4 伯爵邸
ステラ達がウォーレス伯爵邸へ到着したのは陽も傾きかけた頃だった。
生まれ育ったクレイトン家は領地の規模も屋敷そのものも決して広くない。いや、部屋も余っていたし、晩餐室の他に朝食室もあるし十分な広さだと思っていたが、やはり貴族の邸宅としては狭かったのだとしみじみ思う。
身内といえば祖父だけで、使用人だって住み込みはケリーとコックの二人ばかりの自分たちには見合った大きさだったのだと、ステラは実感した。
今、馬車を降りたステラの前には円形に張り出した玄関。到着を知らされていたらしい、外で立って待っていた執事によって開かれた両扉の向こうはずっと上の天窓まで吹き抜けのホールになっている。装飾の施された大きな暖炉が存在感を醸し、どっしりとしたアンティークの応接セットが置かれていた。歴史を感じる調度品の数々、代々の肖像画が掛けられた壁、その奥にちらりと見える階段室。
馬車が正門を抜けた時から、その整った庭園や見える屋敷の大きさに圧倒されていたが、中もまた予想に違わず豪奢だった。
出迎えの使用人だって屋敷の規模からいったら控えめな人数だろうが、クレイトン家のお仕着せよりずっと上質で洒落たものを着ている。思わず目が泳いでしまったが、みんな頭を下げているし、帽子の広いブリムが隠してくれたと思いたい。
これが底辺あたりをのんびり繋いできた男爵家と地方の由緒ある伯爵家の格差かと、ステラは今更ながらに身につまされた。
まだ陽が沈む前なのに煌々と灯された明かり、色とりどりに飾られた季節には早いはずの花々……これらは『奥方様』の歓迎のために用意されたのだろうか。もしこれが常の状態であるならば、慣れるのにだいぶ時間がかかりそうだと、ステラは小さく息を吐いた。
執事と家政婦らしき初老の男女二人が前へ進み出て、アランに手をひかれて邸内へと進むステラに腰を折る。
「お帰りなさいませ、アラン様。そして奥方様、使用人一同お待ち申し上げておりました」
「ああ。ネイトは?」
「旦那様はいつもの通り、お仕事に」
「今日くらい休んだらいいのに。まあ、でも、ネイトらしいか」
少し呆れたように呟いて、アランは申し訳なさそうにステラに向き直る。どうやら『旦那様』は不在らしい。果たしてどんな方が現れるかと気を張っていたステラは、到着早々に対面が叶わなかったことに半分気が抜けて、半分はほっとしていた。
目線で促され、顔を隠していた帽子をゆっくりと脱いで後ろのケリーに預けた途端、さわ、と周りの雰囲気が変わった。
髪も目も肌も、日に溶けてしまいそうなほど色の薄いステラは初対面で驚かれることには慣れている。
隣国出身の祖母に似た為の容姿だが、その隣国にしてもステラほど色の薄い者は多くない。特に喪中で黒服を身に纏っているためコントラストが大きいのだろう。この隣のアランだってクレイトンで対面した時に、ぽかんと口を開けたものだ。
メイドたちの視線には感嘆、そして輿入れに関しての些かの憐憫を含んでいたのだが、ステラはそれには気付かず、いつもの物珍しさからくるものだと一人納得していた。
アランから紹介された二人はやはり執事と家政婦で、もうずっと長いこと勤めているという。この二人からは、珍しいものを見るような視線も、ぽっと出の奥方を訝しむような雰囲気も感じないのに安堵した。
しかし逆に何かを期待しているような眼差しで見つめられて、どうしたものかと困ってしまう。
「はじめまして。クレイトンから参りました、ステラです」
正式には『ステラ・カーライル』なのだが、なんとなくカーライル姓を名乗るのは憚られた。かといって、ステラ・クレイトンとも名乗れない。どうしようかとしばらく前から考えた結果の、この挨拶だった。
「長旅でお疲れでしょう。他の使用人のご挨拶は明日にさせていただきます。まずはお部屋にご案内いたしますので、お寛ぎなさってくださいませ」
アランのエスコートを離れて、ステラの帽子と小さい手提げを持ったケリーと二人、家政婦の案内で向かった二階の部屋は、さすがは伯爵家という設えだった。
南に面した大きな窓、たっぷりと厚いカーテン。爪先が沈むほどのふかふかの絨毯は、細かいツタと花の模様――まさに屋敷の女主人にふさわしい部屋だ。
クローゼットに並ぶたくさんのドレスや小物は全て、今は不在のレディ・ベアトリクスが手配したのだという。
「ウォーレス伯爵夫人としてふさわしい物を、とお選びになっていらっしゃいました。遠慮なく身につけるように、との伝言でございます」
「そうですか……お気遣いに感謝いたします、と。大奥様はしばらく戻られないのでしたかしら。後ほど御礼状を書きますね」
室内を一通り案内し、持ってきた数個のトランクが部屋の隅に積まれると、満足そうに頷いて家政婦はお茶を用意しに下がった。
ようやくソファーに崩れるように腰をおろし、ぐるりと周りを見回すとステラは両手で顔を覆う。
