呼びくださいね」
昨晩と同じく、侍女が出て行くのを見送るとステラは寝台に腰掛ける。この寝室にはソファーもあるのだが、そちらに一度座ってしまったらこの大きな寝台に移る勇気がなくなりそうなのだ。
ふわふわに起毛させた毛布は雪のように白い……なんて贅沢なんだろう。手でそっと撫でると指に沈み込む感触にうっとりする。
昨夜は疲れすぎていて気が付かなかったが、寝台そのものこそずっと使っているもののようだが、寝具類は新品だった。それも、枕の房飾り一つとっても、とてもではないがクレイトン家では手が届かないような品ばかり。
「――こんなにしてもらって……」
祖父が倒れる前から帳簿の確認はステラがしていたが、医療費の他に特別な支出はなかった。ということは、クレイトンからは持参金は出ていないのだろう。にもかかわらず、この待遇。
旦那様との対面こそまだだが、使用人達の態度も『奥方様』に対するそれで、格下の無名家出身と卑下する雰囲気もない。
執事と家政婦、そして大奥様の秘書の三人に至っては、こちらのほうが戸惑うほどの下にも置かないもてなしをされ、どこから見ても望まれた花嫁だ。
いつかミセス・フロストと話した『もしも結婚したら』を思い出す……祖父母と仲が良かったミセス・フロスト。嫁いで早くに夫を亡くした彼女は「気ままな未亡人なのよ」と趣味の旅行に精を出していた。
そうした旅行生活の合間、年に一、二度クレイトンを訪ねてくれるのをステラは楽しみに待ったものだ。
祖父とポンポン言い合いをする快活な彼女は、もう一人の祖母と言って差し支えないほどの間柄。
亡くなった祖母に似ているとステラの薄金色の髪を愛おしそうに撫でては、自分も女の子が欲しかったとよくこぼしていた。
『子どもも孫も、主人に似て無愛想な男ばかり。つまらないったら』
『私も男だったら、お祖父様をもっとお手伝いできたのに……』
『まあ、ステラ。貴女のおかげで、ジェームズがなんて生き生きとしているか。貴女は女の子だから良かったのです。男だったらきっと毎日喧嘩ばかりよ、ジェームズはああ見えて頑固者ですからね』
それに女の身でもやりようはありますよ、そう笑ってステラにそれとなく領主の仕事の手ほどきをしたり、お茶の美味しい淹れ方を教えてくれたりした。
男親、しかも祖父では目が届きにくい礼儀作法や所作などを教えてくれる先生を紹介してくれたりと、何かと目をかけてくれたのだった。
ステラが政略結婚になることは既に決まっていたのに『どんな方と結婚したい?』なんて質問を向けては、子どもの他愛もない夢物語を目を細めて頷いて聞いてもくれた。
……馴染みある家具に囲まれた、温かな雰囲気のクレイトン家の居間。子どもは二人、男の子と女の子。許してくれるなら犬か猫を飼いたい。
領地とそこに住む人達のことを大事にしてくれる、優しい人がいい。休みの日には子どもと遊んでくれて、ステラと一緒に領内を散歩してくれるような。
皆で食卓を囲み、おはようとおやすみを笑って言い合えるような、お互いに想い合えるような人がいい。
早くに両親を亡くし、貴族の社交とも縁遠い生活。貴族令嬢としての教育は受けてはいるものの、ステラの『家族のあり方』のモデルは領民達だった。
成長するにつれて現実を知り、難しいだろうとステラが内心では思っていても、貴族の政略結婚とは遠いところにあるだろうそれをミセス・フロストは否定しないでくれた。だからこそ――。
祖父の死を伝えた手紙は旅先に届いただろうか。自分がウォーレス伯爵に嫁ぐとの知らせは、優しい彼女をさぞ驚かせたに違いない。
ステラは両手で顔を覆うと深く息を吐いて、両頬をパチンと軽く叩いた。
「……しっかりしなくちゃ」
予定外の上に予想外だが、祖父が決めた政略結婚には変わりない。それならば心に決めていた通り、ステラは自分にやれることをやるだけだ。
噂に関しては、会えば分かることもあるだろう。自分が知らないくらい、伯爵もステラのことを知らないはずだから、たくさん話をしよう。仲良くなれるように頑張ろう。
かつて抱いた夢を叶えるも諦めるも、まずは自分が行動しなくては。
改めて心に灯した小さな決意の明かりは、その夜も立ち消えすることになる。