「ケリー……」
「とりあえず、歓迎されているようですわね」
「豪華すぎてクラクラするわ」
「蔑ろにされるよりずっといいじゃないですか。それにこのたくさんのドレス、サイズもぴったりそうですよ。お伝えしていたのですか?」
こちらを見ずにクローゼットのチェックをしながら、ケリーは言った。
「私が? まさか」
結婚を聞いたのだってつい最近だ。それ以前もそれ以後も、カーライル家と接触など微塵もない。
「……ですよね。でも見てください、色も形もステラ様によく合いそうなものばかり。それにほら、黒い服もあります。喪中だと知って用意して下さったのでしょうか」
それにしては手回しが良すぎると、ケリーは首を捻る。どう見ても一点物の数々の服は、一日二日で用意できるようなものではない。
しかし、ステラには衣裳に気を回す余裕は無かった。
「ねえ、服のことより。ケリー、どうしましょう」
「お食事なら軽いものを頼みましたよ、お湯はその後に頂くことになっています」
「ええ、ありがとう。って、そうじゃなくて、ほら、そこ」
ステラの目線の先は入ってきた出入り口の扉ではない、一枚の扉。鍵穴は、ない。そして今いるこの部屋に寝台はない。
「寝室ですね」
「寝室なのよ」
「……ご夫婦の、寝室ですね」
「〜〜っ!」
ここは『奥方様』の部屋だ。『旦那様』の部屋と隣同士になるのは必然だ。そしてその二部屋は寝室で繋がっていると相場は決まっている。それに部屋内を案内してくれた家政婦が「あちらはお二人の寝室です」と当然のように言ったのを確かに聞いた。
ステラは『奥方様』だ。それはそうだろう、だがしかし。
「ねえ、もしかしなくても今日から一緒に寝るの?」
「ご夫婦ですから」
「だってまだ顔を見てもいないのよ」
「そうですわね」
「……せめて、お話くらいしたいわ」
「そうなさいませ」
「ケリー……」
恨みがましく涙目で見上げるステラに、ケリーは少し眉を下げて安心させるような笑顔を見せた。
「お嫌でしたら逃して差し上げますよ」
ひとこと嫌だと言えば、この侍女が身体を張ってでも本当にそうしてくれることをステラは知っていた。ステラの前に両膝をついたケリーはす、と真剣な眼差しに変わる。
「死んだも同じ身を救っていただきました。この身体動く限り、私ケリー・スマイスの忠誠はクレイトンのステラ様に。如何様にでもお使いください」
詳細が分からぬままの結婚にケリーはずっと反対をしてくれた。それを制し、受け入れたのはステラだ。それなのに、簡単に揺らいでしまう自分の不甲斐なさが情けない。
「ケリー、そんな必要はないの。でも……ありがとう。うん、大丈夫。ごめんなさい、少し動揺してしまったみたい」
「……御無体を強いられるようでしたら、容赦致しません」
「ケリー、大丈夫だから、落ち着いて」
半眼で力強く言い切る侍女を宥めているうちに、軽食とともに香り高いお茶がワゴンで運ばれてきた。量は控えめながら、新鮮な野菜や丁度良い塩加減のハムが挟まれたサンドイッチと果物。ゆっくりと食事を取り、お湯で旅の埃を落とす。
ようやく人心地ついた頃にはすっかり夜も更けており、戸惑いながらもステラは寝室への扉を開けた。
ゆったりとした広さの寝室に、これまた十分にゆとりある大きさの寝台は天蓋付き。大人二人どころか四人でも五人でも横になれそうで、軽く目眩がする。
「これはまた、整えがいのありそうな」
「ケリー、そういうことを言わないで」
サイドテーブルに明かりと水差しを置くと、何かあったらこれを、と呼び鈴の確認をしてケリーは自室へと下がる。専属侍女を同行することはアランから先に連絡が入っていたようで、同じ階の北側に侍女用の一室が用意されていた。
ステラはぽすり、とベッドに腰掛ける。硬すぎず柔すぎず、いい具合に沈む寝台はさぞ寝心地が良いだろう。
結局、今の今まで旦那様と対面は果たされておらず、誰に聞いても言葉を濁すばかり。
噂の不安もある。迷いもある。結婚していたことすら知らなかった――でも。
大好きだった祖父の顔を思い出す。
今際の際、すでに力の入らなくなった手で握り返してくれた。もう、ほとんど見えなくなった目で優しく微笑んでくれた。
そんな祖父が繋いでくれた縁なのならば、きっと何か理由があるのだと思いたい。
かつて、クレイトンを訪れたミセス・フロストに話した『理想の結婚』がふとよぎって、ステラはプルプルと頭を振った。あれは、子どもの頃の他愛もない夢物語。
「……旦那様は、いついらっしゃるのかしら」
どんな人だろう。
どんな姿をしていて、どんな声で話すのだろう。
この結婚をどう思っているのだろう。
噂は、本当なのだろうか。
……好きになれるだろうか。
起きて待っていなくてはと思うのに、連日の移動は予想以上に体に負担だったようだ。少しだけ、と横になったステラはその寝台の寝心地を堪能する暇もなく、深い眠りに落ちていった。




